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芸術鑑賞の備忘録

映画『パーフェクト・ドライバー 成功確率100%の女』

映画『パーフェクト・ドライバー 成功確率100%の女』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の韓国映画
109分。
監督は、パク・デミン(박대민)。
脚本は、パク・デミン(박대민)、キム・ボンソ(김봉서)、パク・ドンヒ(박동희)。
撮影は、ホン・ジェシク(홍재식)。
照明は、キム・ジェグン(김재근)。
美術は、イ・テフン(이태훈)。
衣装は、チョ・サンギョン(조상경)
編集は、キム・ソンミン(김선민)。
音楽は、ファン・サンジュン(황상준)。
原題は、"특송"。

 

プサンの警察署。廊下のベンチに腰掛けて待つ人たち。ペクカン産業、どうぞ。チャン・ウナ(박소담)が受付で廃車の引き取りの書類に署名する。今回は引き取らない方がいいんじゃないか? 警察官(박인수)が助言する。少しは稼げるでしょ? ウナはキーを受け取ると、駐車場に向かい、ガラスが割れ、血の付着した車に乗り込む。かかりにくいエンジンを何とか始動させると、バックで急発進。ボロボロの車が滑らかに警察署を出て坂道を下っていく。ウナの車がクァンアン大橋を渡る。
ペクカン産業。事務所で社長のペク・カンチョル(김의성)が電話している。それならタクシーを呼べばいいでしょ。電話する相手を間違ってますよ。…それなら全くの間違いというわけではないようですね。目的地はどこになります? 社長が地図を取り出して机に拡げる。うちは特送です。郵便でも送れないものでもお届けしますよ。どんな手段を使ってもです。
ウナの車がペクカン産業の敷地に到着する。それに気付いたアシフ(한현민)が駆け付ける。ボルボの940か。興奮するアシフに鍵を渡して歩き出す。釣りをしている2人に釣果を尋ね、通りがかったフォークリフトに乗り込み事務所へ向かう。
ウナが事務所に入ると、社長は電話中だった。緊急事態ですか。うちはただの運送会社ですよ。配送前にお客様ご自身で対処して頂かないと。配送中ならドライヴァーが最後まで責任を負いますから、ご心配なく。ウナは冷蔵庫を開けるが、自分の買ったビールが無い。勝手にビールを飲まないでくれる! 社長は電話中だから静かにとジェスチャーして話を続ける。机の上に置いてあったビールをウナが摑む。飲酒運転は駄目だろ。今日は約束があるの。久々に社長が運転してよ。ウナが飲もうとしたビールを奪って社長が飲む。約束だと? まずは約束する相手を作らなきゃな。今晩は特送がある。夜勤手当で15%増し。5%。15%。いいだろう。社長がメモを渡す。30分で市街から港へ運ぶ内容だった。
21時。ウナが車をトップホテルの傍へ。すぐに2人の怪しげな男たちが出て来る。いかにも追われていますといった怪しげな動きは誰もいない通りで悪目立ちする。兄貴、この車です。子分(권혁범)がドアを開けようとするがロックがかかっている。キム・ジョンテ(조희봉)が車の中を覗き込む。ウナがスマートフォン依頼人の顔を確認してロックを解除。子分が転げる。キムはドライヴァーが女だと気付くと乗り込まずに子分を蹴り上げる。女じゃないか。首尾良くいけんのか? 船が出ちまいますよ、兄貴。仕方ない。ようやく2人は車に乗り込むが、その姿を追手に目撃されていた。ちゃんとやれるんだろうな。キムはウナに念を押す。シートベルトの着用を。ベルトはこれだよ。キムは自分のパンツのベルトを見せる。その場合、罰金6万ウォンが課されますよ。急発進で後方へ。つんのめる2人。追手もいきなりの発射に動揺する。交差点に進入し急ハンドルを切る。キムは慌ててシートヴェルトを締め、アシストグリップを握りしめる。トンネルを抜けるとすぐさま反対車線へラバーポールを突き抜けUターン。撒いたはずが追手の車両は増えている。ウナの車両の前に突進する車。停まれ! ウナはアイスコーヒーを飲みながら平然と片手でハンドルを握る。狭い住宅地の道路へ。ウナは縦列駐車の隙間に割り込んで停車させたり、静かにバックして坂道を下ったり、建設現場の足場を倒して道を塞ぐ。車幅ギリギリの道を猛スピードで抜ける。遮断機が降りた踏切を越えようとするが貨物列車の走行で断念。すぐさま線路脇の道を走行し、次の踏切で貨物列車の前を横断して、遂に追手の車から逃れることに成功する。
ウナがナンバープレートを取り替えていると、キムが時間通りだと感心しきりに姿を現わす。報酬を確認してくれ。紙袋を渡されたウナが中味を見る。キムは別に金を差し出す。チップ? チップじゃない。キムは名刺を示す。俺の下で働かないか。ワイン業界以外であんたみたいな娘と働きたいと思ったことは無かったけどよ。光栄だろ? ウナは金だけ受け取ると、キムの胸のポケットに名刺を刺して立ち去る。

