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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか』

展覧会『TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか』
東京都写真美術館にて、2022年6月17日~9月25日。

ハンス・ホルバイン(子)の版画『死の像』シリーズ(国立西洋美術館所蔵)における中世のメメント・モリのイメージを枕に、スーザン・ソンタグの『写真論』の一節「写真はすべて詩を連想させるもの(メメント・モリ)である」を引用してメメント・モリと写真とを接続し、所蔵作品120点を3章構成で紹介している。第1章「メメント・モリと写真」では、W. ユージン・スミス(7点)、ロバート・キャパ(3点)、澤田教一(4点)らの戦場を捉えた写真とともに、マリオ・ジャコメッリ(3点)、セバスチャン・サルガド(6点)、ウォーカー・エヴァンズ(4点)の作品を展観。第2章の題名「メメント・モリと孤独、そしてユーモア」は、ロバート・フランクの写真集『アメリカンズ』にジャック・ケルアックが寄せた序文に登場するジュークボックスと葬式に触発されて名付けられている。ロバート・フランクの「アメリカンズ」からの3点(他に2点、計5点)、荒木経惟の「センチメンタルな旅」シリーズ(12点)、リー・フリードランダ-(6点)、ウィリアム・エグルストン(6点)、ダイアン・アーバス(5点)、牛腸茂雄の「日々」のシリーズ(8点)が陳列されている。第3章「メメント・モリと幸福」では、藤原新也のその名も「メメント・モリ」シリーズ(12点)をはじめ、ヨゼフ・スデック(8点)、ウジェーヌ・アジェ(12点)、東松照明(9点)、小島一郎(10点)らの作品を通じて、生の捉え直しを促す。

冒頭のハンス・ホルバイン(子)の版画『死の像』シリーズ25点を展示するブースを抜けると、藤原新也の「メメント・モリとは何か。」という文章が掲示されている。古代ローマでは「今をせいぜい楽しめ」という享楽的メッセージだったメメント・モリが、14世紀にヨーロッパを襲った疫病によって、キリスト教的な徳化や戒めを説くものに転換した。資本主義の快楽原則は死をネガティヴなファクターとして隠蔽してきたが、とりわけ地球環境問題という自然からのメッセージを契機として、メメント・モリの内容を再度捉え直す必要があると訴えている。
早川千絵の映画『PLAN 75』(2022)では、75歳になると死を選択する権利が国から附与される「プラン75」が施行された近未来の日本を描いていた。劇中の「プラン75」のプロモーション・ヴィデオでは、生まれることは自分で決められないけれど、死ぬことは決められると喜ぶ女性の姿が映し出されていた。また、過日(2022年9月13日)、映画監督のジャン=リュック・ゴダールがスイスで合法的な自殺制度を利用して死去した。今日のメメント・モリとは、死の自己決定についての考察を促すものであろう。
ハンス・ホルバイン(子)の版画『死の像』の時代、王侯貴族であろうが行商人や水夫であろうが、死神が等しく訪れたろう。だが、現代では医療資源を利用できる者とそうでない者とで、死神の来訪時期は異なっている。今後、死の自己決定権が合法化されれば、その格差は顕著になるだろう。
死に関するものに拘わらず、自己決定権とは、およそ問題を自己責任として犠牲者に転嫁する仕組みと言っても過言ではあるまい。例えば、メロン果汁2%の飲料があったとして、ほぼメロンだけの写真を掲載したパッケージに「まるごと果実感 厳選マスクメロン 100% MELON TASTE」と記載されていた場合、メロン果汁100%と誤認した消費者に対し「メロン『テイスト』100%」と書いてあったと誤認の責任を追求できるのだ。発売元はそう判断して販売していたのであり、消費者庁がたまたま「景品表示法違反」に当たるとしてそれを許さなかったに過ぎない。結局、自己決定に十分な情報が与えられているとは、責任を押し付ける側の贖宥状のようなものである(例えば、約款など読めもしないし、たとえ読めたとしても消費者はそれを受け容れざるをえないのだ)。
死の自己決定権。その行使しか残されていない者は、自由であろうか。メロン果汁2%の飲料を100%と「信じて」飲み干す自由に過ぎないことはないだろうか。

