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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 李燦辰個展『彗星の魔術師』

展覧会『李燦辰個展「彗星の魔術師」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2023年1月23日~28日。

李燦辰の絵画展。

冒頭に掲げられた《Sneak》(756mm×560mm)には、滝壺の近くに佇む白い丸々とした鳥のような生物を画面上側に、草地に剣と籠を背負った赤いキャラクターが後ろを振り返りながら焚き火を後にする姿を画面下側に描いている。画面右下に表示された4人のキャラクターのアイコンは、複数のプレイヤーの参加するゲーム画面のように見せる。
《Electric Sheep》(243mm×415mm)の明るく淡い灰色と桃色とを基調とした画面は、僅かに草が生え、水溜まり(水辺)があり、遠くに崖や海岸線(あるいは河)も見えるが、荒寥とした印象である。その中央を画面左手前に向かって羊が歩いている。背後から陽を受けて藍色の蔭になり、頭部だけ白い。画面左手前には同種の羊の尻と尾とが覗く。画題の"Electric Sheep"は、フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick)の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?)』に由来するものだろう。
Cthulhu flame》(840mm×1167mm)には、人や馬や獣などの姿のある赤い炎が画面を覆い尽くしている。炎によって全てが渾然と一体となっている。画題の"Cthulhu"から、H・P・ラヴクラフト(H. P. Lovecraft)の小説に描かれる「クトゥルフ神話(Cthulhu Mythos)」を下敷きにしているようだ。

《Dissociate》(160mm×457mm)では、青を中心とした絵の具を厚く塗った上に黒や白い絵の具を重ね、削り出すことで、白い画面のあちらこちらに不定形の水色が画面から盛り上がっている。「解離する(dissociate)」という画題から、意識や記憶が統御されず、分散された状態を表現するのだろう。
《Consciousness Melting Pot》(1167mm×728mm)の画面上部には、紫の地に七支刀のように軸から枝分かれた先が上を向く形が正三角形の中心に配され、その周囲には生命体らしきものが浮かんでいる。画面下部にはピンクの地に樹木、カタツムリのような殻を持つ生物、複数のプラナリアのような生きもが描かれている。画面下部は集合的な無意識を、境界は閾を、画面の上部の正三角形は意識の統御のイメージを形作っている。

《From the Void》(1620mm×1120mm)には、ピンクと青の流体が画面を覆う中、右下の枠の中に、大きな翼を持った生き物が、人の頭部を持つ四つ脚の動物の背に乗って、大木の前を飛ぶように通過する場面が表わされている。《Squirrel rider》(530mm×410mm)において、ネコ科動物の骨格標本の背に跨がる赤いリスは、画中画として描かれている。画中画のように複数の画面を表わすのは、ディスプレイの中に開かれた複数のウィンドウであって、複数の世界が並行して存在することを示唆する。《Consciousness Melting Pot》や《Onlookers》(1000mm×725mm)における画面の上下の分割や、《Sneak》のアイコン表示も同趣旨であろう。そして、それら複数の世界(自己と他者のみならず、《Consciousness Melting Pot》が描く意識と無意識)は相互に接続し、影響し合う。その相互接続や影響関係を一歩進めて、《Cthulhu flame》では、種々の生物を生命として一体として捉える発想に連なる。《Electric Sheep》に描かれる「電気羊」を羊と区別できないことから、生命と非生命との境界も消え去っている。

《No fouling》(320mm×410mm)には、犬の糞の処分を求める標識(No fouking)とともに、アンドロイド(?)がごみ箱に袋を捨てる場面が描かれるが、「電気犬」なら糞で道を汚すことはない。付着物(汚損)の存在しない(no fouling)完全に清潔なユートピアで廃棄されるのは一体何か。アンドロイドの背後で燃えさかる炎(fire)は火葬のための火(pyre)ではないだろうか。アンドロイドによって焼却されたのはfoulingする人間であり、それによってごみ箱に投じられたのは遺灰である。

映画『母の聖戦』

映画『母の聖戦』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のベルギー・ルーマニア・メキシコ合作映画。
135分。
監督は、テオドラ・アナ・ミハイ(Teodora Ana Mihai)。
脚本は、テオドラ・アナ・ミハイ(Teodora Ana Mihai)とアバクク・アントニオ・デ・ロザリオ(Habacuc Antonio De Rosario)。
撮影は、マリウス・パンドゥル(Marius Panduru)。
美術は、クラウディオ・ラミレス・カステッリ(Claudio Ramirez Castelli)。
衣装は、バーサ・ロメロ(Bertha Romero)。
編集は、アラン・デソバージュ(Alain Dessauvage)。
音楽は、ジャン=ステファヌ・ガルベ(Jean-Stephane Garbe)。
原題は、"La Civil"。

