可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 安珠個展『A girl philosophy ある少女の哲学』

展覧会『安珠写真展「A girl philosophy ある少女の哲学」』を鑑賞しての備忘録
シャネル・ネクサス・ホールにて、2023年1月18日~2月12日。

写真家の安珠の個展。著名な文学作品を始めとする芸術作品を下敷きに、「ある少女の哲学」を新作と旧作を取り混ぜた写真と詞書とで描く絵巻のような展覧会。

クローゼットの中に入り込んだ少女の沢山のリボンが遇われたスカートから脚が覗く。右膝の上に置かれた左手からは蝶が羽ばたく。クローゼットの周囲に広がる闇には夜空のように無数の小さな光が瞬く。「内省のはじまり」と題された写真の1点で物語が始まる。少女は冷蔵庫から取り出した卵をクローゼットの中でファーコートに包んで孵そうと企てていたのだ。
少女が身に付けたリボンは飛び立つ蝶であり、∞の可能性である。前半は『不思議の国のアリス(Alice's Adventures in Wonderland)』のアリスの冒険――ウサギ穴に落ち、体が大きくなったり小さくなったりし、狂ったお茶会に参加する――に準えることで物語が展開する。少女は冒険の過程で知識だけを詰め込み自分の頭で考えなくなることの危険――とりわけ、外見だけで判断することの危険――について、『グリム童話集(Grimms Märchen)の「フクロウ(Die Eule)」(KHM174)や『幸福な王子(The Happy Prince)』などから学ぶ。そして、悲劇――ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)の絵画《オフィーリア(Ophelia)》――を直視し、ムーサたちと出会う。
冒険の中で少女は傷つき――岡本太郎《痛ましき腕》と『魔女の宅急便』のキキを組み合わせたような写真――孵そうとした卵は潰れてしまった。それでも少女は前を向いて立つ――渋谷のスクランブル交差点で松本竣介 《立てる像》のような写真――。

写真と物語を辿っていると、突然巨大なユニコーンの写真が展示空間の壁面いっぱいに姿を表わすのが印象的。ウサギ穴に落ちて時間が経過していく、時間の桎梏の中を生きる少女に対して、ユニコーンは時間を超越する存在の象徴であることは疑いない。ユニコーンは不在であるが故に普遍であり、乙女は実在するが故に儚い。

展覧会 諏訪敦個展『Sphinx』

展覧会『諏訪敦「Sphinx」』を鑑賞しての備忘録
成山画廊にて、2023年1月13日~2月18日。

諏訪敦の絵画《Sphinx》(1620mm×2590mm)を展観。

Sphinx》の舞台は、カーテンを閉ざした白い壁の薄暗い室内。白いカーテン越しの明かりに、ベッドの白いシーツの上に仰向けになった裸の男性に跨がる一糸纏わぬ女性の姿が浮かび上がる。男性の手は女性の腰と太腿に軽く添えられ、足を真っ直ぐ伸ばしていることから、女性が積極的に腰を使っているようだ。ガラス越しのためか、画面には縦に幾筋もの線が入り、キスを交わしているように見える2人の顔の辺りも判然としない。何より目を引くのは、足や手が複数描き込まれていることである。
ところで、画題となっているスフィンクス(Sphinx)は、人間の頭、ライオンの胴体、ワシの翼を持った神話上の怪物である。テーベに向かう旅行者に「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩く生き物は?」との謎を出し、その謎を解けなかった者を喰らっていたが、オイディプスは「人間は、幼児のときは四つん這いになり、大人になると二本足で歩き、老年になると杖を用いる」と謎を解き、旅を続けることができたとの物語で知られる。この物語を表わしたギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)の《オイディプススフィンクス(Œdipe et le Sphinx)》(2060mm×1050mm)(メトロポリタン美術館蔵)は切り立った岩山の隘路に立つオイディプススフィンクスが飛び掛かった場面を描いているが、これを90度右に倒すと、《Sphinx》の構図に近くなる。但しモローのスフィンクスの表情は、謎を解かれ戸惑っており、体を反らせたオイディプスが投げる眼差しが力強い。《Sphinx》で男性が女性のなすがままになっている関係性は、むしろスフィンクスの口吻を男性が目を閉じて受け止めている、フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck)の《スフィンクスの口づけ(A Szfinx csókja)》(1625mm×1455mm)(ブダペスト国立西洋美術館蔵)の方が近いだろう。少なくとも《Sphinx》が現代の閨房を舞台に置き換えながらも、19世紀末後半のファムファタルとしてのスフィンクスの流れを汲むことは間違いない。
翻って、《Sphinx》に描かれた複数の手足は、朝・昼・夜の時間経過を重ねたもので、そこから、「朝は4本足、……」という謎で表わされる人間のメタファーなのであろうか。あるいは、モローの《オイディプススフィンクス》で画面下に描き込まれたような、スフィンクスに屠られた旅人の亡骸であろうか。
気になるのは、ベッドの手前に置かれた(ように見える)もう1つの無人のベッドと、その手前のガラス(?)が作る縦の色取り取りの線である。モティーフである男女との距離が鑑賞者から二重に遠ざけられているのだ。それはディスプレイ越しに時間を費やす現代人の姿を映す鏡と言える。そもそもスフィンクスが山賊的存在であり、通行に際して払わなくてはならない代価を象徴するなら、《Sphinx》は現代の人生行路において支払わなければならない代償をこそ表わしているのではないか。その代償とは、鑑賞者がディスプレイを眺める愉楽――そこにはスクリーンがあるだけで実体はない――と引き換えに失う時間である。だからこそ異時同図的(動画的?)表現が採用されたのではないか。《Sphinx》現代人に向けた一種の警句、メメントモリである。

