可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 堤千春個展『理想自己形成』

展覧会『堤千春個展「理想自己形成」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2022年9月5日~10日。

アメリカのアニメーションに登場するキャラクターのような(?)、デフォルメされた少女を主題とした絵画9点(1点を除いて2022年の作品)で構成される、堤千春の個展。

冒頭に展示された《笑顔であいさつ》(652mm×530mm)は、右手を挙げて挨拶する、赤い髪の少女を、一部をマスキングして緑を塗り重ねたように表した作品。丸い目は内目角のところだけ吹き出しのようにすぼまっている。鼻梁は曖昧で鼻尖と尾翼とが作る三角形の鼻、その下には子宮(左右の卵管と子宮内腔)を模式化したような形の口が笑みを形作る。仮面のような印象の顔を、どこまでも広がっていそうな赤い髪が取り巻いている。首や脇の位置に皺が寄る白いボディスーツの身体は、背景の緑によって、幼い子が描く人物のように単純化された胴と手脚とにトリミングされ、この少女を頭の割合が大きい幼児に見せている。口から吹き出しのように周囲(背景)の緑に繋がる形で、タグ(グラフィティ)のような黒に近い紫の記号が描き込まれている。未だ文字の書けない子どもの願望を表現したものとも、特定のグループだけで通じるスラングのようにも、さらには言葉そのものに対する不信を突き付けているようにも見える。いずれにせよ、幼さを求める社会の諷刺であることは疑いない。

ノーブレス・オブリージュ》(1940mm×1620mm)には、ピンクのキャットスーツを身に付け、喜びを表現するように両手を胸の前で組む少女の上半身が描かれている。顔の4分の1近くありそうな巨大な丸い左目はキラキラ輝き、右目は豊かな黄色い髪のために隠れている。鼻は四角錐に近い形で鼻孔は(漫画でよくあるように)表わされていない。口は左右の開きつつ下唇がU字に下がることで笑顔を作っているが、口の中は真っ暗な闇が広がる。淡いペールオレンジにピンクが差した顔の肌は仮面のようであり、背景の群青によって頬の線が細くなるよう修正されていることを露悪的に示している。描かれているのは、恰もディズニーランドのミッキーマウスのように、笑顔を振りまき、大袈裟な動作で喜びを表現する、少女というキャラクターの着ぐるみである。 期待される愛らしい少女を作り、演じなくてはならない社会的圧力を「ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」と表現したのであろう。巻き付く豊かな髪は少女を縛る拘束具であり、撥ねている毛は茨である。頭上に見える王冠のような形は荊冠なのだ。笑顔の向こう側、口に覗く深淵にこそ注目し、そこから漏れる声を聞かなければならない。

唯一英語のタイトルである《alive monitoring》(1940mm×1620mm)は、展示作品中唯一2020年の作品で、モティーフも描き方も、他の作品とは趣を異にする。ベッドの置かれた、市松模様の床と赤い壁の部屋の中に飛び込んできた裸の少女を描く。少女は艶やかなラテックス製の人形のようで、その写実的な描き方とは対照的に、窓枠も窓外の景色も、そこにかかるカーテンも描かれたものであることが強調されている。2本の得体の知れない大きな黄色いチューブ(しかも小さな亀裂から血が滴っている)や、それに巻き付く緑色のロープ、さらに大きな平板な花が室内に浮遊し、ところどころから白い煙が上がっている。ベッドは傾き、シーツがずり落ちてマットレスが露出している。この部屋はサイバースペースなのだろう。赤い壁には覗き穴があり、そこには少女を見詰める眼が描かれている。マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の、扉に穿たれた穴から女性の裸体を覗き見る《(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ》(通称《遺作》)を下敷きにしていることは疑いない。ベッドの存在は横たわる少女を連想させ、窓外の光景は《遺作》の背景に似ていなくもない。何より、床の市松模様は、デュシャンとの結び付きが強いチェス(盤)というだけはない。《遺作》には、鑑賞者から「見えない」床にチェス盤が表わされているのだ。そして、作家は、《alive monitoring》において、《遺作》とは「逆」に、扉の内側から、扉の内部を覗き込む鑑賞者を描いているのである。

