可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 内田麗奈個展『クロマニヨンの夢』(2021)

展覧会『内田麗奈「クロマニヨンの夢」』を鑑賞しての備忘録
HIGURE 17-15 casにて、2021年10月3日~16日。

ベロアを支持体に描いた絵画をカーテンのように仕立てた「クロマニヨンの夢」シリーズ5点で構成される、内田麗奈の個展。

 バタイユはその晩年の著作『ラスコーの壁画』において、彼がとりあえずラスコー人と呼んでいる現生人類がいかにネアンデルタール人とかけ離れていたか力説している。ネアンデルタール人たちは死の意識さえ持っていた。彼らはまさに埋葬を知り墓地を残しているのである。だが、彼らはどのような芸術作品も残さなかった。(略)芸術の創造に関しては、私たちはラスコー人すなわちいわゆるクロマニヨン人の登場を待たなければならない、というわけである。
 一般に、ネアンデルタール人クロマニヨン人を分かつのは、芸術であり、象徴的活動であり、広い意味でのシャーマニズムである。前者にはそれがなく、後者にはそれがあったというのだ。この断絶は決定的なものである。(三浦雅士『考える身体』河出書房新社河出文庫〕/2021年/p.34-35)

《クロマニヨンの夢》(1100mm×1500mm×130mm)は、金色の光沢を持つベロアの上辺に芯地を縫い付け、山を取り襞を付けたカーテンのような作品。1枚布ではなく、敢えて矩形の布を何枚か継ぎ合わせて支持体を作っていて、所々に茶、赤、黄、緑などの絵具が塗られている。ラスコー洞窟など、クロマニヨン人による壁画をテーマとしながら、本作品に(例えば動物のような)具体的なイメージは描きこまれていない。クロマニヨン人の絵画の支持体である壁面自体を表現したものであろうか。「カーテン」の皺を仮止めする洋裁ピンの光沢のある色取り取りの玉が彩りを添えている。
何故、作家は、作品をカーテンに仕立てるのだろうか。襞を作ることは、布を継ぎ合わせていることと相俟って、壁画の凹凸ないし陰影の表現と評し得る。もっとも、それならば木枠に貼る際に皺を寄せることでも表現が可能だろう。ところで、絵画は窓に擬えられるが、クロマニヨン人にとって壁画とは、洞窟の閉鎖的な環境に眺望をもたらすために穿たれる穴、すなわち窓の代替物であったのだろうか。闇に包まれた洞窟の中を炎で照らし出すとき、壁に描かれた動物は動き出す。壁画は動画であった。作家は、カーテンに仕立てることによって、開閉動作の可能性をこそ絵画に導入したのだ。クロマニヨン人の夢のファンタスマゴリーを仕立てたのである。

《クロマニヨンの夢―横顔―》(930mm×700mm×110mm)は、カーテンの上にカーテンを重ねたような作品である。奥側のカーテンには人物の横顔が描かれ、手前側のカーテンは、左右でタッセルで結わえることで開かれて、横顔を強調する額縁のように機能している。他者の存在を描き出す行為とは、他者の身体をなぞることで再現する行為であり、ひいては他者になることを含意する。

