可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『PITY ある不幸な男』

映画『PITY ある不幸な男』を鑑賞しての備忘録
2018年製作のギリシャポーランド合作映画。99分。
監督は、バビス・マクリディス(Μπάμπης Μακρίδης)。
脚本は、エフティミス・フィリポ(Ευθύμης Φιλίππου),とバビス・マクリディス(Μπάμπης Μακρίδης)。
撮影は、コンスタンティノス・ククリオス(Κωνσταντίνος Κουκουλιός)。
編集は、ヤニス・ハリキアダーキス(Γιάννης Χαλκιαδάκης)
原題は、"Οίκτος "。

 

シャッターが上がると、サロニコス湾の眺望が開ける。簡素だが洗練された寝室は日が射し込まずまだ薄暗い。寝間着の男(Γιάννης Δρακόπουλος)がベッドの端に腰掛けて、1人嗚咽している。
白い壁と艶やかなフローリングの瀟洒な室内には、絵画や鉢植えが点在する。白いワイシャツを着てネクタイを締め、チャコールグレーのスラックスを身につけた男が、その部屋の中央に立っている。チャイムが鳴る。男は一呼吸置いてから、真っ直ぐ前に歩いて行き、ドアを開ける。アパートメントの下の階に住む女性(Τζωρτζίνα Χρυσκιώτη)が現れる。ケーキを焼いたのでお持ちしました。もう朝食はお済みになったかしら? 奥様の状態はいかがですか? どうか気を強くお持ちになって下さいね。男は、息子(Παύλος Μακρίδης)と受け取ったケーキを食べる。男は、足元に座る愛犬のクッキーにも右手に載せた一切れを食べさせてやる。
男は、クリーニング店に立ち寄る。カウンターに預かっていたスーツを運んできた店主(Μάκης Παπαδημητρίου)から妻の状況を尋ねられた男は、未だ昏睡状態でと言葉少なに答える。店主は男に対して心からの同情の言葉を告げる。
男は弁護士で、秘書(Ευδοξία Ανδρουλιδάκη)を雇い入れて個人事務所を開設している。応接室の壁は明るい浜辺を描いた大きな絵が覆っている。殺人事件の被害者の娘(Νότα Τσερνιάφσκι)と息子(Νίκος Καραθάνος)から事情を聞き取る。2人の父親は自宅で刃物で刺されて死亡していた。遺体の周辺には黄色い自転車が置かれ、悲鳴をかき消すためか大音量の音楽が流れていたという。
男は息子とともに病院を訪れる。315号室のベッドには昏睡状態の妻(Εύη Σαουλίδου)が横になっている。法廷で被告人の悪辣さを証明してみせると、男は妻に誓う。息子は病室の椅子に座ってスマートフォンのゲームに興じていて、その音が静かな病室を満たしている。看護師(Μαρίσσα Τριανταφυλλίδου)に妻を委ね、男と息子とは病室を去る。食堂で男は息子とともに昼食をとる。最近食事が偏っているから、食事を用意してくれる女性を雇うつもりだと、男は息子に告げる。母親の食事でなければ意味が無いと息子は答える。
男は友人のニコス(Κώστας Ξυκομηνός)とともにビーチでフレスコボールに興じている。2人の間でラリーが順調に続いていく。帰り支度をしていると、ニコスが今晩、のところでカードをやるんだが来ないかと男を誘う。その気になったら連絡すると告げた男は、結局、父(Κώστας Κoτούλας)の家で卓を囲んだ。

 

弁護士の男(Γιάννης Δρακόπουλος)は、サロニコス湾を望む瀟洒なアパートメントで、美しい妻(Εύη Σαουλίδου)とピアノの才能を持つ息子(Παύλος Μακρίδης)と何不自由なく暮らしていた。ところが、不慮の事故で妻が昏睡状態に陥ってしまう。友人のニコス(Κώστας Ξυκομηνός)や自分の秘書(Ευδοξία Ανδρουλιδάκη)はもとより、同じアパートメントに住む女性(Τζωρτζίνα Χρυσκιώτη)やクリーニング店の店主(Μάκης Παπαδημητρίου)など、自分の生活に関わる人たちは皆、妻が不幸に襲われたことに対して男に最大限の同情を示してくれるのだった。