 この遺作のキー・イメージとしてデュシャンが青年時代に慣れ親しんだ初期ピンナップの傑作ともいうべきガス灯のポスターのけいしきをそのまま借りていることは重要なことだ。19世紀末から20世紀初頭に大流行した、ミュシャのイラストレーションによく似たこのアウアー灯のポスターは明りをともされたガス・マントルを持つ半裸の娘が露わな乳房の下でタックしたシースルーの煽情的なスリップをつけ、一方の手に遺作の女性が左手で高く掲げていたアウアー灯を持ちあげ注意をそこに集めようとしている。ポスターの縁のまわりにはアール・ヌーヴォー有機的に成長するツルや花といった植物図案のかわりにガス技師が扱う複雑な鉛管類や鉄枠がビザールな装飾文様となってキッチュなポピュラー・イメージを強くかもしだしている。
 ピンナップとは見る者に性的な魅惑ないしは興奮を誘い、対象と一定の感覚的な関わりをもたせるような複製品のイメージである。(略)ピンナップ・イメージによって見る者が得られるのは本性を欠き正確を喪失した1人の女であり、匿名であるがゆえにひときわ煽情的になる性のシンボルだ。ピンナップはナルシスティックな円環をなして自閉する空間のなかでセクシュアルな私的関心をもって所有することができる。逆にいえばピンナップの女たちは〈私〉の性的な観念によってしか存在しえない。それはかつての女たちへの〈愛〉とは違い、ある瞬間から事物の存在や様相が変化するような精神状態は起こりえない、いわば愛の不在を確認するための装置なのである。
 (略)
 (略)遺作はピンナップ的環境に取り囲まれている社会構造のひとつのメタファーであり、自らの創造したものによって逆に本質を離れたある種の感情を創造されるという盗作関係を生き始めてゆく空間の模型なのである。
 「個と共同体が密接に運動し、あるいは明確に対立していた時代にはピンナップはいらなかった」とかつて石子順造は言ったが、確かにピンナップとは想像力圏をも規定してしまう近代の〈私〉性の成立と深い関係を持ち、私室の問題とつなげて考えることもできるものだろう。それは何より20世紀の所産であり、私的な空間を限定する風景であった(伊藤俊治『裸体の森へ』筑摩書房ちくま文庫〕/1988年/p.102-104)

《遺作》のキーイメージとなったピンナップの祖型であるガス灯のポスター。そこに描かれたツルや花のイメージをも《alive monitoring》は承継していると言えよう。そしてかつて「ピンナップはナルシスティックな円環をなして自閉する空間のなかでセクシュアルな私的関心をもって所有することができる」ものであったが、それはサイバースペースでは「共有」される「情報」へと変容した。覗き穴を覗いているのは1人だけではない。常に他者の視線が介入するのである。《alive monitoring》の中の「眼」が表わすのは、デュシャンの20世紀的、ピンナップ的鑑賞者であり、展示されている《alive monitoring》という絵画の鑑賞者は、ネット視聴者として、常に画中の「眼」と少女の裸体を共有するのである。"Anyone alive monitoring"という窃視の常態化こそ、作者が描き出したものである(aliveは叙述用法か後置修飾で用いないと落ち着かない)。そして、窃視の対象が少女であることが、「子供っぽさ」に執着する日本社会の戯画となっていることは疑いない。そして、改めて2022年制作の8点の絵画を眺めれば、そこにはネオテニーに絡め取られた現代女性の姿ばかりが存在するのである。

映画『LOVE LIFE』

映画『LOVE LIFE』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
123分。
監督・脚本・編集は、深田晃司
撮影は、山本英夫
美術は、渡辺大智。
音楽は、オリビエ・ゴワナール(Olivier Goinard)。

 

