可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『今夜、世界からこの恋が消えても』

映画『今夜、世界からこの恋が消えても』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
121分。
監督は、三木孝浩。
原作は、一条岬の小説『今夜、世界からこの恋が消えても』。
脚本は、月川翔松本花奈
撮影は、柳田裕男。
美術は、松永桂子。
スタイリストは、望月恵。
編集は、穗垣順之助。
音楽は、亀田誠治

 

暗い部屋にアラームが鳴り響く。日野真織(福本莉子)が目を覚まし、スマートフォンを手に取ってアラームを停める。私は事故で記憶障害になっています。机の上の日記をよみましょう。メッセージの書かれた紙。見渡せば、部屋中にメモを打ち出した紙が貼られている。ラップトップを起ち上げる。ゴールデン・ウィークの初日、事故に遭い、記憶をなくしました。注意書きに続き、2019年5月5日から昨日までの日記が記録されている。部屋のカレンダーは2022年2月。真織は足の裏の怪我に気が付くと、描きかけの絵が架けられたイーゼルとその下に置かれたパレットに目をやる。階段を降りると、リヴィング・ダイニングで母の敬子(水野真紀)と父の浩司(野間口徹)がおはようと真織を迎えた。記憶喪失のせいでいつも迷惑をかけていると真織が謝ると、両親は人助けで事故に遭った娘が誇らしいと慰める。パレットを踏んで足を怪我したことを覚えていると真織が告げると、両親は顔を見合わせる。
真織は母とともに病院に来ている。医師(蔵原健)が診断結果を告げる。真織さんは記憶障害から立ち直りつつあります。真織は早速、親友の綿矢泉(古川琴音)に連絡する。
真織は部屋のあちらこちらの貼り紙を剥がしていく。棚の前で、奥にクロッキー帳が仕舞われているのに気が付く。埃を払い中を開くと、同じ人物と思われる見知らぬ男性の姿が何枚も描かれていた。
真織は泉とレストランで落ち合う。泉が心境を尋ねると、真織は最近3年間の記憶がなくて、一気に大人になった不思議な気分だと吐露する。真織はクロッキー帳を取り出し、描かれている人物に心当たりがないか泉に尋ねる。泉は動揺したが、図書館で何度か見かけた人だと言ってお茶を濁す。だが真織は、同じ人物が何枚も描かれていることに合点がいかない。人物デッサンの練習に協力してもらったんだと泉は説明する。
泉は帰宅すると、ファイルを取り出す。その最初の頁には、「神谷透くんのことを忘れないで」と書かれた付箋が貼られている。
真織は夜、天窓から入る月明かりだけを頼りに、イーゼルに架けた画面に向かっている。真織はクロッキー帳を開く。
高校の大教室。1人座っている真織のもとへ神谷透(道枝駿佑)が近寄る。少し離れたところでは、3人の生徒が真織と透の姿をスマートフォンで撮影していた。付き合ってもらえませんか。少し間を置いて、真織はいいですよと答える。そういえば、名前は? 神谷透。クラスは? 1組。明日の放課後、教室で待っててもらえます? 真織が立ち去ると、透のもとへ3人組がやって来る。本気になるなよ。リーダー格の三枝(西垣匠)は透がフラれるシーンを撮影しようとの当てが外れ、苛立っていた。透は約束通り、下川にちょっかいを出さないよう三枝に念を押す。
夜、透は自宅で洗濯物を畳んでいると、父親の幸彦(萩原聖人)が冷蔵庫から缶ビールを取り出す。明日も早いんじゃないの? 明日のことを思い煩らうな。明日は明日みずから思い煩わん。太宰か。仕事は辞めた。また小説書くの? 今回はいけそうなんだ。だが透が父親の部屋を覗くと、山積みの本に囲まれ、ラップトップを起ち上げたまま父は突っ伏して眠っていた。父親の背に上着を掛けてやる。透は芥川賞候補作になった西川文乃の「残滓」が掲載された『文芸界』を見付け、手に取る。
教室で透が自分の席で「残滓」を読んでいると、三枝たちに待ち伏せされなかったと下川(前田航基)から嬉しそうに報告される。クラスメイトの女子が近寄って、バズってると、透が真織に告白している動画を見せられる。教室を移動する際、下川はお祝いしなきゃと透の「交際」で勝手に盛り上がっている。険しい表情の泉が現れ、透の行く手を遮る。日野真織と付き合ってるって本当? 真織のこと知らないでしょ。
放課後、透は1人教室に残り、「残滓」の続きを読んでいた。神谷透君だよね? 真織が教室に現れる。部活は? 帰宅部だから。良かった。部活に入ってたら申し訳ないと思って。付き合うに当たって断っておかないといけないことがあってね…。その事なんだけど、友達がいじめられてて、止めさせる条件だったんだ。人気者の日野さんにフラれるところを撮影させるのがね。…ごめん。何で謝るの? いじめられてる子を助けたんでしょ? 私と付き合うのイヤ?