 

瞬きしないで。私を見て。シエロ(Arcelia Ramírez)は娘のラウラ(Denisse Azpilcueta)に化粧してもらっている。化粧を終えたラウラはスマートフォンを手にして眺める。リサンドロ(Manuel Villegas)とお出かけ? そう。シエロは立ち上がり台所へ。食事も一緒に? 分からないけど、そうかも。これ、面白い。目を覚ましたイヴが寝ぼけてアダムにここはどこかって尋ねるの。そしたらアダムが、僕ら裸で、家も仕事も金ないけど、ここは楽園だって言われてるって。だから僕らメキシコにいるんだよって。分かったような口を利くアダムだね。シエロは鍋の様子を確認すると、洗濯物の入った籠を持ってきて畳み出す。ラウラは化粧を始めた。お父さんとは話したの? まだ。いつ話すつもり? 分かんない。同じこと聞けるよ、パパと話したかって。いっつも言いなりだもんね。生活費の要求だってしないし。ラウラは口紅を手にして母親の唇に塗る。綺麗。この母だからこその娘って感じ。娘は髪を下ろし、シャツの胸元を開け、派手なピンクの上着を羽織る。遅くならないでよ。聞いてるの? 部屋を掃除したんでしょうね。レンチョに餌はやったの? 帰ったらやる。行かなきゃ。遅くなっちゃった。彼が待ってる。壁に向かって話してるみたい。聞く耳持たないもの。この母だからこその娘って感じ。ラウラは母親にキスすると出かける。シエロは娘の部屋に行って片付け始める。ガラスケースにはカメレオンのレンチョがいる。
シエロが車を運転している。パステルカラーに塗られた建物。窓が板で覆われた建物。途中、兵士を乗せたトラックの通行のために停止させられた。2人の若い兵士が銃を構えて荷台に乗っている。その後ろをシエロが走る。向かったトルティーヤの店は閉っていた。扉を叩いても誰も出てこない。再びシエロが車を走らせていると、突然赤いミニバンが前方に割り込んで停止した。シエロも車を止めざるを得ない。にやついた若者(Juan Daniel García Treviño)が車から降りて、シエロに近付いて来た。ラウラの母親か? 娘に会いたいならロス・アントヒートスに10分で来い。でもなぜ? ロス・アントヒートスに10分で来い。さもなきゃ2度と娘に会えないぜ。突然の出来事にしばし呆然とするシエロ。まずはラウラに電話をかけるが、娘は電話に出ない。
ロス・アントヒートス。店員が本日のメニューを説明するがシエロはそれどころではない。牛肉のスープとデザートにプリンかカスタード。または前菜にコンソメスープ、メインにエンチラーダです。結構です。メニューをお持ちしましょうか? 卵料理も種々ございますよ。それでお願い。店の外を市警のパトカーが通り過ぎる。シエロはラウラに電話するが繋がらない。リサンドロに電話する。何が起きたの? どこにいるの? ラウラは? 娘を探してるの。あなたと出かけるって。また電話します。赤いミニバンが店の前に停まり、先ほどの若者が別の若者を連れて店に入ってきた。オヤジがよろしくって。ラウラは? 彼女は大丈夫。落ち着いてる、問題ない。あなたたちが娘を誘拐したの? ああ。彼女が傷つくかどうかはあんた次第だ。だけど何で? 娘を解放して。それは俺たちが決めることじゃない。2人はラウラのテーブルに運ばれていた料理を食べ始める。若者の電話が鳴り、すぐに出る。ありえねーよ。20万って言ったはずだ。奴は何て? 噓ついてんだよ。あのクソ野郎は唸るほど持ってんだ。牧場も持ってるだろ? 協力するように言えよ。連絡を怠るんじゃねえぞ。電話を切ったところへ店員が注文を取りに来る。シンクロニサーダとコーラ。同じもの。店員が立ち去る。ラウラが何をしたって言うの? まあ落ち着いて。俺らと娘さんとにいざこざなんて無い、ただ一緒にいるってだけ。15万ペソ必要なんだ。だけどそんなお金持ってないわ。15万ペソがどこにあるって言うの? ラウラに会いたいなら15万ペソ用意しろよ。それとあんたの旦那の立派な黒いピックアップトラックもな。娘を傷つけないでちょうだい。2人は運ばれてきたコーラを飲む。金をくれりゃ、娘を取り戻せるよ。あんたならできるって、俺には分かる。明日用意しろよ。場所は指示するからさ。通報はダメだからな。警察ダメ。軍隊もダメ。分かった?
夜。シエロは別れた夫のグスタボ(Álvaro Guerrero)の家へ向かう。ドアを叩く。夫の後妻ロシ(Adriana Vanesa Burciaga)が出て来る。夫と話す必要があるの、至急。至急って何? シエロはロシの許可を待たずに入り込む。大音量の音楽がかかっている。ラウラは一緒にいない? 誰も呼んでないだろ。シエロはステレオの電源を切る。何してるんだ、お前。ラウラ、グスタボ、ラウラ! 娘に会った? 話した? ラウラが俺と話なんかしないって分かってるだろ。娘がギャングに攫われたの。何故連れて行かれたんだ? 分からない。連れて行かれたの、誘拐されたの。何の話だ? お金を要求してるの。誰が要求してる? 知らない。2人の男。足止めを喰らわされたの。戯言に付き合ってる暇は無い。戯言なんかじゃないの。あなたの娘。娘は出かけて帰ってこなかった。それから奴らが街で私を襲った。電話したけど娘から連絡がないの。遅かれ早かれ娘さん、大変なことになるでしょうね。冗談だろう、ラウラは戻ってくるさ。現実なの。ラウラはそんな冗談は言わないわ。ラウラは俺に怒ってるんだ。だから俺を怒らせようとやってるんだろう。彼女が誘拐を自作自演してるって言うの? カルテルが人々にどんなことしてるか知ってる? グスタボ、妄想は止めてもらえる? 奴らが私たちの娘を誘拐したの。食料雑貨店の息子も誘拐されて戻ってないわ。警察に行かないと。警察に行ったら連中は分かるわ。そしたらどうなるかしら。連中は何でもお見通しよ。それならどうすれば? 何で外出させたんだ? リサンドロとデートするって。でも彼は娘がキャンセルしたって。理解できないな。グスタボ、本当なの。娘の弄ぶつもり? 奴らはいくら要求してるんだ? 15万ペソとあなたのピックアップトラック。とんでもない。選択の余地なんてないわ、あなた。支払わないと。

