可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ONODA 一万夜を越えて』

映画『ONODA 一万夜を越えて』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のフランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・日本合作映画。174分。
監督は、アルチュール・アラリ(Arthur Harari)。
脚本は、アルチュール・アラリ(Arthur Harari)とバンサン・ポワミロ(Vincent Poymiro)。
撮影は、トム・アラリ(Tom Harari)。
編集は、ロラン・セネシャル(Laurent Sénéchal)。
原題は、"Onoda, 10 000 nuits dans la jungle"。

 

1974年1月。一隻の船がルバング島を目指している。船が接岸すると、1人乗船していた鈴木紀夫(仲野太賀)が、簡素な波止場に飛び移る。トラックに乗せてもらい山間部へ向かい、トラックを降りると川沿いにジャングルを進む。開けた岸辺にテントを張ると、日章旗旭日旗とを掲げ、カセット・テープで『北満だより』を大音量で流す。アカシアの花散る頃に…。そのとき、ジャングルに潜む小野田寛郎津田寛治)は、背中に枝葉を大量に背負い、銃を携えながら、手折った花を亡き戦友に手向けていた。
1944年。若き小野田寛郎(遠藤雄弥)は、航空訓練に参加したが高所恐怖症で叶わず、特攻に参加する勇気も無く、地元の和歌山で酒に溺れていた。陸軍少佐の谷口義美(イッセー尾形)が、誰もいない居酒屋に1人いた彼を探し出して声をかける。陸軍中野学校二俣分校にスカウトするためだった。
戦地に向かうことになった小野田は、父(諏訪敦彦)と対面する。父が注ごうとした酒を拒み、任地についても口を閉ざした。父から短刀を渡され、お前の身体は国のものだから敵の手に渡してはならないと告げられる。
小野田は陸軍少尉としてルバング島へ派遣された。船で1人ルバング島に降り立った小野田は、到着を待っていた兵士とともに車で野営地へと向かう。拝命している飛行場と港湾の破壊工作を直ちに遂行しようとするが、指揮官である早川中尉(吉岡睦雄)や末廣少尉(嶋田久作)らに、そもそも小野田に指揮権はない上に戦地の現況を把握できていないと拒否される。敵艦の迫る中、任務は急を要すると、弾薬を洞窟内に隠す作業などに疲弊した兵隊を使う小野田に、早川中尉は激昂する。ところが早川中尉は結石のために指揮を執ることが困難になっていた。敵艦が襲来し、艦砲射撃が始まった。野営地も被弾し、早川中尉は小野田の目の前で火に包まれた。小野田はテントにいる傷病兵も連れて一旦山中に退避しようとするが、痩せ衰えた兵士(伊島空)たちは早晩死に至る運命を自覚しており、動こうとしなかった。小野田たちが野営地を離れて間もなく、自決用に渡したダイナマイトの爆発音が空気を震わせた。
追い込まれた兵士たちは些細なことで喧嘩に及ぶようになった。生き残りのために二手に分かれようという末廣少尉の提案を、小野田は小塚金七(松浦祐也)と相談して使えそうな兵士を選りすぐることで受け容れることにする。小野田は小塚の他に、島田庄一(カトウシンスケ)、赤津勇一(井之脇海)、「水戸の3兄弟」で部隊を編成する。

 

太平洋戦争末期、フィリピンのルバング島に派遣された陸軍少尉・小野田寛郎(遠藤雄弥/津田寛治)が、敗戦を知らずに、友軍の到来を待って続けた孤独な抗戦を描く。
名匠クリント・イーストウッドをしても『硫黄島からの手紙』(2006)の日本人俳優のキャスティングには失敗していた。だが、本作のキャストは皆素晴らしい。小野田寛郎を演じた遠藤雄弥と津田寛治はもとより、小塚金七の松浦祐也も良かった。彼らに比べると出演時間は少ないが、(若干アラーキーっぽい外見の)温和な雰囲気の底に湛える狂気をかすかに覗かせる谷口義美を演じたイッセー尾形も強い印象を残す。
孤独な抗戦を長年続けた小野田寛郎が描かれる作品ではある。けれども、ルバング島で暮らしている人たちこそ悲劇であったということが十分伝わる作品でもある。

