可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『マイスモールランド』

映画『マイスモールランド』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本・フランス合作映画。
114分。
監督・脚本は、川和田恵真。
撮影は、四宮秀俊。
照明は、秋山恵二郎。
音響は、弥栄裕樹。
美術は、徐賢先。
装飾は、福岡淳太郎。
衣装は、馬場恭子と中村祐実。
ヘアメイクは、那須野詞。
編集は、普嶋信一。
音楽は、ROTH BART BARTON。

 

白い衣装に身を包んだクルド人の新郎新婦が、色取り取りの衣装を身に付けた参会者のつくる祝福のアーチを通り抜ける。森の中の結婚披露宴。皆が歌い踊って結婚を祝う。新郎新婦に向けて掲げられた掌には赤い染料が塗られている。次はあなたの番ね。ロナヒ(サヘル・ローズ)がサーリャ(嵐莉菜)に声をかける。新婦の着ているのより良い衣装があるわ。サーリャの隣にいた父マズルム(アラシ・カーフィザデー)がそれを聞いて、母さんの衣装があるとサーリャに告げる。祝宴で皆が盛り上がる中、表浮かない表情のサーリャが、1人皆の輪を外れる。
朝、自宅の洗面所で身支度を整えているサーリャは、掌の赤い染料が洗っても落ちずにいる。その間、父が仕事に出て行った。
高校の教室。試験問題が配られる。試験開始の合図で、サーリャは解答用紙に「チョーラク・サーリャ」とカタカナで書き込む。
定期試験が終了し、教室のベランダで、サーリャはまなみ(新谷ゆづみ)と詩織(さくら)とともに飲み物を飲んで寛いでいる。試験問題の答えを確認した詩織は、サーリャにひっかけ問題にひっかかってると指摘されて、がっかりする。まなみは階下に彼氏の姿を見かけてはしゃいでいる。2人は「ドイツ人」のサーリャの長い睫毛が羨ましいと拗ねてみせる。サーリャは笑いを浮かべながらもどこか寂しげだ。
進路指導室でサーリャがクラス担任の教師(板橋駿谷)と面談している。今の成績なら推薦がとれるな。部活を続けていてくれたら文句なしだったんだがな。家庭の事情で…。
サーリャは自転車で荒川を渡る。コンビニの制服に身を包んだサーリャがレジで接客をしていると、店長の太田(藤井隆)がサーリャの掌が赤いと指摘する。美術の授業でと言い訳すると、落ちない絵具なんて授業で使うのかと太田は引き下がらない。サーリャの同僚の聡太(奥平大兼)がそういう画材があるんだと助け船を出し、サーリャに手袋を手渡して解決する。勤務時間後もバックヤードで作業している聡太をサーリャが手伝う。何で残業してるの? 店長は伯父だから頼まれると断れなくてね。一緒に店を出た聡太がサーリャに尋ねる。本当は何で手が赤いの? トマトを食べ過ぎたから…。どれくらい食べたの? 1箱。…噓つくの、下手だなあ。
自宅のある建物の1階は、大家の経営するクリーニング店。店の前に屯していたクルド人と挨拶を交わし、家へ向かっていると、大家から声をかけられる。また泥だらけの作業着を洗濯機に入れちゃった人がいてさ、洗濯槽が砂だらけだよ。この張り紙、訳しておいてよ。帰宅したサーリャを父が遅かったなと咎める。部活でね…。サーリャと父とが夕食を準備し、中学生の妹・アーリン(リリ・カーフィザデー)、小学生の弟・ロビン(リオン・カーフィザデー)とともに食事を囲み、皆で祈りを捧げてから食べ始める。
ロナヒが訪れ、目が悪くなった息子の病院の付き添いをサーリャに頼む。小学生なら1人でも大丈夫でしょと言うサーリャに、父が連れて行ってやれと言いつける。サーリャの机の前の壁は、クルド人からの通訳の依頼を書き込んだ色取り取りの付箋が既に多数貼られていた。

 

埼玉県在住の高校3年生のサーリャ(嵐莉菜)は、クルド人の父マズルム(アラシ・カーフィザデー)、妹・アーリン(リリ・カーフィザデー)、弟・ロビン(リオン・カーフィザデー)とともに日本に亡命した。日本語が得意でなかった小学生時代に親身になってくれた小向先生(韓英恵)に憧れ、先生の出身大学に進学して小学校教諭になるのが夢だ。成績は優秀で、クラス担任(板橋駿谷)からは学校推薦型選抜での進学が可能だろうと言われている。サーリャは学費を稼ごうと、密かに東京都内のコンビニでアルバイトをしていて、店長(藤井隆)の甥で同い年の聡太(奥平大兼)と親しくなった。ところが難民認定の申請が不許可となり、特定活動ビザも失効してしまう。就労は禁止され、県外へも許可無く出かけることができなくなる。それでも生活費を稼ぐために働かざるをえないマズルムは、仕事場での警察官の職務質問をきっかけに入管に収容されてしまう。サーリャは妹と弟の世話をしながら家計をやりくりすることになるだけでなく、不法就労はさせられないとコンビニを解雇され、ビザがないために大学進学も諦めなくてはならなくなる。

