可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『行き止まりの世界に生まれて』

映画『行き止まりの世界に生まれて』を鑑賞しての備忘録
2018年製作のアメリカ映画。93分。
監督・撮影は、ビン・リュー(Bing Liu)。
編集は、ジョシュア・アルトマン(Joshua Altman)とビン・リュー(Bing Liu)。
原題は、"Minding the Gap"。

 

イリノイ州ロックフォード。建物の壁に付いた配管を摑んでキアー・ジョンソン(Keire Johnson)が器用に登っていく。ザック・モリゲン(Zack Mulligan)が立ち入り禁止のところなんてないだろと、「立ち入り禁止」の表示のある扉を開けて階段を上っていく。オープン・メッシュの外階段は真下が見える。キアーが怖がる。まだ半分だ。止めよう。お前が登るって言い出したのに? スケートボードで人気の無い通りを滑らかに疾走していく3人。時折トリックを決めながら。その姿を併走するビン・リウ(Bing Liu)のカメラが捉える。街は恰も彼らがスケートボードをするために存在するかのようだ。
ザックは、恋人のニーナとの間に子供ができて、屋根職人として働くようになった。高卒認定試験に臨むもまるで歯が立たない。育児を巡って共働きのニーナと衝突することが増えると、酒量も増えた。ザックは酩酊すると手が付けられなくなる。かつて彼の父親がそうだったように暴力を振るった。夫の暴力に耐えられなくなったニーナは叔母夫婦のもとへ息子を連れて出て行く。
キアーはスケートボードを始めた頃、自転車乗りにわざとぶつかられたときにザックが自分の味を方してくれたことが忘れられない。それ以来、年長のザックを慕ってきた。キアーも父親からよく暴力を振るわれた。父親が急死してしまったたため、最後にぶつけた言葉が「大嫌いだ!」になってしまったことを後悔している。「白人の友人がいても自分が黒人であることを忘れるな。」や、「黒人なら白人の抱える問題を問題だと思わなくて済む。」などといった父親の言葉が胸に刻まれている。18歳になり、レストランで食器洗いの仕事を始めた。
ビンはローティーンでスケートボードを始めた。シングルマザーだった母がウェイトレスをしていたとき、ある客が母を気に入り、後を付けて来て家に居座ってしまった。ビンはこの継父と2人になった当初から殴られていた。母が仕事で家を空けていることが多かったため、ビンは継父を避けるためにスケートボードにのめり込んだのだ。スケートボード仲間の姿をビデオで撮影するようになったが、とりわけキアーには、自身の姿を重ねていた。

 

ビン・リュー(Bing Liu)が青春時代から撮りためてきたスケートボード仲間の映像に、新たに撮影したインタヴュー映像を加えたドキュメンタリー。スケートボードで華麗なトリックを決める若者たちと、彼らが抱える家族の問題とが映し出される。
ビンがニーナに対してザックに暴力の件を問い質すことを提案すると、ニーナは現在の関係を壊したくないと否定する。ビンはそこに暴力を受けながら逃れられなかった母親の姿を重ねる。
酒に頼り暴力を振るうザック自身、父親から暴力を受けていた。女性に暴力を振るうのは良くないとしながら、対処できなくなった女性に対しては暴力に訴えるのも仕方がないだろとつい漏らすところにゾクッと来る。妻に対して暴力が振るう映像はないけれど、それを確証する「画」が撮れているのだ。ザックが息子に自分のようにはなってもらいたくないと吐露するシーンも続き、ビンは暴力の負の連鎖をはっきりと描き出している。
友人を描き出すだけではなく、ビンは自身と母親とが対峙するインタヴューシーンで、自らを撮影させている。母親の悲痛な訴えに「カット」の声をかけるビンの姿に胸を打たれる。
「ラストベルト(さびついた工業地帯)」であるイリノイ州に関するニュース音声(統計データ)、そしてビルボードのメッセージが時折挿入され、家族とはいったい何か、再考を促す。
ジョナ・ヒル監督の『mid90s ミッドナインティーズ』(2018)は、一応フィクションではあるが、母子家庭に育った主人公が、兄から虐待を受ける中、スケートボードに自分の居場所を見つけるというストーリーであった。