映画『キャンディマン』

映画『キャンディマン』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のアメリカ映画。91分。
監督は、ニア・ダコスタ(Nia DaCosta)。
原作は、クライブ・バーカー(Clive Barker)の短編小説「禁じられた場所(The Forbidden)」及びバーナード・ローズ(Bernard Rose)監督・脚本の映画『キャンディマン(Candyman)』(1992)。
脚本は、ジョーダン・ピール(Jordan Peele)、ウィン・ローゼンフェルド(Win Rosenfeld)、ニア・ダコスタ(Nia DaCosta)。
撮影は、ジョン・ガレセリアン(John Guleserian)。
編集は、カトリン・ヘッドストローム(Catrin Hedström)。
原題は、"Candyman"。

 

1977年。シカゴ。カブリーニ=グリーンの公営団地。ウィリアム・バーク(Rodney L Jones III)が家で1人、警官と黒人の影絵で遊んでいる。洗濯に行くよう頼まれたウィリアムは洗濯籠を抱えて近くの高層団地に歩いて行く。団地の前にはパトカーが停まっていた。最近、子供にカミソリ入りのキャンディを白人の女の子に渡される事件が起きていて、警察が付近を警戒していたのだ。洗濯機に衣類を投げ込んだウィリアムが洗濯室を出ると、銀色の包みのキャンディが床に投げられる。それを拾い上げると、壁に空いた大きな穴から、鉤の右手を持つ男シャーマン・フィールズ(Michael Hargrove)が現れた。男はウィリアムにキャンディを持った左手を差し出したが、ウィリアムは驚き悲鳴を挙げてしまう。付近にいた警察官が悲鳴を聞きつけて殺到し、シャーマン・フィールズを嬲り殺す。
2019年。シカゴ。トロイ・カートライト(Nathan Stewart-Jarrett)は、恋人のグレイディ・グリーンバーグ(Kyle Kaminsky)を伴って、姉ブリアナ・カートライト(Teyonah Parris)の住居に向かった。ブリアナは新進気鋭のアート・ディレクターで、画家のアンソニー・マッコーイ(Yahya Abdul-Mateen II)と同居していた。トロイとグレイディが到着する。グレイディが壁面に飾られたアンソニーの作品に驚嘆する。トロイは、この姉たちの住居が、かつて公営団地を取り壊して建設されたことを指摘すると、部屋を暗くして蝋燭を灯し、3人を前にこの地に纏わる怪談を語り始める。かつてヘレン・ライルという大学院生が「カブリーニ=グリーンの都市伝説」というテーマで論文を執筆しようと、カブリーニ=グリーンの公営団地を取材した。ある日ヘレンは発狂し、犬の首を切断した。監禁場所から逃亡したヘレンは、次々と殺人を犯し、赤ん坊を誘拐すると忽然と姿を消した。毎年恒例の篝火の夜、赤ん坊を抱えて現れたヘレンは、炎に向かって突進。住民に取り押さえられて赤ん坊が救い出されたが、ヘレンは自ら炎の中へと入って死んだ。
アンソニーは、クライヴ・プリヴラー(Brian King)が経営する画廊で開催される、ブリアナのキュレーションによるグループ展に参加することになっていたが、制作に行き詰まっていた。アンソニーのアトリエを訪れたクライヴは、今さら別の作家を参加させることもできないと失意を隠さない。アンソニーは、ブリアナの励ましもあり、トロイの怪談に触発されて、カブリーニ=グリーンで再開発から取り残された地域を取材することにする。興に入って写真を撮影して回っているうち、アンソニーは一匹の蜂に右手を刺される。閉鎖された団地を歩いていると、1人の男に出会う。カブリーニ=グリーン愛着を持って暮らしている、コイン・ランドリーの経営者ウィリアム・バーグ(Colman Domingo)だった。ヘレン・ライルを話題にすると、ウィリアムは「キャンディマン」について語り出した。「キャンディマン」って何だ?