郊外の団地の1室。大沢妙子(木村文乃)が、パーティーの飾り付けをしている。息子の敬太(嶋田鉄太)がオセロの大会で優勝したお祝いをするのだ。息子にせがまれ、その最中にもオセロの対戦を強いられている。妙子の電話が鳴る。勤め先の自立支援センターの近藤洋子(三戸なつめ)から、炊き出し中に喧嘩が起きたとの連絡だった。今から向かうから無理な仲裁はしないでと伝え電話を切る。妙子はベランダに出ると、下の広場にいる夫・二郎(永山絢斗)に向かい大声で叫ぶ。二郎さん、ちょっと出てくるー! 二郎は福祉課の後輩たちを集めてプラカードでお祝いメッセージを表示する準備をしていた。確認してもらえる? 二郎の合図でプラカードを掲げる。3番目と4番目が逆! 妙子が部屋を出ると、向かいの建物に住む義母の明恵(神野三鈴)が大声で妙子を呼ぶ。お父さん行ってない? 来てませーん! 妙子は自転車に乗って出て行く。
広場に色取り取りの風船を持った山崎理佐(山崎紘菜)がやって来る。先輩、風船、来ましたよ。風船を持ってきたのが理佐だと知って、二郎は動揺する。二郎は出番まで近所の喫茶店で待機するよう後輩たちに伝えて、自宅に戻る。
すいません、お休みのところ。洋子が妙子を喧嘩の現場へ案内する。スーツの男が妙子たちにホームレスの1人にスマートフォンを叩き落とされたと訴える。ホームレスの男は断り無く写真を撮ったからだと反論する。妙子が場所を変えて話しましょうと提案するとスーツの男は立ち去っていった。妙子はホームレスの男に酒を飲んでいることを注意することも忘れない。
妙子が自転車で帰宅する途中、喫茶店に向かう二郎の同僚たちに出くわす。そこへ敬太がキックスクーターに乗って母親を迎えに来る。敬太君、大きくなりましたね。敬太、覚えてる? 皆さんとは1度結婚式で会ってるんだよ。敬太は3人の名前を覚えていた。妙子が敬太が覚えていなかった2人の名前を教えるが、一緒にいる女性は見覚えが無い。山崎は結婚式に出席しなかったからですからと大槻治(東景一朗)が説明する。
自宅に戻ると、二郎が台所に立っていた。ナポリタンにしたんだ。いいにおいだね。敬太は早速オセロの続きを妙子にせがむ。二郎がママとばかりだなと言うと、敬太は手話で父さんは弱いからと母親に告げる。妙子、手伝って。二郎が妙子に料理の盛り付けを頼む。敬太はPCでオセロのオンライン対戦を始める。
茶店。二郎の指示を待つ福祉課の後輩たち。隅では大槻が山崎を呼んだ後輩(浦山佳樹)を注意している。山崎は大沢さんと結婚寸前だったんだけど、大沢さんの浮気で破局したの。その浮気相手が今のかみさんなんだよ! 大沢さん、お父さんの方の、大沢部長だ! 大沢誠(田口トモロヲ)が明恵とともに喫茶店の前を歩いて行く。福祉課の面々は見えないように机の下に隠れる。
リヴィングでは、敬太がオセロのオンライン対戦をしている。隣の部屋では二郎が電球を取り替えている。お父さん、結婚認めてくれるかな? 妙子が不安を口にする。そりゃそうだろ、もう結婚しちゃったんだから。電球を取り付けた二郎が妙子を抱き締める。そこへチャイムが鳴る。義父母が部屋へやって来た。
明恵はゲーム大会優勝おめでとうと告げると、敬太はゲームじゃなくてオセロだと訂正する。妙子が敬太はオセロをゲームだと言われるのを嫌がるのだと説明する。これ効くの? 明恵は鳥よけに吊してあるCDを気にする。
ごめん、やっぱり行けない! 山崎が席から立ち上がり、喫茶店から駆け出してく。追え! 大槻の指示に、坪井義博(緒方敦)がすぐさま山崎の後を追う。全速力の山崎と坪井の姿は見る見る小さくなってく。あの2人、陸上部でしたから。お前は? 文芸部です。
優勝おめでとう! 敬太のお祝いが始まった。5人がテーブルに着いているが、誠は妙子の顔を向けないように座っている。敬太にプレゼントが渡される。1つ目は動物図鑑。喜ぶ敬太に、お父さんからよと明恵が伝える。次は何かな? 飛行機だ! まだ始まって間もないが、誠が長居したからもう帰ろうと言い出す。そこへ大槻から二郎に時間を稼ぐよう連絡が入る。二郎は父親の趣味の釣りの話を持ち出す。ネットで中古の釣竿が手に入ると妙子が言うと、「中古」でいいものと悪いものがあるんじゃないかと義父が言い放つ。子持ちで再婚した妙子を当て擦る言葉だった。母さんだって口にしないが我慢してるんだ。もともと暮らしていた部屋を譲って向かいの建物に引っ越したのは孫の世話をするためだった。文句を言い捨てて立ち去ろうとする義父に、妙子は言葉を訂正して欲しいと訴える。明恵が夫を足止めして謝るよう促す。誠は、言い過ぎたと謝罪する。義母に感謝する妙子。いいのよ。でも、次は本当の孫を抱かせてね。