 たとえば、ネアンデルタール人が進化してクロマニヨン人になったのではない、クロマニヨン人ネアンデルタール人に取って代わったのだという見解を支持する証拠の1つは、その行動半径が一挙に飛躍的に延びたことなのだ。ネアンデルタール人の段階では、使われる石器の素材はせいぜい50キロメートル以内から求められたにすぎないが、クロマニヨン人の段階になるとその距離は一挙に数百キロへと拡大する。むろん、それだけの距離を歩き回っていたのではない。〔引用者補記:装身具を制作する素材となる海産貝殻や化石化した貝殻、化石琥珀などの〕交易を行なっていたのである。
 (略)
 人間は必要に応じて物を交換すると普通は思われている。だが、ネアンデルタール人からクロマニヨン人への決定的な飛躍は、むしろ逆に、交換が欲望を生み、必要を生んだことを教えている。物の交換とは情報の交換でありすなわちメディアであるとすれば、メディアこそが欲望を生み、必要を生んだのである。ネアンデルタール人クロマニヨン人の違いは、まさにこのメディアの有無にかかわっているように思われる。際限もなく欲望を掻き立てるものとしてのメディアの有無に。つまるところ、ネアンデルタール人には、なぜクロマニヨン人が「装身具など」にそれほど血道を上げるのか理解できなかったのだ。
 (略)
 交換の起源はおそらく再分配にある。(略)会食は人間にとっていまもきわめて意味の濃い行為だが、会食すなわち再分配ができるようになるには、他者の気持ち、他者の欲望を理解できなければならない。というより、他者になってしまわなければならないのである。
 現生人類の飛躍の鍵はそこにあるように思える。クロマニヨン人ネアンデルタール人をはるかに凌駕して、他者になることができたのだ。他者に、すなわち自分自身に。
 言うまでもなく、自分を意識するとは他人の目で自分を見るということである。他人の立場に立たなければ、自分というものはありえない。自分になることと他人になることとは、1つのことであって2つのことではない。逆に言えば、自我とは、自分というひとりの他者を引き受けることにほかならないのである。ただ人間だけが名づけられ、その名を自己として引き受けるのだ。この授受にすでに交換が潜んでいる。(三浦雅士『考える身体』河出書房新社河出文庫〕/2021年/p.43-46)

《クロマニヨンの夢―あしあと―》(580mm×1200mm×90mm)は、カーテン状に仕立てられた画面にオレンジや茶や緑で複数の足跡を表したもの。左側から右側へ、両足を揃えていたり、右足を左足より前に出していたりする。歩行の跡ではないだろう。ダンスのステップである。そこでは自己を獲得するための舞踊が展開されているのである。

 感動は全身体的なものだ。それは嵐のように、突風のように襲ってくるのである天井の理念を想起するなどという悠長なものではない。舞踊を規範にして芸術の感動を記述すればそういうことになるが、人はいまなお天上の美の写しよろしく博物館に鎮座している物品を眺めて満足しているようだ。身体の次元が払拭されているのである。前衛でさえもその制度の内にあると言っていい。だが、薄靄のようなこの制度を剥がしてしまえば、人はいつでも身体の次元に直面することになるんどえある。その魔力をも含めて、直面することになるのだ。
 確かに、コンピュータとインターネットの時代に身体はもっともそぐわないものに見える。身体は芸術において失われただけではない。いまやメディアの先端において抹消されているように見えるのである。人は、身体を飛び越して、他人の頭蓋にじかに接しているようにさえ見えるのである。そこでは、まるで内が外になり外が内になっているようだ。
 けれど、内が外になり外が内になるというこのトポロジカルな反転そのものが、かつて人間が身体を介して行なった複雑微妙な反転の劇、他者に住み込むことによって自己を獲得するという反転の劇に酷似しているのである。この反転の劇によって、人は、豹になることもできれば野牛になることおできた。私という不思議な人称代名詞をも獲得できた。そして、その反復として、舞い踊ることもできたのである。かりにインターネットが自己という現象に改変を迫り、何らかの意味でそれをさらに深化させることになるとすれば、舞踊こそがまず第一に参照されるべき事象となるだろう。自他未分の劇、精神と身体の未分の劇の場にほかならないからである。(三浦雅士『考える身体』河出書房新社河出文庫〕/2021年/p.29-30)

 

映画『護られなかった者たちへ』

映画『護られなかった者たちへ』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。134分。
監督は、瀬々敬久
原作は、中山七里の小説『護られなかった者たちへ』。
脚本は、林民夫と瀬々敬久
撮影は、鍋島淳裕。
編集は、早野亮。

 