展覧会 馬場まり子個展

展覧会『馬場まり子展』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2022年9月5日~17日。

馬場まり子の絵画展。

《空 Ⅰ》(2200mm×3000mm)の画面左下には、ベンチに腰掛けた老人が、ベンチで眠っている。彼の背後(画面左端)にはコンクリート製の電柱ないし壁がある。画面の半分強は空白で、画面の中央に、遠くにいるのであろう、老人に比してかなり小さいスーツ姿の人物が左手に鞄を持ち、手前に近づいてくる姿が描かれている。遠景と解される画面上部には緑の森ないし丘、その奥には空とそこに浮かぶ雲を背に青い山並みが表わされている。この作品を特異なものにしているのは、スーツの人物のやや右上に描き込まれた、濃い緑の円の中の白い八角形である。異世界と通じるポータルであろうか。この幾何学図形が、この作品を単なる山を望む広い公園の真昼の景観と解することを拒む。恰もリクライニングシートのように倒されるように描かれたベンチでしどけなく眠る老人、彼がかつて働いていた自分の姿を夢見ている。確かに八角形は、法隆寺の夢殿に通じ、夢のイメージを鑑賞者に呼び覚まさないとは言えない。ここでタイトルに着目してみる。「空」とあるのは、遠景(画面上部)に描かれた雲の浮かぶ空(そら)のことなのだろうか。否、永久不変の実体や自我などはないという空(くう)を示しているのかもしれない。

 俳人長谷川櫂の『俳句の宇宙』、『古池に蛙は飛び込んだか』、『「奥の細道」をよむ』の3冊は、詩的なものに関心をもつものすべてに強烈な刺激を与えずにおかない三部作である。長谷川はそこで芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を取り上げ、これまでの解釈のすべてに疑義を挟んでいる。
 古い池がある、蛙が飛び込む水の音がした。正岡子規から山本健吉にいたるまでそういう解釈である。長谷川はそれを否定する。まず、蛙が水に飛び込む音がした、静まりかえった古い池のイメージが思い浮かんだと解したのである。敷衍すれば、蛙が水に飛び込む音は流行、古い池のイメージは不易。前者を現象、後者を本質、すなわちフェノメノンとイデアといってもいい。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.304。歌仙集『一滴の宇宙』の作者による跋文の引用部分を孫引きした。)

フェノメノン(現象)からイデア(本質)を想起する。それこそ《空 Ⅰ》が描くものではなかろうか。働く私、夢見る私、聳える山。流れる雲。それら「流行」としての現象に対し、白い八角形が「不易」の本質としての「空(くう)」を表わしているのである。

展覧会『シアトル→パリ 田中保とその時代』

展覧会『シアトル→パリ 田中保とその時代』を鑑賞しての備忘録
埼玉県立近代美術館にて、2022年7月16日~10月2日。

アメリカの女流詩人と結婚し、裸婦を描いて成功した画家として語られてきた田中保(1886-1941)の実像を、近年の研究成果を踏まえて紹介する回顧展。所蔵作品を中心に86点(うち3点は8月23日からの後期展示で入れ替え)を、フォッコ・タダマの同門である清水登之の8点や、エコール・ド・パリの作家(ジュール・パスキン、エルミーヌ・ダヴィッド、藤田嗣治、マルク・シャガール、モイズ・キスリング)の作品7点とともに展観する。

【第1章 田中保、船出する】
旧制浦和中学在学中、父の死により家業が傾いた。卒業後の1904年末、日露戦争の最中、日本郵船の神奈川丸に乗船して単身シアトルへ渡る。アメリカでは1882年に中国人排斥法が制定され、中国人移民に代わって日本人移民の雇用が進んだが、今度は日本人が排斥の対象となった。1909年の日米紳士協約により日本政府が自主的に新規移民を規制することになる。様々な仕事をしながら夜学で英語を身に付けた田中は、1912年にはオランダ出身の画家フォッコ・タダマに師事。同年、ワシントン州立美術協会ギャラリーに初出展した。
自画像[001]、裸婦の習作[002-004]やシアトルの風景のスケッチ[014-016]などを展示。清水登之の6点[005-010]も。