 

ホームレスの自立支援の仕事をしている妙子(木村文乃)は、役所の福祉課に勤める二郎(永山絢斗)と知り合い、前夫との間の息子・敬太(嶋田鉄太)を連れて再婚した。それから1年。敬太がオセロ大会で優勝した祝いの席は、結婚を認めていない二郎の義父・誠(田口トモロヲ)の65歳の誕生日をサプライズで祝うことで、妙子との関係改善を図る目的があった。誠は役場の部長だったこともあり、二郎は職場の同僚たちに祝いのメッセージをプラカードで表示させる計画だった。二郎はそのメンバーに山崎理佐(山崎紘菜)の姿があるのを見て動揺する。もともと結婚を誓った仲だったが、二郎が妙子に乗り換えることで破局したからだ。敬太の優勝祝いは、誠の態度でギスギスした雰囲気に。義母の明恵(神野三鈴)が誠と妙子の仲を取り成すが、次は本当の孫を抱かせてねと悪気無く言い放った言葉が妙子に突き刺さる。役場の後輩たちによる誠の誕生日のお祝いメッセージのサプライズは、大槻治(東景一朗)の機転で、途中で立ち去った理佐の代わりに2人のシスターに手伝ってもらうことでうまくいく。職場の後輩やシスターを交え、カラオケを始めて賑やかになるお祝いの会。敬太はプレゼントされた飛行機で風呂場に行って1人遊んでいる。浴槽の水を潜らせて飛び立たせる。飛行機を手に持ち上縁面に登ったところで足を滑らせた敬太は、頭を打ち、残り湯の中に落ちる。

(以下では、結末も含め、冒頭以外の内容についても触れる。)

誠が妙子を良くない中古品に擬えるところからはっきりと調子が変わる。とりわけ明恵が「本当の孫」を抱きたいと言ったり、とりわけ、思い出のある部屋に亡くなった(血のつながりのない)敬太を連れ帰って欲しくないと表明するところなど、悪気なく言い放っているがゆえに本心の吐露であり、妙子が義父母との関係を修復しづらい状況に追いやられているのがよく伝わる。
風呂に水を張ったままではいけないとの二郎の注意を守らなかった妙子は、敬太の死に責任を感じている。それにも拘わらず悪くないと慰められることは、妙子にとっては、敬太がいなかったことにされることに等しい。斎場で実父のパク・シンジ(砂田アトム)からが殴られた妙子は、喪失を罰されることで、敬太の存在を実感し、その実感を与えてくれる元夫への信頼を生じさせる。
妙子と敬太とのオセロの勝負は決着が付かないままになった。義父母との関係も、義父母が引っ越したことによって曖昧になる。白黒付けないことによって日々が進んでいく。
弱い存在を守ろうとして生まれる力に頼る弱さ。強さと弱さとは表裏一体。
目を合わせて来なかった二郎が妙子に目を合わせる瞬間に表示される「LOVE LIFE」というタイトル。そのタイミングに痺れる。そして二郎の散歩の誘いに妙子が付いていく。雲の無い空の下、2人が歩む姿が、暗い日々を反転させていく明るい未来の予兆となっている。

展覧会 小林椋個展『ヌー・フォー・フィーヌ・フェニ・ファー』

展覧会『小林椋個展「ヌー・フォー・フィーヌ・フェニ・ファー」』を鑑賞しての備忘録
gallery N 神田社宅にて、2022年8月27日~9月10日。

ポップな家具ないし玩具を思わせる、マットで鮮やかな色彩と滑らかな表面を持つ、一見して使途不明の機械部品のような規格化された形で構成される、一部可動式の立体作品7点で構成される小林椋の個展。不思議なタイトルは、彫刻を構成する立体の型の名前に因む。例えば、「ヌー」ならキリル文字のПの2本の縦線が揺れたような形を指し、「ヌー・ヌー」とはそれが2つ組み合わされていることを示す。