 

チャン・ウナ(박소담)は、自動車リサイクル会社「ペクカン産業」課長という肩書で、実はペク・カンチョル(김의성)社長の指示により特殊な荷物の配送を請け負う凄腕のドライヴァー。プロ野球八百長で逮捕された選手の供述から、元プロ野球選手でタレントのキム・ドゥシク(연우진)が野球賭博のブローカーであることが発覚。刑事として警察署でチーム長を務めながら、ギャングのボスという裏の顔を持つチョ・ギョンピル(송새벽)は、ボディガードのウ・シルチャン(오륭)を伴って、野球賭博のウェブサイトを任せていたサン代表(윤대열)を訪ねるが、ドゥシクが売上金を預けた貸金庫の鍵を持ち出した後だった。ドゥシクは息子のソウォン(정현준)とともに高飛びするため、特送を依頼する。

(以下では、冒頭以外の内容についても触れる。)

冒頭、女に運転ができるのかと馬鹿にするキム・ジョンテを乗せたチャン・ウナが、超絶的な運転技術でジョンテに部下に欲しいと思わせる展開は、ジョンテのコメディアンぶりで、クールなウナを浮かび上がらせる。
一癖も二癖もあるペク・カンチョルとウナとのやり取りは、コミカルに擬似的な父娘関係の絆を伝える。
暴力に見境の無いウ・シルチャンを使いこなす、チョ・ギョンピルの悪辣さはヴィランとして素晴らしい。
国家情報院で脱北者の管理に当たるハン・ミヨン(염혜란)はなかなかの遣手と見えたが、もう1つ活躍の場が無く、残念。続編への布石を打っているのだろうか。それに関連して、ウナが脱北者であることも、彼女に身寄りがなくなってしまった設定以上には、活かされていなかった。
社長が網で肉を焼いているシーンは何だったのだろうか(様々なバックグラウンドの人がプサンで生活していることを示すため?)。
裏社会の抗争に巻き込まれていくドライヴァーを描くのは、『ドライヴ』(2011) や『ベイビー・ドライバー(Baby Driver)』(2017)。ちょっと変化球では『運び屋(The Mule)』(2018)。
カーアクションではないが、近年の日本映画では、寡黙で優れた運転技術を持つ女性ドライヴァーが重要な役割を担う『ドライブ・マイ・カー』(2021)がヒットした。そして、『ちょっと思い出しただけ』(2022)も味わい深い。

映画『エンドロールのつづき』

映画『エンドロールのつづき』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のインド・フランス合作映画。
112分。
監督・脚本・美術は、パン・ナリン。
撮影は、スワピニル・S・ソナワネ。
編集は、シュレヤス・ベルタンディ(Shreyas Beltangdy)とパヴァン・バット(Pavan Bhat)。
音楽は、シリル・モーリン(Cyril Morin)。
英題は、"Last Film Show"。※グジャラート語が不明なため、英語表記とした。

 