反吐が出る、日本の「おもてなし」の一端を窺うことができる(入管の対応に限っても、もっと悲惨な現実も報道されているところである)。他山の石とすべき日本の人たちの姿も映し出されている。
サーリャが、かつて、サッカーの国別の世界大会で日本を応援していると何故か言うことができず、ドイツを応援していると口走ったことをきっかけにドイツ人だと思われていることが「ちょうどいい」と感じられて、以来、クルド人ではなくドイツ人であると説明していること。そのやり過ごし方は、同時に、クルド人であることを誇りにしている父に対する裏切りにもなってしまう。
日本語とクルド人の話す言葉とを操ることのできるサーリャに対して、日本語しか話せないアーリンは、自分が理解できない言葉でやり取りされると疎外感を感じてしまう。そのために姉に反抗的になり、あるいは姉に通訳を頼むクルド人に対して批判的になる。
ロビンがサッカーの輪に加わりたいが加われず、1人鉄棒につかまり、ボールを蹴る動作だけを繰り返していること。彼は自らを宇宙人と称した。物心ついたときには何年も暮らしていた土地に馴染むことができないことが、彼に宇宙から来たと思わせるのだろう。父親がロビンが蹴る石ころは、故郷にもあったと、どこにあっても同じ人間だと諭す(父とサーリャが小学校で小向先生と面談した後、父・娘・息子3人が小学校から歩いて帰る道すがらの1カットで描き出す)。その父の教えを胸に、ロビンは路傍の石を大切に扱う。
サーリャの一家を演じた役者が作品に説得力を持たせた。とりわけサーリャ役の嵐莉菜は、その美しさ・佇まいと演技とで、鑑賞者を作品に引き込む。
優しく爽やかな好青年・聡太を演じたのが映画『MOTHER マザー』で周平を演じた奥平大兼だったとは。全く印象が異なっていて、同じ役者とはとても思えなかった。
池田良の演じる卑しい人間には、本当に嫌な気持ちにさせられる。素晴らしい演技。

映画『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』

映画『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』を鑑賞しての備忘録
2020年製作のアイルランド・カナダ合作映画。
101分。
監督・脚本は、フィリップ・ファラルドー(Philippe Falardeau)。
原作は、ジョアンナ・ラコフ(Joanna Rakoff)の回顧録サリンジャーと過ごした日々(My Salinger Year)』。
撮影は、サラ・ミシャラ(Sara Mishara)。
美術は、エリース・ドゥ・ブロワ(Elise de Blois)。
衣装は、パトリシア・マクニール(Patricia McNeil)。
編集は、メアリー・フィンレイ(Mary Finlay)。
音楽は、マーティン・レオン(Martin Léon)。
原題は、"My Salinger Year"。

 

私はニューヨークの北郊の静かな町で育ちました。特別な時には、父が私をマンハッタンに連れて行ってくれて、ウォルドルフ=アストリアかプラザ・ホテルでデザートを食べさせてもらったものです。それは熱心に観察しましたよ、周囲の人々を。興味深い生活を送っているんだろうなって。私も彼らの仲間入りをしたかった。小説を書いたり、5カ国語を話したり、旅行したりしたかった。平凡な人生は送りたくなかった。非凡な人生に憧れていたんです。去年、ニューヨークに親友を訪ねたとき、あの頃の記憶が一気に蘇りました。数日滞在した後、すぐにボーイフレンドの待つバークリーに戻ることになっていました。しかし、そんな計画は音を立てて崩れてしまったのです。
1995年。ニューヨーク。ジョアンナ(Margaret Qualley)が電話ボックスでカール(Hamza Haq)と話している。しばらくニューヨークに残ろうと思って。しばらく? しばらくってどれくらい? 大学はどうするの? どうでもいいの。もう他人の作品の分析なんてしたくない。自分の作品を書きたいの。ニューヨークで? そう、ニューヨークで。
文名を馳せたい作家がしたことじゃないかって? 安アパートに住んで、カフェで執筆するみたいな? そう、分かってるわ、でもそれが私がしたかったことなの。
ジョアンナが滞在している親友ジェニー(Seána Kerslake)のアパート。出勤前のジェニーが身支度を整えながら、ジョアンナに愚痴っている。上司がね、全て電子メールでペーパーレスにするって。ありがとうとか、どういたしましてとか、どうでもいいことでいらいらさせられることになるわ。ランチはいつとるのなんてメールが同僚から送られてくるの。すぐ消えちゃう一過性の流行であって欲しいもんだわ。あなたが喚くの聞けて嬉しいわ。バークリーの連中すごく真面目だからね、ジョギングにサンダル履きだし。私なんて南カリフォルニアに出現する巨大な雲みたいなもんよ。全てが灰燼に帰すという。それが私。カールも同じ気持ちなの? 同じじゃないわね。彼は数年いる間に大学にスターとして扱われてるから。ねえ、ジェニー、ニューヨークにどれくらいいるかはっきり決めてないんだけど。心配しないでこのままくつろいでくれていいわ。何でも食べて。
職業紹介所を訪れたジョアンナは、エージェントの女性(Ellen David)に出版社を斡旋してもらおうとする。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学修士号なら、数は絞られるとしてもアピールできるわ。詩を発表したの? はい、『パリス・レビュー』誌です。学生コンテストで賞を取りました。それは省いて。出版社は作家志望を敬遠するの。あ、でも、それが私のやりたいことなので、ゆくゆくは…。分かったわ。出版社じゃないわね。出版エージェントはどうかしら? いいですね。ニューヨークで一番歴史のあるところよ。タイプライターは使える? 中学生のときにタイピングの授業がありました。当然タイプライターなんて使わないわよね。彼女はあなたにタイプできるかどうか聞くはずよ、そしたらなんて言うの? 「できます」よ。
毎分60語です。ジョアンナは、マーガレット(Sigourney Weaver)の質問に答える。斡旋された出版エージェンシーで、アドヴァイスを受けた通りに。でもタイプライターで打てるの? コンピューターとは全然勝手が違うわよ。分かってます。どんな作品が好み? ローリー、ハメット、ドナルド・ウェストレイク。『感情教育』を読み終えたところで、とても気に入りました。とても「現代的」ね。驚きだわ。だけどこの仕事に携わるつもりなら現存作家を読まないと。フラメルが好きです。私はウェストレイクね。彼の作品は面白いですね。クリスマス休暇後に始めてもらおうかしら。それからジェリーについて話しておくわ。ああ、ジェリー。彼は狂っているとか、耄碌してるとか、人間不信だとか聞いたことがあると思うけれど、すべて嘘よ。彼が問題なのではなくて、彼の住所と電話番号を執拗に尋ねて彼と連絡を取ろうとする人たちが問題なの。あるいは私にさえね。記者に学生、大学の学部長、プロデューサー。口が上手く言葉巧みかもしれないけれど、絶対に彼の居所を教えてはならないわ。分かる? 分かります。いいわね、忘れないで、この仕事を望む人材ならいくらでもいるのよ。残業も覚悟してね。パム(Leni Parker)が鍵をくれるわ。ありがとうございます。この上なく光栄でわくわくしています。光栄とかわくわくとかは必要ないわ。面接の間、ソファに座って雑誌を読んでいた男性(Colm Feore)が、マーガレットはかなりスリリングだけどね、と相の手を入れる。ちなみに私はダニエルだよ。
壁には文豪たちの肖像写真が掲げられていた。ジョアンナがそれらに目をやる。私はまだ出版エージェントがどんな仕事なのか理解していませんでしたが、作家の世界に一歩近付いたような気がしました。神々しい文豪たちに囲まれることになったのです。文豪たちの存在が私の創作の刺激になるのは間違いありません。
採用されて良かったわね、パムがジョアンナに声をかける。これが鍵。なくさないでね。出社は1月8日午前8時きっかりに。
私はバークレーに1度も戻りませんでした。ニューヨークは私の新たな故郷となる運命だったのです。待ち望んだ仕事で家賃を工面しつつ、新たな人生を綴るのです。