《フェニ(ウニが喜ぶときの音)》と《(フェニ(反対側に迫り出すとき、もう反対側もまた、迫り出す)》とで用いられる「フェニ」は、上底の方が広い四角錐台で、下底の側を波形に切断した形。上底側は明るい青で、その他はクリーム色に着彩されている。どちらも上部に黒いチューブで繋がれた黒い楕円を切断したような形のオブジェが動作を続け、チューブが形を変えていく。2つのうち、可動部がより早く動き回り、より複雑な運動を設定されている《(フェニ(反対側に迫り出すとき、もう反対側もまた、迫り出す)》は天井に近い高い位置に設置されているため、見上げる形で「フェニ」とその上に覗く黒いチューブの変化を鑑賞することになる。

規格化された部品から構成され、なおかつ運動する部分を持つ立体作品は、細胞や遺伝子のような基礎的な部分と絶え間ない運動から成る生命の表現とも解される。だが、作家の意図は、何かに擬えられる視線から逃れ、作品の形と色そのものを純粋に味わわせることにあるようだ。

「正n角形の芳香な幻をのれんのように据え置くことこそ並々ならぬ」とそれは言う。またしても静止したポルscheを拝覧することこそがポルscheのそのもの性であるかのように謳うが、その存在は運動と切り離すことはできない。玄関のドアが可塑性の高いダチョウの伸び縮みに合わせて開口部が設計されているように、売れっ子アイドルが井の頭公園駅に各駅停車することもあるのだ。そうは言っても、手のひらに書き込まれた線のなかには用途不明なものがあり、それらが新宿駅地下街のレリーフ型の彫刻を構成しているのは間違いないだろう。「正n角形の肩幅を調停するためのマネジメントこそマミマミマラぬ」とそれは言う。(作家が本展に寄せたステートメント

「正n角形の芳香な幻」とは円のことであろうか。正多角形の全ての頂点は1つの円周上に位置するからだ。それを「のれんのように据え置く」とは、(のれんが風などで揺れるように)運動を維持したまま作品として提示することかもしれない。実際、展示作品には回転運動が伴っている。
ところで、移動手段である自動車を鑑賞の対象とするのは、眺められることを目的としない自然の景観を風景画として描き表わすことと等価である。美術の制作――そして鑑賞――に際して、本来の用途は等閑に付される。しかしながら鑑賞者は作品が何を表わしているのかに執着する。恰も玄関が来訪者に対して、その大きさを変えないように、鑑賞者の思考は凝り固まっている。だからこそ、作家は作品の方を動かすことで、却って鑑賞者の思考の可塑性を実現しようとするのだ。
それでは何故、作品に回転運動を持ち込むのか。それは、どんな形をしていようと、回転運動の結果、円という形に収斂するからであろう。回転する部分は暖簾の布、絵画で言えば支持体に当たる部分である。従って、回転する黒いオブジェは目に入っていながら見えないことになっている「黒子」として作品に導入されていると言える。それは純粋に不動の部分を見せるための仕掛けなのだ。

映画『この子は邪悪』

映画『この子は邪悪』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
100分。
監督・脚本は、片岡翔。
撮影は、花村也寸志。
美術は、野々垣聡、
録音は、吉方淳二。
衣装は、篠塚奈美。
ヘアメイクは、知野香那子。
編集は、山本彩加。
音楽は、渡邊琢磨。

 