以下、全篇について触れる。

主人公の男は、妻が事故に遭って昏睡状態に陥ったことを機に、周囲の人々から同情を示されるようになる。おそらく順風満帆な生活を送ってきた彼に同情は無縁であっただろう(場合によっては、妬みのような感情を受けることもあったのかもしれない)。その同情に、男は魅入られた。同情を受けることに生き甲斐を感じたのだ。同情を受けるためには、悲しみを抱えている必要がある。彼は毎朝嗚咽し、妻が昏睡状態から脱しないことをを暗い表情で吐露する。息子にはピアノで明かるい曲を演奏しないよう言い含める。
息子を前に、母親の死に備えて歌を作ったからと男が歌い出すシーンは本作の見せ場の1つ。素人の作った歌にしてはやたら本格的で、聴く物を引き込む力を持っている。目を瞑り心酔して歌い上げる父親と、それを見守らざるを得ない息子とが作る妙な空気感と相俟って印象的だ。
妻が奇跡的に意識を回復する。それは喜ばしいことのはず。だがこれまで受けてきた同情を得られなくなることの方が男には恐ろしくなっていた。男は同情を受けるための不幸の種を探し出そうとする。妻に乳癌の虞があるのではないか。息子はピアニストになるには指が短すぎやしないか。そして、不幸が見つからないとき、男は不幸を生み出すべく動き出す(男の狂気の片鱗は、妻の事故で白髪が増えたと父親に訴える場面で示されていた。父親が頭髪を確認しても1本の白髪も見当たらないのだ)。まずは小さな命を犠牲に供することになる。だが、それに飽き足らない男は、さらなる犠牲を求めるだろう。冒頭から終盤まで、男の表情にほとんど変化がないことが、かえって恐ろしさを高めている。

映画『由宇子の天秤』

映画『由宇子の天秤』を鑑賞しての備忘録
2020年製作の日本映画。152分。
監督・脚本・編集は、春本雄二郎。
撮影は、野口健司。

 

関東近郊の河川敷。川の傍に立った長谷部仁(松浦祐也)が1人リコーダーを吹いている。その様子をカメラマンの池田(木村知貴)が捉えている。ドキュメンタリー・ディレクターの木下由宇子(瀧内公美)は、3年前に起きた当時高校2年生の長谷部広美(永瀬未留)の自殺の真相を追って取材を続け、父親にインタヴューを行なっていた。由宇子の質問に長谷部が返答できなくなり、由宇子がここまでにしましょうと撮影を切り上げる。すると、失敗してもいいって言ってやれば良かったと、インタヴューが終了して緊張が解けたのか長谷部が口を開いた。リコーダーの演奏をいつも同じところで間違えるから、外でやれって…。長谷部から心情が吐露されていった。長谷部さん、今のコメント使わせて頂いていいですか? 池田はインタヴュー終了後もカメラを回し続けていた。ADの小木(宮本和武)が運転するバンの中では、取材班を率いる富山宏紀(川瀬陽太)が電車に間に合わないと時間を気にしていた。だが由宇子の機転で被害者の父親のいい画を撮れたと車内は活気づいていて、富山に約束の飯を奢れと大合唱になる。
会議室では、富山のドキュメンタリー番組のプレヴューが、テレビ局の保土田(松木大輔)と市村(鶴田翔)を前にして行なわれている。由宇子が順を追って説明するのを、保土田がライン・マーカーを引きながら台本を厳密にチェックしている。ここ台本通りじゃないよね? 長谷部のコメントに対して保土田がNGを告げる。同業者批判して、誰が得するの? 由宇子が保土田に反論しようとするのを富山が抑える。結局やり直しの指示が出た。プロデューサーたちが出て行くと、小木が運んできた食事もとらず、由宇子も会議室を後にする。
由宇子が地元の商店街でドーナツを買い込み、父・政志(光石研)の経営する高校生対象の個人塾「木下塾」へ向かう。数学の代講を頼まれたのだ。差し入れのドーナツを喜ぶ生徒たち。父から紹介された、最近入塾したという小畑萌(河合優実)は、1人ノートにマンガを描いていた。由宇子は数学のテストを実施するが、萌が前に座る生徒の答案を盗み見ているのに気付く。由宇子はテストを無効だと宣言して、次回再テストすることを生徒たちに告げる。授業終了後、屋上に佇む萌に由宇子が声をかける。自らもかつて塾生で、カンニングをしたことがあり、それがバレて皆の前で父親にひどく叱られたことを告げた。
長谷部広美の自殺を巡っては、広美が通っていた高校の教員・矢野和之(前原滉)が広美と肉体関係にあったと報じられ、和之の自殺という悲劇の連鎖を生んだ。富山が遺族の支援を行なっている陸奥(木原勝利)と交渉し、和之の母・登志子(丘みつ子)にインタヴューする機会を得た。富山のチームが面会場所に向かうと、衝立で遮蔽され、登志子や付き添いの娘・志帆(和田光沙)の姿は全く見えなかった。登志子も志帆も事件の報道によって日常生活に支障を来していて、取材を警戒していた。富山と陸奥との間で取材形式について行き違いがあったらしい。由宇子は、表情を見て質問できないと登志子が訴えようとしていることも伝えることができないと、現場を立ち去ろうとする。由宇子の言葉に反応した登志子が、顔を写さないという条件でカメラの前に姿を現すことを決意した。だが、由宇子の質問を受けるうち登志子は不調を訴え、インタヴューは中止せざるを得なくなる。