 

鏡に向かって5回「キャンディマン」と唱えると、鉤の右手を持つ男「キャンディマン」が現れ、彼によってその名を唱えた者は殺される。画家のウィリアム・バーク(Rodney L Jones III)は、地元であるカブリーニ=グリーンの都市伝説「キャンディマン」に触発され、クライヴ・プリヴラー(Brian King)のギャラリーで行なわれる、恋人のブリアナ・カートライト(Teyonah Parris)のキュレーションによる展覧会に、《Say My Name》と題したインスタレーションを発表する。オープング・レセプションの行なわれた翌日、ブリアナがギャラリーを訪れると、床に付着した血に気が付く。

殺人鬼「キャンディマン」の都市伝説を巡るスプラッター映画の体裁を取りながら、シカゴのカブリーニ=グリーン公営団地のスラム化とジェントリフィケーション、及びその背景にある黒人差別の歴史とを描く。
背景となっているヘレン・ライルをめぐる物語や、惨殺された黒人の歴史などを、影絵で描き出す演出は、生々しい描写を避けつつも陰惨さを逃すこと無く伝えている。
オープニング・クレジットで制作会社のロゴが左右反転となっている。本編に入る前から鏡(鏡像)が印象づけられる。本編の冒頭は、少年ウィリアム・バーク(Rodney L Jones III)が遊ぶ影絵であり、「影」の物語であることも示される。ウィリアム・バークが「影」の存在へと反転していくことの見事なメタファーとなっている。

映画『DUNE デューン 砂の惑星』

映画『DUNE デューン 砂の惑星』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のアメリカ映画。155分。
監督は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ(Denis Villeneuve)。
原作は、フランク・ハーバート(Frank Herbert)の小説『デューン 砂の惑星(Dune)』。
脚本は、ジョン・スパイツ(Jon Spaihts)、ドゥニ・ヴィルヌーヴ(Denis Villeneuve)、エリック・ロス(Eric Roth)。
撮影は、グレイグ・フレイザー(Greig Fraser)。
編集は、ジョー・ウォーカー(Joe Walker)。
原題は、"Dune"。

 