誰もいないプール。淀んだ水。水面に漣が立つ。男がプールサイドから身を乗り出して水を飲み始めた。
精神科。甲府市。自室でPCに向かう四井純(大西流星)がサーチエンジンで検索する。壁に掛けた地図には多数の写真や付箋が貼られている。アパートの通路を這う女。アパートの物が溢れたベランダで手摺に噛み付く男。メンタルクリニック
スズエさん、スズエマリさん、いますか? アパートの1室のドアの前で声をかけるが、応答がない。2人の職員がドアを開けて中に入る。物で溢れかえる暗い室内。テーブルの下に隠れている母親は虚ろな表情。離れた場所に少年が蹲っている。職員はもう大丈夫だからと声をかけ、少年を保護する。母親と子どもが職員によってアパートから連れ出される。高校の制服を着た純が離れた位置から観察し、撮影する。
純が帰宅すると、母親が居間で金魚の水槽をぼんやりと眺めている。純は台所で食事の支度をしている祖母(稲川実代子)に、今日、母さんと同じような人を見つけたと報告する。包丁の手を止める祖母。これで5人目。祖母は何も言わない。
純は、くぼ心理療法室を訪れる。古い和洋折衷の白い建物。2階の窓から白い仮面を被った少女(渡辺さくら)が外を眺めている。純が少女を見ていると、男(玉木宏)が現れ、少女に行こうかと声をかけて窓を閉ざす。そこへ帽子を被った女性が、くぼ心理療法室を訪ねて来る。少女とともにいた男がお待ちしていましたと女性を迎え入れる。
くぼ心理療法室の裏庭。窪花(南沙良)が多数のウサギを遊ばせている。診察室で心理療法士である父・司朗が患者にメリーゴーラウンドが好きか尋ねているのが聞こえてくる。私から先にお話しましょうと司朗が語り始める。5年前に家族で出かけた遊園地の帰り道、突然居眠り運転のトラックに衝突されましてね。妻は未だに病院で眠ったままです。次女はひどい火傷を負って、家から出られません。私は脚の神経を損傷して脚を引き摺っています。長女は奇跡的に無事でしたが心に深い傷を負ってしまいました。司朗は患者に近寄って優しく訴える。人は皆、1人では生きられません。一緒に傷ついた魂を癒やしていきましょう。庭で花が立ち聞きしているのに気が付いた司朗は、診察室の窓を閉ざす。
夜、居間で花は父と妹と食卓を囲む。花が作った夕食を司朗が妻の繭子にも食べさせたいと言えば、仮面を被った月が自分も料理を頑張ると宣言する。人には向き不向きがあるからと司朗が言うと、何それ、ひどいと月がむくれる。
庭で花が洗濯物を取り込んでいる。純が現れ、昔一緒にウサギと遊ばなかったかと花に尋ねる。驚く花。君、この家の人?
帰宅した純は自室でPCに向かっている。退行催眠について調べる。催眠療法でトラウマが消えたなどの検索結果が表示される。祖母がもうすぐごはんだよと呼びに来る。くぼ心理療法室って知ってる? 純の問いかけに祖母は知らないと言って立ち去る。
花と月が居間で並んで勉強をしている。月が花に質問していると、司朗が奇跡が起きたと言って、繭子(桜井ユキ)を家に連れ帰ってきた。喜ぶ月が母親のもとへと駆け寄る。月、つらかったねと繭子が月を抱き締める。だが花は違和感で身動きがとれない。それでも恐る恐る母のもとへ向かい、抱き合う。司朗も3人を抱き締め、これからは家族みんなずっと一緒だと声をかける。
夕食を家族4人で囲む。繭子は花が料理が上手なことに驚きを隠さない。母親代わりでずっと頑張ってきたからと司朗が花を労う。月はママみたいになりたくてずっとピアノを頑張ったのと言ってピアノに向かう。繭子は食事中でしょと窘めるが、司朗は今日くらいいいじゃないかと、月がピアノの腕を披露するのを許す。久々に家族4人が揃っての団欒。だが花は繭子に対してどうしても馴染めないものを感じてしまう。
夜、父は、廊下で出くわした花が怪訝な表情を浮かべているので、どうしたのか尋ねる。お母さん変じゃない? 整形手術をしたし、5年間も寝たきりだったんだから。どうだ、久しぶりに診察室で話そうか? 父の申し出を花は断る。花は妹の部屋で月にも尋ねてみるが、妹は母に対して何の違和感も抱いてはいなかった。
診察室で司朗が患者に退行催眠療法を行っている。7歳になるよ。催眠状態に入っている女性に声をかけ、6歳、5歳と次第に年齢を下げていく。0歳。何が見えるかな? 笑い出す女性。そこにお兄ちゃんはいるかな?
居間で母と2人になった花。繭子が娘に尋ねる。このクッション、ボロボロになったね。ずっと大切に使っていたから。そういえば花がお父さんに渡すって言ってた刺繍はどうなったの? 母しか知らない刺繍の話が持ち出されたのに驚いた花は自室に向かい、家族4人をモティーフにした刺繍を取り出す。繭子が刺繍を見て、よく出来ていると褒める。花は5年も苦しんできたんだものね。ごめんね。母に抱き締められた花は、胸のつかえが取れた心地がする。

