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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 武田鉄平個展『近作展』

展覧会『武田鉄平 近作展』を鑑賞しての備忘録
MAHO KUBOTA GALLERYにて、2022年8月27日~10月1日。※当初会期9月24日までを延長。

自ら制作した肖像画を描いた「絵画のための絵画」シリーズ10点で構成される、武田鉄平の個展。

《絵画のための絵画 040》(910mm×730mm)には、恰も証明写真のような筆跡の残らないよう塗った灰色を背景に、赤い服を身に付けた人物の肖像が表わされている。頭頂部のなで付けた艶やかな黒い髪と、絵具をチューブから塗り付けたような線が襟を形作る、真っ赤なジャケットと。それらに挟まれる顔の部分は、赤と白の絵の具を中心に絵具が厚く盛られ、筆の刷毛の線が細かく入った部分と、飴細工のようなマーブルの部分とでグチャグチャである。位置関係から額、目、鼻、頬、口などを辛うじて想像できる程度にしか容貌を表現していない。塗りたくられた部分を眼輪筋、皺眉筋、口輪筋などの筋肉に比定することもできなくはないが、顔の筋肉に忠実な再現でもない。これだけでも特異な作品と言えるが、実は、この作品は模写と言い得る作品である。絵具の盛り上がり、刷毛目、絵具の混じり合いや光沢は、原画のイメージを伝えるものではあるが、実際の画面に絵具の盛り上がりなどはあまりなく、平滑に近い。ある種の騙し絵(トロンプ・ルイユ)とも言えよう。

 (略)芸術等の創作活動の一部として行われる「コピー/複製」である。その目的は作品の創作である。制作者はオリジナルである対象からインスピレーションを得たり、それをイマジネーションの源として利用する。こうした「コピー/複製」は、自然模倣から派生した古典的な芸術の本質規定に則った作品制作、本歌取りのうような知識、教養の発露としての引用、あるいはパロディ、パラフレーズといったモダニスト的「知」の現れとしての引用に至る芸術創作の一技法である。またこれにはモダニスト的な「知」とは関係なく、現代芸術作品にみたれるような世間に氾濫する、ときには商業的な現代の共通のイメージを利用するシミュレーション・アート、ポップ・アートと呼ばれる、ほとんどオリジナルの剽窃からなるような現代のあらゆる創作活動をも含む。(磯貝友紀・寺田鮎美・山崎和佳子・近藤由紀「揺れ動く『真』と『贋』」西野嘉章編『東京大学総合博物研究博物館特別展示東京大学コレクションⅫ 真贋のはざま――デュシャンから遺伝子まで』東京大学総合研究博物館/2001年/p.23〔近藤由紀執筆〕)

「絵画のための絵画」シリーズは、「作品の創作」のため「自然模倣から派生した古典的な芸術の本質規定に則った作品制作」として、自ら制作した原画を対象として描いていると言える。

 またオリジナルと複製された対象との「類似性」のありようによって定義される場合もある。この場合、同一の作者によって複製化された作品でも、オリジナルと複製品の類似のレベルによって、レプリカ、ヴァリアント、ヴァージョンなどと区別される。たとえば前出のレプリカは現在一般的にはオリジナルの表現方法および内容を再現するために制作された対象に用いられることが多いが、この分類に従うとレプリカとは同一の作者あるいは同一工房によって再生産された作品を意味する。その類似のレベルはオリジナルに忠実に再制作された対象に対して用いられる。そして順にヴァリアント、ヴァージョンとオリジナルとの類似のレベルが低くなっていく。また原作者あるいは同一工房以外による複製化では何をコピーするか、またどのようにコピーするかによってマルティプル、パスティッシュ、パロディ、パラフレーズ、アプロプリエーションと区別される。マルティプルとは立体的な芸術作品で量産された作品を意味する。したがってオリジナルという関係は存在せず、換言すればすべてがオリジナルである。現代芸術におけるマルティプルは鋳造彫刻のようにエディションなどで数量を制限しないこと、さまざまな工業的過程によって生産されることが意図されており、原作者はその青写真のみを提示する場合もある。
 同じようにパロディとパスティッシュは現在では共に似たような引用の一形式として認知されがちであるが、オリジナルをどのようにコピーするかによって適用される用語が異なってくる。パロディが「批判的距離をもった模倣」であり、形式的に他者の模倣であるばかりではなく、明白に内容の問題と関わっており、「皮肉な『文脈横断』(trans-contextualing)と転倒をもった反復」と定義されており、パロティされた作品とオリジナルのテクストとの関係は変形的であり、対象とされたテクストと作品の間にはアイロニーを含んだ距離があることが特徴として挙げられている。
 一方、パスティッシュは、パロディとテクストの関係が差異の強調であるのに対し、パスティッシュされた作品とテクストの関係は模倣的であり、対象としたテクストとの差異よりも同一性が強調される。パスティッシュの場合はパロティと異なり、模倣に嘲笑的な意図が含まれない。したがって、プルーストによるとパスティッシュは「賞賛的批判」と呼ばれる。また、アプロプリエーションのように他の作者の作品をそのままコピーし、自らの作品として提示する剽窃行為も現在ではその意図が明確にされている限り、芸術制作の一技法として認識されている。(磯貝友紀・寺田鮎美・山崎和佳子・近藤由紀「揺れ動く『真』と『贋』」西野嘉章編『東京大学総合博物研究博物館特別展示東京大学コレクションⅫ 真贋のはざま――デュシャンから遺伝子まで』東京大学総合研究博物館/2001年/p.26-27〔近藤由紀執筆〕)

「絵画のための絵画」シリーズは、「同一の作者によって複製化された作品」と言うことができ、一種のレプリカである。確かにイメージの類似性だけを考慮すれば、限りなくレプリカに近い作品と言える。もっとも、作家は、原画にあった絵具の立体的な量塊を、量感として平面に落とし込んでいる。絵画が単なるイメージではなく物としての存在であることを、平面性を強調した作品によって訴えているのだ。その点では「批判的距離をもった模倣」であり、同一作者による模倣でありながらもパロティ的である。