2010年。インド。グジャラート州サウラシュトラにあるチャララ村。線路の上をサマイ(Bhavin Rabari)が歩いている。レールの上に古い釘を並べると、線路脇に広がる草原の中に分け入り、横になって空を見上げる。上空を横切る飛行機に向けて指を差す。列車が通過すると、サマイは線路に置いた釘を取りに行く。列車の車輪の摩擦で変形し熱くなった釘を鏃にして弓で射る。
少年の母親(Richa Meena)が綺麗な服を取り出し、妹の髪を結っている。何かあるの? 少年が父親(Dipen Raval)に尋ねる。街に行く。映画を見にな。5歳のときから行ってないよ。いいか、今回だけだぞ。他の映画を見ることはない。うちには映画はふさわしくないって話したろう? じゃあなんで見に行くの? 今回は特別だからだ。カーリー女神を崇める作品なんだ。
街へ繰り出した家族4人が並んで歩く。賑わう通り。映画館の窓口には鑑賞券を求める客が鈴なりになっていた。父親は何とか家族全員のチケットを手に入れることができたが、すぐに売り止めになった。
映画館の座席は簡素な木のベンチ。次々と客が入ってくる。興奮した少年が舞台に上がり、降りるよう促される。1日3回上映がある。これがお前のチケットだ。最初で最後だぞ。父親が息子にチケットを渡す。館内を鳩が飛び交う。映画が始まる。演奏に合わせて華麗にに歌い踊る女性たち。母と妹も手の振りを真似ている。カーリー女神の姿が映ると拝む観客もいる。映像に見とれていたサマイは、スクリーンに向けて放たれる光に注目し、後ろを振り返る。どうして眩しい光が物語となってスクリーンに現れるのか。
帰りの列車の客席。父と少年、母と妹が向かい合わせに坐っている。マヌ(Rahul Koli)は駅長になりたいって。S.T.(Kishan Parmar)は技師になるんだって。僕は映画を作りたい。二度と言うな。バラモン階級で映画を仕事にしている人なんて聞いたことがないだろう? 映画の世界は腐ってる。世間に顔向けできないぞ。世間に顔向けできるって何? 今日やったことを振り返ってよ、チャイ淹れてカップ洗ってただけでしょ。チャイ、チャイってさ。父さんに向かってよくそんなことが言えるわね! 母親がサマイの顔をはたく。もういい。父親が止める。
サマイは拾ってきた色付きのガラスを線路に並べて、風景を眺めている。歪んだ景色は赤や青や黄、さらには重なり方によって異なる色へと変化する。どんな色に変わっても、光の中に物語は現れない。サマイはガラスを線路脇に投げ捨て叩き割ると、マッチ箱を拾い始めた。青いガラスのカンテラを見付け、目の前に掲げて風景を眺める。少年は駅に向かって駆け出す。
駅の簡素な売店。父親がチャイを作っている。遅い。いつも時間を無駄にしている。俺みたいになりたいのか? 仕事に取りかかれ。分かったよ、父さん。チャイとカップの入った籠を提げて到着した列車の乗客に売り歩く。チャイはいかが、熱々のチャイだよ。チャイを買い求めた客に尋ねられる。ここは何駅? チャララだよ。列車が出発し、チップスを売っていたマヌと話し合う。どうだった? あんまり。30ルピー。僕も。