大規模な津波に飲み込まれた街。高台に位置する小学校は、周辺住民の避難所になっていた。笘篠誠一郎(阿部寛)が駆け込んで、妻子を探して回るが、姿は無い。失意の笘篠は校舎を出ると、改めて電話に残されたヴォイス・メッセージを聴く。妻の紀子(奥貫薫)は必ず家に戻ると訴えていた。
校舎では、避難した人たちが不安な夜を過ごしていた。黄色いジャンパーを身につけた少女(石井心咲)が、教室の隅で膝を抱えていた。独り身の遠島けい(倍賞美津子)がその姿を見かねて、温かい方に来なさいと言う。少女は身動ぎもしない。遠島は目の前に座っていた青年(佐藤健)に、自分の纏っていた毛布を渡す。いらないという男に、窓辺の少女に渡してと言うと、彼は少女に向かって放り投げる。遠島は立上がって少女のもとに行き、黙って毛布を掛けてやる。遠島が窓の外に広がる星空を見詰める。少女も青年も夜空に瞬く星を見上げる。
9年後。笘篠は1人、付近で土木工事が進む更地を歩いている。ふと立ち止ると、手にしていた花束を置く。
利根泰久(佐藤健)は保護司の櫛谷貞三(三宅裕司)に伴われて金属部品加工場を訪れた。出迎えた社長に、櫛谷は、利根が機械の資格を持つ即戦力だと売り込む。社長は利根に途中で変色している窓ガラスを示す。あの位置まで津波が来たんだ。で、何やったんだ? 櫛谷さんから聞いてないですか? ああいう人だからね。ウチはいろんな人がいるけど。…言わないと駄目ですか。利根から放火だと告げられた社長は櫛谷に難色を示す。火付けと殺しはねえ…。櫛谷は利根を雇ってもらえるよう社長を拝み倒す。
笘篠が初動捜査が行なわれている仙台市内のアパートに駆け付ける。ちょうど蓮田智彦(林遣都)も到着し、遺体の発見された部屋にともに向かう。アパートが無人だと知って監禁場所に選んでますから、犯人は土地勘がありますよ。遺体は拘束され、口はガムテープで塞がれていたが、頭部や頸部に損傷は見られなかった。遺体を目にした蓮田は気分が悪くなり外へ出る。嘔吐する蓮田に、現場を荒らすなと笘篠が注意する。建物のの周囲を捜索していた捜査員が声を上げる。被害者のものと思われる名刺と財布が発見された。司法解剖前に、被害者の妻(篠原ゆき子)が遺体に対面するのに笘篠と蓮田が付き添った。彼女によれば、遅くなっても帰宅が10時を過ぎることが無かったという。恨まれるようなことは無かったのかと単刀直入に尋ねる笘篠に、夫は誰もが認めるお人好しで、被災した墓を無縁仏も含めて1人で直すような人だったと妻は訴えた。宮城県警察本部では、刑事部長の東雲(鶴見辰吾)の指揮の下、特捜本部の会議が開かれる。被害者は三雲忠勝(永山瑛太)。仙台市若葉区保健福祉事務所の課長。口を塞いだガムテープに剥がされた形跡は無く、脱水症状で死に至っていた。遺体の発見されたアパート周辺に防犯カメラは設置されておらず、手がかりになる映像はない。被害者の金品はそのままで、怨恨による犯行と思料される。笘篠と蓮田は、被害者の勤務していた保健福祉事務所に向かう。所長の楢崎(岩松了)は三雲が好人物だったと証言し、三雲の直属の部下であった円山幹子(清原果耶)を紹介する。笘篠から質問を受けた円山は、生活保護利用の可否の裁量はそもそも課長にはなく、申請却下の場合も文書には所長名しか載らないので、生活保護の申請者が三雲のことを知る機会はないと答える。仮に恨んだとしても、実際に犯行になんて及びませんよ。生活保護を利用しようという人は生きていくだけでいっぱいいっぱいなんですから。

 

仙台市若葉区保健福祉事務所の課長だった三雲忠勝(永山瑛太)が監禁・遺棄されて殺害される事件が発生した。宮城県警捜査一課の笘篠誠一郎(阿部寛)は蓮田智彦(林遣都)とともに聞き込みに向かった三雲の職場で、彼の直属の部下であった円山幹子(清原果耶)から事情を聴く。その頃、利根泰久(佐藤健)が仮出所していた。