 こうした現代における「コピー/複製」の多様化には高度に概念的になった現代芸術の問題が含まれている。それはマルセル・デュシャンが「画家の用いる絵具も既製品であり、したがって芸術とはすべて既製品である」と述べたように、絵具のみならず、芸術家の感覚や思想さえも決して既成のものから自由ではあり得ず、芸術家のオリジナリティなどもはや存在し得ないという芸術概念への問いかけ、あるいは「芸術家の独創性」といった一種の神話に対する不信に由来する。こうした芸術作品における「コピー/複製」あるいは引用の多様化の動きは、ロマン主義以降、われわれの中に深く浸透しているオリジナル神話を崩壊させようとする動きと呼応している。(磯貝友紀・寺田鮎美・山崎和佳子・近藤由紀「揺れ動く『真』と『贋』」西野嘉章編『東京大学総合博物研究博物館特別展示東京大学コレクションⅫ 真贋のはざま――デュシャンから遺伝子まで』東京大学総合研究博物館/2001年/p.27〔近藤由紀執筆〕)

マルセル・デュシャンが言うように「画家の用いる絵具も既製品であり、したがって芸術とはすべて既製品である」なら、既にある物を寄せ集めて作られた新しい物である芸術とは、一種のブリコラージュと言えよう。手持ちの自作を用いて新たな自作を生み出している「絵画のための絵画」シリーズの場合、レプリカを本来の複製という用途とは異なる用途のために利用したと評し得る。その異なる用途とは、絵画の役割を提示して見せることだ。

 ここで、プラトンがヒントを――正しい答えではなくヒントを――与えてくれる。プラトンは、自然の模倣としての芸術作品を賞賛するのではなく、逆に、これを無意味で無用なものとして斥けているからである。プラトンにとっては、芸術はまがいものである。というのも、芸術作品は、二重のコピー(模倣)、模倣の模倣だからだ。どうして、模倣が「二重」になるのか。プラトンの観点からは、通常の事物がすでに模倣だからである。「何の」模倣なのか。「イデア」の、である。真に実在するのは、――プラトンによれば――イデアのみだ。われわれがこの世界の中で見たり、触れたりしている事物は、つまりわれわれに対して経験の対象として現れている事物は、イデアの写しに過ぎない。とはいえ、われわれに直接現れるのは、この第一段階の写しだけなのだから、これについてはその存在を容認しないわけにはいかない。芸術作品は、つまり絵画や彫刻は、この(イデアの)写しのさらなる写しということになる。したがって、存在論的には、3つのレヴェルが想定されている。まず、イデアがあり、それの物質による模倣があり、そしてその模倣の模倣としての芸術がある。だが、この第3のレヴェル、つまり、すでにまがいものであるもの(第2のレヴェル)のさらにまがいものなど、なくてもよい、いやない方がよい。これが、プラトンの考えである。第2のレヴェルにおいて、人は、すでに真の実在ではないものを実在と取り違えているのだが、それは必要悪として許容できても、第3のレヴェルの芸術は、もはや必要ですらない、端的に悪である。
 このプラトンの見方が、われわれに霊感を与える。確かに、プラトンの通りに考えた場合には、写実を目指す絵などまったく無意味なものであって、そんなものをわざわざ描こうとする情熱は、ますます不可解だし、そもそも愚かしいものだ、ということになる。が、プラトンとは逆に考えたらどうだろうか。芸術作品のライバル、芸術作品がそれに近づこうとしているものが、自然の事物、知覚者に現れたままの事物だと考えれば、プラトンの言う通りだが、芸術作品が対抗しているライバルは、自然の事物ではないとしたらどうか。
 ライバルは何か。イデアである。自然の模倣のように写実的に描いているとき、画家は、プラトンが「イデア」と呼んだものを見ており、それを目指していたのだ。われわれが何ものかを美しいと感じるとうことは、それの「イデア」を見ていた、ということではないか。このように考えれば、写実的な絵画への情熱も説明可能なものになる。単に、自然を模倣しているわけではない。自然を超える過剰分があり、その過剰分こそが、描くことへの衝動、そして鑑賞して享受することへの愛着を説明するのだ。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』講談社/2021年/p.202-203)

「絵画のための絵画」シリーズの原画のモデルをイデアと看做せば、原画はイデアの模倣となる。そして、原画を写した作品は、イデアの模倣の模倣となる。もっとも、平滑に表わされた作品は、原画の物質性を排除してイメージのみを捉えていた。それは、原画(イデアの模倣)を表現するのではなくモデル(イデア)のイメージを抽出しようとしているのである。「絵画のための絵画」シリーズは、絵画がイデアを表現するものであるという役割を提示するための絵画なのだ。

映画『川っぺりムコリッタ』

映画『川っぺりムコリッタ』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。
120分。
監督・脚本は、荻上直子
原作は、荻上直子の小説『川っぺりムコリッタ』。
撮影監督は、安藤広樹。
照明は、重黒木誠。
録音は、池田雅樹。
美術は、富田麻友美
装飾は、山崎悠里。
衣装は、村上利香。
スタイリストは、堀越絹衣。
ヘアメイクは、須田理恵。
編集は、普嶋信一。
音楽は、パスカルズ

 