砂漠の惑星アラキス。高温と乾燥に加え、砂嵐や砂虫に襲われる過酷な環境下で、青い目を持つ先住民フレメンが数万人規模で生活しているという。アラキスの砂漠でのみ採掘される「スパイス」は星間航行の必需品であり、帝国からアラキスに封じられたハルコンネン男爵家が開発に当たってきた。ところがハーコネン男爵家は突然アラキスから撤退する。
ポール・アトレイデス(Timothée Chalamet)は、砂漠の中に立つ少女の姿を繰り返し夢に見ていた。朝食を取っていると母ジェシカ(Rebecca Ferguson)から「水を与えよ」と唱えるよう要求される。ジェシカはベネ・ゲセリット教団で修得した言葉を唱えることで相手を意のままに操る術を息子に事毎に伝授しようとしていた。今日は正装しなくては駄目よ。軍服では? 大切な儀式があるから礼服を身につけなさい。
アトレイデス公爵家が治める海洋惑星カラダンに勅使(Benjamin Clémentine)の一行が到着した。儀仗兵の警護する中、レト・アトレイデス公爵(Oscar Isaac)を始めとするアトレイデス家の面々が恭しく出迎える。レト・アトレイデス公爵は惑星アラキスを統治せよ。勅命には忠実に従うまで。勅使の広げた勅令書に公爵が指輪の印章を捺す。
格納庫でポールは、アラキス先遣隊のメンバーとなったダンカン・アイダホ(Jason Momoa)に帯同させて欲しいと頼み込む。ダンカンが戦場で斃れる夢を見たポールは、自分が同行すれば運命を変えられるかもしれないと考えたのだ。軍務違反だと断られたポールは、夢の中ではダンカンがフレメンたちと一緒だったことも告げる。ダンカンはフレメンとの交渉も任務だと答える。ダンカンの支援が叶わず意気消沈したポールは、ダンカンの代わりに武芸の稽古を付けるガーニー・ハーレック(Josh Brolin)への対応がなおざりになった。
皇帝にも近侍するガイウス・ヘレネ・モヒアム(Charlotte Rampling)が急遽カラダンに来訪した。彼女はベネ・ゲセリット教団を率い、メンバーを諸侯と婚姻させ、超能力者「クイサッツ・ハデラック」を誕生させることで未来を制御しようと画策してきた。ジェシカもその計画に組み込まれた1人であった。1ポールはジェシカに連れられて彼女と面会すると、箱に差し込んだ左手に加えられる苦痛に耐えられなければ毒針を刺されるというテストを無理矢理受けさせられる。恐怖に囚われてはならないというジェシカの教えによって、ポールはテストをクリアすることができた。
アトレイデス公爵家の惑星アラキスへの移住が行なわれる。公爵一行は先乗りしていた宮宰スーファー・ホーウェット(Stephen McKinley Henderson)の出迎えを受ける。ポールはダンカンと再会を果たして喜ぶ。ダンカンはフレメンの居住区となっている洞穴に潜入し、フレメンから砂漠での生命維持に必要な装置を入手していた。公爵は、フレメンの首領スティルガー(Javier Bardem)の訪問を受けるが、フレメンの居住区に侵入しないよう求められる。公爵は皇帝から統治を委託されている以上、必要な場合には侵入せざるを得ないと返答する。公爵は帝国の監察官であるカインズ博士(Sharon Duncan-Brewster)を同行させて「スパイス」採掘現場を査察することにする。
ラッバーン・ハーコネン(Dave Bautista)はアラキスからの撤退に憤懣やるかたない。だがヴラディミール・ハーコネン男爵(Stellan Skarsgård)は、皇帝はアトレイデス公爵家の勢力伸長を快く思われていないのだと、撤退の背後にある計略を甥のラッバーンに教える。

 

皇帝とハルコンネン男爵家の奸計によって転封地である砂漠の惑星アラキスで滅ばされたアトレイデス公爵家。その嗣子ポール・アトレイデス(Timothée Chalamet)が母ジェシカ(Rebecca Ferguson)とともに再起を図ろうとするまでを描く。「デューン」シリーズの第1作。

ベネ・ゲセリット教団など、原作であるフランク・ハーバートの小説『デューン 砂の惑星』を読んでいないと分からないと思われる設定があるが、それらは等閑に付して鑑賞できる。説明台詞を並べるより遙かに賢明な選択だろう。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の起ち上げる美しい映像にはどこか乾いた感じがあって、「砂の惑星」のイメージに似つかわしい。トンボのような飛行機など、昆虫をイメージしたマシンも興味深い。
砂漠を海のように表し、波のイメージで音へと繋いでいく連想も興味深い。但し、日射や水不足、砂虫の出現条件を始め、砂漠の劣悪な環境が作用する場面が恣意的に感じられてしまったのは残念。
巨大企業に魂を売った巨漢タレントみたいなヴラディミール・ハーコネン男爵(Stellan Skarsgård)が素晴らしい。画面に出てきただけでぞっとさせる。浮遊する。簡単に死なない。原油みたいなのに浸かっている。最高!
ダンカン・アイダホ(Jason Momoa)を第1作で消してしまうのはもったいない。
Zendayaは本当に夢に現れて導いてくれそうだ。
原作を知らない者にとっては、これはとにかく序章なのだろうと、鑑賞後、広大な砂漠の中に放り込まれた感覚に襲われる。まさかそれこそ監督の狙い通りなのだろうか?
正直なところ、『スター・ウォーズ』のようなタイプの作品は好みではない。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督だからこそ鑑賞した。