 

シエロ(Arcelia Ramírez)は夫のグスタボ(Álvaro Guerrero)と別れ、娘のラウラ(Denisse Azpilcueta)と2人暮らし。ある日シエロが車で出かけると、突然前方に割り込んできた車から降りてきた男(Juan Daniel García Treviño)に娘に会いたければ10分後にロス・アントヒートスに行けと脅される。デートに出かけた娘の電話はつながらない。ロス・アントヒートスで待つシエロは再度娘に連絡をするが娘は電話に出ない。恋人のリサンドロ(Manuel Villegas)に連絡を入れると、ラウラからデートをキャンセルされたと言う。シエロの前に先ほどの男が現れ、娘の命と引き換えに15万ペソと夫のピックアップトラックを求められる。シエロが夫に相談しに行くと、狂言だろうと取り合わない。だが後妻のロシ(Adriana Vanesa Burciaga)からカルテルの連中の仕業だろうし、警察に連絡するのは悪手だと言われ、グスタボはようやく真に受ける。用意した金が要求額に満たないことをシエロは懸念するが、グスタボは交渉すればいいからと、2人は身代金の受け渡しに向かった。男が現れると、グスタボは為す術なく言われるがままに金の入った袋とピックアップトラックを提供する。墓地の前で待てと指示されたが暗くなるまで待っても娘は帰って来なかった。2人は歩いてシエロの家に向かう。自宅の前に待機させたリサンドロから何の動きもなかったと報告を受ける。

(以下では、冒頭以外の内容についても触れる。)