山田たけし(松山ケンイチ)が駅に降り立つ。向かったのは沢田水産工業。山田さん! 社長の沢田(緒形直人)が工場から出てきて山田に声を掛ける。沢田が手を差し出ても、山田は突っ立ったまま。沢田が山田の手を取り、握る。頑張ろうよ! 沢田水産工業は主にイカの塩辛の製造を行っている。作業員がイカを包丁で切断していく。山田も見よう見まねで作業に加わる。ゆっくりでいいから、始めは丁寧に。社長の信頼の厚いベテランの中島(江口のりこ)がアドヴァイスする。作業を続けていると山田のもとに沢田がやって来る。すぐ辞めちゃう人も多い。コツコツ続けていれば、昇給もある。真面目にやれば誰でも更生のチャンスはあるからさ。
山田が仕事を終えて河川敷を歩いて行く。橋脚にはホームレスの姿がある。山田はハイツムコリッタにやって来る。長屋のような平屋の簡素なアパートが2つ並ぶ。ヤギが繋がれていて、鳴いている。山田は箒で掃除している女性(満島ひかり)に声をかける。沢田水産工業の社長の紹介で来ました、山田です。彼女は聞いていますと作業の手を止め、山田を部屋へ案内する。室内に入り、6畳、4畳半、台所と風呂場と部屋を説明する。電気、ガスはすぐ使えるようになっています。こちらが東、反対側が西、だからこちらが北で、そして私が大家の南です。古いけどここで死んだ人はいないから安心してと言い置いて南は出て行った。
風呂に入る。至福の表情を浮かべる山田。風呂を上がると上半身は裸のママ、タオルを首に巻き、南向きの窓の外を眺めながら、グラスに注いだ牛乳を飲み干す。
北側にあるドアをノックする音がして、思わず振り返る。気のせいかと思うと、再びノックされる。山田は白いTシャツを着るとドアを開ける。どうも、僕、隣の島田、よろしく。無精髭の男(ムロツヨシ)が洗面器とタオルを持って立っていた。普通引っ越しする方が挨拶するよね。風呂貸してくれない? 給湯器が壊れちゃって、3日も入ってないの。あ、銭湯行けばいいって思ったでしょ? 銭湯入るのに420円もするんで、余裕無いんだよね。僕、ミニマリストだから。お風呂入ってたでしょ? 全部聞こえちゃうんだ、壁薄いからね。無理矢理部屋に入ろうとする島田を追い返して、山田はドアを閉める。
暑い最中に黒いスーツに身を包んだ溝口健一(吉岡秀隆)が同じくスーツ姿の息子・洋一(北村光授)と並んで歩いている。すき焼きを食べることを想像しよう。関西風がいいな。まず牛脂を入れて熱した鍋に牛肉を広げるんだ。砂糖を振って、焼き色が付いたら肉をひっくり返して醤油を垂らす。醤油と砂糖が溶け合うんだ。肉の煮える音が聞こえてくるだろう。父親がすき焼きを作って食べる動作をして見せる。溝口が一見の民家に立ち寄り、呼び鈴を鳴らす。主婦らしき女性が姿を現わす。こんにちは。お暑うございます。笑顔で過ごしていらっしゃいますか。宗教の勧誘? いいえ、ただいまキャンペーン中でございまして。溝口が墓石のチラシを示す。安心して下さい。死なない人はおりません。今から用意しておけば安心です。子供を出汁にするなんて最低だね。女性は玄関を閉ざす。
沢田水産工業。昼休み。山田は近所の店に向かう。手持ちの金は276円。何も買うことができず、山田は店を後にする。職場の裏手にある防波堤に座り、そのまま倒れて横になる。目の前には青い海が広がる。強い日射しが山田に照りつける。
フラフラと帰宅した山田は郵便受けに手紙が入っているのに気が付く。その場で開封して一読した山田は、川の土手の近くにある電話ボックスに向かい、手紙の送付元である市役所の社会福祉課に電話をかける。山田と申しますが、そちらから手紙をいただいて…。え? 土手の上を黒いスーツを着た親子が歩いて行くのが見える。山田は電話に頭を打ち付け、電話ボックスの外に崩れるように出ると、地面に蹲る。ナメクジに唾を吐く。
暗い部屋に戻った山田は何も無い冷蔵庫を開けたり閉めたりする。食べるものもない山田は、寝る他にすることが無い。横になると、社会福祉課の職員から聞いた話が蘇る。見つかったときには既に亡くなっていました。悪臭で近所の方に発見されました…。山田はかけ算九九の7の段を逆順に何度も唱えていく。
山田さん! 麦藁帽子を被った島田が声をかける。生きてる? 網戸を開けて横たわる山田の様子を確認する。お、生きてた。やだよ、隣人が熱中症で死亡とか。山田は島田に背を向ける。島田は菜園で採れたトマトとキュウリを置いていく。島田が去ると、山田は振り返り、キュウリとトマトを手に起き上がる。キュウリを囓る。トマトに齧り付く。
沢田水産工業。タイムカードを切った山田に沢田が給料袋を手渡す。山田さん、お疲れ様。ほっとしたよ。1日、2日で辞めちゃう人いるから。塩辛持ってって。来月もよろしく。
山田は買い物袋を下げ、いつもの河川敷の道を通って家に向かう。山田の部屋と道を挟んで向かいの建物では、溝口の親子がスーツ姿で団扇を使っていた。
帰宅した山田は買ってきた米を研ぐ。風呂に浸かり、風呂上がりに牛乳を飲む。炊飯器の前でご飯が炊き上がるのを待つ。電子音が鳴るとともに待ちきれないといった山田が炊飯器の蓋を開け、しゃもじでかき混ぜる。茶碗に白米を装うと、卓袱台に向かい、手を合わせてから米を口に頬張り、噛み締める。寺の鐘の音と虫の声に包まれる食卓。味噌汁と海苔の佃煮、塩辛をおかずに、山田は夢中で飯を喰らう。
どうも。ちょうど良かった。これ差し入れ。島田が食事中の山田のところへ姿を現わす。風呂貸してよ。畑仕事でドロドロ。網戸を開けて勝手に入ってくる島田。でも心の準備が…。準備万端でしょ、お風呂は沸いてるんだから。島田は風呂に入ってしまう。
割烹着姿の南が台所で夕食の準備をしている。南は表に出ると、川の土手でいる娘のカヨ子(松島羽那)を呼ぶ。
河川敷。橋脚の傍に青いビニールシートのバラックが建った。山田は鍵盤ハーモニカの音色に誘われて、2つの橋梁に挟まれた場所に向かう。演奏しているのは洋一だった。彼の周囲にはホームレスが集めたものか、家電製品や電話などの廃棄物が山をなしている。山田が洋一に挨拶すると、洋一は鍵盤ハーモニカを吹いて答える。山田は扇風機を見付けると、持って行ってもいいかと洋一に尋ねる。洋一はやはり鍵盤ハーモニカを吹いて答えた。
扇風機を回して山田が寝ていると、島田が現れ、扇風機を買ったのか尋ねる。拾ったと答えると、クーラーを拾って来いとけちを付ける。島田は畑仕事を手伝うよう山田に求める。

 