バラク・オバマは、本作品に対し「感動的で、示唆に富む。ただただ惚れ込んだ。」とのコメントを寄せているらしい。

 製鉄業の衰退に伴い人口が激減した米東部ペンシルベニア州モネッセンは、「ラストベルト(さびついた工業地帯)」の典型的な街だ。トランプ大統領は2016年6月、前回大統領選の前に訪れ、こう約束した。「米国の製鉄業を復活させる」
 今年8月、当時市長だったルー・マブラキスさん(82)を取材した。17歳から製鉄所で働き、労働組合幹部も務めたマブラキスさん。「米国の繁栄を支えたのはこの街だ」と何度も「誇り」を口にした。一緒に中心部を歩くと、窓に板を打ち付けて閉じた商店や壁の崩れかかった建物が並んでいた。
 「当時のオバマ大統領に手紙を書いたんだ。『街の現状を見てくれ』とね」。最後の1通で、前回大統領選でトランプ氏の対立候補だったクリントン国務長官訪問も直訴した。「オバマ氏もクリントン氏も立ち寄りもしなかった。演説に来たのはトランプ氏。彼が選挙戦でペンシルベニア州を制したのは当然だ」
 しかしトランプ政権になっても仕事は増えず、街は衰退するばかり。「トランプ氏はみんなの聞きたいことを言っただけ。ここは見捨てられた街だ。当時熱狂した人たちを責めることはできない」。マブラキスさんは続けた。「ただ、もうウソはたくさん。今回は少しでも街と向き合ってくれる候補を選ぶ」。かつて米国の繁栄を支えた鉄の街の誇り。時代に取り残された憤り。言葉には両方が入り交じっていた。
(鈴木一生「誇りと憤り」毎日新聞2020年10月21日水曜日7面)

 

映画『蒲田前奏曲』

映画『蒲田前奏曲』を鑑賞しての備忘録
2020年製作の日本映画。117分。
監督・脚本は、中川龍太郎(「蒲田哀歌」)、穐山茉由(「呑川ラプソディ」)、安川有果(「行き止まりの人々」)、渡辺紘文(「シーカランスどこへ行く」)。

 

「蒲田哀歌」
多摩川から蒲田方面を臨む。
蒲田マチ子(松林うらら)。27歳。俳優。映画のオーディションを受けているマチ子が自己紹介をしている。本物の看護師なら着用しないスカートの丈が短い制服を身につけている。同じシーンを2度演じるよう求められて終了。着替えているとマネージャーから監督に挨拶するよう求められる。違和感を覚えつつも監督の下へ。どうやら監督はマチ子に関心を持ったらしい。食事でもして話をしたい。連絡先を教えてもらえませんか。連絡ならマネージャーにお願いします。マチ子が監督になぜコスプレみたいな衣装なのかと問うと、椅子に腰掛けていた監督が突然テーブルを飛び越えてマチ子に近付く。人はみんなコスプレしてるようなものでしょう。呆然とするマチ子は、アルバイト先の中華屋「味の横綱」へと急ぐ。仕事を終え、家に戻ると、居候している大学生の弟・タイ蔵(須藤蓮)がカレーを作っていた。カレーをよそうマチ子をタイ蔵がカメラで撮影し出す。鬱陶しがる姉を弟は気にする様子も無い。恋人が出来たと突然切り出す弟。動揺する姉。どこで知り合ったの? バーボンロードで1人佇んでいた女の子に声をかけた。ずいぶん積極的だね。彼女は看護師をしてるんだ。彼女の部屋で同棲しようと思う。看護師ってヤリマンが多いって言うけど。そんな言葉、姉貴の口から聞きたくなかった。マチ子が「味の横綱」で仕事をしていると、タイ蔵が姉の上がりの時間を見計らって、恋人の野口セツ子(古川琴音)を伴いやって来る。

