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芸術鑑賞の備忘録

映画『エンドロールのつづき』

映画『エンドロールのつづき』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のインド・フランス合作映画。
112分。
監督・脚本・美術は、パン・ナリン。
撮影は、スワピニル・S・ソナワネ。
編集は、シュレヤス・ベルタンディ(Shreyas Beltangdy)とパヴァン・バット(Pavan Bhat)。
音楽は、シリル・モーリン(Cyril Morin)。
英題は、"Last Film Show"。※グジャラート語が不明なため、英語表記とした。

 

2010年。インド。グジャラート州サウラシュトラにあるチャララ村。線路の上をサマイ(Bhavin Rabari)が歩いている。レールの上に古い釘を並べると、線路脇に広がる草原の中に分け入り、横になって空を見上げる。上空を横切る飛行機に向けて指を差す。列車が通過すると、サマイは線路に置いた釘を取りに行く。列車の車輪の摩擦で変形し熱くなった釘を鏃にして弓で射る。
少年の母親(Richa Meena)が綺麗な服を取り出し、妹の髪を結っている。何かあるの? 少年が父親(Dipen Raval)に尋ねる。街に行く。映画を見にな。5歳のときから行ってないよ。いいか、今回だけだぞ。他の映画を見ることはない。うちには映画はふさわしくないって話したろう? じゃあなんで見に行くの? 今回は特別だからだ。カーリー女神を崇める作品なんだ。
街へ繰り出した家族4人が並んで歩く。賑わう通り。映画館の窓口には鑑賞券を求める客が鈴なりになっていた。父親は何とか家族全員のチケットを手に入れることができたが、すぐに売り止めになった。
映画館の座席は簡素な木のベンチ。次々と客が入ってくる。興奮した少年が舞台に上がり、降りるよう促される。1日3回上映がある。これがお前のチケットだ。最初で最後だぞ。父親が息子にチケットを渡す。館内を鳩が飛び交う。映画が始まる。演奏に合わせて華麗にに歌い踊る女性たち。母と妹も手の振りを真似ている。カーリー女神の姿が映ると拝む観客もいる。映像に見とれていたサマイは、スクリーンに向けて放たれる光に注目し、後ろを振り返る。どうして眩しい光が物語となってスクリーンに現れるのか。
帰りの列車の客席。父と少年、母と妹が向かい合わせに坐っている。マヌ(Rahul Koli)は駅長になりたいって。S.T.(Kishan Parmar)は技師になるんだって。僕は映画を作りたい。二度と言うな。バラモン階級で映画を仕事にしている人なんて聞いたことがないだろう? 映画の世界は腐ってる。世間に顔向けできないぞ。世間に顔向けできるって何? 今日やったことを振り返ってよ、チャイ淹れてカップ洗ってただけでしょ。チャイ、チャイってさ。父さんに向かってよくそんなことが言えるわね! 母親がサマイの顔をはたく。もういい。父親が止める。
サマイは拾ってきた色付きのガラスを線路に並べて、風景を眺めている。歪んだ景色は赤や青や黄、さらには重なり方によって異なる色へと変化する。どんな色に変わっても、光の中に物語は現れない。サマイはガラスを線路脇に投げ捨て叩き割ると、マッチ箱を拾い始めた。青いガラスのカンテラを見付け、目の前に掲げて風景を眺める。少年は駅に向かって駆け出す。
駅の簡素な売店。父親がチャイを作っている。遅い。いつも時間を無駄にしている。俺みたいになりたいのか? 仕事に取りかかれ。分かったよ、父さん。チャイとカップの入った籠を提げて到着した列車の乗客に売り歩く。チャイはいかが、熱々のチャイだよ。チャイを買い求めた客に尋ねられる。ここは何駅? チャララだよ。列車が出発し、チップスを売っていたマヌと話し合う。どうだった? あんまり。30ルピー。僕も。
サマイが地面にしゃがんで友達に物語を披露する。飛行機が飛んでいました。サマイが地面に飛行機の絵のデザインされたマッチ箱を置く。ひまわり畑に落ちました。ヒマワリのマッチ箱。風船売りが飛行機に乗ろうとした。風船のマッチ箱。しかし強い風で墜落しました。飛行機は王様のものでした。男の描かれたマッチ箱。王様? そう。金持ち? たくさん持ってたよ。車、銃、剣。3人の后がいた。メガーナ、メナカ、ピアナ。マッチ箱を並べていく。
少年が帰宅する。家族で夕食をとる。父親が息子の長い髪を切るよう注意する。どうして髪をいじるのとサマイは父親に反発する。
朝。母親が弁当を詰めて息子に渡す。寄り道しないのよ。分かってるよ。リュックを背負い、弁当箱を提げた少年が駆け出す。駅で出発する列車に飛び乗る。車中では緑色のガラス瓶を拾い、その瓶越しに風景を眺める。駅に到着。駐めてあった自転車に乗ると、学校へ向かう。
教室で先生(Alpesh Tank)が地域についての授業を行っている。私たちのサウラシュトラには他に2つの呼び方があるよね。その1つがソラス。もう1つは何かな? カシアワル。生徒が答える。私たちの土地で有名なのはライオンと牛だけはないよ。多くの偉人が生まれたんだ。名前を挙げてみて。ガンディー! 彼は独立のために戦ったね。でも血を流さず弾丸も使わなかった。だから非暴力を貫いた人だって言われる。
放課後。駅長(Nareshkumar Mehta)が息子のS.T.を見かけると呼び寄せて、チャイ売りの子と遊ぶなと言いつける。分かったよ、父さん。遊びに行っていい。
サマイは父親のチャイの屋台で、父親の目を盗んで売り上げを入れた箱から金を抜き取る。
授業中、サマイは教室を抜け出すと、見つからないように学校を出て映画館へ向かう。上映されていた『悪人』は、カー・チェイスにガン・アクション。少年はスクリーンに釘付け。慌てて駅に向かったが、帰りの電車は既に出てしまっていた。
警察署。サマイの両親がサマイの友人2人に、学校に息子は出席していたかと尋ねるが、2人の答えが一致しない。電話で連絡があり、警察官がアムレリ駅のベンチで寝てると報告を受ける。
チャララ駅。サマイが帰って来るのを父親が棒を持って待ち構えている。サマイの友人たちもサマイが叩かれるのが見物だと近くに屯している。サマイが帰って来ると、父親に気が付いて逃げ出す。父親が棒を持って後を追う。友人たちもその後に付いてく。
教室。終業のベルが鳴る。次は光について扱うからな。先生が教室から出て行く生徒たちを見送る。サマイ、その傷はどうした? 先生はサマイの腕の痣に気が付いて声をかける。映画館に行ったから。
家でサマイは母と妹と一緒に料理の下拵えをしている。そこへ自転車で帰って来た父親が、携えてきた「良い子の生活習慣」のポスターを壁に貼る。サマイはすぐさまそのポスターを剥がす。
サマイは金を持たずに映画館に行き、館内に忍び込む。ムガル皇帝を描いた作品だった。偉大で崇高なる皇帝陛下。陛下の人生が永遠でありますように。言葉では皇帝の偉大さは表現しきれない。皇帝はインドの中心、命なのだ。サマイが映写機の放つ光に手を触れていると、それに気付いた社長(Paresh Mehta)らによって追い出される。放せ、放せよ! 失せろ、2度と戻ってくるな! サマイは地面に放り出される。
映画館の柱に凭れたサマイが弁当を拡げていると、ベンチに腰掛けていた男(Bhavesh Shrimali)に声を掛けられる。何てチャパティなんだ!