出所した山田たけし(松山ケンイチ)は水産加工会社「沢田水産工業」に向かう。これまでも出所者を迎え入れて来た沢田社長(緒形直人)は山田を温かく迎え入れると、とにかくコツコツ続けることだと励ます。沢田の紹介で暮らすことになったのは、川岸に立つ古い平屋のアパート「ハイツムコリッタ」。大家の南詩織(満島ひかり)はまさに掃き溜めに鶴だった。早速風呂に入った山田のもとへ隣に住む島田孝三(ムロツヨシ)が訪ねてくる。ミニマリストを標榜する島田が風呂を借りようと侵入を試みるのを追い払う。暮らしに事欠く山田のもとに市役所から絶縁状態だった父の死が知らされた。孤独死だった。自分の行く末とも重なり、気力を失った山田は夏の盛りに冷房も無い部屋に横たわったまま動けない。島田が現れ、目の前の菜園で採れた野菜を届ける。山田は野菜に齧り付くと、気力を取り戻す。給料が入り、米を炊く。一人食事を満喫していると、島田が現れ、一瞬の隙を突いて風呂に入られてしまう。以降、山田は、野菜の見返りで、島田の菜園の作業を手伝わされ、風呂を使われ、飯を食べられてしまうという生活を送る羽目に。ある晩、山田が孤独死した父の遺骨を引き取りに行っていないと知った島田は、どんな人でも居なかったことにしてはいけないと訴える。山田は市役所に向かう。社会福祉課の堤下靖男(柄本佑)から遺骨と遺品とを渡される。遺体は腐敗が進んでひどい状況だったが、火葬場では極めて美しい喉仏が残っていたと、堤下は骨壺から喉仏を出して山田に見せた。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する)

亡くなった人や魂。生きる意味や幸せ。見えないものは見えないのではない。見ようとしていないだけだ。見ようとすれば、見えないものも見えるのである。
生きる意味が何かという問題は棚上げにして、1歩1歩進んでいく他にない。見過ごしてしまうような、ごく細やかな幸せに光を当てて、とりあえず1歩だけ前に進む力を与えてくれる作品。
出所してカツカツの生活を必死で送る山田。だが山田に父の孤独死の知らせがもたらされることで、真面目に生活したところで、行き着くのは孤独の果てに腐敗し、蛆に集られる末路しかないという厳しい現実を突き付けられる。希望もなく、死にかけた山田を救ったのは島田の野菜だった。野菜は命の乗り物だと言えよう。そして野菜は同時に精霊馬でもある。山田は父親を迎え入れることができるだろう。
魂が金魚のように空に舞い上がる話を、山田は命の電話の相談員から聞く。溝口が同じ話をカヨ子に語って聞かせるとき、溝口の状況もまた分かる。
飼い犬のための200万円の墓石と、金魚を埋めた場所に立てられた、捨てられたアイスキャンディーの棒。死者を悼む気持ちに差はない。
生きていたときにも骨はあったと考え、遺骨に対する忌避感がない南は、夫の遺骨を囓り、夫の遺骨と交わる。だが夫の子を身ごもることはないだろう。それが妊婦に対する強烈な嫉妬の原因となっている。南の欲望は、生きること死ぬことへのフラットとも言うべき向き合い方が丁寧に描かれていく中で、違和感なく受け容れられるものとなっている。
塩辛を作るため、切り刻まれたイカが大量に穴に落ちていく水産加工場と、大空に浮遊するイカ形の凧の対比も見事だ。そして、対岸(≒彼岸)に凧が揚がっているのを見た島田が、俺も連れてってくれと叫んで走っていく場面が忘れがたい。
ラクタ感のある音楽も登場人物や作品にふさわしい。

映画『3つの鍵』

映画『3つの鍵』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のイタリア・フランス合作映画。
119分。
監督は、ナンニ・モレッティ(Nanni Moretti)。
原作は、エシュコル・ネヴォ(אשכול נבו)の小説『三階 あの日テルアビブのアパートで起きたこと(שלוש קומות)』。
原案・脚本は、ナンニ・モレッティ(Nanni Moretti)、フェデリカ・ポントレモーリ(Federica Pontremoli)、ヴァリア・サンテッラ(Valia Santella)。
撮影は、ミケーレ・ダッタナージオ Michele D'Attanasio)。
美術は、パオラ・ビザーリ(Paola Bizzarri)。
編集は、クレリオ・ベネベント(Clelio Benevento)。
音楽は、フランコ・ピエルサンティ(Franco Piersanti)。
原題は、"Tre piani"。

 