 

日野真織(福本莉子)は、2019年5月5日の事故をきっかけに前向性健忘となった。以来、眠る度に記憶が失われてしまう。真織は毎晩日記を付け、翌朝日記を読み返して記憶を補う毎日を送っていた。その事実は家族と高校の先生と真織の親友・綿矢泉(古川琴音)だけの秘密だった。事故から3年近く経過した頃、ようやく記憶障害からの回復が見られた。部屋を整理する中で、同じ男性ばかりを繰り返し描いたクロッキー帳を発見するが、真織の記憶の空白を埋める日記には、思い当たる人物の記述が存在しない。真織が泉と会って確認すると、図書館で知り合った人に人物デッサンのモデルになってもらったと説明される。
高校生の神谷透(道枝駿佑)が同学年の真織に付き合ってもらえませんかと突然声をかける。透は三枝(西垣匠)らにいじめられていた下川(前田航基)を救おうと、校内で人気の高い日野真織に告白してフラれる場面を三枝らに撮影させる条件を呑んでいた。意外なことに、真織は透の申し出を受け容れた。翌日の放課後、透から事情を聞かされた真織は、このまま擬似恋愛関係を続けようと透に提案する。真織は、放課後までお互い話しかけないこと、連絡のやり取りは簡潔にすること、本気で好きにならないことの3つを条件にする。お目付役の泉は真織の擬似恋愛を不安視するが、自分の推しの作家・西川文乃の作品を透が愛読していることを知って、2人を見守ることにする。透と過ごす時間とともに日記の中の透の記述が増えていく。初デート。2人は海辺の公園へ向かう。透の作った弁当を味わった真織は、幸福に包まれてレジャーシートの上に横になる。微睡みから覚めた真織の前には、「見知らぬ男性」の姿があった。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

夏にふさわしいロマンティックな作品。
喪失の辛さから逃げずに向き合えとのメッセージを投げ掛ける作品とまとめることもできるだろう。
透の母親・文乃(野波麻帆)は、透が幼い頃に心臓の病で突然亡くなった。透の父親・幸彦(萩原聖人)は文乃の死を受け容れられずにいた。透はそんな父親を反面教師として、何より、真織が毎朝、記憶の喪失と格闘していることを知って、喪失を恐れず向き合おうとする。透の真摯な姿勢は、彼が泉に託す願いとして結実することになる。
泉は透の願いを叶えてやることで、真織が喪失の哀しみを味わうことを回避させる。だが(喪失の)哀しみを奪うことが幸福になるのか、マイナスを削減するとプラスになるという単純な問題ではないのではないかと、絵を描くことで記憶を必死に取り戻そうとする真織の姿に触発されて、気が付く。人生を豊かにする、抱き留めておくべき哀しみも存在するのだ。哀しみの分だけ、喪失は美しく輝く。