展覧会『合田佐和子展 帰る途もつもりもない』

展覧会『合田佐和子展 帰る途もつもりもない』を鑑賞しての備忘録
三鷹市美術ギャラリーにて、2023年1月28日~3月26日。

合田佐和子(1940~2016)の回顧展。
合田佐和子は、廃品などを組み合わせたオブジェが瀧口修造に評価され、1965年頃から個展で精力的にオブジェを発表。晩年までオブジェの制作が続けられた。1969年以降は唐十郎寺山修司らのアングラ演劇の舞台美術やポスター原画を手懸ける。1971年に再婚した三木富雄とともにニューヨークに渡り、現地で拾った銀板写真のイメージを絵画に写したことをきっかけに独学で絵画を制作するようになる。モノクロームに近い配色や、色数が増えても暗い画面に俳優や動物の姿などを表わした。旅行をきっかけに一時は生活の拠点を移すほどエジプトにはまり、以降の絵画はパステル調の明るい画面となり、神懸かりの(意志とは関係なく手が動く)絵画制作も行われるようになる。
最初期から晩年までのオブジェ、初期のモノクローム調の油彩から後期のパステル調の油彩を経て晩年の鉛筆画までの絵画作品、書籍のカヴァー、演劇のポスター原画や舞台美術、ポラロイドによる写真作品などを、ほぼ年代順に紹介している。

一貫しているのは、目に対する注目。最初期から手や足に目を組み込こんだオブジェを制作している。人形の頭部を組み込んだオブジェの中には《Watch-Angels》(1964)と題されたものもある。エジプト滞在時にはホルス神の目に加え、現地の共同生活の中で見慣れぬ日本人に対して四六時中視線が注がれる体験があったとのことで、ガラス器に付け加えられた義眼、目だけを描いた絵画など、ますます目が作品に溢れている。
ところで、ポラロイドの作品では、親しい人物をモデルに、敢て瞼に目を描いて撮影している。描かれた目とは結局は義眼であり、ガラス玉である。
改めて展示されている絵画に目を向けると、描かれた目の多くは、鑑賞者を見返すことなく、どこかに視線を外している。何故だろうか。
1つには、目が描かれたもの――義眼、ガラス玉――に過ぎず、目の持つ力、不可思議な視線の力――たとえ破邪とまでは行かずとも、背後の視線を感じるような――を発揮することはないことを隠蔽するためではなかろうか。また1つには、反対に、その視線の隠蔽によって却って目の持つ力を想起させる意図があるのかもしれない。さらには、目に対する不信を、恰もマジシャンが観客の目を動作に引き付けることでトリックを仕掛けるように、敢て目に着目させることで訴えるのではなかろうか。見えているものに囚われるなと。瞼に描いた目とは、心眼を用いよとのメッセージのようである。