夜。ローマの閑静な住宅街。3階建てのアパルトマンからモニカ(Alba Rohrwacher)が姿を現わす。肩にバッグを掛け、キャリーケースを引き摺るモニカは息苦しそうだ。スマートフォンの配車アプリで空車の手配をしているが、一刻の猶予もならない様子。猛スピードで車が突進してくる。モニカが停まってと声を上げる。車はモニカの脇を高速で通り過ぎ、道路を横断していた女性を跳ね上げると、アパルトマンの1階にあるルーチョ(Riccardo Scamarcio)の書斎に突っ込む。ルーチョの娘フランチェスカ(Chiara Abalsamo)は壁を突き抜けた車の前でが茫然と立ち尽くす。運転席のアンドレア(Alessandro Sperduti)は頭から血を流し虚ろな表情を浮かべている。ルーチョとサラ(Elena Lietti)がやって来て娘の無事を確認する。アンドレア! 息子の自動車に気が付いたドーラ(Margherita Buy)が夫のヴィットーリオ(Nanni Moretti)とともに3階からアパルトマンを駆け下りる。ドーラは息子の無事を確認すると、彼は大丈夫だとルーチョたちに告げ、息子が轢いた女性の元へ向かう。ヴィットーリオは轢かれた女性に聞こえるかと声をかけていた。ヴィットーリオは妻に尋ねる。アンドレアは? 大丈夫。医者が来るわ。
ルーチョとサラはフランチェスカを隣に住む老夫婦レナート(Paolo Graziosi)とジョヴァンナ(Anna Bonaiuto)に預ける。一晩預かってもらうことになると恐縮するルーチョに、レナートはフランチェスカが好きだからと伝える。学校があるから8時には迎えに来るからねとルーチョが娘に言い聞かせる。
病院。モニカが分娩台に乗り、2人の助産師の介助を受けている。いいわ、モニカ。息をして。全て順調よ。父親を呼びましょうか? 駄目よ、夫はいない。息をして。
テレサテレサ、俺だ、見えるか? 轢かれた女性に向かって夫のトーマス(Sergio Pierattini)が声を掛けている。ストレッチャーで運ばれるアンドレアと付き添うドーラ。ヴィットーリオは2人が救急車に乗り込むのを嶮しい目で見守っている。
朝。事故現場には仮囲いが設置された。ルーチョとサラが娘を迎えに行くと、レナートが馬になってフランチェスカを乗せ、部屋の中を回っていた。フランチェスカがレナートにキスをすると、帰りは2回だともう1回キスをせがむ。ジョヴァンナ、ありがとう、助かったわ。とんでもない。フランチェスカは素晴らしい娘ね。私たちこそ幸せだわ。姪が小さかったとき、いつも一緒に遊んで。レナートは幸せだった。家に子供がいて彼は嬉しいの。ルーチョの一家がレナートの家を後にした途端、フランチェスカがレナートが壊れてると口にする。何てこと言うの。壊れてるってどういう意味だ? 何でも忘れちゃうの。眼鏡をどこに置いたかとか、テレビのリモコンが何なのかとか、自分の名前まで忘れちゃう。助けてあげないといけないの。ふざけてるのかも、私もふざけるし。もう預けるの止めましょう。ベビーシッターを見付けないとな。
モニカが帰宅する。古いエレベーターを降りると、玄関の前に大きなプレゼントが置かれていた。モニカが産んだばかりのベアトリーチェへの贈り物だった。お母さんくらい美しいと思う、会えるのを楽しみにしている、とロベルト(Stefano Dionisi)からのメッセージが添えられていた。モニカはベッドで、建設現場にいる夫ジョルジョ(Adriano Giannini)とヴィデオ通話する。モニカがロベルトからのプレゼントを報告すると、ジョルジョは兄とは関わりたくないと言う。でも、贈り物なの。愛情でしょ。ベアトリスはどうしてる、眠ってるのか? ええ。すぐに戻ってくるでしょ、1人でイルには嫌なの。もう1人じゃないだろ。そんな機転を利かせないでよ。すぐに戻って来て。ああ、すぐ戻るさ。本当に寂しいの。
判事のドーラはアンドレアの弁護士からの電話を受け、執務室を出る。公判の期日とそれまでに用意する資料を弁護士に確認して電話を切る。ドーラはそのままヴィットーリオのもとへ向かう。夫も判事で、まだ公判の最中だった。
ドーラはアンドレアとヴィットーリオとともに帰宅する。弁護士は情状酌量の余地があると言ってるわ。夜道は暗く、色褪せた横断歩道はほとんど視認できないわよね? 刑はそれほど厳しくないかもしれないわ。責任があなただけにあるんじゃないってことを主張できる証人がいるかもしれない。女性が突然暗闇から飛び出したって。あの女性は亡くなっているんだ。それにアンドレアは酔っていた。
仕事場に突っ込んだアンドレアの車を作業員が撤去するのをルーチョが見守っている。その光景を3階に住むアンドレアも見ていた。アンドレアをドーラが呼ぶ。代筆した被害者遺族トーマスへの返信を息子に確認してもらうためだ。僕の懲役は何年になるんだ? どの刑務所に送られるんだ? ローマにはいられるのか? 激昂するアンドレア。落ち着きなさい。まず始めに審理が行われるわ。弁護士とともに状況を理解しないと。何の罪に問われるんだ? 殺人か? ドーラは息子を抱き締める。
出かけようとしていたルーチョにサラから電話がある。ルーチョはリヴィングでテレビを見ながらお絵描きをしていたフランチェスカに声を掛ける。お父さんは出かけなきゃならないから、お母さんが戻るまでレナートとジョヴァンナの家で待っててくれる? うん。色鉛筆持ってっていい? もちろん。ルーチョは娘をレナートの部屋に連れて行く。サラが渋滞に巻き込まれてしまったのですが、私はフィットネス・クラブに行かなければなりません。サラは間もなく戻ると思います。ジョヴァンナもすぐ戻るよ。色鉛筆を持ってきたからお話を描こう。そうしよう。じゃあね、パパ。お母さんはすぐ来るから。ありがとう、レナート。
フィットネス・クラブ。ルーチョはトレーナーの指示に従い、皆と一緒にエアロバイクを漕いでいる。シャワーを浴びてロッカールームに戻ったところで、スマートフォンに連絡が入っているのに気が付く。慌てて身支度を整え、車で家に急行する。フランチェスカがレナートとともに姿を消したのだ。

 

ローマの閑静な住宅街にある3階建てのアパルトマンに、夜、飲酒運転の自動車が突っ込んだ。運転していたのはアンドレア(Alessandro Sperduti)。3階に住む、ともに判事のドーラ(Margherita Buy)とヴィットーリオ(Nanni Moretti)の息子だった。アンドレアがアパルトマンの手前で撥ねた女性は即死だった。自動車が突っ込んだルーチョ(Riccardo Scamarcio)の仕事部屋には、ルーチョとサラ(Elena Lietti)の娘フランチェスカ(Chiara Abalsamo)がいたが幸い無事だった。夫妻は娘を隣に住む老夫婦レナート(Paolo Graziosi)とジョヴァンナ(Anna Bonaiuto)に預ける。老夫婦はフランチェスカを可愛がってくれたが、娘によればレナートは痴呆気味らしい。事故の際、2階に住むモニカ(Alba Rohrwacher)は産気付いて1人病院に向かう最中だった。夫ジョルジョ(Adriano Giannini)が出張のため不在で、モニカは病院でベアトリーチェを出産した。ジョルジョの兄で不動産業で成功しているロベルト(Stefano Dionisi)は出産祝いを贈ってくれたが、詐欺師の兄とは縁を切ったから関わるなとジョルジョはモニカに釘を刺す。孤独で産後鬱気味のモニカは施設に入っている母(Daria Deflorian)にベアトリーチェを会わせに行くが、強迫症が進行している母の姿に自分もそうなるのではないかと不安を募らせる。ルーチョがフィットネス・クラブに出かけようとしたところ、サラが渋滞にはまって帰宅が遅れていたことから、レナートにフランチェスカを預けることにした。ジョヴァンナは出かけているがすぐに戻るという。ところがフィットネスクラブにいたルーチョに、フランチェスカがレナートとともに家から姿を消して戻っていないと連絡が入る。慌てて帰宅したルーチョはジョヴァンナを責め、近くの公園に探しに行く。フランチェスカの名前を叫ぶと応答があり、木立の中で、娘はレナートの頭を膝の上に載せて座っていた。レナートは粗相していた。衰弱していたレナートは入院する。ルーチョはレナートが娘に猥褻な行為を行ったのではないかと疑う。女性警官(Alessia Giuliani)は、傷や体液の痕跡は無く、フランチェスカへの事情聴取からレナートに問題行動は無かったと報告するが、レナートを尋問していないことに納得がいかない。娘の様子がおかしいと不安に駆られるルーチョは妻を伴って精神科医(Francesco Acquaroli)に相談すると、トラウマとなる出来事は抑圧されて表に出されることはないと告げられる。ルーチョはレナートに対する疑念を確信にまで高めるが、サラは夫の思考が病的であると受け付けない。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