ロベルト・ボラーニョの『2666』という大部の小説がある。メキシコで若い女性の遺体が次々と発見される第4部「犯罪の部」については否定的評価もあるが(例えば、寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』)、悲惨な出来事に溢れる日常の追体験を迫る点に意義がある。犠牲者が相次ぐと、次第に個々の具体的な存在としては捉え難くなり、数字へと抽象化されていってしまう。ボラーニョは読者を抽象化の罠へと誘ってみせる。ところで、文学や映画の仕事は、かつて加藤周一が、目の前の1頭の牛を救えと主張した孔子を引き合いに、「常識」に囚われず眼前の出来事に対する感覚を大切に生きることを訴えたように、抽象化の罠に嵌まらせないことにある。誘拐された娘ラウラのために無鉄砲になる母親シエロの姿を描く本作は、鑑賞者をシエロの身に立たせ、数多くの行方不明者ないし遺体へと意識を拡散させること無く、ラウラの姿を追い求めさせる。

(以下では、結末について触れる。)

描かれなかったラストは、シエロに対する犯罪組織の報復(殺害)であろう。ラウラを探し出すという希望を失ったシエロは、娘との「再会」を期待して顔を輝かせるのである。

展覧会 望月通陽個展『蕪村に寄す』

展覧会『望月通陽展「蕪村に寄す」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー椿にて、2023年1月14日~28日。

蕪村の句に取材した染色技法(型染め・筒描)による絵画で構成される、望月通陽の個展。別室(GT2)ではガラス絵とブロンズの作品を紹介する「これだけの世界」も併催。

《斧入て香におどろくや冬こだち》(850mm×590mm)は、裸木に斧を入れる人物と樹上の鳥とを一体的に描いた型染による作品。和紙に表わされたイメージは紺地に白い点が寒々しい冬木立を伝えるとともに、1枚の型紙によって文字通り人、動物、自然が一体に連なるものとして提示されている。斧が幹に突き立てた瞬間、冷涼な世界に木の切れ目から香りが立ち上る。刃先が木を叩いて発せられた音は、鳥を慌てて羽ばたかせる。
やはり裸木に斧を入れる人物を薄墨で表わした《限りある命のひまや秋の暮》(850mm×590mm)では、鳥の代わりに、根元に広がる波紋が描き込まれることで、斧の立てる音が周囲に響き渡る様を表現するとともに、島のように閉じた系としての世界、一種の桃源郷が立ち上がっている。

《ゆく春やおもたき琵琶の抱き心》(790mm×330mm)は、琵琶を抱える人物を薄い茶色の古麻布に型染で表わした作品。 マン・レイ(Man Ray)が《アングルのヴァイオリン(Le Violon d'Ingres)》で女性のヌードの背にf字孔を描いたように、弦楽器と身体には相同性が認められるが、柔らかな曲線で描かれた身体は、添えられた琵琶によって、触れれば音を発する艶めかしさを増幅させられている。

《遊行の柳》(850mm×590mm)は、緑に茶で柳と一体化した人物を描いた型紙による作品。「遊行の柳」は、西行が「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」との和歌を残し、芭蕉が「田一枚植えて立ち去る柳かな」と捻り、蕪村が「柳散清水涸石処々」と詠んだ歌枕。柳の蔭でしばし時を過し、あるいはそうした先人に思いを馳せたて作られた絵画である。葉の散った柳や涸れた清水から却って青々とした柳や満満と水を湛えた泉を想像した「蕪村に寄」せ、作家は繁る柳の姿を描き出した。言の葉の伝統に連ならんと青柳と一体化したのは作者であり、そのような営みを続ける人々の姿でもある。木蔭は桃源郷のようにも見える。
《蔭》(230mm×190mm×350mm)は腕を横に伸ばして輪を作る人物を表わした石膏型によるブロンズ作品。青柳となってその蔭に桃源郷を作らんとする人の姿であろう。直立する身体を陽、腕の作る輪(穴)を陰として、陰陽からなる宇宙を暗示してもいる。

《起き居てもう寝たといふ夜寒哉》(392mm×266mm)は、夜長を象徴する深い藍色を地に母親に抱かれた娘が片目を瞑っている姿を表わした筒描の作品。寝たかと聞かれて寝たと答えるのは言動に矛盾がある。その矛盾を片目を閉じて片目を開けることで示している。オクシモロンに通じる句の面白みを、母親の膝の上で安心しきっている娘が巫山戯る姿に重ねた。なお、「これだけの世界」に展示されているガラス絵《マシマロ》(148mm×98mm)は母親の抱きつく子の姿を母親の顔や乳房の柔らかみで表現していて忘れがたい。