展覧会 村田文佳個展『お月見』

展覧会『村田文佳「お月見」』を鑑賞しての備忘録
Ohshima Fine Artにて、2021年9月18日~10月9日。

村田文佳の絵画5点を展観。

《月見風呂》は円形の画面(直径800mm)に銭湯の大浴場を描いている。画面の手前には苔の生えた岩のような物に、ドミニク・アングルの《グランド・オダリスク》に描かれた女性よろしく、背を見せて横たわる短髪の少年(?)が大きく表されている。日焼けなのか逆上せたのか、その身体は他の人たちに比べて赤い。その隣(画面の奥側)には左脚を伸ばし、立てた右膝に両腕を乗せた女性が、手ぬぐいを載せた頭を右側に向けて鑑賞者の方を見ている。女性の腕(手)の辺りから奥に向かって湯が下る。苔生した岩に腰掛けて左脚を湯につけて右膝を抱える長い髪の女性、腰掛けて本を読む女性、壁に設置された円形の幽霊蛸(のレリーフ?)から酒を汲み出している女性の姿がある。湯船の先に続く畳の座敷の手前には、天使やアマビエの姿も見える。畳の間には、ネッシー(?)の影を映し出す丸窓の手前に陣取って、花札に興じる柿、竹輪、海老の天麩羅の姿がある。その脇にある入口にはちょうど狸と狐が姿を現したところで、番台の魚に代金を支払っている。その手前には着物を脱いでいる女性がいて、さらに手前の湯船に向かって、将棋に興じるダルマと少女、瓶の牛乳を呷る天使、畳の上で横になる人が描き込まれている。湯船の中ではチーターとトムソンガゼルが並んで方まで湯に浸かっている。上を向いた魚の頭も見える。人間や動物、天使や妖怪が、思い思いの過ごし方で、銭湯という場を共有している。チーターとトムソンガゼルという捕食者と獲物とが共存する一種の理想郷は、湯気により朦朧として描かれるのみならず、香炉(?)から立ち上る煙や、入口の狐や狸の存在によって幻想であることが示されている。遠景のネッシー(?)の映る丸窓、中景の幽霊蛸の円形レリーフ(?)に、本作品自体の円形を連ねる構成も、幻視の系譜として機能する。

展示室の奥の壁面に《月見風呂》が展示され、それに対して左の壁面の中央には、天井に近い位置に《大お月様》(直径280mm)が、右の壁面には奥側の、《大お月様》より低い位置に《お月さま》(直径230mm)が、それぞれ掛けられている。両者ともに朱に近い橙と黄色とで月を表す円形画面の作品で、南中した月として《大お月様》が、西に沈みゆく月として《お月さま》が表されているのだろうか。《月見風呂》は「西方浄土」かもしれない。それならば《月見風呂》に描かれる鑑賞者に眼差しを送る女性は、月の女神ディアーナに擬せられよう。本展の英題が"moon viewing"(月を意味上の主語としたviewの動名詞)である通り、お月様が見ているのだ。鑑賞者は月によって三方を囲まれている。常に月に見守られているのである。その意識が、月を鏡に変える。「お月見」とは、月=鏡を覗く自分の姿を見ることなのだ。

《おいでおいで》(257mm×182mm)は、黄土色に近いクリーム色の背景に、裸で腰掛ける女性が描かれる。右手を床に付けて身体を支え、右膝を立て、左手で手招きをする。顔、そして視線は、右腕の側すなわち画面左下方向に向けられている。画面の下部はわずかに白味が強く湯気を表していると考えられることから、湯船に浸かっている連れに対して合図を送っている図ということになる。女性が月であるなら、手招きをする女性は月の引力の寓意となろう。