3階建てのアパルトマンの家庭の生活が崩れていく状況を描く。3階に暮らすドーラの家庭は、夫ヴィットーリオの支配に反発する一人息子アンドレアが飲酒運転で死亡事故を起こしたことをきっかけに、バラバラになっていく。2階に住むモニカは、夫ジョルジョが長期出張で不在がちのため一人で出産・育児に当たり鬱気味である上、施設に入っている母の強迫症が進行している姿に強い不安を覚える。1階に住むルーチョは溺愛する娘が隣人のレナートに預けた際に性的虐待を受けたのではないかとの疑念を拭うことが出来ず、衰弱して入院していたレナートに暴力を振るうに至る。
ヴィットーリオの敷く道を進むことを強いられたアンドレア、ジョルジョの不在により育児などで家庭に縛られるモニカ、ルーチョから溺愛されるフランチェスカ。それぞれが親子ないし夫婦の束縛から逃れることは、囚われを象徴するアパルトマン(の部屋〉から出て行くこととパラレルになっている。
アンドレアが父の敷く道から外れて父に衝突することが、道路から逸れてアパルトマンに突っ込むことで暗示されている。自らを傷つけることでしか父の支配から逃れることができないと考えたのだ。道から離れた場所にアンドレアは安住の地を模索することになるだろう。
モニカは度々幻覚を見る。それはカラスであり、ロベルトだ。それらがアパルトマンに現れ、飛び立ち、あるいは姿を消す。モニカはそれらに自らの姿を重ね合わせるだろう。
ルーチョはレナートが娘に対して性的虐待を行ったとの妄執に囚われる。それは、自らの性的な嗜好をレナートに反映しているからだ。その証拠が、レナートとジョヴァンナの孫娘シャルロッテ(Denise Tantucci)との関係として提示されるだろう。

映画『よだかの片想い』

映画『よだかの片想い』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。
100分。
監督は、安川有果。
原作は、島本理生の小説『よだかの片想い』。
脚本は、城定秀夫。
撮影は、趙聖來。
照明は、森紀博。
録音は、鈴木健太郎
美術は、松本良二。
装飾は、土橋麻衣子。
衣装は、松本紗矢子。
ヘアメイクは、内城千栄子。
編集は、野澤瞳。
音楽は、AMIKO。

 

前田アイコ(松井玲奈)が、無機質な白い部屋で、ライターの佐藤優妃からインタヴューを受けている。友人まりえ(織田梨沙)が勤めるミサワ出版からノンフィクション『顔がわたしに教えてくれたこと』が刊行される運びとなり、顔に痣のあるアイコも取材対象者の1人となっていた。人の目を最初に意識したのはいつだか覚えていますか。小学4年生のとき、社会の授業で。先生が黒板に滋賀県の地図を描いたんです。そうしたら生徒の1人が私を振り返って、琵琶湖だと叫んだんです。みんなが私を見て、前田の痣は琵琶湖だと囃し立てました。それはひどいですね。子供ですから。その後先生に叱られて、みんな謝ってくれましたよ。治療法は無かったんですか? ドライアイスを押し当てたりしましたね。ただ私が痛がるのを見て母が治療を続けさせませんでした。
緑溢れる公園。アイコの写真撮影の準備が進められている。まりえ(織田梨沙)がベンチで待機するアイコに飲み物を差し入れる。できる女って感じだね。アイコがまりえを茶化す。一応撮ってみて、使うかどうかは後で決めていいからね。アイコがスタッフに呼ばれる。まりえが頑張れとアイコを送り出す。
やっぱり原作、乗れませんかねえ。プロデューサー(池田良)が歩きながら映画監督の飛坂逢太(中島歩)にねばっている。いつまでもこの調子じゃ仕事ないですよ。もし気が変わったら来週までに連絡下さいね。プロデューサーと別れた飛坂が1人歩いていると、レフ板の眩しい光で、公園の写真撮影に気が付く。緊張した面持ちで正面を見据えて立つ、凜とした佇まいの女性。彼女の左頬に痣があるのが遠目にも分かった。
大学のキャンパス。アイコは、所属する研究室を率いる安達教授(三宅弘城)が沢山の荷物を抱えて歩いているのに出会す。アイコは荷物を運ぶのを手伝う。中古のマイクロ波発振機を手に入れたという。研究費が削減されて新品を買う余裕がないとぼやく教授。あなたの本、読みましたよ。宇宙飛行士になりたかったんですね。
研究室では、ミュウ先輩(藤井美菜)がやはり本の話題を振ってきた。売れてるんでしょ。生協で山積みだった。アイコの表紙の写真いいよね。ミュウ先輩は後輩の原田(青木柚)にも意見を求める。…ああ、先輩って感じですよね。
ミサワ出版。文芸部の隅にあるテーブルでアイコが待っていると、カエルのぬいぐるみを抱えた少女が通りかかり、アイコを見詰める。痛いの? アイコが否定する。娘を捕まえてに来た母親はアイコの顔を目にした動揺を隠し、大人しく待ってなさいと娘を連れて行く。まりえが来て、インタヴューのオファーがアイコに殺到していると告げる。アイコはこれ以上話すことはないと素っ気ない。まりえは映画化の話があることも伝える。症状について知ってもらうチャンスじゃない? アイコは乗り気ではない。ごめん、アイコが喜ぶって勝手に思っちゃった。でもさ、監督に会ってみない? 1度会食してさ。話、進んでるの? カエルのぬいぐるみを持った女の子がアイコの前に再び現れて、バイバイと言って立ち去る。…分かった。話を聞いてから断る。
アイコが夜の街を歩く。カップルの交わす会話の中のキモいという言葉に反応してしまう。自分のことではなかったが、容姿を貶す言葉にアイコは敏感にならざるを得なかった。
居酒屋でアイコはまりえとプロデューサーと卓を囲んでいる。プロデューサーはアイコに大学院で何を研究しているのか尋ねる。アイコは電磁波の回折について説明するが、科学のことはからっきし分からないとプロデューサーが自嘲する。そこへ飛坂がやって来た。まりえから名刺を差し出される。飛坂が今切らしててと謝ると、プロデューサーが名刺なんて持ってるのと笑う。飛坂はアイコが写真撮影に臨んでいる現場に偶然出会したと切り出す。恥ずかしさと葛藤しながらも堂々と立っている姿が目に焼き付いた。その後書店でアイコの写真が表紙を飾る本を見付けて読んだ。アイコの語り口が面白かった。子供の頃の気持ちを思い出した。飛坂は映画化を思い立った経緯を真摯に語る。静かに涙を流しながら聞いていたアイコは突然席を立ち、店を出る。飛坂が慌ててアイコの後を追う。