《こがらしや覗いて逃る淵の色》(392mm×266mm)は、頭が器のようになって半分ほど水を湛えた人物が駆け出す姿を表わした筒描の作品。木枯らしの寒さが堪えると、残された人生を思う。淵の水を眺めたのは、コップに半分の水を見てもう半分しかないと見るか、まだ半分あると見るかといった類の問いを自らに投げ掛けるためであったろうか。諦念に達することなく、ジタバタするのが人の性。

映画『ノースマン 導かれし復讐者』

映画『ノースマン 導かれし復讐者』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のアメリカ映画。
137分。
監督は、ロバート・エガース(Robert Eggers)。
脚本は、ショーン(Sjón)とロバート・エガース(Robert Eggers)。
撮影は、ジェアリン・ブラシュケ(Jarin Blaschke)。
美術は、クレイグ・レイスロップ(Craig Lathrop)。
衣装は、リンダ・ミューア(Linda Muir)。
編集は、ルイーズ・フォード(Louise Ford)。
音楽は、ロビン・キャロラン(Robin Carolan)とセバスチャン・ゲインズボロー(Sebastian Gainsborough)。
原題は、"The Northman"。

 

暗闇の中、濛々と噴煙を上げる火山。稲妻が光る。
聞け、神々の父、オーディンよ。糸を紡ぐノルンが人間の運命を支配していた過去の影を召喚せよ。ヘルの炎の門で鎮めれた王子の復讐を聞け。ヴァルハラに運命付けられた王子。聞け。
895年。北大西洋。重い雲が垂れ込め雪がちらつく。海を大きなカラスが渡る。帆を張った船団が岬の城塞へ向かう。城壁に立つアムレート王子(Oscar Novak)が父王の帰還を喜ぶ。城館に駆け戻ったアムレートは母であるグートルン王妃(Nicole Kidman)の部屋に飛び込む。勝手に私の部屋に入ってはなりません。侍女が王の帰還を告げると、王妃は息子を伴い王を出迎えに向かう。
白馬に跨がったオーヴァンディル王(Ethan Hawke)を先頭に、軍勢が城門を潜る。城館へと続く坂道には、小雪の舞い散る中、見物人が集っている。大鴉王万歳! 王を讃える声が響く。隊列の中には、戦地で獲得した奴隷たちの姿もある。
城館に入ると、オーヴァンディル王は、戦の大鴉、万歳と出迎えられた。馬を下りた王が王妃と王子と対面する。飼い主のもとに帰る闘犬の如く、儂は王妃の美しさに繋がれるようになった。私たちはいつも結ばれています。王妃が王の手に口付けする。アムレート王子、お前は成長してもはや幼子ではない。だが、父親が息子を抱き締めるのに齢は関係なかろう。王は王子を抱き抱える。お前がいなくて寂しい思いをした。王弟は祝福に来てはくださらないの? フィヨルニルのことは気にするな。すぐに姿を現わすだろう。
城内に戦利品が運び込まれる。玉座の王は箱からネックレスを取り出す。ある王子が身に付けていたものだが、お前こそ身に付けるのにふさわしい。儂の愛情とともに身に付けておけ。王が息子の首に金のメダルの付いたネックレスをかけるやる。犬の吠え声が聞こえ、王弟フィヨルニル(Claes Bang)が玉座へ進み出て、王に挨拶する。この凶暴な殺人鬼に酒を。王が控えの者に命じると、王妃は自分の盃を差し出す。するとヘイミル(Willem Dafoe)が喚く。女王の器が王以外の男のため濡れる様をご覧あれ。芳しい酒を手に入れるのはどんな金属か? 麗しい銀か、それとも強固な鉄か。ヘイミルがベルトを腰の前で突き出して見せる。ほざくな、国王と王妃を侮辱するな! 王がフィヨルニルを制止する。奴の冗談だ。ヘイミルは毒を吐くが、儂は親友として大切にしておる。儂のことよりも気を遣ってやってくれと、王は王弟に近くで泣いていたフィヨルニルの子ソーリルを抱かせる。ソーリル、我が息子! 我が兄、戦の大鴉に! フィヨルニルが叫ぶ。ラフンジー王国に! アムレートも叫び、一堂が乾杯する。
グートルンが糸を紡いでいる。近くで酒を呷っていたオーヴァンディルが王妃に近寄る。腹部に包帯が巻かれている。敵に内臓を喰らわせてやったわ。怪我をされたの? アムレートが儂の後継ぎになるには未だ相応しくない点が残っておる。息子は無垢な心をしておる。王の地位を継ぐためには目覚める必要がある。彼はまだ仔犬よ。だが祖父が即位した齢だ。それとは異なりますわ。まず伯父を殺さねばなりませんでしたもの。私たちは遠征の間、離ればなれでした。ともに寝台に向かいましょう。王は王妃の訴えを拒む。怪我が治癒し、多くの戦場で精霊の加護があるよう祈ってくれ。病を得て死ぬのも恥ずべき老後を長々と生きることも儂は御免蒙る。儂は剣により死なねばならぬ。名誉の死を迎えたいのだ。心配には及びませんわ。戦場で死を迎えることになります。ヴァルハラの門が待っています。
夜。雪道を大きな屋根の重なった建物へと向かうオーヴァンディル王とアムレート王子。儂が父とともに歩んだ道だ、儂の父もまたその父と歩んだ道でもある。今は儂らが歩むべき道だ。扉を開けると、篝火が周囲に立つ石碑を照らし、呪いの声が響く空間が広がり、儀式に従事する人々の姿があった。王は輪を血を讃えた器に浸す。オーディンを祀る斎場であった。老女が扉を開けると地下への竪穴があり、王が梯子を下っていく。儂のするとおりにしろ。梯子を下りると王は四つん這いになり、狼のような唸り声を上げながら横穴を明かりの方に向かって行く。王子も獣のような声を上げながら、王の後を追う。焚き火の部屋には仮面を被ったヘイミルが待っていた。吼えるのはオーディンの狼か、それとも村の野良犬か。耳を傾けよ。二本足の犬ども。知識のミードを飲み干せ。名誉に生きて死ぬことの意味を身を以て知れ。戦いで殺されてもワルキューレの抱擁によって報われると。戦いの女神によって煌めくヴァルハラの門へと運ばれると。ヘイミルが餌皿に注いだミードを王と王子が顔を近づけて飲む。お前らは人間になりたい犬だな。犬でないことを示せ。