殺人事件の謎解きというミステリーの体裁を採りながら、セーフティーネットのあり方を問う。
新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める中、社会において、病者は労りの対象ではなく、白眼視の対象となっていると言える。公的扶助を利用しなければならない者に対して非難の矛先が向けられる風潮と、弱者を虐げるという点ではパラレルである。病気になったり困窮したりしたときに救済の手が差し伸べられるというシステムが整った社会の方が、安心して暮らせることは疑いない。本作は、そのような社会であることを訴える声を上げるものである。
善人・悪人のどちらか一方に振り分けるのではなく、人々を呑み込んでしまうシステムや状況があって、それぞれが自分なりの身の処し方をしている中で生じる善・悪を描こうとしている。
火付けと殺しは雇えないという工場の社長の言葉や、生活保護を利用しようという人は生きていくのに必死で犯行には及ばないという円山幹子の言葉などが、ミステリーを構築する仕掛けとしてうまく機能している。とりわけ「おかえりなさい」というセリフは、印象的に作動することになる。
クロージング・クレジットの「主題歌」は作品にふさわしくなく興醒めであった。よもや作品を破壊することで津波のメタファーとしているわけではあるまい(確かにかつてtsunamiを歌っていた人物の曲ではあったが…)。

展覧会 みさかほ穂個展『あなたをみている』

展覧会『みさかほ穂個展「あなたをみている」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊〔スペースS〕にて、2021年10月1日~6日。

女性の裸体をモティーフとしたドローイング作品27点で構成される、みさかほ穂の個展。

臀部を突き出してやや前屈みの姿勢で顔を左に向けていたり、立て膝の姿勢で右腕で乳房を抱えるようにして上半身を捻っていたり、腰を降ろした姿勢から背後に両手をついて腰を浮かしてみたりと、同一キャラクターのショート・ヘアの女性を1枚ずつ異なる姿勢で、肥痩のある黒い描線の輪郭のみを用いて表す。いずれの作品も、豊かに盛り上がる半球型の乳房、くびれた腰、豊かな臀部や太腿によって女性のしなやかな肉体を味わわせる。作品によっては片腕あるいは片脚、または膝から先の足の描写が省略することで見せるべき部位を強調し、反らせた足の指や手の指によってエロティックな効果を高める。表されたポーズは人間が取ることが不可能なものではないが、デフォルメされた身体部位に加え、とりわけ切断と解することも可能な省略の表現によって、女性像はハンス・ベルメールに連なる人形のイメージを喚起させる。女性の身体をオブジェとして扱うようなベルメール球体関節人形においては、「割れ目」(=女性器)の表現が伴うのに対し、一連のドローイングに表された女性には、性器を表す「切れ込み」は描きこまれておらず、「空白」となっている。ところで、女性キャラクターを特徴づけているのは、目の表現である。亀ヶ岡遺跡出土の遮光器土偶のように顔に対して極端に比率の高い目ではないが、一本の線が入った表現として共通し、なおかつ白い画面に敢えて白い修正液(?)で塗り潰すことで強調されている。ひょっとしたら、この目こそ「割れ目」(=女性器)ではないだろうか。マルセル・デュシャンの《遺作》においては、扉の穿たれた穴から裸体の女性の広げられた脚の付け根を覗くことができる。それに対して、「あなたをみている」シリーズの女性には「定位置」に陰裂表現を与えないことで、鑑賞者から見る機会を奪っている。のみならず、女性の目に「割れ目」(=女性器)を表すことで、「修正」され「塗り潰された」ヴァギナが鑑賞者を見るように主客が反転されているのだ。実際、展示室では、ショート・ヘアの女性が、鑑賞者の四方をぐるりと取り囲んで、彼女の「目」=「割れ目」が「あなたをみている」。鑑賞者は品定めするつもりが、品定めされているのである。

展覧会『村田沙耶香のユートピア “正常”の構造と暴力』

展覧会『村田沙耶香ユートピア “正常”の構造と暴力』を鑑賞しての備忘録
GYRE GALLERYにて、2020年8月20日~10月17日。

村田沙耶香の3点の小説『消滅世界』・『コンビニ人間』・『生命式』に表された「ユートピア」を、村田沙耶香の小説から引用された言葉(展覧会場内に8点。エントランス吹き抜けにも6点設置)・創作のための覚え書き・学生時代に描いた絵画(6点)、デヴィッド・シュリグリーの絵画(15点)、金氏徹平の立体作品(11点)・平面作品(11点)やステッカー・映像作品(1点)、池田謙の音楽によって、展示空間に現出させる試み。