【第2章 シアトルの前衛画家】
1914年の《マドロナの影》[025]で画家としての地位を確立。同作は1915年にはパナマ・パシフィック万博に出品された。同年、シアトル中央図書館で行われた個展で詩人で美術批評家のルイーズ・ゲブハード・カンと出会う(ベルクソンについて語り合ったという)。1917年、ルイーズと結婚するが、異人種間の結婚はスキャンダラスに報じられた。1919年の『シアトル・スター』紙にはルイーズの異人種間結婚に関する主張が掲載されている("SEATLE WOMAN, WIFE OF JAPANESE ARTIST, CHAMPIONS INTERMARRIAGE")。
《マドロナの影》[025]には、ネグリジェと思しき薄いワンピースを纏った女性が、サーモンピンクの布を手に佇む姿が描かれている。黄色い光が溢れる背景に比して、女性の姿はそこまで明るく表わされていないが、光が当たっていることは影の存在からも明らか。右斜め前方から捉えられた女性は画面に対して横顔を向け、顔は判然としないが、その頬は輝いている。

【第3章 肖像画が明かす人間関係】
田中がシアトル時代に制作した肖像画を展観。心の哲学や美学、さらに超心理学について研究したカート・ジョン・デュカス[038]、極地探検家で人類学者のヴィルヒャムル・ステファンソン[039]、動物愛護団体を起ち上げ市長選に挑戦したエレノア・リカビー[042]など、判明した像主について解説されている。文学者のグレン・ヒューズをモデルとした《若い男の肖像》[041]の背景には、エレノアの肖像画《黒百合》[042]が描き込まれている。

【第4章 パリの異邦人、ヤスシ・タナカ】
異人種間結婚や日本人差別の問題で行き詰まった田中はルイーズとともに、1920年にパリに渡ることになった。モンパルナスにはジュール・パスキン、モイズ・キスリング、藤田嗣治など多くの芸術家が集まって暮らしていた。田中夫妻の隣にはエズラ・パウンドが住み、ルイーズはジェイムズ・ジョイスと交流した。

【第5章 パリのサロン画家】
田中は滞欧していた東久邇宮朝香宮夫妻と交流し(《裸婦》[062]は買い上げ)、個展は成功を収め、各地のサロンにも精力的に出展した。他方、帝展へ出展は不首尾に終わり、個展を開催しても現地の日本人画家は1人も訪れない。帰国準備を進めていた矢先には母の死が伝わる。結局、日本に戻ることは無かった。田中の作品はそれなりの値が付いていたため、国外(日本)に持ち出す際の税額も高かったと考えられるという。裸婦を描いて成功した画家は、実のところ日本に戻りたくとも戻ることができなかったという事実を指摘する。

展覧会 牧野永美子個展『いつかにんげんじゃなくなったとして』

展覧会『牧野永美子展「いつかにんげんじゃなくなったとして」』
GALLERY TSUBAKI GT2にて、2022年9月3日~17日。

動物の皮を被った人間のような立体作品9点(1点はレリーフ)で構成される、牧野永美の個展。

 (略)生贄の犠牲者を考えるためのジラールの枠組み〔引用者註:暴力と生贄の関係を論じるルネ・ジラール『暴力と聖なるもの』〕が、「動物」を最たる犠牲者と見据える点で、現に人間共同体からの絶対的な動物排除は、暴力の主体と関係する可能性を断ち、報復を防ぐ。「動物を犠牲にする場合は何の過ちも生じ得ない」。この時、動物は人間の代わりを務め、訪れうる報復からの盾となる。この関係性を明確に表わしているのが、ジラールの読み解く旧約聖書の一節で、そこではヤコブが盲目の父イサクから、兄エサウに与えられるはずだった祝福を騙しによって勝ち取る。いまわの際、イサクは最後の祝福を与えるべく、エサウに「香りよき肉」を選んでくるよう命じる。ヤコブはこれを聞き、母リベカの助けを借りて、殺したての山羊から得た香りよき肉を父のもとへ運ぶ。しかしヤコブは立ち止り、盲目の父は肌の滑らかな息子の自分と「毛深い」肌のエサウを区別できるのだから、自分は騙し屋と見抜かれるのではないか、と恐れた。騙りが発覚すれば、得られるはずの祝福は呪詛へと変わりかねない。リベカは山羊の皮をまとうよう提案し、この欺きは成功する。「老いたイサクは若い息子をなで、この騙し屋に見事に欺かれた」。父の暴力を免れるため、イサク〔引用者註:「イサク」ではなく「ヤコブ」であろう〕は動物という防備を文字通りの保護とする。
 呪詛でなく祝福を受けるため、ヤコブは父イサクに、殺したての子山羊から得た「香りよき肉」を差し出さなければならない。しかもこの息子は文字通りの保護を求め、生贄にされた動物の皮をまとう。かくて動物は父と息子のあいだに割って入る。動物は一種の絶縁体となり、暴力に至りうる直接の接触を防ぐのである。

(ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019年/p.192-193)

「動物を犠牲にする場合は何の過ちも生じ得ない」。だが実際には、動物を犠牲にすることは、人間を犠牲にすることに直結する。

 (略)従来、人間は周囲の環境や他種生命から分かたれた自律自存的主体として語られてきたが、現実の人間や人間社会は動植物や微生物、さらに近年では機械類など、生命・非生命を含む種々様々な人外存在との関係を通して形づくられる。環境破壊や人獣共通感染症の流行、およびそれらに伴う人間生活の変容を見ても分かるように、人間は各々の時代や社会における人外存在との関係によっておのがあり方を左右される。さらに、畜産業の発展が土地や資源の簒奪を狙った紛争に繋がり、動物支配の諸形式が奴隷制や優生政策といった人間支配の原型となるように、人間動物関係は人類史の形成因ですらあり続けた。してみれば動物をはじめとする人外存在との関係に光をあてないかぎり、私たちは十全な形で人間を理解することができない。「人間」は常に初めから人間以上を含む概念である、というこの気づきは、古典的な人間像を脱したポストヒューマニズムと言う思想潮流を生み、諸学の人間中心的態度に問いを突き付けている。(ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019年/p.387-388〔訳者解題〕)

《壁の向こうの君へ(怒)》(1250mm×1770mm×570mm)は、白いウシが角と額とを突き付けるように壁に接して設置された作品。目は壁を睨み付け、壁の向こう側の存在に対する敵意を感じさせる。ウシの胴は途中からワンピースのような形状となり、四肢はヒトの手脚となっている。前肢に当たる手は強く握られ、力が入っている様子が伝わる。後肢に当たる足は指の1本1本が太く表わされ、床をしっかりと踏み締めており、押し出す力より一歩も退かない姿勢が示されている。後ろから見ると、臀部を始め無防備なヒトの身体を露出している。ウシであれば何の問題も無いが、ヒトの場合、上半身は隠すものがあるにも拘わらず下半身だけ何も身に付けていない様子は滑稽に映る。自分の世界に閉じ籠もり自らの憂さを見えない他者に向けたり、壁を作って(境界線を引いて)敵を生み出したりといった愚かさを揶揄しているのかもしれない。

《こぴっと》(1040mm×300mm×220mm)は、展示室の隅で直立する白い毛のウサギ。白い壁に擬態するようである。後肢のヒトの足が爪先立ちになっていることに加え、前肢のヒトの手が低く位置し胴が引き延ばすように表わされることで、背伸びして遠くを見やっている姿勢が強調される。頭頂部と耳とは銅でできていて、目には見えない遠くからのメッセージを受信して、反応しているのかもしれない。

《するどい歯をもつものよ》(250mm×630mm×350mm)も、頭頂部と耳とが銅で表わされ、四肢だけヒトの手脚を持つウサギだが、卓袱台にの円形の天板にしがみつき、歯を立っている。

《かわいくてしょうがない》(175mm×150mm×25mm)は、《こぴっと》や《するどい歯をもつものよ》に表わされたウサギの顔のレリーフ。丸々とした目が大きく、桃色の頬とともに、愛らしさが強調されている。

《凧のような鳥のようないつか凧になる》(360mm×1370mm×570mm)は、ヒトの手脚を持つエイ。大きく水平に広がった胸びれの縁からはヒトの手が、腹びれからは脚が出ている。前に向かって下がる木の台に設置されることで、両手を開き爪先立ちのエイが滑空する姿勢が表現されている。後方に長く伸びた鞭状の尾は飛行の跡を表わすようにも見える。

《ひとつかふたりか》(310mm×280mm×340mm)は、白く丸い繭のようなヒツジ。前肢のヒトの手を胸の前で組み合わせ、後肢のヒトの脚を交叉させて座っている。顔には二つの口があり、2つ顔が組み合わされていることが分かる。すると、実は寄り添った2頭(2人?)の姿を表すものに見えてくる。とりわけ、脚は付け根近くで交叉しているため、その可能性を強く示唆する。

《ランランランウェイ》(520mm×310mm×230mm)は、丸々とした胴を持つ白いトリ。冠羽が双葉になっているのと、後肢がヒトの脚になっているのが特徴。片足が爪先立ちになっていることに加え、手摺のような幅の狭い台の上に設置されることで、大きな丸い胴体のトリがバランスをとって慎重に歩かなければならない状況が表現されている。