展覧会 山口みいな・プーカリン・林京平三人展『あの辺の家を眺める』

展覧会『山口みいな・プーカリン・林京平「あの辺の家を眺める」』を鑑賞しての備忘録
OGU MAGにて、2023年1月12日~29日。

日常で擦過する形や動きから線を抽出する山口みいな、景観のエッセンスを標識のように伝える平面や立体を提示するプーカリン、日常で目にする形をアクリル板をカットしたシルエットで表現する林京平の三人展。

山口みいなの映像作品《trajectory of lines》は、青い光が書道のように文字らしき形を描いていく軌跡を見せる。線が伸びて曲る動きは速く、溜める表現は見られない。青い軌跡が生み出される過程に目を奪われ、鑑賞者はその運動の追体験をすることになる。それこそが作品の狙いである。山口みいなの《moss lines [blue:1]》は、ふわふわした青い便座カヴァーが曲がりくねり、断片化したような形状の、青い毛糸による立体作品。タイトルの通り苔をイメージしたもののようだが、緑では苔そのものの表現となるため、青にすることで線を見せようとしたのだろう。《trajectory of lines》の投影した壁に《moss lines [blue:1]》の一部が凭せ掛けられることで、青い苔が青い光に転化していくことが暗示される。静的な苔の作る形が青い光の運動に含まれているのだとしたら、鳥が飛び回り、樹木が枝を伸ばし、店頭の幟が揺れ、自転車が通り過ぎ、アスファルトに罅が入るといった、日常で擦過する様々な動きないし形は、当然《trajectory of lines》の構成要素になり得る。《trajectory of lines》の線の由来へに対する想像力をたくましくさせる働きが、《moss lines [blue:1]》との関係で生まれたのである。他に、どこか生命的な印象を宿すドローイングや、アラビア文字をイメージさせるような線を表わした小さな焼き物(陶板)である「つぶやき」シリーズも展示。

プーカリン《パノラマ展望図/山々》は、青空を背に3つの緩やかな円弧が横に連なる稜線で表わした山並を描いた図案化されたイメージを白い2本の棒で立てることで標識のように立てたものと、その周囲に設置された青緑の園芸支柱(樹脂ポール)を曲げて作ったアーチ3つから構成される立体作品。平板な交通標識は山の存在を喚起する装置であろうか。絵画で描かれる山よりも盛り上がった形のアーチは「標識」の手前から奥へ、会場の床、3段だけの階段脇、壁の背後に立てられている。その配置によって山が奥へと連なっていく状況が印象付けられる。なおかつ山はアーチとして造形されており、際に鑑賞者が通れるほど大きなものではないとしても、潜らせて奥へと誘い込む力を宿している。それは「標識」が平板であるがゆえに、その対照によって効果が増幅されている。他に標識的イメージにより不在の景観を喚起させる《イメージフジ》や見立てにより対象の増幅を試みる《シンクロ八ヶ岳》など山をモティーフとした絵画も展示。

林京平は衣類のシルエットをアクリル板によって造形した「operation」シリーズを展示。《operation [command+C]》と《operation [command+D]》は、グレーの透明のアクリル板で七分袖(?)の服を表わしたものが、壁から浮かせるように吊り下げられている。《operation Ⅱ [command+G]》や《operation Ⅲ [command+G]》では、半袖のTシャツやキャミソールなどの複数の衣服が重ねられたイメージが作られているため、洗濯物が干してある情景を思い浮かべることになる。吊り下げられた洗濯物という人の営みを強く喚起させるイメージは、他方でアクリル板という無機質な素材で作られ、カットによりシャープな印象が強められるとともに、アクリル板の透明さと宙に浮かされる展示によって現実感を殺いでいる。地に足を付けた現実的な生活がスマートフォンその他のディスプレイを介したイメージに置換されていく様を表現しているのかもしれない。