 

ドキュメンタリー・ディレクターの木下由宇子(瀧内公美)は、3年前に起きた当時高校2年生の長谷部広美(永瀬未留)の自殺の真相を追って、広美の父親・仁(松浦祐也)や、広美と肉体関係があったと報じられて自ら命を絶った教員・矢野和之(前原滉)の母・登志子(丘みつ子)などへの取材を続けていた。取材の傍ら、父・政志(光石研)の経営する個人塾で代講を引き受けた際、塾生の小畑萌(河合優実)の抱える問題を知り、対処しようとする。

「由宇子」の名は、「ユースティティア(Jūstitia)の子」から発想されたものだろう。「天秤」は、正義の女神の手にする「正義」の象徴である。
長谷部広美(永瀬未留)の自殺をめぐる加熱報道が、矢野和之(前原滉)の自殺という第2の悲劇を招いた。由宇子は、収録の終了を装いつつカメラを回し続けたり、取材を断念すると告げることで対象者に取材に応じさせたりと、真相追求のために全力を尽す。彼女には他の報道記者などとは異なるという自負がある。だが、客観的には相違は甚だしく曖昧なものとなる。
小畑萌(河合優実)と菓子や粥を食べ、矢野登志子(丘みつ子)とパンを食べ、志帆(和田光沙)・愛里紗(大原結未奈)母娘とオムライスを食べ、というように、食事をともにすることで、由宇子は取材対象者との関係を深めていく。かえって、同僚の富山(川瀬陽太)や池田(木村知貴)、あるいは萌と食事をとることができないということは、関係の破綻の予兆となる。
由宇子の追いかける事件は、他人の問題である。ところが、同種の事件が自らの現実問題として現れるとき、どのように振る舞うべきで、また実際にどのように振る舞うのか。由宇子の仕事(≒パブリック)と家庭(≒プライヴェート)との両面を同時に描くことで、由宇子の葛藤をうまく描き出している。とりわけ後半のサスペンス的なプロットも緊張感を高めた。欲を言えば、監督が編集を他者に委ねることで、より切れ味の良い作品となる可能性があったかもしれない。
瀧内公美が、冷たいのではなくて、情があるけれどもウェットにならない、さばけたドキュメンタリー・ディレクターを好演。テレビ局との仕事をビジネスとして成り立たせようとしつつ、由宇子の狙いも実現しようと奮闘する富山を演じた川瀬陽太も魅力的であった。小畑萌を演じていたのが、映画『サマーフィルムにのって』でビート板を演じた河合優実とは全く気付かず終い。作品によってこんなにも印象が変わるのだと驚嘆。

展覧会 橋本晶子個展『I saw it, it was yours.』

展覧会『橋本晶子「I saw it, it was yours.」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2021年9月11日~10月30日。