 

文学を学ぶジョアンナ(Margaret Qualley)は、親友ジェニー(Seána Kerslake)を訪ねてニューヨークに滞在したのをきっかけに、ニューヨークで作家になるという幼い頃の情熱を再燃させる。ニューヨークで最も歴史のある出版エージェンシーに採用されたジョアンナは、マーガレット(Sigourney Weaver)の秘書としてテープ起こしその他の雑用に従事する。マーガレットは伝説的な作家J.D.サリンジャー(Tim Post)の代理人であり、隠遁生活を送る作家本人が時折かける電話を取り次ぐことになった。ジョアンナを悩ませるのは、次々と送られてくる情熱的なサリンジャー宛の手紙に目を通し、内容別に定型文の返事を送付するとともに、手紙を裁断処分しなければならないことだった。

作家志望のジョアンナは、J.D.サリンジャー代理人を務めるマーガレットの秘書になるが、かつてサリンジャーの作品を読んだことがなかった。ジョアンナはサリンジャー宛に送られてくる熱の籠もった手紙を読むことで(ジョン・レノンを殺害した人物が『ライ麦畑でつかまえて』の読者であったことをきっかけに、犯罪の芽を未然に摘み取るべく読者の手紙に目を通す必要があった)、間接的にサリンジャーに感化されることになる。
サリンジャーは耳を悪くしていて、ジョアンナを「スザンナ」と認識している。だが、ジョアンナはそれを受け容れる。ジョアンナを「スザンナ」と呼ぶのはサリンジャーだけなのだ。同様に、ジョアンナを「ジョー」と呼ぶのは、バークリーに置いてきた恋人のカールだけだ。ニューヨークで知り合い、同棲したドンは祖母が呼ぶように「ブーバ」と呼ぶ。ジョアンナはその呼び方を嫌うが、ドンは決して「ブーバ」と声をかけるのを止めようとしない。そこにドンのジョアンナに対する態度が端的に表れている。2人の関係が破綻するのは時間の問題だ。今やサリンジャーを読破したジョアンナは、『フラニー』の冒頭、フラニーとレーンとの間のどうしようもないズレの存在に、自分とドンとの関係を重ねることになる。
原稿を読んで、それを買うか買わないかを判断する。あるいは、原稿をそれにふさわしい読者層の雑誌に回す。出版エージェントの仕事とは、結局のところ、ファンレターに定型文の返事を送付して裁断処分してしまうのと同じ感覚を要求される仕事であることに、ジョアンナは気が付く。その気づきこそが、作家になるかならないかを分け隔てている。
サリンジャージョアンナに毎日書くことが大切だと伝える。ジョアンナはその助言を実行することになる。