 

生まれつき左頬に痣のある前田アイコ(松井玲奈)は、友人のまりえ(織田梨沙)の勤務先であるミサワ出版から刊行されるノンフィクション『顔がわたしに教えてくれたこと』のインタヴューに応じるとともに、表紙のモデルを務めた。映画監督の飛坂逢太(中島歩)は偶然アイコの写真撮影に出会したことをきっかけに、アイコが表紙の本を読み、映画化を決断した。アイコは断るつもりで飛坂と会ったが、彼の真摯さと魅力とにほだされて心が揺らぐ。飛坂の作品を見たアイコはますます彼に惹かれていく。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

アイコにとって、常に人の目に触れてしまう左頬の痣は、劣等感の原因である。引け目を克服して、前向きな人生を送りたいと考えている。自分を変えるきっかけとして、まりえからのインタヴューと撮影のオファーを引き受けたのだろう。
実は小学4年生のとき、痣が琵琶湖の形に似ていると注目されたことに戸惑うとともに、どこかそのままの姿を受け容れられた喜びを感じてもいた。ところが優しい担任の教師が見せたことの無い剣幕で生徒を叱ってしまう。容姿を揶揄うのは間違っているとの判断からだ。だがそれがゆえにアイコの痣はタブーとなり、アイコにとってもまた個性としての可能性を剥奪され、醜さの烙印となってしまった。
アイコのあざとの付き合いは20年以上に渡る。アイデンティティの構成要素ともなっている。単に否定することはできない。自らが表紙の本が出版され、映画監督の飛坂に会えたのも、顔の痣があってのことだ。痣を除去してしまったら、もはや自分ではななくなってしまうのではないかという不安を抱えている。
そんな中、アイコは、左頬の痣が広がり、顔を覆っていく夢を見る。痣が結果的に見知らぬ世界へと連れ出してくれたが、それに頼ることは、自らを痣に同化ないし矮小化することにならないかという不安が拭えない。
宮沢賢治の「よだかの星」を踏まえて、アイコは醜いよだかに比せられる。「よだかの星」では、よだかが鷹から改名を強いられて拒み、結果として死出の旅につくことになる。アイコが痣を除去することは、よだかの改名に等しい行為であろうか。アイコは苦渋の決断をすることになる。
やや強引な展開ではあるが、ガラスの罅が痣を覆うのと、ファンデーションが痣を覆うのがパラレルになっているのは見事(ミュウ先輩の存在も効いている)。
「ラテ研」に所属しているミュウ先輩がセクシーなサンバの衣装で現れるのに驚いたが、鳥のイメージを導入するためであった。
中島歩が演じる飛坂の醸し出す柔らかな雰囲気がとても良い。アイコでなくともほだされるだろう。『偶然と想像』(2021)と『愛なのに』(2022)で何故か「下手な人」を演じることになったが、本作では濡れ場は割愛されている。
アイコの子供時代を演じた少女は、むしろ、まりえに似ている。

展覧会 郭家伶個展『浮回廊』

展覧会 郭家伶個展『浮回廊』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2022年9月12日~17日。

郭家伶の個展。

《烟火》(840mm×295mm)には、垂直に伸びるアーチで構成されるゴシック様式の聖堂の内部のような空間が、暗くはなく、黄色と黄緑とで光溢れる場として表現されている。縦長の画面が見上げる動作を促し、高さの感覚を増幅する。雲のような白い物体が3つ宙空に浮いているのも高さの演出となっている。画面手前から奥へ向かって通路も長く伸びていて、行き止まりの小さな扉からは光が放たれる。中景には何かが煙を上げている。雲のような浮遊物は、この煙であったのだろうか。狼煙のようなメッセージであるのかもしれない。前景には動物が手前に飛び出すように駆け寄る姿が描かれ、「雲」・煙・アーチの垂直に対し、通路とともに水平の動きを強調している。絵画の通路は、鑑賞者が現に立っているギャラリーの通路状の空間と接続する。会場の床に丸まって眠る(?)白い毛の犬の立体作品《犬》は、《烟火》から飛び出したのかもしれないと思わせ、絵画と現実とを地続きにするのに一役買っている。