鉛筆で描いた写実的な絵画を中心とした、橋本晶子の個展。

《Curtain》は、5枚のトレーシング・ペーパーを継ぎ合わせて、ギャラリーの1つの壁面を全て覆ってしまうほどの画面を作り、閉じられたカーテンを鉛筆で描いた作品。トレーシング・ペーパーは、天井の際から設置されているが、壁面のみでは収まらず、床にまで垂らされている。描かれたカーテンの大きさは、作品に向かって右側の壁面にある展示室の窓(遮蔽されている)と高さがほぼ揃えられている。「カーテン」の中央のやや高い位置には、トレーシング・ペーパー越しに、壁面にテープ1枚で貼り付けた絵画が透けている。その絵画には、画面手前から奥に向かって伸びる道を繁茂する草木が左右から挟み、奥に向かって空が開けている光景が表される。絵画はしばしば窓に擬えられるように、道を描いた絵画は、壁面に「眺望」をもたらす「窓」となりうる。しかしながら、画面を留めるテープの描き込みが、露悪的に眺望が「画餅」であることを訴える。のみならず、テープで留められたイメージ(絵画ないし写真)の絵画であることが、紙(余白)とそれを留める本物のテープの存在により強調される。他方、カーテンを描いた「絵画」は、絵画を遮蔽する機能を現実に果たしていることが印象づけられる。ところが、白い壁面に擬態するトレーシング・ペーパーは、床面にまではみ出すことで、支持体としての存在を主張する。やはりカーテン自体も「画餅」に過ぎず、遮蔽機能はトレーシング・ペーパーこそが果たしていたことを明るみに出すのだ。本作は、絵画がイメージでありフィクションであることと、絵画が物質でありノンフィクションであることとの間を、鑑賞者に往還させる装置となっている。

《View》は、茂みの中にある清水の流れ込む小さな池をモティーフとした絵画を中心とする作品。鉛筆により写真のように精緻に描き込まれるのは池畔のみではない。そのイメージを4隅で留めるテープまでも写実的に表されている。その絵画を描いた紙が、壁面に4隅のテープで貼り付けられている。本作品を特徴付けるのは、この絵画の左右に設置された2枚の紙である。紙は、絵画自体のサイズの数倍の大きさがあり、何も描かれていない。右手の紙は、絵画の脇に設置され、絵画の額縁として機能していると言えなくもない。作品の保護としては一切役に立ちそうにないが、その左側に絵画があることの目印にはなるからである。額縁が絵画自体に干渉しないことが望ましいとすれば、白い壁面に擬態する白紙ほどふさわしいものはないとも言える。他方、左手の紙は、絵画の左側を覆い隠してしまっている。作品の保護には資するだろうが、これでは作品自体を見ることが叶わなくなってしまう。だが、左側の紙には絵画を隠す以外の役割を見出せそうにはないため、それが作者の狙いということになる。改めて絵画を眺めると、そのモティーフは池畔の光景であった。池=水面は「鏡」であり、「鏡」とは絵画のメタファーである。それならば、池の周囲に繁茂する樹木は、モティーフを枠付けるとともに覆い隠す、額縁やカヴァーということになるだろう。すなわち、2枚の紙は、絵画の描き出す世界を鑑賞者に追体験させるべく、アナロジーを介して絵画の内部へと没入させる装置として機能することが目論まれていたのである。作品の右側から眺めることで作品の隠された部分を鑑賞できるように、紙をわずかに浮く形で設置していることや、照明によって鑑賞者の影を作品に映し出そうとしていることがその証左である。

《To the sea》は、崖や防波堤(?)によって枠付けられた海岸を描いた絵画をマット付きで額装したものを描いた絵画。画面を3分割するように縦2箇所に折り目が入れられている。画面の左右が手前側に迫り出す形は、鑑賞者を包むように設置される三連祭壇画のイメージを引き寄せる働きを持つ。それと同時に、画面の奥行きを強調する3次元作品とも言える。海岸、海岸の絵画、海岸の絵画の絵画という3つの景観と相俟って、3という数字を作品に共鳴させている。

展覧会 中村萌個展『our whereabouts―私たちの行方―』

展覧会 中村萌個展『our whereabouts―私たちの行方―』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2021年9月3日~10月10日。