呑川ラプソディ」
蒲田のとある住宅の屋上。蒲田マチ子(松林うらら)が大学時代の友人たちとささやかなパーティーを開いている。マチ子は、中国など海外への出張も多い外資系企業に勤める帆奈(伊藤沙莉)とファッション業界で仕事をしてる川添野愛(琴子)とともに近況を報告し合う。仕事に専念していて浮いた話がないと話しているところへ、一流商社に勤務する麻里(福田麻由子)と主婦の静(和田光沙)が合流する。みんな変わっていないと久しぶりの再会を喜び、改めて乾杯する5人。結婚が縁遠いと話題に上ったところで、麻里が左手の薬指に輝くものを見せる。結婚することになったの。どれくらいの付き合いで? 半年。何をしている人なの? 職場の上司。どんな顔か見せなさい! 麻里のスマホで顔を確認する帆奈たち。主婦をしている静だけは、麻里から結婚について相談を受けていたという。帆奈は、私たちにも相談して欲しかったと愚痴る。そして麻里から部署が変わると聞いた帆奈は、なぜ女が異動しなきゃならないのと不満を口にする。男に頼らず生きることを信条とする帆奈は、結婚相手に譲歩しているように見える麻里の行動が気に入らなかった。マチ子は仕切り直すため、蒲田には黒湯の天然温泉があるから皆で汗を流そうと提案する。

「行き止まりの人々」
茶店。蒲田マチ子(松林うらら)が映画プロデューサーの板垣浩介(近藤芳正)と向き合って座っている。板垣から付き合おうと切り出されたマチ子は即座に断る。注文したパフェに手を付けることなく板垣は席を立つ。マチ子はしばし思案してから、板垣の後を追う。
マチ子は映画監督の間島アラン(大西信満)が実施するオーディションに参加した。間島は、#MeTooに共鳴し、セクシャルハラスメントの撲滅を目指す作品を作るのだという。助監督の水野圭介(吉村界人)に#MeToo経験談を振られたマチ子は、業界内の出来事だからと話すのをためらう。間島にぼかしたり創作が入っても構わないと促されたマチ子は、「ある映画プロデューサー」の話だとして、板垣との体験を語る。マチ子は一次選考を突破し、二次選考で、黒川瑞季瀧内公美)とともにエチュードを演じることになる。黒革が一次選考で語った、クラブでつきまとわれた男とは、実は間島のことであったが、間島本人はそのことに気が付いていないようだった。

「シーカランスどこへ行く」
​栃木県大田原市。農地の一角にある焚火の傍に、何脚かの椅子とテーブルが置かれ、周囲にはポットやぬいぐるみなど雑多なものが並べられている。サングラスをかけた少女りこ(久次璃子)が座って雑誌をめくっている。そこへサングラスをかけたスーツ姿の監督(渡辺紘文)が現れる。りこさん、お待たせしてしまってすいません。監督は、主演女優のりこに珈琲を勧めた上で、自分のためにカップに珈琲を注ぐ。隣に座っても宜しいでしょうかとりこに断った上で、椅子に腰掛ける。監督は、オムニバス映画制作の話を引き受けたことなど、りこに問いかけつつ語り始める。

 

