可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 柏田彩子個展

展覧会『柏田彩子展』を鑑賞しての備忘録
銀座K's Gallery-anにて、2021年7月5日~10日。

柏田彩子の絵画16点を紹介。いずれの作品も、紙をずらして貼り重ねた支持体を、それより小さいパネルに取り付け壁面から浮かせることで、支持体の層とそれがつくる影とを画面とともに見せている。

展示室の冒頭に展示されている《ひとつの音楽》は、青灰色や黄土色、茶などで塗られた縦長の画面(380×290mm)の上部に、音楽記号のフェルマータから点を取り払ったような形が青灰色で描き込まれている。新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める中では、フェルマータが太陽(日没)のイメージを惹起するするだけでなく、"corona"とも呼ばれる事実に思いを致さない訳にはいかない。「休符」の「延長」が世界を覆い、世界は「ひとつの音楽」を重唱するだろう。
メインヴィジュアルに採用されている《詩編 20-01》は、白く塗った紙を重ねた、正方形(S0号)に近い画面。一番上の層の上側には波板のようなものを貼っている。左下の部分には青く大きな点描を4列配し、右下の部分には黄土色に赤、黒、紺などを塗布した面を置いている。白い波板に施された黒い汚れのような表現や、画面の所々に描き入れられた無造作な線は、支持体の積層が示す時間と相俟って経年変化を感じさせる。タイトルに冠した「詩編」は、展示室冒頭の《ひとつの音楽》の存在と相俟って、詩ないし賛美歌の朗読や詠唱を想起させる。その際、波板はオルガンのパイプないし鍵盤の造形を、さらには波という音そのものの連想へと誘う。図形譜から音楽を読み取るように、鑑賞すべき作品であろうか。「詩編」を冠した作品は展示作品16点中7点を占めている。《詩編 21-01》はくすんだ青で統一された画面の右上に配された白い弧(《ひとつの音楽》に表された点の無い「フェルマータ」に近い)がアクセントとなっており、《詩編 21-06》では焦茶の画面に斜線や波形の細い白線が刻まれ、《詩編 21-04》では灰白色を基調とした画面の中央や右上部に黒灰の短い縦線が無数の音符のように描き込まれている。
《漂流の記憶 005》は、漂流の舞台となる海をイメージさせるためであろうか、群青を基調とした画面の4つの角に「波板」を配している。出展作品全てに共通することではあるが、支持体よりも小さいパネルに取り付けることで、支持体が壁面から浮かされるとともに、支持体の薄さが強調されることで、漂う感覚が高められている。もっとも、《漂流の記憶 005》の画面には、「波板」以外にも三角形のモティーフなどが密に表されているため、くすんだ青い画面に茶色い円弧(点の無いフェルマータ)が浮いている《in the sky》の方が、タイトルのイメージも重なって、浮遊感覚が強く出ている。なおかつ、《in the sky》の左隣に展示されている同じサイズ(650×480mm)の《結晶世界》は、焦茶の画面に大小の三角形(厳密には小さい「三角形」は2辺のみ表されている)を描いたの動きの無いイメージであるため、そのコントラストから前者の軽やかさが際立つ。
《解きがたい謎》は、白っぽい灰青色を基調とした画面の霞みのような表現の中にはっきりと表された、キリル文字の"П"(ロシア語の「ペー」)あるいは"Л"(ロシア語の「エル」)に似たモティーフが目を引く。それは、解決を「促す」(подсказка)ようでも「罠」(ловушка)のようでもある。その右隣に展示されている《地図にない道》という作品の存在は、モティーフの配列から自然と導かれる「獣道」のようなルートを目指すよう、鑑賞者に促すようだ。

映画『海辺の金魚』

映画『海辺の金魚』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。76分。
監督・脚本・編集は、小川紗良。
撮影は、山崎裕

 