三者とも日常的景観から抽出したイメージによって視覚偏重の現実を浮き立たせることで、却って見えなくなっているものや、身体の存在や運動に対する喚起を促している。

映画『イニシェリン島の精霊』

映画『イニシェリン島の精霊』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のイギリス映画。
114分。
監督・脚本は、マーティン・マクドナー(Martin McDonagh)。
撮影は、ベン・デイビス(Ben Davis)。
美術は、マーク・ティルデスリー(Mark Tildesley)。
衣装は、イマー・ニー・バルドウニグ(Eimer Ni Mhaoldomhnaigh)。
編集は、ミッケル・E・G・ニルソン(Mikkel E. G. Nielsen)。
音楽は、カーター・バーウェル(Carter Burwell)。
原題は、"The Banshees of Inisherin"。

 

1923年。アイルランドのイニシェリン島。霧が晴れると、崖下の港、湾、対岸のアイルランド本島が見渡せる。
虹が架かる港。人々が忙しく働く中をパードリック・スーラウォーン(Colin Farrell)が知り人に挨拶しながら通り抜ける。海岸近くの丘の道を歩き、マリア像を越えた辺りから小さな入り江に向かって斜面を下り、一軒だけ立つ住宅へ。煙突からは煙が昇っている。ドアの前に立つ犬を撫でてからノックする。反応が無い。海に面した窓へ廻る。コルム、パブに行くだろ? コルム・ドハティ(Brendan Gleeson)は窓に背を向けて座り、煙草を吸っている。2時だぞ。丁度教会の鐘が鳴る。向こうで会おう。コルムの反応が無いのを訝しむパードリック。
パードリックが丘の上に立つ自宅に戻る。家の前では色鮮やかな洗濯物が揺れている。洗濯物を干していたシボーン・スーラウォーン(Kerry Condon)が尋ねる。もう帰って来たの? コルムのところに行ったんだけど、坐ってた。坐って何してるの? 煙草を吸ってた。眠ってたの? 煙草を吸ってたんだ。眠って煙草が吸えるか? 喧嘩? してないよ。してないと思うけどな。喧嘩してたか? ドアをノックしたのに何で応答がないんだ? ひょっとしてもう兄さんのことが気に入らないのかも。シボーンが洗濯籠を抱えて家に入る。
パードリックは1人パブに向かう。店に入るなりに1杯注文する。店主のジョンジョ・ディヴァイン(Pat Shortt)が黒スタウトを注ぎながら尋ねる。コルムは一緒じゃないのか? ああ。いつも一緒だろ? そうだよ。奴の家に立ち寄らなかったのか? 立ち寄ったさ。どこにいるんだ? 家で坐ってる。坐って何してんだ? 何も。煙草。喧嘩したのか? 喧嘩した覚えは無いけど。喧嘩したみたいじゃないか。もう1度訪ねるべきかな? それが一番だ。パードリックは一口飲んでグラスをカウンターに置くと、店を出て行く。
パードリックは通りすがった警察官のピーダー・カーニー(Gary Lydon)に挨拶するが、ピーダーは無視する。あいつは絶対挨拶しやしない。
パードリックが再びコルムの家を訪ねる。窓から覗くが姿が無い。ドアを開けて入ると、蓄音機から賛美歌が流れていた。黄色い壁に囲まれた室内には、仮面や人形や角笛などが掛っている。梯子を昇って2階を確認するが、コルムの姿は無い。吊り下がっていた能面を顔に当ててみる。窓から人影を見たパードリックが手元の望遠鏡で覗くと、コルムが斜面を上がっているのが見えた。どこへ向かってるんだ?
パードリックはがパブに行くと、コルムはカウンターで飲んでいた。パードリックが隣に坐ろうとすると、コルムは他の場所へ行けと言う。啞然とするパードリック。ここに俺のビールがあるんだ。さっき来て注文したんだとジョンジョもコルムに説明する。だったら俺が席を変えよう。コルムは外のテーブル席に坐った。喧嘩したのか? 隣にいたゲリー(Jon Kenny)が尋ねる。喧嘩した覚えは無いんだ。喧嘩だろ。コルムは外に坐ってるじゃないか。確かに喧嘩してるみたいだな。話しに行くのがいいみたいだ。パードリックはコルムのテーブルに向かう。隣に坐るぞ、店の中に入るなら俺もそうするし、家に帰るなら俺も付いていく。俺が何かしたなら何をしたか言ってくれないか。酔って何か言ったかもしれないが忘れちまってる、酔って何か言ったとは思わないけど忘れちまってる。そうだったら何があったか言ってくれ、すまない。心から謝るよ。ガキみたいに俺から逃げ回るのは止めてくれよ。お前は何も言ってない。お前は何もしてない。思った通りだ。ただもうお前のことが気に入らないだけだ。パードリックは言葉を失う。俺のこと気に入ってるだろ。いいや。昨日は気に入ってただろ。そうだったか? 俺はそう思ってた。コルムはグラスを飲み干すと立ち去る。
失意のパードリックが家に向かう途中、道端に坐って棒をいじっていたドミニク・カーニー(Barry Keoghan)から声をかけられる。どうしたんだよ? どうもしないさ。ドミニクがパードリックの後を付いてくる。鉤付きの棒を拾ったんだ。何に使うやつかな? 遠くにあるもの引っかけるためかな? どこ行くの? 道なりに。そりゃいい。煙草ある? ない。いつも持ってるだろ。コルムがパブで配ってる。本当? 噓だよ。不満げなドミニク。あんたおかしいよ。