 

895年。北大西洋の島国ラフンジー王国。オーヴァンディル王(Ethan Hawke)が凱旋し、人々によって歓呼して迎えられた。王宮での祝宴では戦利品のネックレスが王からアムレート王子(Oscar Novak)に与えられた。王弟フィヨルニル(Claes Bang)が祝賀のために姿を現わすと、グートルン王妃(Nicole Kidman)は自らの盃をとらせる。ヘイミル(Willem Dafoe)は王妃の浮気を揶揄すると、フィヨルニルが激怒し、王が宥める。
戦場で腹部に重傷を負った王は、アムレートに王位継承を準備させるため、神々の父オーディンを祀る斎場をともに訪ねる。ヘイミルの執り行う儀式で、アムレートは父王が斃れた際にはその敵を討つことを誓う。その儀式を終え斎場を出たところで、王はフィヨルニルの手勢によって急襲され、斬首される。王を失った王宮も襲撃され、グートルンは攫われた。アムレートは殺されたと報告されるが、実は逃げ果せていた。父王の敵を討ち、母を救い出すことを誓い、アムレートは1人島を漕ぎ出る。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

叔父に父を殺され母を攫われたアムレート(Alexander Skarsgård)の復讐譚。
ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『ハムレット(Hamlet)』の基になったとされるサクソ・グラマティクス(Saxo Grammaticus)(1150-1220)の『デンマーク人の事績(Gesta Danorum)』のエピソードを原作としている。
冒頭の凱旋を祝する宴の僅かな描写で、オーヴァンディル王からアムレート王子への皇位継承、グートルン王妃の裏切り、王弟フィヨルニルの策謀、道化であるヘイミルの千里眼などをさらっと描いてしまうのが見事。その描写手法は、神話の象徴的世界観にも通じよう。
寒さと暗さとが強調される中世ヨーロッパの北方の辺境は、自然(とりわけ獣)と人間とが渾然とした伝説と儀式の描写と相俟って、神話的な不可思議の世界として描き出されている。神話を彩るキャラクターを俳優陣が魅力的に見せた(Anya Taylor-Joyは相変わらずその姿を目にするだけでも嬉しくなる。まさしくスターだ)。
オーディンの神話は人口に膾炙したものなのだろうか。説明を差し挟むよりも洗煉された演出になり、また普遍的な復讐譚になったが、その分オーディンの神話は薄味になった嫌いはある。オーディンを信仰する人々のキリスト教に対する忌避感の描写も僅かながら見られたのも興味深かった。
ロシアによるウクライナ侵攻から1年が経とうとしているが、ロシアよりウクライナ(キーウ)の方が歴史が長いことが紹介されているのは偶然だろう。
本作品の世界観が合うなら、よりファンタジックな映画『グリーン・ナイト(The Green Knight)』(2021)もお薦め。