サマイが地面にしゃがんで友達に物語を披露する。飛行機が飛んでいました。サマイが地面に飛行機の絵のデザインされたマッチ箱を置く。ひまわり畑に落ちました。ヒマワリのマッチ箱。風船売りが飛行機に乗ろうとした。風船のマッチ箱。しかし強い風で墜落しました。飛行機は王様のものでした。男の描かれたマッチ箱。王様? そう。金持ち? たくさん持ってたよ。車、銃、剣。3人の后がいた。メガーナ、メナカ、ピアナ。マッチ箱を並べていく。
少年が帰宅する。家族で夕食をとる。父親が息子の長い髪を切るよう注意する。どうして髪をいじるのとサマイは父親に反発する。
朝。母親が弁当を詰めて息子に渡す。寄り道しないのよ。分かってるよ。リュックを背負い、弁当箱を提げた少年が駆け出す。駅で出発する列車に飛び乗る。車中では緑色のガラス瓶を拾い、その瓶越しに風景を眺める。駅に到着。駐めてあった自転車に乗ると、学校へ向かう。
教室で先生(Alpesh Tank)が地域についての授業を行っている。私たちのサウラシュトラには他に2つの呼び方があるよね。その1つがソラス。もう1つは何かな? カシアワル。生徒が答える。私たちの土地で有名なのはライオンと牛だけはないよ。多くの偉人が生まれたんだ。名前を挙げてみて。ガンディー! 彼は独立のために戦ったね。でも血を流さず弾丸も使わなかった。だから非暴力を貫いた人だって言われる。
放課後。駅長(Nareshkumar Mehta)が息子のS.T.を見かけると呼び寄せて、チャイ売りの子と遊ぶなと言いつける。分かったよ、父さん。遊びに行っていい。
サマイは父親のチャイの屋台で、父親の目を盗んで売り上げを入れた箱から金を抜き取る。
授業中、サマイは教室を抜け出すと、見つからないように学校を出て映画館へ向かう。上映されていた『悪人』は、カー・チェイスにガン・アクション。少年はスクリーンに釘付け。慌てて駅に向かったが、帰りの電車は既に出てしまっていた。
警察署。サマイの両親がサマイの友人2人に、学校に息子は出席していたかと尋ねるが、2人の答えが一致しない。電話で連絡があり、警察官がアムレリ駅のベンチで寝てると報告を受ける。
チャララ駅。サマイが帰って来るのを父親が棒を持って待ち構えている。サマイの友人たちもサマイが叩かれるのが見物だと近くに屯している。サマイが帰って来ると、父親に気が付いて逃げ出す。父親が棒を持って後を追う。友人たちもその後に付いてく。
教室。終業のベルが鳴る。次は光について扱うからな。先生が教室から出て行く生徒たちを見送る。サマイ、その傷はどうした? 先生はサマイの腕の痣に気が付いて声をかける。映画館に行ったから。
家でサマイは母と妹と一緒に料理の下拵えをしている。そこへ自転車で帰って来た父親が、携えてきた「良い子の生活習慣」のポスターを壁に貼る。サマイはすぐさまそのポスターを剥がす。
サマイは金を持たずに映画館に行き、館内に忍び込む。ムガル皇帝を描いた作品だった。偉大で崇高なる皇帝陛下。陛下の人生が永遠でありますように。言葉では皇帝の偉大さは表現しきれない。皇帝はインドの中心、命なのだ。サマイが映写機の放つ光に手を触れていると、それに気付いた社長(Paresh Mehta)らによって追い出される。放せ、放せよ! 失せろ、2度と戻ってくるな! サマイは地面に放り出される。
映画館の柱に凭れたサマイが弁当を拡げていると、ベンチに腰掛けていた男(Bhavesh Shrimali)に声を掛けられる。何てチャパティなんだ!