遠浅の海に入って泣き崩れる少女。
棚に置かれたガラスの透明な金魚鉢。底のエアーポンプから酸素の泡が柱のように立ち上がる中を、1匹の金魚が泳いでいる。瀬戸口花(小川未祐)は餌をわずかに摘むと水面に落とす。食べろ。花は金魚の様子を見つめている。階下の玄関で音がする。びしょ濡れだな。児童養護施設を運営している「タカ兄」こと高山勉(芹澤興人)が帰ってきた。幼い少女(花田琉愛)を伴っている。花、荷物を運んでくれ。花が荷物を子ども達が散らかした広間へ運んでいくと、今し方到着した少女が、茶色いウサギのぬいぐるみで顔を隠すようにして、角に座っている。少女の名が晴海であることを名札で知る。ここにいる人は怖くないからね。このウサギさんはママからもらったの? 優しく声をかけるが、少女は口を噤み、頑なな態度を崩さない。
照明を落とした食堂で、蝋燭を点したケーキが花の前に運ばれる。ハッピバースデー、トゥーユー、ハッピバースデー、トゥーユーと皆が歌うと、花が火を吹き消す。花ももう18かと幼い男の子が不相応に感慨深げな言葉を発する。テーブルの上にはご馳走が並び、皆がわいわいと食事を採っている。だが晴海はぬいぐるみを抱いたまま黙りこくっている。食べないの? 晴美は席を立って出ていってしまう。後を追おうとする花をタカ兄が留める。大丈夫、主役は花なんだから座っとけ。バースデー・パーティーが終わり、キッチンで片付けをしていると、タカ兄が花に声をかける。大学は調べたのか? やっぱり高校出たら働こうって。つい最近も参考書読んでたじゃないか。学びたいことも特にないし…。奨学金の申請に保護者のサインが必要なんだ。そんなときの為に俺たちがいるんだろ、心配するな。小さな子どもたちがやって来て、花に風呂が空いたと告げる。入ってこい。花は湯船に浸かり、ショパン夜想曲第2番を鼻歌で歌い、湯の中に沈んでいく。息が切れた花は、湯から顔を出す。寝る準備を整えた子どもたちに、花がアンデルセンの『人魚姫』を読んであげている。晴美が出ていってしまい、花は追いかけようとするが、子どもたちに続きを読んでとせがまれる。

 

18歳の誕生日を迎える瀬戸口花(小川未祐)の暮らす児童養護施設に、8歳の晴美(花田琉愛)がやって来る。最年長の入所者として、施設を運営している高山勉(芹澤興人)をサポートして子どもたちの面倒を見ている花は、10年前、8歳で入所することになった自らの姿を晴美に重ね、殊に目をかける。ある日、花は自らが入所するきっかけとなった事件に関する新聞記事を目にする。

以下では、結末についても触れる。

(金魚鉢の)金魚、アンデルセンの『人魚姫』、ショパンの「夜想曲第2番」がモティーフとして繰り返し表される。とりわけ、金魚鉢の金魚は、児童養護施設に保護された花自身の姿、あるいは10年前に起きたかき氷毒物混入事件の死刑囚・瀬戸口京子の娘であることを象徴する。夏祭りで起きた事件の現場に8歳の花は居合わせており、毒物で苦しむ人々と連行される母親とを目撃している。晴美の金魚すくいに付き合った花は、夏祭りの金魚すくいで金魚を手に入れた光景がフラッシュバックし、倒れてしまう。花の金魚鉢には、晴美がおまけでもらった金魚が入れられる。晴美が虐待を受けていることに気付いている花は、一時帰宅した晴美を救出した後、夕立に遭って舟の中に避難する。船室の丸い硝子越しの花と晴美の姿は、そのまま金魚鉢の中の大小の金魚に重ねられる。花は自らの飼っていた金魚をコップに移し、海に放ちに行く。守られた児童養護施設(=金魚鉢)を出て、社会(=海)の荒波に揉まれる決心をした。それは、晴美に対する人生の道標たらんとする決意であり、同時に、「死刑囚の娘」からの解放(=母との関係の断絶)を企図したものでもあった。
犯罪者である母・京子との母娘関係の呪縛を花は断ち切ろうとしている。花は、母親から虐待を受ける晴美を救出し、晴美との間に疑似的な母娘関係を築くことで、血のつながりに依らない「家族」を構想するのだ。また、花や晴美の父についての言及はなく、タカ兄も「兄」であり「父」ではない(晴美の処遇に対する判断ミスを花に謝るシーンなども「父」的性格を打ち消すよう働いている)。なおかつ花の「ボーイ・フレンド」である貫太の存在も後景に追いやることで、単為生殖的な世界像を表明している。「単為生殖的な世界像」とは、映画『アナと雪の女王』(2013)を始めとする脱・王子(男性)依存型の女性像の亜種である。王子の愛(≒精子≒遺伝子)を得ようとして叶わず「泡」として消えた「人魚姫」を、男性依存型の有性生殖的な世界像を描く作品として作品に導入するのは、血≒遺伝子に縛られない家族(=リプロダクションのシステム)の支持という旗幟を鮮明にするためだろう。
花が愛(唱)するショパンの「夜想曲第2番」の辿々しい調べに誘われて音楽室へ向かうと、ピアノには数人の女子生徒が和気藹々と存在している。中の1人の(「花」ではなく)「瀬戸口"さん"」という一言と、花と彼女たちとの位置関係とで、その場の空気が画面から漂い、花の「特異な立場」を一瞬にして示す。花と交友する貫太の登場シーンも、花の学校における立場を明らかにするものだ。
画面が美しい。独白のナレーションを中心に組み立てたら、テレンス・マリック監督風の作品になるのではないかと思うくらいだ。
子どもたちの言動や、セリフの言い間違いなどをそのまま取り込むことで、リアリティが高められた。
花と晴美が舟へと掛ける差異の海岸の夕立や、花が自転車や徒歩で通りかかる際に見切れる肥薩おれんじ鉄道の車両など、絶妙なタイミングのシーンに、撮影の苦労が偲ばれる。