映画『死刑にいたる病』

映画『死刑にいたる病』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
128分。
監督は、白石和彌
原作は、櫛木理宇の小説『死刑にいたる病』。
脚本は、高田亮
撮影は、池田直矢。
照明は、舘野秀樹。
録音は、浦田和治。
美術は、今村力と新田隆之。
装飾は、多田明日香。
衣装は、高橋さやか。
ヘアメイクは、有路涼子。
音響効果は、柴崎憲治。
撮影効果は、実原康之。
編集は、加藤ひとみ。
音楽は、大間々昂

 

東京の大学に通う筧井雅也(岡田健史)が、祖母の葬儀に参列するため、北関東にある実家に戻っていた。精進落としで母・衿子(中山美穂)が会葬者にビールを注いで回っている。1人離れた場所にいる息子のもとに衿子が向かい、私は決められないと、息子に飲み物を追加注文した方がいいか尋ねる。親戚にこっちに来て飲みなさいと呼ばれ、座敷に顔を出した雅也を、父・和夫(鈴木卓爾)が遠くから射るような目で見つめていた。帰宅後、父が再来週まで実家に留まるか息子に尋ねる。祖母の校長時代の関係者が集まるお別れの会が行なわれるらしい。まだ決めてないけど、参加はしないから。衿子は参加してもいいと思うけどと言葉を濁す。風呂から上がった雅也は食卓に置かれた郵便物の中に、自分宛の差出人の記載のない封書が届いているのに気付く。すぐに開封すると、便箋には几帳面な文字が並んでいた。筧井雅也様。初めて手紙を出します。僕のことを覚えていますか。手紙を読み終えた雅也はすぐに自転車に跨がり、商店街へ向かう。ベーカリー・ロシェル。締め切られた店の前にはガードフェンスが張られていた。手紙の差出人は榛村大和(阿部サダヲ)。雅也が中学生の時、塾に通う前に必ず立ち寄っていた思い出のパン屋の店主だった。そして、今、榛村は、若い男女24人を殺害した連続殺人鬼として世間を賑わせ、9件の公判で死刑判決を受け、東京拘置所に収容されていた。榛村に拉致された女性が逃げ出したことで犯行が発覚したのだ。公判で榛村は言い放った。僕の慢心です。以前だったら睡眠薬を飲ませるだけでなく拘束していたのに、そうしなかったから。
榛村は、山間部に家を構えていた。毎朝目覚めるとクラシック音楽のレコードをかけて、紅茶を淹れる。庭に出て山林を眺めながら紅茶を飲むと、決まった時間にバンに乗って店へ向かい、パンを焼いて店を開ける。にこやかに接客する榛村の店は、客が途切れることがなかった。ある日、榛村は、高校の制服を着た小松美咲(神岡実希)の席にコーヒーを運ぶ際、注文にないマフィンも一緒にトレーに載せた。勉強頑張ってるね。これはサーヴィス。何を勉強してるの? 英語です。苦手なんです。分かるよ、難しいもんね。夜、自宅に到着した榛村はバンから袋を下ろす。中には美咲が入っていた。榛村は燻製小屋に担ぎ込むと、美咲の身体を十字に拘束した。彼女の指を万力で挟むと、榛村はペンチを手に取り…。
大教室ではキルケゴールの講義が行なわれている。ちらほら出席している学生たちは、雑談するか、スマートフォンをいじるか。雅也は榛村からの手紙のことが頭から離れない。榛村は雅也に面会に着て欲しいと訴えていた。帰りにキャンパス内で擦れ違った女子学生から声をかけられる。筧井君、同じ大学だったんだ! 彼女は中学校の同級生・加納灯里(宮崎優)だった。…何か変ったね。中学の時、話しかけてくれたの、筧井君だけだったよ。
雅也が小菅駅に降り立ち、東京拘置所に向かう。面会申請書を提出した窓口で、時計など金属の所持品をロッカーに預けること、番号が呼ばれたら指定された場所に向かうよう指示される。ベンチで待っていた雅也の番号が呼ばれ立ち上がると、長髪の男性にぶつかられる。雅也は指定された部屋に向かい、席に着く。刑務官に伴われた榛村が姿を現わした。椅子に腰を下ろした榛村がガラス越しに雅也に声をかける。久しぶりだね、まあくん。

 

祖母の葬儀に参列するため帰省した筧井雅也(岡田健史)だが、三流大学に通う息子に父・和夫(鈴木卓爾)は冷淡で、父や祖母から家政婦のように扱われてきた母・衿子(中山美穂)はおろおろするばかり。雅也のもとに榛村大和(阿部サダヲ)から封書が届く。暴力を振るう父から逃れようと全寮制の名門私立高校を目指して塾通いしていた頃、唯一憩いの場だったベーカリー・ロシェルの店主で、今は世間を震撼させた連続殺人事件の死刑囚となっていた。その榛村が雅也の面会を求めてきたのだ。どうせ「Fラン」だからとやる気のない学生ばかりのキャンパスで1人スカッシュに興じるくらいしか楽しみのない雅也の足は自ずと東京拘置所に向かった。姿を現わした榛村はかつてのような親しみを込めて雅也に接し、死刑判決は受け容れるが、起訴された事件のうち根津かおる(佐藤玲)の事件だけは自分の犯行ではないと訴えた。そして司直が主張を受け容れないために今も殺人鬼が野放しになっていると、雅也に調査を依頼する。榛村の弁護人を務める佐村弁護士(赤ペン瀧川)の事務所で資料に当たった雅也は、高校生ばかりの被害者の中で根津かおるだけが26歳の会社員であり、遺体の状況や犯行間隔も他の事件と異なることに気付く。