地下にあるギャラリーへと階段を下ってきた鑑賞者が最初に目撃する作品は、表題作《浮回廊》(900mm×645mm)である。いくつものアーチにより構成される聖堂のような建物の内部――《烟火》への連想を促す――に佇む赤いマントを羽織った人物が描かれる。画面手前の床から階段を上がったところに人物が立っており、人物の背後には窓越しにドームの内部が覗いている。画面手前から奥に向かう上昇運動が、繰り返されるアーチとともに演出される。画面手前の床には花束が落ちている。赤いマントの人物が捨て置いたものか、あるいは人物が花(の化身)であるのかは定かでは無い。画面右手前のアーチには緑のカーテンが描かれている。それが僅かに開いているのは、絵画の内部へと誘うためであろう。
《人魚》(460mm×300mm×50mm)は、壁に掛けた木箱の下に白い粘土製の人魚を背中を見せる形で横たえた上、臙脂のカーテンで覆った作品。人魚とは、人間と魚との両者の性質を併せ持つ境界上の存在であることが、木の縁に置かれることで強調されている。人魚の下半身、すなわち魚の部分を覆うカーテンは、尾鰭に擬態するかのように箱から飛び出している。現実との緩やかな仕切りであるカーテンを開き作品の中へと入り込ませる《浮回廊》の仕掛けが、立体作品の《人魚》で繰り返されている。《人魚》の隣に展示された、森の中へと舟で分け入る人物を描く《听见钟声》(228mm×158mm)や、ギャラリーに比せられる壁に囲まれた水辺で、人物が水の中へと飛び込む様を描く《别处》(970mm×1460mm)もまた、鑑賞者に作品の世界を探索し没入するイメージを増幅させる。3枚の画面で構成された《密林》(530mm×1365mm)では、密林の奥に向かう人を描いた左側の画面が、中央のハンモックに横たわる人物の背後の、光の滝のような場所に飾られている。右側の画面のシャンデリアの吊された空間で洞穴の入口に向かう人の姿は、それ自体壁面に描かれた絵画となっている。現実と絵画とは地続きであり、鑑賞者はそこに宙吊りになっているのである。作家の本展の意図を象徴する作品と言える。

《失重》(470mm×490mm)は、エメラルドグリーンの空の下、黄色と桃色との明るい海岸に白味を帯びた群青の波が打ち寄せる、明るい景観。仮に暗い色彩が用いられていれば、レオン・スピリアールト(Léon Spilliaert)の世界に転じていたかもしれない。画面の手前の草叢には、台座に人物の立像が立っていて、左に傾いている。恰も左側の蛇行する海岸線(あるいは波)に引っ張られているようだ。あらゆる物の間には引力が働いているのであるから、ブロンズ像が波に引き寄せられるのも当然である。作家は力に着目している。世界をダイナミックに捉えている。例えば、流体のような砂が絡みつく人物や、空中に巻き上げられた椅子などを描く《浮砂》(1167mm×803mm)は、常に人や物に力が働いていることを表わすものだ。力の相互関係による絶えざる変化が、感情、認識、表現に影響を与えずにはおかない。そのため、作品もまた固定されたものではなくなる。さらに、展示空間は作品による舞台に比せられることとなる(《失重》の画面には銅像の台座以外に舞台のような半円の構造物が描き込まれている)。《テーブル》、《椅子》、《カーテン》、《抱き合う人》、《蝋燭》というサイズも異なる5点の絵画で構成される《白焰火》は、役者(《抱き合う人》)、舞台装置(《テーブル》と《椅子》)、照明(《蝋燭》)、幕(《カーテン》)という演劇を強くイメージさせる作品である。《无人的房间风景居民》(1450mm×1000mm)では、紐が張られた木枠からズレた位置に、人物や室内を描いた画布に椅子を描いた画布が重ねられ、さらに樹木などを描いた背景幕や装飾のような画布も上か垂らされたり貼り付けられたりしている。1枚の絵画が舞台として提示されているようだ。ピーター・ブルック(Peter Brook)の言うように、俳優と観客との存在で演劇が成り立つのならば(「空的空間」)、絵画とそれを見る人とでも「演劇」は成り立つ可能性があると、「无人的房间风景居民」というタイトルは示唆しているのではないか。

北行》(243mm×333mm)は、草原に佇む馬と、その背に乗って手綱を摑む人物とを描いた作品。馬は人物の背丈の倍くらいの高さを持っている。馬の体は仄白く発光するようで、それが月明かりのためか、足元の燃えるような草のためかは判然としない。背後の丘の向こうには暗い空を背景に海がわずかに覗いている。作品は床に置かれ壁に立て掛けられているが、その手前に、繰り返し折り返された白い紐が潮の満ち引きを表わすように置かれている。鑑賞者の立つ床に流れ出た波は、絵画に描かれた海へと連なっている。
《蔓延回廊》(1000mm×803mm)には、桃色の壁に掛けられた肖像画が肉体を手に入れたかのように青い影を壁と床とに伸ばした様子が描かれる。夕暮れ時、崖を背にわずかに俯く顔。その首から肩にかけての途中で絵画は途切れるが、その身体を補う形で青い影の肩・胴・腕がピンクの壁面に広がる。フロアタイル(?)の床に伸びた下半身はボーダーのパンツを身につけているように見える。その床のパネルを、影から浮き立った右手が持ち上げ、左手が床を引っ張り布のように撓ませる。絵画のモティーフが現実へと食み出し、床が布≒画布へと変容する。《北行》では画面とは別に紐の実物を用いて絵画と現実とを接続してみせたことを、絵画の中で完結させて見せていると言えよう。

作品のほとんどには人物が描き込まれている(《浮回廊》、《听见钟声》、《北行》、《浮砂》、《海岸》、《别处》、《无人的房间风景居民》、《微光》、《カーテン》、《抱き合う人》、《吊灯和脉搏》、《蓝沼泽》、《密林》)。だがその人物たちの姿は抽象化されている。それは鑑賞者誰もが画面の中に遊ぶことのできるよう、絵画内のアヴァターとして機能させるためである。そして、とりわけ《微光》(530mm×725mm)や《无人的房间风景居民》の人物がそうであるように、人の姿は容易に植物に変じる。植物にだけではない。人魚(《人魚》)、あるいは銅像(《失重》)や絵画(《蔓延回廊》)も、人とその他の存在との間で揺れ動いている。そこにポストヒューマニズム的な思考が窺える。
人物の不在によってかえってその存在を意識させる椅子や、絵画の象徴であるとともに別の世界へと通じる窓なども、作家の作品の重要なモティーフである。