展覧会 三枝愛個展『尺寸の地』

展覧会『三枝愛「尺寸の地」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2021年6月19日~7月4日。

「尺寸の地」シリーズのサイアノタイプ(日光写真)11点と、「誰かの畑」シリーズ及び「墓予定地」シリーズなどペインティング9点で構成される三枝愛の個展。

会場の隅に、サイアノタイプの感光液を塗布した黄袋に「手」(手袋?)を広げて置くことで得られた、白い掌のイメージが、竹尺を添えて置かれている。親指から中指まで、すなわち黄袋の画面の幅は、約6寸であることが分かる。絵画の「号数」規格は、メートル法のフランスの規格を尺に置き換えたものを、後に尺貫法廃止の際、再度1尺を約303mmに換算し直したものだという。0号は親指から中指までの長さを基準にしており、それが約6寸に相当すること、すなわち絵画のシステムが手(≒人体)の寸法と黄金比という、ル・コルビュジエの提唱した「モデュロール」と同様の理念に基づくことが「絵解き」されているのである。
「尺寸の地」シリーズは、サイアノタイプを用いて、黄袋に木枠の当たっていた部分が感光せず(青くならず)に残った部分を地に、何も無かったために感光して青くなった部分を図として表した作品群である。木枠を浮かび上がらせるのは、木枠が、描画という営為の行われる舞台(土台)であるが故である。そして、作家は「尺寸の地」シリーズを農地とパラレルに捉えている。たとえ狭い面積(=「尺寸」)であっても、注ぎ込まれる労力によって、画面=農地は掛け替えのない存在となること、また、太陽のエネルギーによって図像(サイアノタイプ)=収穫(農作物)が得られるからである。
「誰かの畑」シリーズは、2020年制作の2点と2021年制作の2点の計4点が展示されているが、画面のほぼ中央に配した横に長い矩形の農地をやや高い位置から眺め、画面の上半分程度を空に当てる、ほぼ同様の構図であるため、同一の光景を描いているものと考えられる。《誰かの畑-1》(2020)では、黒い道の走る(?)画面の下から淡い灰青の空が広がる画面の上にかけての明暗のグラデーションに加え、横方向の粗い筆運びの下端から斉一に塗り込めた上端への変化が、遠近の差異を強調している。《誰かの畑-2》(2020)は同シリーズ4作品中、唯一横長の画面。モスグリーンや灰青など灰色系統の色彩で統一された画面の中、白く塗り込めた農地が輝く。同一シリーズ作品中、画面の一番小さい《誰かの畑-3》(2021)では、夕空を映すように、中央の矩形の農地がレモンイエローに輝く。《誰かの畑-2》と《誰かの畑-3》の表現から判断すると、中央の矩形は水田なのかもしれない。《誰かの畑-4》(2021)は画面上下をグレー系統で表し、画面中央をモスグリーン寄りの黄土色でまとめている。作家は「誰かの畑」の広がる土地を描くことで、自らの作品として収穫しているのだ。その営為は、作家と土地との紐帯をより緊密に変じるだろう。
《墓予定地-1》(2020)は、モスグリーンを縦方向に塗った画面の周囲を白で縁取り、《墓予定地-2》(2020)は、《墓予定地-1》に近い構図だが、中央の縦の描線がやや斜めに変更されるとともに、中央の描線と同じ色が配された縁の幅は広げられている。シンプルな作品だけに、土地を区切ることで死者と生者との境界を生じさせる行為が明確で、黄泉ないし黄泉比良坂を連想させる。《墓予定地-4》(2021)は、中心となるモティーフである正方形の区画が、斜め上方から捉えたために、平行四辺形(菱形)で表されている。その背後(画面上部)にはモスグリーンを背景に紫色が壁あるいは山のように立ちはだかっている。あるいは「壁」は、阿弥陀仏を乗せる紫雲であるのかもしれない。
《田園と壁》(2021)は画面手前左手から画面奥右手に向かって壁が立ち、その左手にモスグリーンで表された水田(?)が配される。壁に沿って伸びる道の黒さと、「水田」を仕切るビニールハウス(倉庫?)の白さとのコントラストが、主役の壁(?)よりも目を引く。