蒲田マチ子(松林うらら)を軸とする4本の作品から成る(なお、松林うららは本作品のプロデューサーでもある)。
「蒲田哀歌」において、蒲田マチ子(松林うらら)は女優であるとともに、蒲田の街の象徴でもある。野口セツ子(古川琴音)は、ルックスや役名(おそらく『火垂るの墓』へのオマージュ)、そして「食べられるときに食べておかないと」の台詞などを通じて、マチ子に過去の姿(城南大空襲)へと目を向けさせる存在。
呑川ラプソディ」は、30歳が視野に入ってきた女たちのプライドと友情を描く。黒湯を浴びた裸の付き合いから(1名は浴びずに)本音が曝け出され、大団円。
「行き止まりの人々」は、男性のみのスタッフチームでセクハラ撲滅をテーマとする作品を作ろうとする点で既に問題のある構図。しかも、間島監督(大西信満)が実は女優相手にセクハラを行っていた。不敵な黒川瑞季瀧内公美)が孤軍奮闘することで歪さが明らかになっていく。間島監督を他山の石としたい。
「シーカランスどこへ行く」はある種の「楽屋落ち」によって『蒲田行進曲』の「階段落ち」に対峙している。緩やかに進行するパターンの繰り返しを「なんだなんだ」と思っている内に渡辺監督の沼にはまっている、そんな感覚を味わえる。

展覧会『永井一正の絵と言葉の世界』

展覧会『いきることば つむぐいのち 永井一正の絵と言葉の世界』を鑑賞しての備忘録
ギンザ・グラフィック・ギャラリーにて、2020年10月9日~11月21日。

グラフィックデザイナー永井一正の言葉といきものを描いた絵(「LIFE」シリーズ)とをまとめた本『いきることば つむぐいのち』(芸術新聞社)の内容を展示する試み。

1階では、照明を落とした空間に、吊された「LIFE」シリーズのモノクロームの絵画群が1点ずつがスポットライトを浴びて浮かび上がる。オオカミ、シカ、ウシ、ゾウ、フクロウ、カメ、そしてヒトなどがモティーフだが、ぼかす、きりはなす、つなげる、といった変化が与えられて、「平行動物」や「平行生物」と呼べるような奇矯な姿を見せるものも少なくない。それらの持つ形の曖昧さは、いきものたちがいつか闇に溶けて、緩やかに繋がっていく様を表そうとするものかもしれない。いきものたちの間には、白く発光する文字による縦書きのメッセージが12個掲げられている。「本物の美と出会う。自分が問い直される。」、「いったん立ち止まって、すべてを考え直す時期にきている。」、「何かを断念しなければ、何かを得ることはできない。」、「人の痛みを忘れないことも、ひとつの想像力だと思う。」、「想像力からこそ優しさが生まれる。」など。
1階から地下の会場へ降りる階段には、液晶画面が設置されていて、オオカミの姿にオオカミの顔が重ねられた、本展のメインヴィジュアルが表示されている。4つのパッチリとした目が時折動いたり、瞬いたりする。目の訴える力が非常に強い。
地下の会場も照明が落とされ、一番広い壁面に、「LIFE」シリーズのいきものの姿が左右別々の作品が同時に投影されている。それぞれが別個に上へスクロールしていき、いきものの目の位置でいったん停止するようにプログラムされている。スクロール(=巻物)が円環のイメージを訴える。会場の一角にでは、黒い「葉」に白い文字で記された言葉が蔦のように茂る。唐草模様のように生命力を表現する狙いがあるのだろう。

展覧会 田中義樹個展『ジョナサンの目の色めっちゃ気になる』

展覧会『田中義樹展「ジョナサンの目の色めっちゃ気になる」』を鑑賞しての備忘録
ガーディアン・ガーデンにて、2020年9月15日~10月17日。

第21回グラフィック「1_WALL」グランプリ受賞者である田中義樹の個展。企画趣旨を記した作家のエッセイを掲載したリーフレット(A4版14頁にわたるが面白く読ませる)が配布されている。タイトル中の「ジョナサン」は、リチャード・バック(Richard Bach)の小説『かもめのジョナサン(Jonathan Livingston Seagull)』からという。「1_WALL」と題したグラフィックと写真の公募展を実施しているガーディアン・ガーデンの母体リクルートの旧ロゴマークは、亀倉雄策による青い正方形に白く抜かれたかもめだった。作家は、その縁もあって、アントン・チェーホフ(Анто́н Че́хов)の戯曲『かもめ(Чайка)』を軸に個展を構想した。会場の床は湖あるいは海または空をイメージさせる青い布が敷かれ、ソフトスカルプチャーのかもめが舞い、ライオンその他の動物の彫刻が設置され、壁にはチェーホフ肖像画などの絵画が掲げられる。会場の奥には『かもめ』の劇中劇が演じられる湖を臨む仮設舞台を模したステージが設置されている。