映画『ヒトラーのための虐殺会議』

映画『ヒトラーのための虐殺会議』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のドイツ映画。
112分。
監督は、マッティ・ゲショネック(Matti Geschonneck)。
脚本は、マグヌス・ファットロット(Magnus Vattrodt)とパウル・モンメルツ(Paul Mommertz)。
撮影は、テオ・ビールケンズ(Theo Bierkens)。
美術は、ベルント・レペル(Bernd Lepel)。
衣装は、エスター・バルツ(Esther Walz)。
編集は、ディルク・グラウ(Dirk Grau)。
原題は、"Die Wannseekonferenz"。

 

第二次世界大戦下のドイツ。ユダヤ人に対する迫害と殺害が長きに渡り行われてきた。1942年1月20日。親衛隊の代表たちがナチ党や官僚たちと会合するためにベルリン南西の大ヴァン湖畔の邸宅に集まった。朝食付きの会議を主催したのは国家保安部長官ラインハルト・ハイドリヒ(Philipp Hochmair)。議題は文字通り、ユダヤ人問題の最終的解決であった。
薄暗い広間では、アドルフ・アイヒマン(Johannes Allmayer)がテーブルに会議出席者の名札を座席の前にセットして廻る。会議で書記を務めるアイヒマンの部下のインゲルク・ヴェルレマン(Lilli Fichtner)がメモ帳と鉛筆を置いて歩く。
1台の車が到着する。親衛隊中将ハインリヒ・ミュラー(Jakob Diehl)と親衛隊准将のカール・エバーハルト・シェーンガルト(Maximilian Brückner)が車を降りる。ミュラーが出迎えの職員に確認すると、既に到着しているのは、法務省次官ローラント・フライスラー(Arnd Klawitter)、四ヵ年計画庁次官エーリッヒ・ノイマン(Matthias Bundschuh)、外務省次官補マルティン・ルター(Simon Schwarz)の3人だった。ハイドリヒ長官が到着したら知らせてくれ。アイヒマンは? 会議室です。紳士たちを楽しませてやってくれとシェーンガルトに言い置いてミュラーは会議室へ向かう。
アイヒマン。おはようございます、中将。非常にきっちりやっているな。ほぼ準備は整いました。議長席にハイドリヒだな? その右隣をご用意しました。左隣にはオットー・ホーフマン中将(Markus Schleinzer)です。ホーフマンは気に入るだろう。こちら側には東部占領地域省の面々か。次官のアルフレート・マイヤー(Peter Jordan)、局長のゲオルク・ライプブラント(Rafael Stachowiak)、それにポーランド総督府次官のヨーゼフ・ビューラー(Sascha Nathan)です。マイヤーを少し遠ざけよう。ミュラーが名札を置き換える。それから? 親衛隊准将のカール・エバーハルト・シェーンガルトと親衛隊少佐のルドルフ・ランゲ(Frederic Linkemann)です。良し。それで向かいに政府の面々だな。その通りです。お前はどこに? ヴェルレマン女史の隣に。手続的な問題を処理できます。ミュラーがヴェルレマン女史に謝意を伝える。何か違うかな? 全ての会議をここで開催できますね。アイヒマン氏の仕事場は気に入らないのかな? そうは申しておりません。職場の雰囲気を何とかしたまえ、アイヒマン。ところでテレージェンシュタットのユダヤ人ゲットーはどうだったかな? 非常に有意義でした。昨晩帰還しました。期待通りか? 新しいベッドは極めて機能的です。
応接室。早くに到着したフライスラー、ノイマンマルティン・ルターが珈琲を飲みながら雑談している。シェーンガルトはミュラーの指示で顔を出したが、会話には加わらない。モルダースが墜落死したのに続いて、ライヒェナウ元帥が斃れるとは。喪服をクリーニングに出したばかりなのに、また国葬とはね。これまでにない損失だ。元帥は脳卒中だっとか。ウクライナの森の奥でですよ。何をしていたんですか? ランニングです。零下40度でも毎朝、宿舎周辺を。零下40度をしてもライヒェナウ元帥を止められないのか。モスクワの前線の兵士たちを思うとね…。ロシア兵だから温かいってことはないさ。イースターまでにはモスクワは落ちるでしょう。そうですよね、シェーンガルト博士? もちろん。失礼します。
シェーンガルト准将は屋外で1人湖を眺めながら煙草を吸っていた親衛隊少佐のルドルフ・ランゲに気付き、彼のもとへ。ラトビアじゃなかったのか? シュターレッカー少将の代理です。順調だな。会議はどうも苦手で。馴れるさ。どこに泊まるんだ? ここです、2階の端の部屋に。ユダヤ人が次から次へと送られてくるだろう? 昨日も900。どこに収容するんだ、リガか、それともゲットーか? 森の中をちょっと歩かせて、放置しました。
首相官房局長フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー(Thomas Loibl)が到着。ナチ党官房局長ゲルハルト・クロプファー(Fabian Busch)が出迎える。発言にはご注意下さい。ゲシュタポが見張っていますから。ミュラーが顔を見せ、クロプファーに心配は無用だと告げる。親衛隊の仕事場がこんなところにあるとは、と驚くクリツィンガー。製造業者の別荘ですよ。アーリア化ですか? この建物については違います。ミュラーはハイドリヒが到着したと報告を受ける。