楠の彫刻作品9点と楠の板に描いた絵画15点で構成される、中村萌の個展。

 プラトンアリストテレスにはじまる古代ギリシャ哲学の議論以来、「ミメーシス(模倣)」(動作や形態を模倣して自分の身体に写しとり再現すること)と呼ばれる能力は、人間文化における創造性の根源にあるものとして捉えられてきました。それはとりわけ古い呪術的な身振りのなかに示されてきたもので、世界のさまざまな土地における古来の民俗芸能や伝統的な踊り・演劇などのなかにいまでも色濃く残っています。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.80)

入口の正面奥に設置されている《Bud of hope》(480mm×480mm×410mm)は、赤ん坊の頭部のような彫刻作品。瞑った目はほぼ横一線の彫りで表し、低い鼻、やや膨らんだ頬、閉じられた唇によって眠る赤子のような顔を構成する。不定形のカットで表面を覆った被り物らしきもので頭部が包まれている。頭頂部は鉢植えのように穴が空いていて、輝く土から双葉が芽吹いている。近くに飾られた平面作品《towards the light》は、楠を縦に裁断して左右に樹皮が残ったままの台形に近い形状の板に、《Bud of hope》のキャラクターを描いている。頭頂部の植物が蛇行しながら上に伸びて花を開きかけているのに対応し、右目を僅かに開けている。植物が力を蓄える様を眠りで、植物が花を開かせる瞬間を目覚めで、というように、挙措によって植物に擬態している。

 思想家ヴァルター・ベンヤミンは、人間の「類似」を認知する感性的能力を論じた重要な論考「ミメーシスの能力について」(1933)のなかで、模倣の能力の発生について論じています。そこでベンヤミンは、文字以前の人間の文化が、「内臓」を読み、「星」を読み、「舞踏」を読むことからはじまった、と書いています。「内臓」を読むとは、人類がみずからの内臓感覚を、生命記憶の源泉として意識することを指します。古い人類は洞窟のような暗闇の空間に入り込むことによってこの内臓感覚を外化し、そこでさまざまな呪術的儀礼を行なっていました。旧石器時代の人類が世界のさまざまな場所にのこした洞窟壁画とは、当時の動物の形態を洞窟の壁画に模写することを通じて野生の世界へと浸透し、自然の一部として自己を確認し、この外化された内臓(=洞窟)のなかにみずからの生命体としての記憶を刻印してゆく行為だったのです。まさにここでは、洞窟壁画という「ミメーシス(模倣)」の能力の発露が、人類最古の芸術的形象を生み出していったのでした。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.80)

《inside us》(380mm×160mm×150mm)は、紺色の頭巾と衣装とを身につけた幼児あるいはドワーフのような妖精が、その腹に空いた穴に両手をかざして瞑想している立ち姿を表した彫刻作品。「人類」すなわち「私たち」が「みずからの内臓感覚を、生命記憶の源泉として意識する」様を表現している。腹部の穴が黄色く表されているのは、光を放っているからである。洞(うろ)の中にある泉を描いた平面作品《where the light is》は、穴の中の情景を表現した作品と考えられる。

 あるいは、マーシャル諸島などミクロネシアの群島民のあいだで古くから行なわれている、星座をもとにした独特の航海術をとりあげてもいいでしょう。彼らは海の民として、全身体的な感覚を動員して天体の「星」の配置を読みとり、それを船を操縦しながら航海する自らの方向感覚へと投影するという、繊細な模倣的身体技法を自らのものとしていました。西欧の占星術もまた、天体を読むことを通じてそれをみずからの身体や世界イメージへとアナロジー(類似)の原理によって結びつけてゆく感覚的思考法でした。こうした例からみるとき、「星を読む」という行為も、ミメージスの能力の基本にある身体技法であることがわかります。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.80-81)

本展で最大の彫刻作品《our whereabouts》(1640mm×880mm×750mm)は、幼児の顔を持つ妖精のようなキャラクターの大中小3体を縦に重ねている。下段には、一番大きな妖精が珊瑚色に包まれてどっしりと構えている。薄く開かれた目は、中庸を志す表情を作る。中段は、中くらいのサイズの薄浅葱の妖精が、バランスをとるかのように両腕を左右に水平に伸ばしている。「珊瑚色」と体の向きが変えられていることもあって、動きが生まれている。最上段は、髪の毛が伸びて腹部に空いた穴に差し込まれている紺色の妖精。その頭頂部には、大きな星が輝いている。身体というミクロコスモスと宇宙というマクロコスモスが繋がれている(なお、本展の入口の壁には、この頭上に星を持つキャラクターが描かれている)。紺色の妖精が星(それは宇宙であり心でもある)を読み取り、薄浅葱の妖精がコントロールし、珊瑚色の妖精が歩を進める。「全身体的な感覚を動員して天体の『星』の配置を読みとり、それを船を操縦しながら航海する自らの方向感覚へと投影する」アナロジーとなっている作品だ。