 

1923年4月1日。アイルランドのイニシェリン島。対岸に臨む本島では内戦のため時折爆発が起こるのが目に入る。酪農家のパードリック・スーラウォーン(Colin Farrell)はいつも通り2時にコルム・ドハティ(Brendan Gleeson)の家に立ち寄る。連れ立ってパブに繰り出すためだ。だが今日に限ってドアをノックしても反応が無い。窓から覗くと、コルムは椅子に坐って煙草を吸っていた。パブで会おうと声をかけてパードリックは一旦帰宅する。洗濯物を干していたシボーン・スーラウォーン(Kerry Condon)は兄の早い帰宅に驚く。事の次第を説明すると、コルムは兄さんのことを気に入らなくなったのかもと茶化す。パードリックがパブに行くと、店主のジョンジョ・ディヴァイン(Pat Shortt)が1人で来店したことに驚き、喧嘩したのかと尋ねる。そんな覚えは無いパードリックだったが黒スタウトを一口だけ飲むと改めてコルムの家を訪ねる。家の中ではレコードがかかっていたが、コルムの姿は無かった。外を眺めると、コルムが歩いているのが見えた。パードリックが再びパブへ行くと、コルムはパードリックが隣に座るのを嫌がり、外の席に坐る。パードリックがコルムのテーブルへ行き、自分が何かしたかと問い詰めると、何もされてないが、お前のことが気に入らなくなっただけだとコルムが言い放つ。

(以下では冒頭以外の内容についても言及する。)

おっさんの友情が突然破綻したという物語に鑑賞者はいとも容易く捩じ伏せられてしまう。恐るべしマーティン・マクドナー
小さな島で暮らすパードリックはコルムと長年友情を培ってきた。だがある日突然、残りの人生をろくでもない話で無駄にしたくない、作曲などで有意義に過したいと、パードリックはコルムから絶縁を宣言される。パードリックは戸惑い翻意を促そうとするが、コルムの決断は揺るがない。コルムの徹底した断交は常軌を逸した形を取り、思わぬ形でパードリックをも狂気の渦に巻き込むことになる。
密接な関係にあった両者の断交は、内戦のメタファーである。内戦は対岸の火事では済まず、その火の粉が燃え広がる可能性を持つ。そして、消えたと思っても、その日が消えることは無い。
寂しい思いを抱える独り身のシボーンは本だけを心の拠り所に生きてきた。ドミニクが彼女に想いを寄せるが、「当たって砕けろ」を実践する若者の想いが届くことは無い。ドミニクが拾う鉤付きの棒が引き寄せるのは、彼の運命ではあった。
人はいいがちょっと足りないところのあるパードリックが戸惑ううちに悲しみに打ち拉がれて変貌する姿を、太い眉毛とともに演じたColin Farrell、厳しい表情で底意が見えない渡辺哲的Brendan Gleeson、鬱憤を溜め込んだ高校生として画面に煮え付いてきたBarry Keoghanの足りないけれど前向きなドミニク、ドミニクが憧れる掃き溜めに鶴のシボーンを演じたKerry Condon、腐れ外道の警察官Gary Lydon、千里眼を持つ魔女そのもののSheila Flitton、憎たらしい食料雑貨店店主Bríd Ní Neachtain他、いずれのキャストも素晴らしい。