《心もはずむよ》(230mm×280mm×300mm)は、ヒトを駄目にするクッションのような(?)、丸々と太ったタヌキ。頭に葉を載せており、これからヒトに変身しようとしているのか、跳び箱を跳んでる真っ最中のように、広げた手が下に、脚が上に来る不自然な恰好である。

《はだかのエビフライ》(70mm×50mm×170mm)は、尾鰭だけ金属製のエビフライ(?)。実は芋虫が尾鰭を点けて海老フライを装っているのかもしれない。頭部にヒトのような口だけがあり、歯と舌が覗いているのが、不気味さを演出している。

すべての動物は平等である。
だが一部の動物は他よりもっと平等である。
ジョージ・オーウェル山形浩生〕『動物農場〔新訳版〕』早川書房〔ハヤカワepi文庫〕/2017年/p.147〕

「いつかにんげんじゃなくなったとして」は、ポストヒューマニズムの立場からの人間中心主義への揶揄である。牧場主のいなくなった動物農場を支配するブタが「だが一部の動物は他よりもっと平等である」と自らの特権を正当化したように、人間はヒューマニズムにより自らの優越的地位を正当化してきたのだと。

 (略)主権はみずからの力だけでなく、みずからの合理性をも正当化する。人間は自身らを優れて知的と称するが、それはおのが手になる法の力を通してそうするに過ぎない。これはカール・シュミットの「主権者とは例外に関し決定を下す者である」という言と完全かつ正確に符合する。さらにここで、動物に対する人間の暴力をめぐりデリダ(およびメルヴィル)が示した理解は、カール・スティールが『人間のつくり方』で示した主張と強く響き合う。中世における動物への暴力を考察しつつ、スティールは暴力と知の協力によって暴力的自己正当化が生まれる循環論理を追う。
 ……人間は自身を他の動物から区別するために、自身のみが反省的言語、理性、文化、それに何より、不滅のの霊魂と復活する身体を持つと主張する。人間はこれらの属性が自身に、そして自身のみに具わると主張すべく、諸々の他者に暴力を振るい、この他者らは慢性的に暴力を受ける中で、「動物」と称される。

(ディネシュ・J・ワディウェル〔井上太一〕『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』人文書院/2019年/p.343)

《はだかのエビフライ》が示すのは、「反省的言語、理性、文化、それに何より、不滅のの霊魂と復活する身体」などといった衣を剥ぎ取った人間の姿である。そして、《凧のような鳥のようないつか凧になる》が示すのは、人間を形作るのは生命のみならず、「非生命を含む種々様々な人外存在との関係」であることを訴えるものと解される。

映画『さかなのこ』

映画『さかなのこ』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
139分。
監督は、沖田修一
原作は、さかなクンの自叙伝『さかなクンの一魚一会~まいにち夢中な人生!~』。
脚本は、沖田修一と前田司郎。
撮影は、佐々木靖之。
美術は、安宅紀史。
衣装は、纐纈春樹。
編集は、山崎梓。
音楽は、パスカルズ

 