 

窪花(南沙良)は、5年前、家族で出かけた遊園地の帰り、居眠り運転のトラックに衝突される事故に遭う。母・繭子は今も意識のない状態で入院している。父・司朗(玉木宏)は脚の神経を損傷して脚を引き摺らないと歩けなくなった。妹・月(渡辺さくら)は顔に火傷を負い、仮面を付けて生活を送り、家から出ることができない。花は大した怪我を負わずに済んだが、自分の発案で出かけたがために家族を惨事に巻き込んでしまったと心を病んでいる。ある日突然、奇跡が起きたと父が繭子(桜井ユキ)を連れ帰る。月は喜ぶが、花は違和感を禁じ得ない。それでも母しか知らないはずの、事故前に父親に贈るために縫っていた刺繍の存在を繭子から指摘されて、花はようやく帰ってきた母を受け容れる。庭に放したウサギがフェンスの穴から逃げ出したのを探しに行くと、先日、自宅を兼ねた心理療法室に訪ねて来て、昔一緒にウサギと遊んだと言っていた男子高校生(大西流星)が、逃げたウサギを捕まえていてくれた。やっぱりウサギを飼ってたんだねと言う男の子は、友達になって欲しいと花に告げる。

(以下では、冒頭以外の内容についても触れる。)

司朗は、診察室に置いた沢山の飼育籠でウサギを飼っており、また、彼が窓を閉める動作が繰り返し描かれる。それは司朗が催眠によって人を自らの手の中に閉じ込めてしまう能力を有していることを示す。自宅を兼ねたくぼ心理療法室の裏庭(ウサギの墓と思しき十字架もいくつか立てられている)が建物に囲まれた閉鎖環境であるのは、父親であり心理療法士でもある司朗の支配の象徴だ。花、月、繭子が度々そこでお茶の時間などを過ごすのは、司朗に囚われていることを表わす(何が起ころうとも、その支配が断たれることがないことが明らかにされるだろう)。
病院から自宅に戻った繭子について、E.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)の短編小説「砂男(Der Sandmann)」に登場する人形のような女性を彷彿とさせる描写がある。本作品で人形やロボットとして人間が描かれるわけではない。だが、AIによって著名な故人が再現される例に見られる通り、あらゆる情報の集積・分析・再構成によって、人間のある種の再生が可能になっている。恰も魂が依代に宿るように、情報としての生命を別の媒体に移しうる可能性が描かれている(その意味では、映画『トランセンデンス(Transcendence)』(2014)に通じるものがある)。生命が遺伝子によって形成されるなら、生命は情報と捉えることができる。本作は情報を魂と捉え、情報が等しければ同じ存在と言えるのかという問いを突き付けている。
作品のテーマの1つは、映画『死刑にいたる病』(2022)同様、児童虐待である。但し、身体に対する加害は描かれず、その存在が示唆されるのみである(ネグレクトは描かれる)。本作では、同時に、虐待をなくす正義の暴走をも描いている。愛情と暴力とが截然と区別できないことを訴える意図があるのだろう。
メリーゴーラウンドが繰り返し場面に登場する。記憶の再現であるとともに、記憶の強化でもある。また、負の連鎖のメタファーともなっていよう。
くぼ心理療法室の裏庭からウサギが逃げ出すことで、ウサギを捕まえてくれた純と花とが友達になるきっかけになる。だが、作品の結末において、何故あのウサギが逃げ出したのかがはっきりする。

展覧会『ライアン・ガンダー われらの時代のサイン』

展覧会『ライアン・ガンダー われらの時代のサイン』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリーにて、2022年7月16日~9月19日。