映画『アジアの天使』

映画『アジアの天使』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。128分。
監督・脚本は、石井裕也
撮影は、キム・ジョンソン
編集は、ジョ・ヒョンジュ、岡崎正弥、石井裕也

 

少女が雑貨店の店内を歩き、天使の像が入ったスノーグローブに目を留める。
ソウル市街に向かう高架橋は渋滞して、車が動かない。その中の1台のタクシー。運転手はイラついている。後部座席に座る青木剛池松壮亮)はスマートフォンで、日韓関係の悪化に関するニュースを読んでいる。隣に座る息子の学(佐藤凌)が尋ねる。海はある? ソウルには無いな。ようやく市街に入り、建物が密集する路地をタクシーが抜けていく。ある角を曲がったところ、車が狭い道を塞いでいる。運転手が捲し立てるが、剛は何を言われているのか分からない。目的地に到着する前に車から降ろされた2人は、荷物を引き摺って歩き出す。いいか、どんなときも相互理解が大事なんだ。剛は息子に諭す。目指した建物には地下に教会があり、ハングルで歌われる賛美歌が聞こえてくる。階段を昇り、呼鈴を鳴らす。反応が無い。ドアに鍵がかかっていなかったので、勝手に開けて中に入る。室内は所狭しと荷物が置かれている。奥から現れた男が怒気を含んだ調子で何か言って近付いて来た。剛は兄のもとを訪れたと日本語で訴えるが、全く通じない。結局、剛は男によって手荒に部屋を追い出され、学も後から部屋を出る。ドアの外で兄に連絡を入れていると、男が出て来て、剛を階段から突き落としそうな勢いだ。2人が揉み合っているところへ、剛の兄・透(オダギリジョー)が串焼きを食べながら階段を上がってきた。ドアを開けて部屋に入ろうとして、振り返る。剛か? だから言っただろうと剛が男に怒りをぶつけるが、透はその男はビジネス・パートナーだからと剛を宥める。2人を部屋に通した透が剛に尋ねる。で、何しに来たんだ? 兄貴が来いって言うから来たんだろ! シャレじゃねえか。こっちは息子を連れて家を引き払って来てんだよ。日本人学校の件はどうなってんだよ! 透は話題を変えようとする。韓国と言ったら何だ? …キムチ?…タッカルビ、いやチーズタッカルビ? コスメだよ。オルチャンメイクは世界から引きがある。コスメを安く仕入れて輸出するんだ。ちゃんとしたルートなんだろうな? いいか、ビジネスにはな、税関を通すやつと通さないやつの2つがあるんだよ。大丈夫、さっきの男はずっと俺のパートナーで、ヤバいところはあいつに処理させるから。今でも月に100は稼げてる。事業を拡大して、将来性のあるワカメにも手を出そうってところさ。3人は連れ立ってショッピング・センターに向かった。剛は歌声に惹かれて2人から離れると、スロープの先にある小さなステージに立ち、誰も見ていない中、1人で歌うチェ・ソル(チェ・ヒソ)の姿を目にした。透と学は食事を済ませ、通りにあるベンチで一休みしていた。あの看板の女性、母さんに似てないか? 首を振る学。学はポシェットから親子3人が映っている海辺の写真を取り出し、透に見せる。はぐれていた剛が2人を見つけてやって来た。食事なら済ませた、この辺りなら食べるところはいくらでもあると剛に言い置いて透は学を連れて立ち去る。剛が1人食事をとろうとしてカウンターに座ると、近くの別のカウンターで涙を流しながら酒を飲む女性に気が付く。サングラスをかけてはいたが、ショッピング・センターで歌を歌っていた彼女に間違いなかった。心を動かされた剛は、彼女を励まそうと声をかけるが、日本語が通じるわけもない。
チェ・ソルがカーテンを開けてステージに立つと、音楽が流れ始める。マイクを握って歌い始めたが、客はチラリと視線を送るだけでステージには集まってこない。しかも、途中で忘れ物の案内放送が入ると、音楽も途切れ、客からは失笑が漏れる。それでも、ソルは歌い続ける。ステージが跳ねると、ソルは1人市場で呑んだ。気が付くと涙が流れていたが、サングラスが隠してくれるだろう。視線に気が付き、右手を見ると、ニヤニヤした男が自分を眺めていた。すると、男は近寄ってきて、何やら話しかけてきた。日本語らしい。何がおかしいの! 気分を害されたソルは酒代を置くと立ち去った。帰宅すると、兄のジョンウ(キム・ミンジェ)と妹のポム(キム・イェウン)がソファに座って食事をしていた。呑んできたのか? 自分の稼いだ金で何しようと勝手でしょ。で、ポム、試験勉強は進んでるの? 両親亡き後、姉の稼ぎで暮らしていたが、好き勝手に生きている姉がまるで母親のように自分の将来を公務員に決めつけるのがポムは気に入らなかった。