草枕》(158mm×227mm)は、頭に手ぬぐいを載せて、壁に背をもたせかけて湯船に浸かる女性を描いた作品。画面の左下の隅を黄土色の壁を、そこにもたれかかるとともに腕をかけている。そして、湯の中に脚を伸ばす姿を、女性の右側上方から描き出している。湯によって火照った赤みを帯びた身体が緑青の湯に映える。面白いのは、本作品と対とされている果物を載せた皿を描いた絵画(103mm×117mm)が、向かい側の壁面に展示されていることである。蜜柑3つ、柿2つ、葡萄2種が盛られた白い皿が、緑青の湯に浮いている図である。湯が宇宙であるなら、女性は地球(=Mother Earth)で、果物皿は月であろう。お互いに引き寄せ合っているのである。

映画『最後の決闘裁判』

映画『最後の決闘裁判』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のアメリカ映画。153分。
監督は、リドリー・スコット(Ridley Scott)。
原作は、エリック・ジェイガーのノンフィクション『最後の決闘裁判(The Last Duel: A True Story of Trial by Combat in Medieval France)』。
脚本は、ニコール・ホロフセナー(Nicole Holofcener)、ベン・アフレック(Ben Affleck)、マット・デイモン(Matt Damon)。
撮影は、ダリウス・ウォルスキー(Dariusz Wolski)。
編集は、クレア・シンプソン(Claire Simpson)。
原題は、"The Last Duel"。

 

暗い室内で、髪を三つ編みにして垂らしたマルグリット・ド・カルージュ(Jodie Comer)が侍女に衣装を着せてもらっている。窓を雪が打ち付ける。
1386年12月29日。パリ。雪の舞う闘技場には多くの観衆が詰めかけている。観覧席の中央には、興奮して落ち着かない国王シャルル6世(Alex Lawther)と、血なまぐさい行事を控えて眉を顰める王妃イザボー(Serena Kennedy)の姿もある。聞け! 諸侯、騎士、従騎士、その他の者ども! 布告者(William Houston)が大声を挙げる。国王の許可無く武器を持つ者は死罪に処すとともに財産を没収する。剣や短剣を携帯できるのは国王の特別な許可を得た者だけだ。決闘者各自は騎乗か徒歩で闘い、呪文や魔術をかけたものなど神や教会が禁じるものを除き、武具や防具は何を用いても良い。ジャン・ド・カルージュ(Matt Damon)とジャック・ル・グリ(Adam Driver)が、それぞれ鎖帷子、篭手、鎧といった防具を次々と従者の手を借りて身につけていく。身支度を調えたマルグリットは、闘技場の中に設えられた火刑台の上に立つ。そこは国王らの観覧席の真向かいに位置していた。装備を終えたジャン・ド・カルージュとジャック・ル・グリが競技場の裏手にある小屋を出て馬に跨がると、闘技場内へと馬を駆る。両者を前に国王が始めよと宣言すると、ジャン・ド・カルージュは右手に、ジャック・ル・グリは左手へと進み、兜を付け、盾を持ち、槍を構える。ジャン・ド・カルージュが雄叫びを挙げて相手に向かって突進すると、ジャック・ル・グリも槍を構えて突撃を開始する。

 

騎士のジャン・ド・カルージュ(Matt Damon)は、妻のマルグリット・ド・カルージュ(Jodie Comer)が従騎士のジャック・ル・グリ(Adam Driver)によって強姦されたと、国王シャルル6世(Alex Lawther)に訴えた。ジャック・ル・グリはアランソン伯ピエール(Ben Affleck)の寵臣であったため、国王に直訴しなければジャック・ル・グリが無罪放免となることは確実だったからだ。国王は高等法院での審理の結果、真偽不明であったため、決闘裁判を裁可する。