 

2010年。インド。グジャラート州サウラシュトラにあるチャララ村。サマイ(Bhavin Rabari)は、チャララ駅でチャイを売る父親(Dipen Raval)の手伝いをする少年。母親(Richa Meena)は得意の料理で夫と息子と娘を支えている。かつて兄弟に騙されて牛を失った父親はバラモン階級出身であることを慰めにしていた。そんな父親は映画を卑下するが、カーリー女神を崇める作品だからと珍しく家族を映画に連れて行った。サマイは映画にのぼせ上がる。映画という光が紡ぐ物語を何とか再現したいがうまくいかない。サマイは学校をサボり映画館に通うが、先立つものがない。客席に忍び込んでいたのを見つかって社長(Paresh Mehta)に追い出される。悄気ていたサマイを見かねた映写技師のファザル(Bhavesh Shrimali)は弁当と引き換えに映写室で映画を見せることにする。映写室に通ううちサマイはファザルと親しくなり、映写の仕事を手伝うようになる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

少年サマイは映画に魅せられる。映写機が発する光がなぜ物語に変じるのか。彼は幼いながら独自に光を研究し始める。色付きガラスを通して世界を眺める。ピンホールカメラの原理を使って、列車の車両をカメラ・オブスクラにする(列車の走行により、映像は動画となる)。やがて彼は映写機を自作することになるだろう。
ムガル皇帝を描いた映画は、サマイの映画に対する讃辞のアナロジーだ。映画は偉大で崇高な存在。その素晴らしさを言葉では表現しきれない。サマイの命なのだ。そして、film=映画とは、サマイの前に敷かれた鐵路であった。彼がひたすら映画の道を走り続けることは、最初(冒頭シーン)から運命付けられていたのだ。
映画『ニュー・シネマ・パラダイス(Nuovo Cinema Paradiso)』が下敷きになっているのは間違いない。映写室で火災は発生しない代わりに、サマイの愛する映写機(サマイがキスをするシーンがある)はスクラップにされ、フィルムは溶かされる。だが、サマイは解体された映写機が炉に入れられて灼熱の光となり、さらにはスプーンとして輝くのを目撃する。フィルムもまた七色の腕輪に転生し、艶やかな女性たちの手首を飾るだろう。映画はどこまでも光、なのか。
否、映画は闇でもある。コマ送りのために上映時間の3分の1は闇を見せているが、残像効果により人はその闇を意識できないだけなのだ。映画は闇を隠し持っている。映画のの本性としての噓。それが映画の豊かさである。

展覧会『世界のブックデザイン 2021-22』

展覧会『世界のブックデザイン 2021-22』を鑑賞しての備忘録
印刷博物館 P&Pギャラリーにて、2022年12月10日~2023年4月9日。

ドイツ・ライプチヒで開催された「世界で最も美しい本2022コンクール(Best Book Design from all over the World 2022)」、日本の「第55回造本装幀コンクール」を始め、ドイツ、オランダ、オーストリア、フランス、カナダ、中国の各国で開催されたブックデザイン・コンクールの入賞図書を展観。書籍は実際に手にとって閲覧可能という点でも優れた企画。


「世界で最も美しい本2022コンクール(Best Book Design from all over the World 2022)」より

"Rodin / Arp"(ISBN: 978-3-7757-4874-2)は、バーゼル近郊にあるバイエラー財団の美術館とボン近郊にあるアルプ美術館で開催された、オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)とハンス・アルプ(Hans Arp)の二人展のカタログ。2人の彫刻家の作品を大きな写真図版で紹介する。同テーマの作品は見開きに対にして並べて比較対照させる。モノクロームを貴重としつつ、テキストに赤みを帯びたオレンジを用いているのが印象的。

"Portraits, John Berger à vol d'oiseau"(ISBN: 978-2-9540134-8-0)は、小説家で美術批評家のジョン・バージャー(John Berger)が1952年から2016年にかけて著した美術に関する文章の抜粋を作家別に再構成したもの。灰色のざらざらとした表表紙にはタイトル1点で交差する3本の線を添えた走り書きのメモが遇われているのが、768頁という大部な本を視覚的に軽やかに見せるのに貢献している。作家の生年、著作の年、作家のアルファベット順の索引と図版とは前半にまとめて配し、後半は蜿々とテキストが並ぶ。作家ごとの表題の頁は、作家名を中央上に、その生没年を左上に、右端には次項以降で紹介されるバージャーの文章が書かれた年が古い方から新しい方へ目盛りのように配されている。

"水:王牧羽作品集"(ISBN: 9787558076251)は、王牧羽の画集。南宋の画家・馬遠の山水画に霊感を得た、水を主題とした作品のみで構成されている。蛇腹の頁は読み手にゆっくりと読み進めることを要求するとの審査員の評。確かに扱いにくいため、慎重に頁を繰らざるを得ない。一続きの紙は縷縷とした水の連なりを感じさせる。そのために会場では、蛇腹を展開した形でも展示されている。

ロマーナ・ロマニシン(Романа Романишин)とアンドリー・レーシウ(Андрій Лесів)の"Куди і звідки"(ISBN: 978-617-679-821-7)は、椅子に坐っていた人物が立ち上がり歩き出すことで始まる、「どこからどこへ」という移動をテーマにしたウクライナの絵本。人が歩いたり船に乗ったりと、移動して境界を越えて行く姿を描き出している。会場ではフランス語版とイタリア語版とが展示されており、青い表紙に鮮やかなオレンジと黄色が映え、ウクライナの国旗を連想させる。