雅也は、父・和夫の暴力を逃れるために、全寮制の名門私立高校へ進学した。だが目的を達成したためか学業に身が入らず、いわゆる「Fラン」の大学にしか受からなかった。祖母が校長を務めた教育一家であり、世間体を気にする父親は、腑甲斐ない息子に冷淡だ。祖母や父から家政婦のように扱われてきた母・衿子は、祖母が亡くなった今も、何かにつけ指示を仰がなければ物事を決めることができない。
榛村は、制服をきちんと身につける真面目な性格で、なおかつ虐待が窺われる17~18歳の男女に目を付け、信頼関係を築いては、拉致して残虐な拷問を加え、殺害することを繰り返していた。榛村もまた虐待を受けていた。榛村姓は児童福祉活動に従事していた養母のものだったのである。「死刑にいたる病」とは、拷問の上殺害する嗜虐性が、虐待を受けることで生じること、すなわち伝染する可能性を表わしている。
面会室で、ガラスを隔てているはずの榛村が雅也に触れ、雅也と榛村とがガラスの反射によって重なる。そこに榛村の嗜虐性の雅也への感染が暗示される。榛村は、雅也の母・衿子を介して、自らと雅也との間に父子関係・遺伝を偽装させもするだろう。だが、その策略が破綻するときに備え、榛村は別の手を周到に用意している。それは「フランクファート型事例」と呼ばれる思考実験に似た形をとる。

 さて、ハリー・フランクファートは、PAP〔引用者註:Principle of Alternative Possibility(他行為可能性原理)。ひとが自身の行為に道徳的責任を負うのは、実際になしたのとは別の行為をなすことができたときに限るとするもの。〕に対する強力な反例として有名な思考実験――フランクファート型事例と呼ばれる――を考案した。それは次のようなものである。
 ジョーンズの事例:ジョーンズが、同僚のスミスを殺害するか否かを思案している。熟慮の結果、ジョーンズはスミスの殺害を決断し、殺害に成功した。だが実は、ジョーンズの知らないところで、ブラック――邪悪な脳神経科学者としよう――がジョーンズの行為を見張っていた。ブラックもスミスを亡き者にしたいと思っていたが、不必要に自分の手を汚したくはない。かくして次のような計画を考えた。ブラックはジョーンズの脳内に秘密裏にチップを埋め込んだ。そのチップは、もしジョーンズがブラックの思惑通りにスミスの殺害を決断するならば、まったく作動しない。しかし仮にジョーンズが殺害を控えることを決断しようとしたならば、直ちにチップが脳の神経系に作用し、彼は結局スミスの殺害を決断することとなる。さて、実際にはジョーンズは自分の意志で殺害を決断したため、ブラックが仕込んだチップは作動しなかった。
この事例において、一見したところジョーンズは他行為可能性をもたないように思われる。仮にジョーンズが殺害を躊躇したとしても、そのときにはブラックが介入していただろう。その意味でジョーンズは、いずれにしても殺害を避けることはできなかったのである。だがそれでも、ジョーンズはその殺害に対して道徳的責任を負うように思われる。なぜなら、実際のシナリオにおいてブラックが仕込んだ仕掛けは作動しなかった。ジョーンズは、ブラックの助けを借りることなく自分の意志で殺害を決行したからである。しかし、ジョーンズに他行為可能性がないこと、および、ジョーンズに道徳的責任があることの両方を認めるならば、ジョーンズの事例はまさにPAPへの反例となってしまう。PAPを擁護したい論者は何らかの仕方でフランクファート型事例に応答することを迫られるのである。(高崎将平「自由の価値の多面性 新しい自由論アプローチの素描」『現代思想』第49巻第9号/2021年8月/p.146-147)

本作は最終的に、ジョーンズを雅也、ブラックを榛村、「チップ」を灯里とする、「フランクファート型事例」を描き出しているのかもしれない。

展覧会『草を食む』

展覧会『草を食む』を鑑賞しての備忘録
アキバタマビ21にて、2022年4月10日~5月14日。

木村瞳(月光浴をテーマにした写真と映像など)、酒井みのり(7着の赤いスカートを描いた絵画やチョコレートを模した陶器など)、畠山美樹(サイアノタイプを用いた写真)、湯口萌香(磁器製のイヌやウサギのキャラクターを組み合わせた作品など)の4名の作家が参加する、「選択」をテーマにしたグループ展。