 

腹痛を訴えていた妻を胃癌で失ってしまった小説家の青木剛池松壮亮)は、息子の学(佐藤凌)を連れて、ソウル在住の兄・透(オダギリジョー)のもとに転がり込む。アジアを点々としながら暮らす透は、韓国コスメの輸出を手がけていた。怪しげなビジネスは一応軌道に乗っていたが、ある日、会社を兼ねた自宅に戻ると、商品など全てが消え去っていた。現地人のビジネス・パートナーに裏切られたのだ。透はワカメの輸出で復活できると韓国北東の都市カンヌンに向かう。
母親を胃癌で、父親を交通事故で亡くしたチェ・ソル(チェ・ヒソ)は、若くして芸能界に飛び込み、兄のジョンウ(キム・ミンジェ)と妹のポム(キム・イェウン)とを養ってきた。そのため、所属事務所の社長と情交を結んででも契約を維持してきたが、遂に契約を解除されてしまう。失意のソルは、橋の上で天使を見かけ、伯母から促されていた父母の墓参りのために帰郷することを決心する。

以下、結末に関する事柄にも触れる。

ジョンウの先輩の「大きな車」で移動している最中、学がトイレに行っている間、ポムらが畑の中の水路のような場所を飛び越えて時間を潰しているシーンは、日本と韓国との境界を往き来するようになった様子を表す。
透の剛に対するアドヴァイスは、「맥주 주세요(ビール下さい)」と「사랑해요(愛してる)」との2つのセンテンスで何とかなる、というもの。一面の真理を突いていそうなアドヴァイスではある。
剛がソルに対して投げ掛ける、妻に対して一番사랑해요でした、だけどソルに対して사랑해요になる可能性があるという訴えは、一方的な独白だけれど、その無茶な言葉がひょっとしたらソルに届くかもしれないという賭けであって、その賭けにのりたいという気持ちにさせられる。
異なる言語の話者の間では、通じないという前提があることで、かえってコミュニケーションがとりやすいところがある。同じ言語の話者の間では、通じるという期待が、コミュニケーションの不全を生んでしまう。5人で黙々と食事に興ずるラスト・シーンは、言葉の不在のまま、コミュニケーションが可能になった素敵な状況として、じんわりと心に焼き付く。
透のワカメ・ビジネスは存在しないと剛は薄々勘付いていた。勘付いていたけれど何かあると思って剛は透に従った。ひょっとしたら何かあるんじゃないかというものに賭ける姿勢に、監督の強い思いが籠められている。また、そこに賭けて映画を撮っているだろう監督に心を打たれる。
あの天使にだけは噛まれたくない。

展覧会 山ノ内陽介個展『Mindfulness』

展覧会『山ノ内陽介個展「Mindfulness」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2021年6月28日~7月3日。