「第55回造本装幀コンクール 受賞作品」より

小川洋子『遠慮深いうたた寝』(ISBN: 978-4-309-03003-6)は、小川洋子のエッセイ集。装幀家は、名久井直子。艶やかな釉薬をかけた染付そのものに見えるカヴァーは、九谷焼の陶板画(上出惠悟)を印刷した紙。戦前の本を思わせるノスタルジックな印象の手書きの文字と動物の絵。タイトルと作家名を丸く囲むことで滲み出る愛らしさは、カヴァー背面の星座と呼応する。

澤田知子『狐の嫁いり 特装版』(ISBN: 978-4-86152-862-0)は、写真家・澤田知子の同名展覧会の図録を兼ねた書籍の特装版。装幀は、浅野豪デザイン。実質的なデビュー作から最新作までの13シリーズ1400点弱を収め、1552頁もある厚手の本。白い箱の中に、分厚い写真の束のような本が収められている。白い表紙に漆黒の文字、黒文字、見返しの赤が白無垢を身につけた花嫁を連想させる。

展覧会『ゴンサロ・チリーダ展』

展覧会『ゴンサロ・チリーダ展』を鑑賞しての備忘録
インスティトゥト・セルバンテス東京にて、2022年10月29日~2023年2月28日(※当初会期1月14日までを延長)。

絵画34点、版画8点、写真資料、作家の紹介映像"La idea dela norte"で構成される、ゴンサロ・チリーダ(Gonzalo Chillida)(1926-2008)の絵画展。

砂浜海岸を描いた「砂(Arenas)」と題された作品が多くを占めている。同題の出展作品中、最初期作品である1964年制作の《砂(Arenas)》は、縦長の画面に砂浜海岸を描いたものである。画面下側3分の2程度に黄土色の砂浜を表わしているが、その上側の青灰色の部分は打ち寄せた波によって一時的に海水に覆われた浜であろう。すべては霞むように曖昧で、砂浜と海との関係も判然としたものではない。1973年に描かれた《砂Ⅵ(Arenas Ⅵ)》・《砂Ⅶ(Arenas Ⅶ)》・《砂Ⅷ(Arenas Ⅷ)》では、いずれも海に注ぐ水が砂浜に作る筋を俯瞰的に描き出している。「砂」シリーズに先行する1960年の《岬(Puntas)》と題された作品の1つでは、砂浜海岸から海を眺めた景観を描き、画面上部から、左右それぞれに湾を囲む突端(砂嘴ないし堤防)、穏やかな海面と砂浜に打ち寄せる白い波、そして、画面の3分の2近くを占める砂浜と海に流れ込む水が作った模様で構成されている。本展のメインヴィジュアルには1950年の《形状(Formas)》が採用されているが、その黄土色の画面に配された黒や灰色の形は、海へ注ぐ水が形成する地形を抽象化した作品に見える。
「砂」シリーズは砂浜海岸を描き出しており、海面を俯瞰的に描き出した海(Marina)と題された作品群と両輪となっている。砂は透明で捉えどころの無い水を描くための足掛かりなのかもしれない。1983年の《砂(Arenas)》にはくすんだオレンジ色で統一された画面の中央を、明るい(白味を帯びた)オレンジ色で等高線のような密集した線がジグザグに横断している。それが河岸段丘のような姿は砂浜に残された水の刻印であり、不在の水の姿をこそ描いていると言えよう。
1972年の《ウルグル(Urgull)》は、湾を隔てて対岸に臨む、要塞が築かれた岬モンテ・ウルグルを描き出した作品である。数段の防壁によって取り巻かれた丘の裾には建物が密集している。その家並を精緻に描きつつ、とりわけその上方は靄に包まれたように曖昧に表わされている。この作品もまた海景の1種であり、海とともに靄という水の効果を捉えた作品と解される。2005年の縦長の画面の《海(Marina)》では、海面を画面下部の6分の1程度に抑え、その上に夕陽によってピンクに輝く雲を描き出している。雲の姿を通して水を捉えている。
やはり作家にとっては水こそが主題である。砂のシリーズは砂を用いて水を描くという点で、枯山水に通じるものがあるのではないか。