(トレープレフは彼女の足元にカモメを置く。)
ニーナ:どういうこと?
トレープレフ:今日ぼくは、卑劣にもこのカモメを殺した。きみの足元に置くよ。
ニーナ:どうしたんです?(カモメを拾い上げて、見つめる。)
トレープレフ:(間を置いて)もうすぐぼくもこんなふうに、自分を殺すんだ。
ニーナ:まるで人が変わったみたいね。
トレープレフ:そう、君が別人みたいになってからね。きみは態度をがらりと変えた。ぼくを見る目は冷たいし、ぼくがいると気づまりみたいだし。
ニーナ:このところなんだか怒りっぽいのね。いつもシンボルみたいな表現を使って、わけのわからないことを言って。このカモメだって、シンボルのつもりかもしれませんけれど、ごめんなさい、わたしにはわからない……(カモメをベンチの上に置く。)わたし、頭が悪いから、あなたのことがわからない。
アントン・チェーホフ沼野充義〕『かもめ』集英社集英社文庫〕/2012年/p.65-66)

作家はかもめを草間彌生のソフトスカルプチャーに対するオマージュとして制作している。すなわち、かもめのソフトスカルプチャーは男根の象徴でもある。数多くのかもめ=男根が、恰も暴露療法を行うかのように、会場内に吊され、壁に貼られ、床に転がされている。『かもめのジョナサン』はオスしか登場しないホモソーシャルな世界だという。ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)の『ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)』をはじめとする漂着者文学にその源流が認められるかもしれない。

(略)フロイトのモデルでは、エディプス期の少年が自分のライバルである父親に同一化すると同時に、父親の愛情の対象、すなわち自分のライバルであり、愛の対象でもある自分の母親と同一化するとされていた。とすれば、似たような力学が伝統的なホモソーシャル三角形にも見出されるとも考えられよう。つまり、男性ライバル同士が愛する女性と心理的に同時に同一化することで、彼女をつうじて互いの絆をつくることによって、ライバルにお互いと競争しあわないような主体形成を幻想させることができる。そこでの主体は追うのではなく、追われる主体であって、そうした主体を幻想することで自らの男らしさを危険にさらすことから回避できるのだ。
レベッカウィーバー=ハイタワー〔本橋哲也〕『帝国の島々 漂着者、食人種、征服幻想』法政大学出版局/2020年/p.153)

かもめが男根なら、男根に擬えられるバナナをも表すだろう。壁に貼られたかもめは、マウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)が壁にテープで貼り付けたバナナ《Comedian》(なお、チェーホフは『かもめ』を「喜劇」と呼んでいるという。アントン・チェーホフ沼野充義〕『かもめ』集英社集英社文庫〕/2012年/p.162〔訳者解説〕)を経由して、磔刑図(キリスト像)への連想をも誘う。

人間、ライオン、ワシ、ライチョウ、角のはえたシカ、ガチョウ、蜘蛛、水の中に棲む物言わぬ魚、ヒトデ、そして目では見ることのできなかったものたち、すなわち、すべての、すべての、すべての命が、悲しい輪廻を終えて、消え去った……。
アントン・チェーホフ沼野充義〕『かもめ』集英社集英社文庫〕/2012年/p.29)

トレープレフの芝居でニーナが大きな岩の上に座り独白する台詞に、ライオンが登場する。作家は香港で取材したHSBC本社のライオン像を模した立体作品を会場に設置している。「HSBCライオン」はLGBTを象徴するレインボーカラーに塗られたりその塗装を剥がされたり、逃亡犯条例に伴う抗議行動で目玉を赤く塗られたりと、社会の揺れが反映される舞台となっているという。