絵画21点で構成される、山ノ内陽介の個展。

メインヴィジュアルに採用されている《Mindfulness》は、濃淡の灰色の直線が組み合わされ、伸縮式アルミフェンスを想起させる、斜め格子のようなモティーフが表されている。「Mindfulness」と題された作品は、本作も含め、6点展示されている。いずれも一発勝負で引かれる直線的ストロークが組み合わされて、恰も独立した一音一音がメロディーとして響くように、幾何学的模様を浮かび上がらせている。青、水色、群青、紫の絵具を画面一面に波状に展開した大画面(F100号)の《Untitled》は、塗り重ねた絵具を引き伸ばすことで現れる色のニュアンスを楽しむ作品となっている。

顔を表した画布を画面に貼り重ねた一群の作品がある。首の上に頭蓋骨が載せられている、肩から上の肖像画《Untitled》では、前頭骨から右の眼窩にかけて、面をずらして付けるかのように、女性の顔を描いた画布が斜めに取り付けられている。顔の画布からは赤い血のような絵具が広がっている。首から下は皮膚(肉)が描かれているため、頭蓋骨の部分に顔を貼り付けた後、耳や頭皮や毛髪がさらに装着されて、女性像を完成される過程にあると解される。やや暈かされて表された、肩から上の女性の肖像画《Mask》には、顔面に男性(老女?)の顔が貼り付けられている。《皮》と題された作品の1つは、エメラルド・グリーンの画面に、名画から引用されたと思しき、天を見上げる女性の頭部を描いた画布を貼った作品。画布に寄せられた皺と、画布の最下部の首の位置から画面の下部に向けて塗られた血や脂肪を思わせる赤やピンクの絵具とが、画布が切り取られて貼り付けられたものであることを強調する。その一方で、女性の頭部の右側から下側にかけて影が表されることで、エメラルド・グリーンを地とする画面であることが示される。とりわけ興味深いのは、頭部の上方に描き込まれた「つ」のような形の白い線で、女性が天を見上げようと頭部を回転させた、一種の効果線にも、また、蝿か霊魂か、何かが頭上を飛んでいるようにも見える。「Mindfulness」シリーズを髣髴とさせる斜めの線を組み合わせることで脊椎のようなイメージを下部に配し、その上に女性の頭部を描いた画布を貼り合わせた《Untitled》(群青の画面に青の「脊椎」)や、ターバンを巻いた男性の頭部を描いた画布を貼り合わせた《Untitled》(薄い紫色の画面にピンクの「脊椎」)もある。

濃紺の画面に、高い襟を持つ水色の服を纏い、真珠を鏤めた帽子(?)を被った頭蓋骨の肖像画《Untitled》では、青で統一された画面の中で、椿のようなイヤリングと赤いボタンが、厚ぼったい絵具で表されているのが目を引く。濃い紫の地に目・鼻・口・耳を簡略化して描いた肖像画《Untitled》では、襟飾りを表す蛇行する描線を引っ掻くように表している点が興味深い。大画面(F100号)の女性の肖像画《Untitled》では、首筋や耳、髪の毛など顔の周囲の表現を比較的精緻に描くことで、種々のレタッチのためのアプリケーションにより大幅に加工された肖像写真が氾濫する状況を揶揄するのでもあるまいが、目・鼻・口をどこまで抽象化できるか、うねるようなストロークによって顔の表現の限界を探っているような作品。マリンブルーの背景に白いヴェールを被った女性の肖像画《Untitled》は、瞼の太い描線、鼻・頬・顎・首筋などの思い切りの良い力強い筆運びが心地よい。右手に点じられたスカイブルーがアクセント。

坊主頭の人物の肖像画《Untitled》は、顔の中央が裂けるが、残念ながら宝誌和尚ではないらしく、中から現れるのは観音ではなく肉と頭蓋骨である。もとい、ルチオ・フォンタナが画布を切り裂いて平面作品に空間を導入したのに対して、作家は皮膚・肉・骨で構成することで絵画に人間を取り込んだのかもしれない。眼球(あるいは瞼)がえぐり取られたように眼窩のあたりの画布が切り取られ、赤い絵具が現れた女性の肖像画《Untitled》や、目の辺りが右方向に引っ掻かれ、やはり赤い絵具が現れた女性の肖像画《Untitled》は、『アンダルシアの犬』的表象か。