 

2010年。インド。グジャラート州サウラシュトラにあるチャララ村。サマイ(Bhavin Rabari)は、チャララ駅でチャイを売る父親(Dipen Raval)の手伝いをする少年。母親(Richa Meena)は得意の料理で夫と息子と娘を支えている。かつて兄弟に騙されて牛を失った父親はバラモン階級出身であることを慰めにしていた。そんな父親は映画を卑下するが、カーリー女神を崇める作品だからと珍しく家族を映画に連れて行った。サマイは映画にのぼせ上がる。映画という光が紡ぐ物語を何とか再現したいがうまくいかない。サマイは学校をサボり映画館に通うが、先立つものがない。客席に忍び込んでいたのを見つかって社長(Paresh Mehta)に追い出される。悄気ていたサマイを見かねた映写技師のファザル(Bhavesh Shrimali)は弁当と引き換えに映写室で映画を見せることにする。映写室に通ううちサマイはファザルと親しくなり、映写の仕事を手伝うようになる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

少年サマイは映画に魅せられる。映写機が発する光がなぜ物語に変じるのか。彼は幼いながら独自に光を研究し始める。色付きガラスを通して世界を眺める。ピンホールカメラの原理を使って、列車の車両をカメラ・オブスクラにする(列車の走行により、映像は動画となる)。やがて彼は映写機を自作することになるだろう。
ムガル皇帝を描いた映画は、サマイの映画に対する讃辞のアナロジーだ。映画は偉大で崇高な存在。その素晴らしさを言葉では表現しきれない。サマイの命なのだ。そして、film=映画とは、サマイの前に敷かれた鐵路であった。彼がひたすら映画の道を走り続けることは、最初(冒頭シーン)から運命付けられていたのだ。
映画『ニュー・シネマ・パラダイス(Nuovo Cinema Paradiso)』が下敷きになっているのは間違いない。映写室で火災は発生しない代わりに、サマイの愛する映写機(サマイがキスをするシーンがある)はスクラップにされ、フィルムは溶かされる。だが、サマイは解体された映写機が炉に入れられて灼熱の光となり、さらにはスプーンとして輝くのを目撃する。フィルムもまた七色の腕輪に転生し、艶やかな女性たちの手首を飾るだろう。映画はどこまでも光、なのか。
否、映画は闇でもある。コマ送りのために上映時間の3分の1は闇を見せているが、残像効果により人はその闇を意識できないだけなのだ。映画は闇を隠し持っている。映画のの本性としての噓。それが映画の豊かさである。