以下、全篇について触れる。

ジャック・ル・グリによる、ジャン・ド・カルージュの妻マルグリット・ド・カルージュ強姦事件の経緯を、三者それぞれの視点から描く3章構成になっている。
登場人物の証言の食い違いという点では「藪の中」的構成ではある(但し、第3章には真相としての位置づけが与えられている)。例えば、ジャン・ド・カルージュの観点から描かれる第1章では、リモージュの戦いで橋頭堡の守備を担当していたジャン・ド・カルージュが、対岸のイギリス軍が住民を惨殺する挑発に乗って渡河攻撃に打って出る場面から始まる。ジャック・ル・グリが危うく敵兵の手にかかりそうになったところをジャン・ド・カルージュが救うという、ジャン・ド・カルージュがジャック・ル・グリの命の恩人と自負することになるエピソードが描かれる(なお、その場面では、イギリス兵が住民の首を斬る際に大量の血が流れ、続く両軍の白兵戦でも血飛沫が上がるなど、血生臭い世界を描くことも示される)。また、ロベール・ド・ティブヴィル(Nathaniel Parker)の娘マルグリット・ド・ティブヴィルとの婚姻に際しては、ジャン・ド・カルージュがオヌルフォコンの土地も含め持参金として受け取ったとされる。これらを始めとするジャン・ド・カルージュの「証言」が、ジャック・ル・グリの視点の第2章、マルグリット・ド・カルージュの視点の第3章でどのように描かれるかが見所となる。
第3章では、ジャン・ド・カルージュの母ニコル・ド・カルージュ(Harriet Walter)が、義理の娘であるマルグリット・ド・カルージュに対して、強姦の被害を訴えることによって家名を汚したと非難する場面がある。自らもかつて強姦の被害を受けたが隠し通したと言うのだ。マルグリット・ド・カルージュは真実を直隠しにして得られる平穏に価値はないと、真実追求の必要性を訴える。また、高等法院の審理では、司法官(Brontis Jodorowsky、Peter Hudson)によるマルグリット・ド・カルージュに対する尋問は、夫との性交渉に関する露骨な内容を含み、「セカンド・レイプ」を描き出す(なお、これ以前にも、ニコル・ド・カルージュが、マルグリット・ド・カルージュの不妊を不感症のためと吐き捨てるシーンもあった)。マルグリット・ド・カルージュの視点で描かれる第3章が「真実」として扱われている(章題で示される)ことからも、フランス中世を舞台に#MeToo支持を訴える作品であることが明確である。なお、王妃イザボー(Serena Kennedy)やアランソン伯ピエールの妻マリー・シャマイアー(Zoé Bruneau)はマルグリット・ド・カルージュに同情的であることが視線・表情に微かに示されており、連帯の可能性を示す。
ジャック・ル・グリの視点で描かれる第2章では、マルグリット・ド・カルージュを姦淫は犯したが、強姦ではなかったとジャック・ル・グリが主張する。かつての教え子の女性から、指導教授の立場を利用してセックスを強要されたと訴えられた男性美術評論家が、彼女の主張を「あまりにも事実とかけ離れた『作られたストーリー』」と一蹴しているのを思い出す。上智ならぬ痴情から相手も自分に愛情を持っていたと信じたいゆえか、訴訟戦略上不利にならないようにするためか、いずれにせよ、愛情を注いでいた相手の心情に寄り添えない(想像力を働かせられない)のは悲しい現実である。
才気煥発で好色のジャック・ル・グリを演じたAdam Driverに魅力を感じたら、映画『パターソン(Paterson)』(2016)の詩作に耽るバス運転手と見比べて欲しい。無骨で陰鬱な騎士ジャン・ド・カルージュを演じたMatt Damonについては、映画『オデッセイ(The Martian)』(2015)と比較するのが良い。彼らの向こうを張ったヒロインJodie Comerは映画『フリー・ガイ(Free Guy)』(2021)でも観客を魅了したのが記憶に新しいところ。ジャン・ド・カルージュの敵役と言える、放埒な生活を送るアランソン伯ピエールを金髪にしてイメージを大きく変えたBen Affleckが好演。同じくヴァロワ家出身の王シャルル6世の暗君ぶりをAlex Lawtherが印象的に演じた(彼がいたからこそ決闘裁判が行なわれた?)。