コンビニ人間』では、主人公・古倉恵子の抱える「フレーム問題」がテーマの1つとなっている。

 赤ん坊が泣き始めている。妹が慌ててあやして静かにさせようとしている。
 テーブルの上の、ケーキを半分にする時に使った小さなナイフを見ながら、静かにさせるだけでいいならとても簡単なのに。大変だなあと思った。(村田沙耶香コンビニ人間文藝春秋〔文春文庫〕/2018年/p.61)

幼い頃から恵子は「フレーム問題」のために「普通」が分からない。

 「お姉ちゃんは、いつになったら治るの……?」
 妹が口を開いて、私を叱ることもせず、顔を伏せた。
 「もう限界だよ……どうすれば普通になるの? いつまで我慢すればいいの?」
 「え、我慢してるの? それなら無理に私に会いに来なくてもいいんじゃない?」
 素直に妹に言うと、妹は涙を流しながら立ち上がった。
 「お姉ちゃん、お願いだから、私と一緒にカウンセリングに行こう? 治してもらおうよ、もうそれしかないよ」
 「小さい頃行ったけど、だめだったじゃない。それに、私、何を治せばいいのかわからないんだ」
 「お姉ちゃんは、コンビニ始めてからますますおかしかったよ。喋り方も、家でもコンビニみたいに声を張り上げたりするし、表情も変だよ。お願いだから、普通になってよ」(村田沙耶香コンビニ人間文藝春秋〔文春文庫〕/2018年/p.130-131)

恵子は、コンビニという「透明の水槽」の中で制服に袖を通して店員になれば、「完璧なマニュアル」に従って「世界の正常な部品」になることができる。だが「あの透き通ったガラスの箱」の外では「どうすれば普通の人間になれるのか、さっぱりわからない」。

会場の白い壁面と、天井から均一に注がれる白い光。絵画の白い画面や白い石膏を満たした立体作品。「光に満ちた箱」ないし「透明の水槽」は、コンビニの売り場であり、ホワイト・キューブの展示空間である。白く塗りつぶされることで会場はその抽象の度を高める。ところが、金氏徹平のステッカー作品が、白い壁面に黒い穴を穿つ。それぞれの「穴」からは様々なものが姿を覗かせている。穴は均質な世界に開けられた風穴であり、異なる「普通」が通用するパラレル・ワールドへのワームホールである。

『消滅世界』の世界では、子供を持つときは人工授精が行なわれ、夫婦間のセックスは「近親相姦」として忌避されている。主人公・坂口雨音は、幼い頃から、母が激しい恋愛の末、父とのセックスで雨音を懐胎したことを繰り返し語られていた。

 映画の中のような古いドレスに身を包んだ人が、恋愛をして、結婚して家族と交尾をしていても、それほどの嫌悪感はない。昔はそれしか方法がなかったのだし、今とは時代が違うのだから、古い人類の資料を見ているような、冷静な気持ちになれる。けれど、それを現代になって未だに私に肉体に押しつけようとする母のことはおぞましくて吐き気がする。あなたが信じている「正しい」世界だって、この世界へのグラデーションの「途中」だったんだと叫びたくなる。
 私たちはいつだって途中なのだ。どの世界に自分が洗脳されていようと、その洗脳で誰かを裁く権利などない。
 荷物を抱えて部屋を出ようとすると、母がぽつりと言った。
 「……私があんたを産んだのは、恋をしたからだったわ。でも誰も理解していくれなかった。生まれたときから世界は狂ってた。私だけは正常でいたかったの」
 「お母さん。原始時代、人間は、多夫多妻制の乱婚制度が当たり前だったんだってセックスは儀式で、儀式の日に若者が集まって集団で乱交して子供を孕んだんだって、何かで読んだわ。
 でも、それを今やっている人がいたらその人は狂人でしょう? お母さんのやってることはそれと同じ。時代は変化してるの。正常も変化してるの。昔の正常を引きずることは、発狂なのよ」(村田沙耶香『消滅世界』河出書房新社河出文庫〕/2018年/p.154-155)