 

第二次世界大戦中の1942年1月20日、国家保安部長官兼ベーメン・メーレン保護領総督代理のラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将(Philipp Hochmair)が、ユダヤ人問題の最終的解決について話し合うため、ベルリン南西の大ヴァン湖畔の邸宅にナチ党や政府の要人を集めた。ハイドリヒはヘルマン・ゲーリング元帥からの指示であることを強調し、ドイツの支配地域や友好国を含めヨーロッパにおけるユダヤ人1,100万人を抹殺する方策を検討すると告げる。親衛隊中佐アドルフ・アイヒマン(Johannes Allmayer)がハイドリヒの計画の実現可能性を裏付けようと具体策をを提示する。親衛隊の連中に異論は無いが、ハインリヒ・ミュラー中将(Jakob Diehl)とオットー・ホーフマン中将(Markus Schleinzer)とはライヴァル関係にあり、会議中も暗闘している。ポーランド総督府長官の代理で出席した次官ヨーゼフ・ビューラー(Sascha Nathan)は既に多数のユダヤ人を収容・管理している状況で、さらなる負担の増大を押し付けられては自分の立場が危ういと保身に汲々とする。内務省次官ヴィルヘルム・シュトゥッカート(Godehard Giese)は法の適正な運用が無用の反乱を防ぐと訴え、首相官房局長フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー(Thomas Loibl)は計画の途方もなさを数字で証明する。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

会議参加者たちは、ユダヤ人をいかに効率的にゲットーや収容所に押し込め、女性や子供、先の大戦でドイツのために戦った兵士も含めて餓死よりも人道的だと殺害する、その方途について話し合っている。彼らが雑談で話題にする宿泊先や子供の誕生などとの対照によって、ジェノサイドと(戦時ではあるが)日常とがシームレスに繋がっていることが際立つ。ハイドリヒが柔和な人物に造形されていたのもその効果を狙ってのことではないか(なお、ハイドリヒの冷徹さは、『ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦(Anthropoid)』(2016)や『ナチス第三の男(The Man with the Iron Heart)』(2017)で描かれている)。
内務官僚によって開陳される法律論は、ハイドリヒの計画に待ったをかけるが、飽くまでも法適用の平等性であって、ユダヤ人殺害自体の是非は問題とされない。ユダヤ人殺戮についての懸念も、殺害を実行するドイツ人の精神に対する影響に対してであり、ジェノサイドを否定するものではない。
ユダヤ人の殺戮に殺虫剤が予想外の効果を上げたことが話題となるが、人種という観念によって人が人として見えなくなる。境界線の恐ろしさ。
本作品出演者の出演作としてお薦めは、Fabian Busch出演の『帰ってきたヒトラー(Er ist wieder da)』(2015)、Thomas Loibl出演の『ありがとう、トニ・エルドマン(Toni Erdmann)』(2016)、Godehard Giese出演の『未来を乗り換えた男(Transit)』(2018)、Johannes Allmayer出演の『100日間のシンプルライフ(100 Dinge)』(2018)、Sascha Nathan出演の『希望の灯り(In den Gängen)』(2018)、Rafael Stachowiak出演作『水を抱く女(Undine)』(2020)など。