金井 (略)彫刻は政治的に気に食わないからという以前に、あると壊される。なんでしょうね、立ち上がって目の前にあるものはなぜか壊されてしまう。偶像破壊衝動、偶像恐怖衝動を引き起こすものでもあると思うのです。
小田原 唐突に断言しますが、彫刻は破壊されるときにいちばん輝きますよね。
白川 彫刻だけではなくて、結局すべての美術品はいずれ壊れてしまう。壊れ、やぶれ、燃える。美術市場で絵が高騰するのは、それがいつか壊れてしまうから、あるいは燃えてしまうからです。燃える前にうまく切り抜ければさらに値段が上がる。でも失われるときは一瞬。だから絵画もきっとそのときは輝くのでしょうね。
小田原 彫刻が引き起こす破壊衝動は確かに存在すると思います。それは、公共空間に据えられた彫刻が恒久設置であること、永久にその場にあることが前提となっていることから生じる抑えがたい恐怖であり、抵抗なのかもしれません。
(白川昌生・金井直・小田原のどか「鼎談『彫刻の問題』、その射程」小田原のどか『彫刻 1』トポフィル/2018年/p.289-290)

BLMに関わる動向でも世界各地で公共空間に設置されたモニュメントの扱いが問題となっている。時宜に適った作品となっている。

 逆にいえば、ほとんどの人々はもはや忘れているが、かつて公共彫刻だったものは壊されない限り、そこに公共彫刻のポテンシャルを残しつつ、立ったまま眠っているのである。だから、不特定多数の人々に言葉や儀式を共有させることができれば、たちまち公共彫刻ととして目を覚ます。とはいえ、歴史は不可逆なものである。目を覚ました公共彫刻がかつての公共彫刻と同じものになるとは限らない。(略)
(略)
 人々は確かに忘れやすい。しかし、忘れたからといって頭の中身が空になるわけではない。そこには新しい記憶・観念・経験知が入ってくるわけで、二度と同じような中身にはならない。(略)しかし、違った形の公共彫刻として復活することは有り得る。それがどんなイデオロギーに即したものになるかは、そうなってみるまではわかりはしないが、はっきりと言えることは、公共彫刻はなりがたいということであり、公共彫刻を最終的に作り出すのは製作者ではなく、それを見る人々の態度なのだということである。
(千葉慶「公共彫刻は立ったまま眠っている 神武天皇像・慰霊碑・八紘一宇の塔」小田原のどか『彫刻 1』トポフィル/2018年/p.136-138)

作家は、闘争の舞台となっているライオン像に加え、トラの姿を立体作品に表す(なお、ピンクパンサーらしき立体作品があるのは、作家の「スピンオフ」指向の表れだろう)。

生き物の体は消えうせ塵となり、永遠の物質がそれを石や水や、雲に変えた。一方、すべての生き物の魂は溶け合って一つになった。その世界普遍霊魂こそ、このわたし……わたしなのだ……。アレクサンドル大王の魂も、シーザーの魂も、シェイクスピアの魂も、ナポレオンの魂も、最低の寄生虫の魂も、すべてわたしの中にある。わたしの中で人々の意識は動物たちの本能と溶け合い、わたしは覚えている――すべてを、すべてを、すべてを。そして自分自身の中の命の一つ一つを、わたしは改めて生きるのだ。
アントン・チェーホフ沼野充義〕『かもめ』集英社集英社文庫〕/2012年/p.30)

ヘレン・バンナーマン(Helen Bannerman)の『ちびくろ・サンボ(The Story of Little Black Sambo)』に登場する、溶け合ってバターになるトラたちだ。作家は、子供の頃にトラとライオンとの区別が付かなかったとのエピソード(ないし一種のエクスキューズ)をリーフレットに記しているが、実際には、「溶け合って一つにな」るという、『かもめ』の劇中劇におけるニーナの台詞を踏まえてのものだろう。対立から融和へというメッセージを酌み取るべきである。