 そしてベンヤミンが第三に挙げた「舞踏」こそ、ミメーシスの技法がもっとも深く探究された領域でした。原初の人間が野生の自然を受けとめながらそこに文化を創造してゆこうとするとき、かならず野生動物の所作を模倣するような舞踏が生み出されてきたことはとても興味深い事実です。たとえば、メキシコ北部ソノーラ州に住むヤキ族の「鹿の踊り」は、パスコーラと呼ばれる猟師の踊り手と、鹿の頭部を頭にかぶって鹿に擬態した踊り手による、狩猟を模した儀礼的なダンスです。そこで鹿の踊り手は、まさに野生動物としての鹿へと変身し、彼らにとって神でもある鹿の身振りを模倣しながら、精霊たちのすむ領域へと入り込んでゆきます。神や精霊と交流し、世界を蘇らせるための究極のミメーシス(模倣)の所作です。ヤキ族のインディオたちは、この模倣の身体的儀礼を通じて、自然のなかにみなぎる力を文化の側に組み込もうとしたのでした。(今福龍太『宮沢賢治 デクノボーの叡知』新潮社〔新潮選書〕/2019年/p.81)

彫刻作品《I'm nobody》(830mm×360mm×330mm)は、頭頂部に2つの長い耳をピンと立てた毛皮を被った妖精(?)の立像。毛皮を被ることで動物に擬態し、人ではない(=誰でもない)状態へ移行する。「世界を蘇らせるための究極のミメーシス(模倣)の所作」以外の何であろう。「自然のなかにみなぎる力を文化の側に組み込」むことで、「私たちの行方」を探るのだ。

映画『レミニセンス』

映画『レミニセンス』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のアメリカ映画。116分。
監督・脚本は、リサ・ジョイ(Lisa Joy)。
撮影は、ポール・キャメロン(Paul Cameron)。
編集は、マーク・ヨシカワ(Mark Yoshikawa)。
原題は、"Reminiscence"。

 