展覧会 O JUN・森淳一二人展『象印』

展覧会『O JUN + 森淳一「象印」』を鑑賞しての備忘録
ミヅマアートギャラリーにて、2022年12月7日~2023年1月19日。

「象る」彫刻家・森淳一と、「印す」画家・O JUNによる二人展。

O JUNの《暗黒ドライブ》(710mm×710mm)は、画面を上中下と三等分した真ん中に、底面に比して高さの低い潰れた円錐を横から眺めたような形の「山」を表わした絵画と、同型の「山」と旧型のアメリカの自動車を組み合わせた絵画とを表裏一体にした作品。「山」だけの絵では山に青の十字が描かれ、その交わる面だけ水色に塗られている。十字によって区画された「山」の表面は、左上に白味を帯びたオレンジ、右上に黒、右下に濃い灰色、左下に明るい灰色が配されている。他方の絵では、「山」は明るい灰色で表わされ、黒い波線と黄色い模様が入れられている。「山」の裾に接するように紫色とクリーム色のヴィンテージ・カー(シボレーのインパラ?)が配されている。
O JUNの《校章図》(710mm×710mm)には2つの山と山の端から覗く黄色い日、山の下に明るい灰色と白味を帯びたオレンジで橋梁のアーチ状の橋桁のようなものを、さらにその下に波を表わすような藍色の描線が擦れ気味に配されている。
O JUNの《印(しるし)え》(710mm×710mm)は、4つの異なる朱肉(?)の印章が画面中央に等間隔で横に並ぶように押され、印影の部分だけ白く塗り残してある作品。
《暗黒ドライブ》、《校章図》、《印(しるし)え》は、モティーフを象徴化したロゴマークに引き付け、あるいは直接印影を画面に導入することで、絵画が有している記念としての性格が浮上させられている。ロゴ、さらには文字にまで到ることで、描き残されたモティーフは鑑賞者の脳裡により鮮明に刻まれることになる。だが果たして絵画が果たすべき役割は、その画面から離れて、そのイメージを一人歩きさせることにあるのだろうか。イメージだけであれば容易にネット上で鑑賞できる現在、絵画がむしろ物質として存在し、その実物を鑑賞する意義を逆説的に浮かび上がらせている。

O JUNの《フルーツ》(727mm×606mm)は、緑、黄、青、赤などの大小の円を画面上いっぱいに表わした抽象的なイメージによる絵画。古い(古さを擬態した?)額縁に収められていることもあって、昭和の洋画といった印象を受ける。美術展のカタログではカットされてしまう額縁の存在が、鑑賞者の作品理解(受容)に大きな影響を与えていることを示唆するのであろう。

O JUNの《象(かた)え》(1700mm×1190mm×50mm)は、灰色と暗い緑色で描かれたスーツ姿の男性立像。モデルは正面を向きやや左向き。左手を腰に当て、右足を僅かに前に出している。主に幅のある筆を横や縦に走らせた線で表現され、短時間で一気に描き上げられた印象を受ける。グレーとヴィリジアンの組み合わせは、立像であることとも相俟って銅像を思わせる。旧ブリヂストン美術館エドゥアール・マネ《自画像》を彷彿とさせるが、それは銅像として抽象化されているからだろうか。

離れた位置から見たときに灰色で塗り込めた画面にぼんやりと人物の影が浮かぶ、森淳一の《untitled(crevice)》(1475mm×1060mm)は、古い肖像写真に薄い石板を重ねて撮影された写真だという。モティーフとの間に挟まれた石板は時間であり、記憶が曖昧になっていく状況をこそ作品化したものだろう。デジタル化されたデータによっていつまでも記憶が残され、「忘れられる権利」が取り沙汰される昨今、芸術は、却って"memento"から離れていくのかもしれない。

台座代わりに樹皮がそのまま残された部分の自然との連なりからエミール・ガレの《ひとよ茸》を連想させなくもない、丸太の切断面から伸びた茸のような、森淳一の《F.O》(1815mm×340mm×370mm)は、空飛ぶ円盤を表わした一木造り。頂部の円盤、そこに向かい次第に細くなっていく支柱は幾何学的に単純化されたデザインである。実在のモティーフから想像上のそれへ。写真が誕生して此の方の絵画同様、3Dプリンターの発達によって彫刻も変容を迫られている現状の反映もあろうか。写さない、あるいは写せない存在が現前する面白みが彫刻の醍醐味の1つであることを訴えている。