木村瞳の《信じることのレッスン》は、部屋の中での月光浴をテーマにした写真シリーズ。窓辺に佇む自らの姿や月光に浮かび上がる花瓶の花など6点の写真で構成される。東の空に満月が上る様子を撮影した映像《2022年1月、東の空》と組になっている。邪気を追い払い、ネガティヴな感情を洗い流す浄化作用があるという月の光の力に賭ける、という選択がテーマである。同じく木村の《選ぶ/信じる》は目の前に並ぶ45枚のカードから1枚を選ぼうと手を伸ばす度、何かしらの不安が脳裡に浮かんで断念する様を捉えた映像作品。
酒井みのりの《赤いスカート》は、植物柄、ストライプ、チェック、無地など様々なデザインの赤いスカート7着を実寸よりも大きく、横に並べて描き出した作品。赤やクリムゾンの台形あるいは扇形が壁面を埋める様は呪術的な力を感じさせる。とりわけパンデミック下においては一種の疱瘡絵(赤絵)に見える。モティーフとなったスカートは作家の私物で、選好が可視化されている。同じく酒井の《LOOKチョコレート》は、「迷えるしあわせ」を売りにするチョコレート製品を模して、"それぞれに"L"、"O"、"O"、"K"の文字を表わした焦茶色の四角錐台の陶器を3列に並べた作品。3列の提示により量産品であることが強調される一方、型による成形でないために生まれる個々の違いに目を向けろと、鑑賞者に選択を迫るようだ。
畠山美樹の《drive》は巷の景観から"FREE"、"TREND"、"STIMULUS"などのテーマで切り取ったサイアノタイプの写真群。4列6行、24枚組での構成は、看板やディスプレイの視覚情報に「四六」時中、「24」時間曝されている状況を訴えるためであろう。サイアノタイプの青い画面に表現したのは、そのような視覚情報に対して冷静になるとの意味を込めてのことだという。
湯口萌香の《可能性の箱》は、玩具の「おまけ」を売りにした菓子の箱をモティーフにした磁器。「せいかつ」題された商品は、ピンクが基調のデザインで、白い犬を抱いた愛らしい少女が「なにが出るかはおたのしみ」とささやく。全∞種+シークレット(ダフィット・ヒルベルトの無限の客室があるホテルを思わせる!)のおまけがあるという。「現実はイメージ写真と多少異な」るし、「必ず希望のものが出るとは限」らない。「別の人のものが良く見える時があ」る。3つあるうち1つは箱が壊されている。中には何が入っていたのか、あるいは何も入っていなかったのか。「せいかつ」の中の空虚が姿を覗かせている。同じく湯口の《私にもジャッジさせて》は、見上げる姿勢をとる磁器製の白い犬が39匹床に並べられている。選ぶことは、同時に対象から選ばれることでもあるというテーマの作品。

選択をテーマとする展覧会に「草を食む」と冠しているのは、「偶然出会うような探索方法を指す」ブラウジング(browsing)が、もともと「家畜を放牧させ若葉や新芽を自由に食べさせる」の意であることに基づくという。ウェブブラウザでネット上の情報にアクセスする際、閲覧履歴などに基づくターゲティングにより、自分の意思で選択しているのか疑わしいという問題意識が、偶然の出会いから自ら選び取る「草を食む」に籠められているらしい。「草を食む」からは「ビュリダンのロバ」が想起される。

 まず、指摘したいのは、「私は意志を生み出せない」という点である。私が意志を生み出すとすると、意志を生み出そうとする意志をもたねばならない。その意志もまたそれを生み出す意志を必要とする。これが無限後退をもたらすことはすぐにわかる。私は、意志の背後に立って、意志を自分で選ぶことはできない。だとすれば、むしろ、私は意志を「授かる」と言った方がよい。私と意志との間には距離がない。気づいたときには(おそらくは気づく以前から)、特定の意志が私の意志である。私と意志との関係は、「先行する条件を意識することなく、何らかの意志を自分の意志として引き受ける」というものであるほかない。自分の意志の原因を自分で「見る」ことはできず、意志は気づいたときには自分の意志である。ここには、特に「自由」と呼ぶべきものはない。
 要するに、「意志」そのものが自由なのではない。これまでの分析に従うなら、「意志によって引き起こされた」と記述される行為が、障害なく実現される場合、この〈A.特定の方向づけられた動き〉に対する〈B.障害〉の〈C.欠如〉が自由と呼ばれる。意志そのものは、行為を先に動かす力とみなされている。それ自体は自由でも不自由でもない。むしろそれは、自由という語で形容される事態を構成する1つの条件である。何かが何らかの方向に動こうとすることがなければ、それに対する障害もありえないからである。このように、意志は自由の媒介的な一契機を成すのであり、自由の「担い手」ではなく、せいぜいその「構成契機」(component)であるにすぎない。
 (略)
 諸々の可能性の間の選択が問題になっている場面に、「自由」という語をあてはめるのは、一見自然のようでいて、実はすでにこの語の本来の用法を逸脱しているように思われる。
 「私は読書を選ぶのも音楽鑑賞を選ぶのも自由だ」。このとき、「読書を選ぶ」、「音楽鑑賞を選ぶ」というのは2つの可能性である。可能性は定まっていないので、当然のことだがどちらも可能である。単なる可能性だけを考えるなら、(定義からして)あらゆる可能性が可能である。しかし、「読書も音楽鑑賞も自由だ」と言われているとき、ここで言われているのは読書と音楽鑑賞という2つの可能性が両立するということではなく、たとえば「自分はいま仕事が忙しすぎてまったく暇がない」とか「戦場で敵軍と交戦中である」とかいった状態にないので、「読書」という可能性も「音楽鑑賞」という可能性も、その実現を妨げる障害は特に見られない、ということである。このような「障害の欠如」に関しては、2つの選択肢のどちらも条件的に同じだということである。
 もっと細かく見れば、2つの可能性の実現可能性は必ず異なっている。私が普段から読書の方を好んでいるとか、いま疲れているので静かな音楽が聴きたいとか、様々な条件を考慮すると、2つの選択肢の実現可能性が完全に同じということはありえない。「AもできるしBもできる」という選択の可能性がしばしば自由と見なされるが、それは単に、2つの可能性をより正確に区別するだけの知識が欠けているというだけのことであって、そのような知識の欠如を度外視するなら、一定レベルで2つの可能性を「同じ」と見なすことができる、というにすぎない。実際にどちらかを実行する際には、必ず何らかの具体的条件にしたがってそちらへと動かされるから、2つの可能性は「まったく同じ」ではない。
 実際の行動に際して、このような「知識の欠如」によって2つの可能性が表面上区別なく並立しているという場面は、「自由」であるどころか大いに不自由である。ビュリダンのロバを考えてみればよい。まったく同じ距離に置かれた同量の干し草の間で、どちらも選べないロバが餓死してしまうという話である。だが実際は、ライプニッツが言うように、宇宙に完全な対称性はなく、ロバの内臓すら左右対称ではないので、2つの選択肢の条件が完全に同じということはありえない。どちらかに傾き、ロバは死なずに済む。ここでは、どちらかに向かえる方が、むしろ自由である。どちらにも進めず動けないという状態は、通常の行為の滑らかな実現にとっては障害と見なせるので、そのような障害がない状態は、媒介論的な定義によれば自由と見なすことができるのである。(田口茂「媒介された自由 媒介論的現象学の視点から」『現代思想』第49巻第9号/2021年8月/p.47-48)