暗い部屋の中、2匹のハコフグが泳ぐ水槽がぼんやり明るい。広いベッドで寝ていたミー坊(のん)が目を覚まし、時計を確認する。4時35分。ミー坊はベッドから起き上がると窓を開ける。まだ薄暗い外から風が吹き込む。ハコフグの水槽に向かい、1匹ずつピンセットで給餌する。歯ブラシでハコフグの吻を磨き、自らも洗面台で歯ブラシを使う。クローゼットを開くと、ハコフグの帽子が並び、魚の柄の白いシャツが多数掛っている。青いウエットスーツを身に付けたミー坊は、いってきますと言って誰もいない家を出る。坂道を下って海へと向かう。
ミー坊はテレビ番組の撮影スタッフとともに漁船に乗り込んでいる。カメラに向かい、千葉県館山市で魚の生態を調査をすると元気良く説明する。イサキ、ブリなど漁船が引き揚げた魚を興奮して紹介するミー坊。船の周囲をうろつく大きな魚影に気が付いたミー坊は撮影を忘れ、船縁に移動して夢中で海を覗き込んでいると、海中に転落してしまう。
水族館。水槽のガラスに張り付いている大きなタコの姿に小学生のミー坊(西村瑞季)が目を奪われている。蛍の光とともに閉館のアナウンスが流れ、来館者たちが次々と出て行く中、ミー坊はタコの水槽の前に張り付いたままだ。母ミチコ(井川遥)が隣にやって来る。タコってよく見ると結構可愛いのね。今、吸盤でガラスに張り付いてる。踊ってるみたいね。ミチコは袋を取り出し、黄色い背表紙の『魚貝の図鑑』をミー坊に手渡す。頁を捲ると、魚の種類の豊富さに驚く。また来ようと言ってミチコがミー坊に帰宅を促す。ミー坊の兄スミオ(田野井健)はルービックキューブを手にベンチで寝てしまっていた。
ミチコがモノで溢れる子ども部屋に掃除機をかけていると、よく観察して描かれたタコのスケッチを見つける。ミチコは絵を額に入れて壁に飾る。
夕食を家族4人で囲んでいる。タコの刺身が並べられる。タコさん可愛いとミー坊は興奮するが、スミオは死んでんじゃねえかと素っ気ない。タコの刺身を食べると、ミー坊は自分の作成したリストから「タコの刺身」を消去する。あといくつ? 8つ。3日間あればできるかな。ミチコは理解を示すが、父親のジロウ(三宅弘城)は渋い顔。
小学校の教室。他の生徒が遊んだりおしゃべりしているなか、ミー坊は1人タコの絵を無心に描いている。モモコ(増田美桜)が今週のミー坊新聞を作っているのと声をかける。タコさんだと説明するミー坊に、モモコは「さん」付けはおかしいと言う。本物のタコ見たことないでしょ? あるよ。どこで。海で。どこの海。千葉の海。千葉のどこ。海は1つだよ。モモコと話していると、ヒヨ(中須翔真)がモモコのこと好きなのかとミー坊を揶揄う。ミー坊が好きだよと即答すると、仲間とともにエロス、エロスと囃し立てる。ミー坊も一緒になってエロス、エロスと楽しそう。
ミー坊がヒヨと下校する。何で俺のこと呼び捨てなのに、タコは「さん」付けなんだよ。ミー坊は相手にせず、今度連れて行ってもらう海について話し出す。2人の行方に姿を表したのはギョギョおじさん(さかなクン)。魚の図鑑を手にしているミー坊にギョギョおじさんは興味津々。魚が好きなのかと尋ねられるが、ヒヨがおじさんの被っている黄色いハコフグの帽子を褒めると、ミー坊を連れて一目散に逃げ出す。お魚の話、しようよ! 逃げ去る2人にギョギョおじさんは大声で呼びかける。ギョギョおじさんをから逃げ切った2人。ギョギョおじさんに遭遇したら、帽子を褒めてから逃げたすんだ、さもないと解剖されて魚に改造されちゃう。ヒヨはミー坊に教える。
砂浜のパラソルの下、ヒヨとモモコがおしゃべりしている。2人はミー坊の一家と一緒に海に遊びに来ていた。海に入らないのか尋ねるモモコに、ヒヨはガキじゃないからと返す。スミオとともに海の中に入っていたミー坊は、突然沖合へ向かって潜る。姿を現わしたミー坊の身体は大きなタコに覆われていた。ヒヨとモモコも思わず駆け寄る。スミオも得意気だ。ミー坊はミチコのところに行ってタコを飼ってもいいか尋ねる。飼えるわけないだろとスミオが突っ込む。ところがミチコの返答は違った。いいわよ、でもちゃんと自分で飼うことできる? そこへジロウがやって来て立派なタコだと褒めるとミー坊からタコを引き剥がす。タコの目のあたりに指を突っ込んでひっくり返すと内臓を取り出して捨て、タコはこうしないとうまくならないんだと、タコが縮まないように地面に烈しく叩き付ける。ミー坊もミチコも啞然としてジロウを眺める他ない。ジロウは捌いたタコを串に刺して焚き火で炙り、どうだ美味しいかと、皆に得意気に振る舞うのだった。
雨の中、黄色い傘を差した柔道着姿のミー坊が1人家に向かっている。行く手には傘を差したギョギョおじさんの姿があった。やっぱりこの間のお魚好きの小学生ですね! ミー坊がハコフグの帽子を褒めると、ギョギョおじさんはハコフグが分かるのかと狂喜する。水族館とか、特別に魚屋さんでも見たとミー坊が話すと、ハコフグを食べたんですか、美味しいんですよとギョギョおじさんは興奮の度を増し、雨の中スケッチブックを手に説明を始める。
家族で囲む夕食。ミー坊はギョギョおじさんの話を熱心に語る。ミー坊より魚に詳しい人なんているのね。ミチコは感心する。ギョギョおじさんの家に行っていい? ミー坊の質問に両親は固まる。ジロウはそんな知らない人の家に行ってはいけないと認めない。何されるか分からない、いたずらでもされたらどうするんだ。だがミチコは暗くなる前に帰るならいいと言う。夜、両親が話し合っているのが子ども部屋にいるミー坊に漏れ聞こえてくる。子どもの言うことばかり聞いていたら駄目だとジロウが訴えている。ミー坊は廊下に出て耳を欹てる。どう考えても普通じゃないだろう。小学生が魚のことばっかりなんて。いけないことですか? 俺はただ心配なんだ。周りの子たちと違うだろ。あの子はこのままでいいんです。
教室にいたミー坊が担任の先生に呼ばれる。職員室では釣り好きの3人の教師がミー坊の作っている新聞を手に、魚の記事に感心しきりだった。みんなにも読んでもらおうとの担任の先生の提案で、ミー坊の手書きの新聞は廊下に貼り出されることになった。生徒たちが集まって熱心に眺めている。
ミー坊はギョギョおじさんの家に向かう。ハコフグのデザインの家の中には沢山の水槽が並び、2人は熱心に魚を観察し、スケッチし、語り合った。年齢を超えて同好の士としてお互いを認め合った2人で過ごす時間は瞬く間に過ぎていくが、そのことに気が付かない。誰も訪ねて来る人の無いハコフグハウスのドアをノックする音が聞こえたときには、時計が夜の9時を回っていた。ドアを開けると、そこには2人の警察官の姿があった。