人は過去に取り憑かれることがある。過去は瞬間瞬間の連なりに過ぎない。首飾りに並んだ真円真珠を思い浮かべればいい。ある瞬間はそれ自体で完結し、時間に貫かれている。実際には、過去が人に取り憑くことはない。気にかけもしない。仮に幽霊がいるとすれば、それは過去にしがみついている人間だ。人間が過去に取り憑く。だから同じ光景を見ることがあるのだ。
温暖化の進行により海水面が上昇し、マイアミの市街地は冠水していた。日中人気の無い市街地では、日が落ちるとともにビルの窓に明かりが灯っていく。水上タクシーやボートがビルの周囲を活発に行き交い始める。夜9時。旧市街の浸水した通りを歩いていたニック・バニスター(Hugh Jackman)が足を止め、水の中に落ちていたハートのクイーンを拾い上げる。クイーンがさらわれてるよ。近くにテーブルを出してカードを並べていた男(Gordon Dexheimer)にクイーンを手渡す。勝負するか? またな。ニックは自社のオフィスに入っていく。ニックが身支度をしているところへ、スタッフのエミリー・サンダース(Thandiwe Newton)が顔を出す。遅刻よ。時間が直線的に進むならな。俺たちはそういう商売じゃないだろ。でも時間単位で料金を請求してるでしょ。最初の予約の方が待ってるわ。傷痍軍人ハンク(Javier Molina)が車椅子に乗って「レミニセンス」体験装置に近づく。ニックと挨拶すると、常連のハンクは、両脚を切断していながら、慣れた動作でカプセルに入り込む。エミリーがハンクの首筋に注射を打つ。
かつては時を遡ることなんてできなかった。しかし、時間はもはや一方通行ではない。記憶が、時の流れを遡る船なのだ。差し詰め私はその船の漕ぎ手と言ったところだ。海面上昇や戦争で楽しみを奪われると、人々は過去に縋り始めた。水を張ったカプセルは元はと言えば尋問のための拷問具だったが、人々はそのカプセルが提供してくれる郷愁に生きる術を見出した。エミリーと私はそれで何とか糊口を凌いでいる。
ニックがレバーを下げて、立体映像を表示する円形の舞台を作動させる。ニックがハンクの頭にヘッドギアを装着させると、ハンクがカプセルの水の中に体を横たえる。エミリーの前の制御盤にハンクの脳の状態が表示される。エミリーが記録装置をセットし、準備完了とニックに告げる。
あなたは旅に出ます。記憶を用いた旅です。目的地は何処か。あなたがかつて訪れた場所です。そこに向かうには、だた私の声に従えばいいのです。夏。15年前。ニックの声に導かれて、ハンクの記憶が円形の舞台に立体的に現れ始める。あなたがボールを拾い上げます。両脚のあるハンクが黄色いボールを拾って投げる。犬が喜んで追いかけ、ボールを取ってくる。ハンクが犬を撫でて褒める。
ハンクが代金代わりにとドラッグを渡そうとするが、ニックは受け取らない。ハンクが去った後、無償でサーヴィスを提供していては商売にならないとエミリーはニックに不満をぶつけるが、郷愁に対する需要が下火になることは無いとニックは取り合わない。
実際、過去ほど中毒性のあるものはない。愛する人と再会したくない人なんていないし、誰もが人生の最も意味のある瞬間を追体験したいのだ。しかし、記憶は、たとえ良い記憶であっても、凄まじい食欲を持っている。注意しないと、記憶に呑み込まれてしまう。
常連のエルサ(Angela Sarafyan)はいつも同じ、恋人に抱かれる記憶に浸りに来る。エミリーが映像をコピーして持ち帰るように手渡す。いつも同じ場面に訪れるでしょ。これがあればいつでも見られるわ。ありがとう。でも同じじゃないの。「レミニセンス」の中なら、彼の腕に抱き締められる感覚を味わえるから、比べものにならないの。
営業時間を終え、ニックはエミリーから鍵を受け取ると、厳重にロックされた倉庫に顧客の記憶装置を保管する。ニックがエミリーに鍵を返すと、彼女から酒瓶を渡される。飲みなさいよ。脚の古傷に効くわ。私が痛みに気付いてないと思う? 2人が話していると、ドアのベルが鳴る。まだ予約があるのか? いいえ。閉店よ! ごめんなさい、遅いのは分かってるの。鍵をなくしてしまって。美しい女性(Rebecca Ferguson)の姿に、ニックは一瞬で心を奪われた。

 

ニック・バニスター(Hugh Jackman)は、エミリー・サンダース(Thandiwe Newton)を唯一のスタッフとして、「レミニセンス」という没入体験型の回想サーヴィスを提供するバニスター&アソシエイツという会社を経営している。ある日の営業時間終了後、鍵をなくしたとオフィスに飛び込んできたメイ(Rebecca Ferguson)という女性客に心を奪われたニックは、彼女が置き忘れたイヤリングを届けたのをきっかけにメイと交際するようになる。ところがメイはある日を境に忽然と姿を消してしまう。ニックとエミリーは、検察官のエイヴリー・カスティージョ(Natalie Martinez)から、ニューオーリンズの麻薬カルテルを取り仕切る「セイント・ジョー」(Daniel Wu)の捜査の一環として、レミニセンスを利用した取調を依頼される。

麻薬を過去=記憶のメタファーとすることで、その中毒性、すなわち過去に縋ることの危険性を告発する。記憶の「売人」であるニックが、記憶という「ドラッグ」に自ら手を出せば、破滅は避けられない。
「レミニセンス」という没入体験型の回想サーヴィスの原形が軍隊の尋問装置という設定・発想も面白い。水責めで記憶を吐かせることから連想したのだろう。
ニックが記憶の海に沈み込むことは、オルフェウスの物語における冥府下りに重ね合わされている。
歌が記憶のためのメディアであることもある仕掛けに活かされていたが、メイが歌姫であるなら、もっと歌に中心的な役割を担わせていても良かった。