 ネットで情報を得る場合、ターゲティング広告の技術などによって優先的にある情報を見せられている状況は、別の選択肢の「知識の欠如」をもたらし得るし、それは別の選択肢を選ぶ際の障害となり得る。もっとも、仮に優先順位を付けずに多数の選択肢を一覧できることが可能であるとした(《選ぶ/信じる》に映し出されるような場面を想定した)場合、それは「〈A.特定の方向づけられた動き〉に対する〈B.障害〉の〈C.欠如〉」として「自由」であることになる。ただその場面で自由を感じることは難しくなる。

 一般に、自分の人生の決定的なポイントで、Aをすべきか、Bをすべきか真剣に悩んだことのある人には、その状態が「自由」の典型的経験ではないということは明らかだろう。それはむしろ「自由」とはほど遠い状態である。Aが正解かBが正解か、どんなに考えてもまったくわからず、それでもどちらかを選ばねばならず、途方に暮れた状態である。そこでは「自由」よりも、押しつぶされそうな重圧を感じるだろう。
 とすると、われわれが「自由」(あるいは「自由自在さ」)を感じるのは、自分が何をすべきか、その理由がはっきりわかっていて、何の疑いもなく進むべき道を進んでいくようなときではないか。(田口茂「媒介された自由 媒介論的現象学の視点から」『現代思想』第49巻第9号/2021年8月/p.49)

 ネット上の情報は、利用者にとっては、恰もヒルベルトのホテルの無限個ある客室から1室を選ぶような感覚を生む。何を選ぶとしても「本当に望んでいたものや探していたものが見え辛くなっているのでは」という感覚から逃れられない。否、「本当に望んでいたものや探していたもの」が他にあるという感覚はオフラインでも存在したのであるが、オンラインではより多くのカードが視野に入ってしまうだけだ。「全∞種+シークレット」の「全∞種」にアクセスしやすくなった分、「+シークレット」の亡霊によりしつこく苛まれるのだ。

展覧会『扉は開いているか―美術館とコレクション 1982-2022』

展覧会『開館40周年記念展 扉は開いているか―美術館とコレクション 1982-2022』を鑑賞しての備忘録
埼玉県立近代美術館にて、2022年2月5日~5月15日。

埼玉県立近代美術館40年の歩みを、主要なコレクション、建築、代表的な展覧会を軸に振り返る企画。「近代美術館の原点―コレクションの始まり」、「建築と空間」、「美術館の織糸」、「同時代の作家とともに」の4部で構成。

【第1章:近代美術館の原点―コレクションの始まり】
初期のコレクション12点ほどを展示する他、田中一光の手懸けた開館記念展のポスターなど開館に纏わる資料を紹介。
1957年に開館した埼玉県立美術館はコレクションの機能を持たなかった、1976年に新美術館建設計画が始動して、コレクションの形成が始まる。アリスティド・マイヨールの彫刻《イル・ド・フランス》、クロード・モネの絵画《ジヴェルニーの積みわら、夕日》などが購入された他、埼玉県立博物館(現在の埼玉県立歴史と民俗の博物館)所蔵の郷土ゆかりの作家(越谷市出身の斎藤豊作、加須市出身の斎藤与里熊谷市出身の森田恒友など)の作品を引き受けた。初代館長には、国立国際美術館初代館長だった本間正義を迎える。実際に座ることのできる椅子の名品を館内に設置したのは本間のアイデアとのこと。
高田誠《浦和風景》と林倭衛《別所沼風景》とは浦和の景観を描いた作品。