ライアン・ガンダーの個展。

ギャラリー1の中央辺りの片側の壁、高さ4メートルくらいの位置に、ステンレス製の文字盤(わずかにズレて時を表わす線が二重になっている)のみのアナログ式時計2つが背中合わせに設置されている。《クロノス・カイロス、19.04》[33]という題名から、機械的な連続する時間(Chronos)と、それとは別の時間(Kairos)とを示す、時間の相対性が主題の作品であることが分かる。この時計のオブジェの前には、25個の黒い立方体が並ぶ(「ウェイティング・スカルプチャー」シリーズ[06-30])。それぞれには同じ白い光を放つ液晶パネルのインジケーターが設置され、1つ1つが別の時間を計時している。とりわけ「グレゴリオ歴の1分」である60秒を示す作品[19]はクロノスの表現であり、「作家好みのやわらかさに卵をゆでる時間」である258秒を計時するもの[14]は、カイロス的時間のクロノス的表現と言える。「イギリスで正規の外科医になるために要する時間」347126472秒[29]はざっと11年に相当するため、インジケーターが進んでいるように見えない。ギャラリー1の2個所には出番を待つ役者の等身大の彫刻が置かれている。座る女性[04]と立つ男性[34]は黒く光るグラファイト製でいずれも白い衣装を身に付け、展示室に溶け込んでいる。彫刻の周囲の白い壁にはグラファイトで擦った黒い跡が残り、「役者」たちが動いた形跡を演出している。それにより、彫刻が動いていないこと、すなわち時間の停止が強調される。展示室の天井の隅の黒い風船《摂氏マイナス267度 あらゆる種類の零下》[38]が実はファイバーグラス製の彫刻であるのは、浮き上がっているかに見える存在が動きの無い状態であること、すなわち時間の停止を訴えるものか(なお、摂氏マイナス267度はヘリウムの臨界点である)。「風船」が天井に浮かび上がっているのとは対照的に、巨大なステンレス製の彫刻《立体の均衡》[39]が落下したことを装って台座を破壊する形で設置されている。浮遊と落下という2つの運動の擬装は、どのような運動が起きたかを想起させることで時間の逆行を想起させる。すなわち鑑賞者に対して一種のタイムマシンとして機能することを期して作品が提示されている。それは、葉巻の吸殻を模した銀の彫刻[36]に《時間を逆行しながら過ごす》との題名が与えられていることからも間違いない。ギャラリー1に入口傍に設置された、ランダムに経緯度を表示する《あなたをどこかに連れて行ってくれる機械》[03]が鑑賞者に想像力で空間を超えさせるように、時間を超えさせるのだ。
ギャラリー1では「ハード・コンポジション」シリーズ[32,37]を始め鏡面加工の作品を用いて促された内省は、ギャラリー2では他者の眼によって強いられることになる。「壁に耳あり障子に目あり」よろしく、壁にアメリカン・コミックに登場するタイプのキャラクターの目[41-42]が設置され、鑑賞者を監視する。その壁の裏側の黒板に描かれた「美術・デザインの新しい学校」の図面[51]は、大小の円形のプランを持つパノプティコンであり、まさしく「ビッグ・ブラザー」の目である(なおかつ左右に2つ配することで漫画キャラクターの目[41-42]の相似となっている)。ガリレオ・ガリレイを描いた銅版画が立て掛けられているのは、「コペルニクス的転回」を介して、鑑賞者を見る存在から見られる存在へと反転を訴えるためであろう。だからこそギャラリー2では鏡は布(人造大理石製)で覆われてしまうのだ[72]。鏡を失い、自らのイメージを把握できない状況は、カタストロフだろうか。倒れる椅子[71]、崩壊する建物[43]、天体が象徴する世界[49]、そして言葉さえ失われてしまう[43, 53-69]。だがエントロピーの増大に抗するように、秩序を取り戻すことは可能である。例えば月(のイメージが象徴する世界)が崩壊しているなら[49]、パズルのようにピースを組み替えて満月を取り戻せば良い、作家は「解けない」クロスワード・パズル[45]に解を考案して見せること[44]で、米ドルが象徴する資本主義の世界が行き詰まるなら[48]、それとは異なる理路を案出すべきであると訴えるのだ。