 

小学生のミー坊(西村瑞季)は母ミチコ(井川遥)に連れられて行った水族館と、そこでプレゼントされた『魚貝の図鑑』をきっかけに魚に夢中になる。周りの子たちの反応を気にすることなく魚について調べ、絵を描き、新聞にまとめる。父ジロウ(三宅弘城)は魚に囚われた、他の子と違うミー坊の行く末を案じるが、母ミチコはこのままでいいとミー坊の好きに任せる。ギョギョおじさん(さかなクン)に遭遇すると子どもたちは変質者だと逃げ出すが、ミー坊は同好の士として興味を持つ。ある日、ミー坊は、暗くなる前の帰宅を条件に、ギョギョおじさんを訪ねる許可をミチコからもらう。孤独な変わり者の2人は魚に囲まれて夢のような時間を過ごす。ところがミー坊が遅くなっても帰らなかったために、警察沙汰になってしまう。警察官に連れ去られるギョギョおじさん。ミー坊はギョギョおじさんとの接触を断たれることになってしまったが、ハコフグ精神は確かに継承されていた。高校生になってもミー坊(のん)は変わらず魚のことだけを考えている。釣った魚を観察して描き、調理して食べ、あるいは水槽で飼う。学校に掲示したミー坊新聞に総長(磯村勇斗)のバイクを取り上げたことをきっかけに不良たちに目を付けられるが、ジャーナリズムが暴力に屈してはならないとのミチコの教えを信奉するミー坊は意に介さない。ミー坊は総長から呼び出しを受けてしまう。

魚のことばかり考えて不器用な生き方しかできないミー坊を通じて、普通ではない生き方を描き、普通とは何なのか、(仮に普通があるとして)普通に生きなければならないのかといった問いを投げ掛ける。
冒頭、ミチコが、散らかった部屋に無造作に置かれていたミー坊のタコのスケッチを額装する場面を描くことで、見過ごされたかもしれない才能を見出して褒めて伸ばすことに成功した母の功績を表現してしまうのが秀逸。
ギョギョおじさんからミー坊へ、そしてミー坊から(モモコ(夏帆)の娘)ミツコへ。映画『ベイビーブローカー』(2022)などが描く血縁で無い家族(継承)のあり方も物語の柱の1つとなっている。
小学校の同級生や、高校の不良たちを始め、皆、良い味を出している。ワンダーがあるよ、ワンダーが。
夏帆のやさぐれた女性に痺れる類は映画『ブルーアワーにぶっ飛ばす』(2019)も必見。
アオリイカにはアニサキスはいない。