映画『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』

映画『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のアメリカ映画。120分。
監督は、ジョー・タルボット(Joe Talbot)。
原案は、ジミー・フェイルズ(Jimmie Fails)とジョー・タルボット(Joe Talbot)。
脚本は、ジョー・タルボット(Joe Talbot)とロブ・リチャート(Rob Richert)。
撮影は、アダム・ニューポート=ベラ(Adam Newport-Berra)。
編集は、デビッド・マークス(David Marks)。
原題は、"The Last Black Man in San Francisco"。

 

サンフランシスコのハンターズポイント。少女が化学防護服を着用した人物を不思議そうに見上げている。親に繰り返し呼ばれた少女はキャンディを手に通りを駆けていく。防護服の人々が湾岸の清掃に当たる中、演壇用の箱に立つ説教師が(Willie Hen)が声を張り上げている。なぜ防護服を身につけるのか。この海は50年来、悪魔の口以上に汚染されている。斜面でバスを待っていたジミー・フェイルズ(Jimmie Fails)は、モントゴメリー・アレン(Jonathan Majors)に声を掛ける。行こう。ジミーがスケートボードに乗り地面を蹴る。モントゴメリーはその後を追い、ジミーのスケートボードに飛び乗る。2人が向かうのはフィルモア地区にあるビクトリアン様式の瀟洒な邸宅。それは戦後直後にジミーの祖父が建てた建物だった。太平洋戦争の勃発に伴いこの辺りに住んでいた日系人強制収容所に送られると、黒人が多く移り住むようになったが、その後、さらに富裕層が住む街区へと変貌を遂げていた。人気の無いことを確認すると、門から敷地に入っていく。手入れが行き届いていないことに不満なジミー。モントゴメリーに見張りを頼んで、いつも着ているシャツの色と同じ茜色で窓枠を塗り始める。作業に没頭していたジミーに、また来たのと悲鳴のような声があがり果物が投げつけられた。家の持ち主である老夫婦、メアリー(Maximilienne Ewalt)とテリー(Michael O'Brien)が帰ってきたのだ。もう少しで終わるというジミーに、さらにモノを投げつけ今回こそは通報すると喚くメアリー。テリーはメアリーを宥めつつ、通報はしないがすぐ出て行くようにジミーを諭す。ジミーは道の向かいでノートに絵を描くのに夢中になっているモントゴメリーに声をかけ、ともにその場を後にする。モントゴメリーは魚介の販売をしつつ、仕事以外の時間は脚本のための取材に余念が無い。小さな赤いノートを肌身離さず持ち歩いて、何か気になったことがあると、右耳に挟んだ鉛筆を取り出して、メモをとったりスケッチを描いたりしている。ジミーは、施設に入所していたことや車で生活をしていたこともあり、住まいを転々としてきた。父ジェームズ(Rob Morgan)と折り合いが悪く、母(LaShay Starks)とは音信不通で、今は目の見えないモントゴメリーの祖父(Danny Glover)と同居するモントゴメリーの部屋に居候している。モントゴメリーの家の近くには、いつもニティ(Antoine Redus)、ガンナ(Isiain Lalime)、ジョーダン(Jordan Gomes)、コフィ(Jamal Trulove)が屯していて、顔を合わせるたびにちょっとしたやり取りをするのが日常になっている。ジミーとモントゴメリーが再びフィルモア地区の邸宅を訪れると運送業者のトラックが停まっていて、作業が行われている。テリーの傍で嘆き悲しんでいるメアリーの姿もあった。

 

祖父が建てた住まいを取り戻そうと奔走するジミー・フェイルズ(Jimmie Fails)の姿を描く。建物とジミーとの類比を映し出すとともに、ジミーが修繕を加えて建物と一体化を図る姿を描く一方、常に街路を滑るスケートボードとともにあるジミーの根無し草的な性格も強調される。
台詞ではなく、街並みや通行人、そして作業する人々の映像に語らせようという姿勢が明瞭。スローモーションや遠距離からの撮影などが効果的に挟まれる。音楽も利いている。