正常は変容する。正常が狂気になるなら、狂気もまた正常になるだろうか。
『消滅世界』では、実験都市・千葉において、毎年クリスマスに一斉に人工授精を行ない(男性も人工子宮で妊娠可能)、生まれた「子供ちゃん」に対しては皆が「おかあさん」として世話をする試みが続けられている。家族が存在せず社会が養育する「子供ちゃん」は、皆同じ表情・仕草をする。白い建物、水色のコンクリートや砂利によって空のような都市空間は、清潔でありながら均質な社会を象徴する。

金氏徹平の立体作品を覆う白い石膏は、雪景色を思わせる。降り積もる雪は、あらゆるものを白で包み込むことで均質化する。垂らされた白い石膏はまた、精液を連想させる。受精を目的としない精液は、「外」へ射出される。男性(精子)を必要としない社会がその先に広がっている。

展覧会 山城知佳子個展『リフレーミング』

展覧会 山城知佳子個展『リフレーミング』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館にて、2021年8月17日~10月10日。

5章10件で構成される、山城知佳子の個展。「起点―そこにある風景」では映像作品《BORDER》(2002)を、「私というメディア」では3点の映像作品《I like Okinawa Sweet》(2004)・《OKINAWA墓庭クラブ》(2004)・《あなたの声は私の喉を通った》(2009)を、「擬人化された風景」では映像作品《アーサ女》(2008)と、写真作品「コロスの唄」シリーズ(2010)・「黙認のからだ」シリーズ(2012)とを、「土の連なり、穴という回路」では映像作品《創造の発端―アブダクション/子供― 'A Piece of Cave 1-16'》(2015)・《土の人》(2016)を、「風景とからだ」では映像作品《リフレーミング》(2021)を、それぞれ展示している。

会場は地下1階の展示室。階段を下っていくと、途中にモニターが設置されている。洞窟(洞穴)を彷徨する男の映像が映し出されている。展示室に入る過程で、鑑賞者に「黄泉下り」を想起させる仕掛けになっている。展示室入口手前には、強い日差しの中、「フェンス」の前でアイスクリームを舐める作者の姿を捉えた映像作品《I like Okinawa Sweet》が上映されている。そのお天道様を拝んで、冥府の入口たる展示室の入口を潜る。墓庭で作家がひたすら踊る《OKINAWA墓庭クラブ》には墓(墓穴)が、そして、《BORDER》では墓とその「縁語」としての海岸やフェンスが映し出される。此岸から境界(海岸やフェンス)と、その向こうに広がる世界(墓=死者の世界=彼岸)を眺める。それは同時に彼岸(=死者)からの視点を獲得することになる。戦争の記憶の語りを作者が模倣する《あなたの声は私の喉を通った》が聞き手から語り手への変身する(なおかつ喉という「穴」を通過する)ことで、視点の転換(=リフレーミング)が行なわれたことを明快に示す。続く《アーサ女》では、海の中から海上や浜辺(地上)を眺め、《土の人》では死者や冥界を象徴する洞穴から外を眺めるのである。
《リフレーミング》では、沖縄の海で行なわれている埋め立て事業を題材に、人間から珊瑚(≒自然)へと視点のさらなる転換(=リフレーミング)が試みられる。石灰岩鉱床である岩山に珊瑚礁をプロジェクション・マッピングで現出させることでタイムスリップを鮮やかに行なう。人間の歴史の枠組みから、造礁珊瑚によって形成されるカルスト地形の地質学の枠組みへと準拠枠のタイムスパンを飛躍的に拡張しているのだ。ところで、代議制民主政治の下では、少数派に配慮した政策決定が不可欠である。さもなければ、少数派が多数派と同じ政府を戴くことは困難になるだろう。本作では、多数派の意向によって「少数派」に負担が押し付けられ続けている現状を「パンチドランカー」に喩えている。多数派の押しつけの力を少数派がそのまま跳ね返す策こそが希求されている。珊瑚を岩肌に投影するのも、海底から地上への反転が重ねられていよう。その他にも、天こ盛りのご飯(≒瑞穂の国)に「米」国発祥のチェーン店のフライドチキンの骨を突き刺すことで基地負担を表現するなど、「絵解き」の要素も多数盛り込まれ、見応えある作品となっている。