【第2章:建築と空間】
黒川紀章が設計した建物について、習作(スケッチ・ドローイング)、設計図、模型、パース、記録写真(飯沼珠実による現状を撮影した写真も)などで紹介する。美術館脇に設置された橋本真之の彫刻《果実の中の木洩れ陽》なども併せて展示される。
格子に囲われたエントランス・ポーチは中でも外でもある「中間領域」であり、茶室の露地がイメージされている。自然(北浦和公園)と美術館との共生がその狙いである。作品展示のために普段は閉ざされている2階展示室Bのシャッターが開放されて、波打つ窓から美術館の格子越しに公園の植栽や池、そこで憩う人々の姿などを眺めることができる。
橋本真之《果実の中の木洩れ陽》は、レストラン前の植栽の中に設置され、以来、3度作品の加工・拡張が行なわれてきたという。黒川紀章メタボリズム(実作の「中銀カプセルタワービル」の住宅カプセルが北浦和公園に展示されている。会場内では中川陽介による映像作品を上映)との親和性があることから特に紹介されているのだろう。

【第3章:美術館の織糸】
もの派と70年代を中心に開催した3つの展覧会「1970年 物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)・「日本の70年代 1968-1982」(2012)・「DECODE/出来事と記録 ポスト工業化社会の美術」(2019)を紹介する「時代の再検証を試みる」、瑛九の作品・関連資料収集と調査を紹介する「作家の足跡を辿る」、小村雪岱の作品・関連資料収集と調査を紹介する「複製美術へのアプローチ」の3つのセクションで構成。
「時代の再検証を試みる」では、関根伸夫の《位相―大地》をめぐる資料を中心に、吉田克朗《650ワットと60ワット》、高松次郎《布の弛み》、柏原えつとむ《これは本である》などの作品が展示される。「作家の足跡を辿る」は、地道な調査活動の積み重ねにより集まった、瑛九の版画やフォトデッサンを始めとする作品や関連資料が、周辺作家の作品とともに紹介され、さながら瑛九展の趣。「複製美術へのアプローチ」は、開館前からコレクションの対象としている小村雪岱の絵画・版画、さらには書籍や舞台美術の仕事などを紹介する。かつて美術館で取り上げられることのなかった「複製芸術家」が、今日では美術館での展覧会開催が当然となったという変化を伝える。

【第4章:同時代の作家とともに】
田中米吉《ドッキング(表面)No.86-1985》や宮島達男《Number of Time in Coin-Locker》など美術館に設置されている作品とともに、川俣正、佐藤時啓、北野謙らが美術館で行なったプロジェクト、埼玉県ゆかりのアーティストを取り上げる展覧会シリーズ「ニュー・ヴィジョン・サイタマ」、新進作家に展示の機会を提供する「アーティスト・プロジェクト#2.0」など、作家との共同作業を紹介する。

本展では、地道な調査活動と展示活動を行う中でコレクションが充実し、新進作家に活躍の場を与えてきたことが紹介される。「扉は開いているか」と問いかける展覧会タイトルは、黒川の設計した建物が周囲との「中間領域」を生んでいることや、かつて美術館が取扱わなかった複製芸術家をコレクションの柱の1つにしていること、さらには新進の美術作家に展示や制作の機会を与えていることなどを示すことで、埼玉県立近代美術館が開かれているとの応答が含意されていると思われる。
ところで、会場には、初代館長・本間正義と建物を設計した黒川紀章との対談記事を掲載した『新建築』第58巻第1号(1983)が展示されている。黒川が地元縁の画家と彼らの洋行とを結び付けた開館記念展を評価しつつ、縁の画家がいない地域の美術館は難しいと、話題は公立美術館と住民との関係に移る。とりわけ現代美術を扱う美術館の場合の困難が指摘されていた。
翻って、本展は、住民にとって開かれた企画となっているだろうか。開館40周年を記念して行なわれる展覧会であり、美術館とそのコレクションを紹介する企画であることは分かるだろう。しかし、小村雪岱はともかく、埼玉縁の作家を知る者がどれだけいるだろう。瑛九、また然りである。そのような認識が企画者にもあるのか、「見どころ」に掲げられた3項目には黒川紀章以外に作家の名前は1人も挙げられていない。無料原則(社会教育法の精神に基く博物館は、図書館同様、入館料は徴収できないのが建前。博物館法旧23条。なお、2022年4月に博物館の観光資源化推進で同法現26条に)はさておくとしても、木戸銭1000円で「扉は開いている」と言えるかは怪しい(否、だからこそ「扉は開いているか」と自問しているのかもしれないが)。
無論、著名な作家や作品を扱えば良いと言いたいのではない。例えば、第1章ではコレクションから埼玉県ゆかりの作家たちの作品が紹介されているが、ほぼ出身地(あるいはアトリエ所在地)という属性が記号のように付されているのみである。それこそ作品と鑑賞者との間に「中間領域」が存在しない。埼玉出身ならではの作風が読み取れるかどうかは別として(地域性がないのが特性なのかもしれないが)、作品の魅力を伝える解説が一切ないのだ。地道な研究に打ち込んでいる、その熱を鑑賞者に伝える工夫があっていい。どうしても魅力が乏しい作品なら、いっそのこと、つまらない理由を論うとか、こう描いて欲しかったと改善点を指摘するのも一興だろう。作品と鑑賞者をつなぐ方法は何かしらあるのではなかろうか。