可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『アジアの天使』

映画『アジアの天使』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。128分。
監督・脚本は、石井裕也
撮影は、キム・ジョンソン
編集は、ジョ・ヒョンジュ、岡崎正弥、石井裕也

 

少女が雑貨店の店内を歩き、天使の像が入ったスノーグローブに目を留める。
ソウル市街に向かう高架橋は渋滞して、車が動かない。その中の1台のタクシー。運転手はイラついている。後部座席に座る青木剛池松壮亮)はスマートフォンで、日韓関係の悪化に関するニュースを読んでいる。隣に座る息子の学(佐藤凌)が尋ねる。海はある? ソウルには無いな。ようやく市街に入り、建物が密集する路地をタクシーが抜けていく。ある角を曲がったところ、車が狭い道を塞いでいる。運転手が捲し立てるが、剛は何を言われているのか分からない。目的地に到着する前に車から降ろされた2人は、荷物を引き摺って歩き出す。いいか、どんなときも相互理解が大事なんだ。剛は息子に諭す。目指した建物には地下に教会があり、ハングルで歌われる賛美歌が聞こえてくる。階段を昇り、呼鈴を鳴らす。反応が無い。ドアに鍵がかかっていなかったので、勝手に開けて中に入る。室内は所狭しと荷物が置かれている。奥から現れた男が怒気を含んだ調子で何か言って近付いて来た。剛は兄のもとを訪れたと日本語で訴えるが、全く通じない。結局、剛は男によって手荒に部屋を追い出され、学も後から部屋を出る。ドアの外で兄に連絡を入れていると、男が出て来て、剛を階段から突き落としそうな勢いだ。2人が揉み合っているところへ、剛の兄・透(オダギリジョー)が串焼きを食べながら階段を上がってきた。ドアを開けて部屋に入ろうとして、振り返る。剛か? だから言っただろうと剛が男に怒りをぶつけるが、透はその男はビジネス・パートナーだからと剛を宥める。2人を部屋に通した透が剛に尋ねる。で、何しに来たんだ? 兄貴が来いって言うから来たんだろ! シャレじゃねえか。こっちは息子を連れて家を引き払って来てんだよ。日本人学校の件はどうなってんだよ! 透は話題を変えようとする。韓国と言ったら何だ? …キムチ?…タッカルビ、いやチーズタッカルビ? コスメだよ。オルチャンメイクは世界から引きがある。コスメを安く仕入れて輸出するんだ。ちゃんとしたルートなんだろうな? いいか、ビジネスにはな、税関を通すやつと通さないやつの2つがあるんだよ。大丈夫、さっきの男はずっと俺のパートナーで、ヤバいところはあいつに処理させるから。今でも月に100は稼げてる。事業を拡大して、将来性のあるワカメにも手を出そうってところさ。3人は連れ立ってショッピング・センターに向かった。剛は歌声に惹かれて2人から離れると、スロープの先にある小さなステージに立ち、誰も見ていない中、1人で歌うチェ・ソル(チェ・ヒソ)の姿を目にした。透と学は食事を済ませ、通りにあるベンチで一休みしていた。あの看板の女性、母さんに似てないか? 首を振る学。学はポシェットから親子3人が映っている海辺の写真を取り出し、透に見せる。はぐれていた剛が2人を見つけてやって来た。食事なら済ませた、この辺りなら食べるところはいくらでもあると剛に言い置いて透は学を連れて立ち去る。剛が1人食事をとろうとしてカウンターに座ると、近くの別のカウンターで涙を流しながら酒を飲む女性に気が付く。サングラスをかけてはいたが、ショッピング・センターで歌を歌っていた彼女に間違いなかった。心を動かされた剛は、彼女を励まそうと声をかけるが、日本語が通じるわけもない。
チェ・ソルがカーテンを開けてステージに立つと、音楽が流れ始める。マイクを握って歌い始めたが、客はチラリと視線を送るだけでステージには集まってこない。しかも、途中で忘れ物の案内放送が入ると、音楽も途切れ、客からは失笑が漏れる。それでも、ソルは歌い続ける。ステージが跳ねると、ソルは1人市場で呑んだ。気が付くと涙が流れていたが、サングラスが隠してくれるだろう。視線に気が付き、右手を見ると、ニヤニヤした男が自分を眺めていた。すると、男は近寄ってきて、何やら話しかけてきた。日本語らしい。何がおかしいの! 気分を害されたソルは酒代を置くと立ち去った。帰宅すると、兄のジョンウ(キム・ミンジェ)と妹のポム(キム・イェウン)がソファに座って食事をしていた。呑んできたのか? 自分の稼いだ金で何しようと勝手でしょ。で、ポム、試験勉強は進んでるの? 両親亡き後、姉の稼ぎで暮らしていたが、好き勝手に生きている姉がまるで母親のように自分の将来を公務員に決めつけるのがポムは気に入らなかった。

 

腹痛を訴えていた妻を胃癌で失ってしまった小説家の青木剛池松壮亮)は、息子の学(佐藤凌)を連れて、ソウル在住の兄・透(オダギリジョー)のもとに転がり込む。アジアを点々としながら暮らす透は、韓国コスメの輸出を手がけていた。怪しげなビジネスは一応軌道に乗っていたが、ある日、会社を兼ねた自宅に戻ると、商品など全てが消え去っていた。現地人のビジネス・パートナーに裏切られたのだ。透はワカメの輸出で復活できると韓国北東の都市カンヌンに向かう。
母親を胃癌で、父親を交通事故で亡くしたチェ・ソル(チェ・ヒソ)は、若くして芸能界に飛び込み、兄のジョンウ(キム・ミンジェ)と妹のポム(キム・イェウン)とを養ってきた。そのため、所属事務所の社長と情交を結んででも契約を維持してきたが、遂に契約を解除されてしまう。失意のソルは、橋の上で天使を見かけ、伯母から促されていた父母の墓参りのために帰郷することを決心する。

以下、結末に関する事柄にも触れる。

ジョンウの先輩の「大きな車」で移動している最中、学がトイレに行っている間、ポムらが畑の中の水路のような場所を飛び越えて時間を潰しているシーンは、日本と韓国との境界を往き来するようになった様子を表す。
透の剛に対するアドヴァイスは、「맥주 주세요(ビール下さい)」と「사랑해요(愛してる)」との2つのセンテンスで何とかなる、というもの。一面の真理を突いていそうなアドヴァイスではある。
剛がソルに対して投げ掛ける、妻に対して一番사랑해요でした、だけどソルに対して사랑해요になる可能性があるという訴えは、一方的な独白だけれど、その無茶な言葉がひょっとしたらソルに届くかもしれないという賭けであって、その賭けにのりたいという気持ちにさせられる。
異なる言語の話者の間では、通じないという前提があることで、かえってコミュニケーションがとりやすいところがある。同じ言語の話者の間では、通じるという期待が、コミュニケーションの不全を生んでしまう。5人で黙々と食事に興ずるラスト・シーンは、言葉の不在のまま、コミュニケーションが可能になった素敵な状況として、じんわりと心に焼き付く。
透のワカメ・ビジネスは存在しないと剛は薄々勘付いていた。勘付いていたけれど何かあると思って剛は透に従った。ひょっとしたら何かあるんじゃないかというものに賭ける姿勢に、監督の強い思いが籠められている。また、そこに賭けて映画を撮っているだろう監督に心を打たれる。
あの天使にだけは噛まれたくない。