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芸術鑑賞の備忘録

映画『母の聖戦』

映画『母の聖戦』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のベルギー・ルーマニア・メキシコ合作映画。
135分。
監督は、テオドラ・アナ・ミハイ(Teodora Ana Mihai)。
脚本は、テオドラ・アナ・ミハイ(Teodora Ana Mihai)とアバクク・アントニオ・デ・ロザリオ(Habacuc Antonio De Rosario)。
撮影は、マリウス・パンドゥル(Marius Panduru)。
美術は、クラウディオ・ラミレス・カステッリ(Claudio Ramirez Castelli)。
衣装は、バーサ・ロメロ(Bertha Romero)。
編集は、アラン・デソバージュ(Alain Dessauvage)。
音楽は、ジャン=ステファヌ・ガルベ(Jean-Stephane Garbe)。
原題は、"La Civil"。

 

瞬きしないで。私を見て。シエロ(Arcelia Ramírez)は娘のラウラ(Denisse Azpilcueta)に化粧してもらっている。化粧を終えたラウラはスマートフォンを手にして眺める。リサンドロ(Manuel Villegas)とお出かけ? そう。シエロは立ち上がり台所へ。食事も一緒に? 分からないけど、そうかも。これ、面白い。目を覚ましたイヴが寝ぼけてアダムにここはどこかって尋ねるの。そしたらアダムが、僕ら裸で、家も仕事も金ないけど、ここは楽園だって言われてるって。だから僕らメキシコにいるんだよって。分かったような口を利くアダムだね。シエロは鍋の様子を確認すると、洗濯物の入った籠を持ってきて畳み出す。ラウラは化粧を始めた。お父さんとは話したの? まだ。いつ話すつもり? 分かんない。同じこと聞けるよ、パパと話したかって。いっつも言いなりだもんね。生活費の要求だってしないし。ラウラは口紅を手にして母親の唇に塗る。綺麗。この母だからこその娘って感じ。娘は髪を下ろし、シャツの胸元を開け、派手なピンクの上着を羽織る。遅くならないでよ。聞いてるの? 部屋を掃除したんでしょうね。レンチョに餌はやったの? 帰ったらやる。行かなきゃ。遅くなっちゃった。彼が待ってる。壁に向かって話してるみたい。聞く耳持たないもの。この母だからこその娘って感じ。ラウラは母親にキスすると出かける。シエロは娘の部屋に行って片付け始める。ガラスケースにはカメレオンのレンチョがいる。
シエロが車を運転している。パステルカラーに塗られた建物。窓が板で覆われた建物。途中、兵士を乗せたトラックの通行のために停止させられた。2人の若い兵士が銃を構えて荷台に乗っている。その後ろをシエロが走る。向かったトルティーヤの店は閉っていた。扉を叩いても誰も出てこない。再びシエロが車を走らせていると、突然赤いミニバンが前方に割り込んで停止した。シエロも車を止めざるを得ない。にやついた若者(Juan Daniel García Treviño)が車から降りて、シエロに近付いて来た。ラウラの母親か? 娘に会いたいならロス・アントヒートスに10分で来い。でもなぜ? ロス・アントヒートスに10分で来い。さもなきゃ2度と娘に会えないぜ。突然の出来事にしばし呆然とするシエロ。まずはラウラに電話をかけるが、娘は電話に出ない。
ロス・アントヒートス。店員が本日のメニューを説明するがシエロはそれどころではない。牛肉のスープとデザートにプリンかカスタード。または前菜にコンソメスープ、メインにエンチラーダです。結構です。メニューをお持ちしましょうか? 卵料理も種々ございますよ。それでお願い。店の外を市警のパトカーが通り過ぎる。シエロはラウラに電話するが繋がらない。リサンドロに電話する。何が起きたの? どこにいるの? ラウラは? 娘を探してるの。あなたと出かけるって。また電話します。赤いミニバンが店の前に停まり、先ほどの若者が別の若者を連れて店に入ってきた。オヤジがよろしくって。ラウラは? 彼女は大丈夫。落ち着いてる、問題ない。あなたたちが娘を誘拐したの? ああ。彼女が傷つくかどうかはあんた次第だ。だけど何で? 娘を解放して。それは俺たちが決めることじゃない。2人はラウラのテーブルに運ばれていた料理を食べ始める。若者の電話が鳴り、すぐに出る。ありえねーよ。20万って言ったはずだ。奴は何て? 噓ついてんだよ。あのクソ野郎は唸るほど持ってんだ。牧場も持ってるだろ? 協力するように言えよ。連絡を怠るんじゃねえぞ。電話を切ったところへ店員が注文を取りに来る。シンクロニサーダとコーラ。同じもの。店員が立ち去る。ラウラが何をしたって言うの? まあ落ち着いて。俺らと娘さんとにいざこざなんて無い、ただ一緒にいるってだけ。15万ペソ必要なんだ。だけどそんなお金持ってないわ。15万ペソがどこにあるって言うの? ラウラに会いたいなら15万ペソ用意しろよ。それとあんたの旦那の立派な黒いピックアップトラックもな。娘を傷つけないでちょうだい。2人は運ばれてきたコーラを飲む。金をくれりゃ、娘を取り戻せるよ。あんたならできるって、俺には分かる。明日用意しろよ。場所は指示するからさ。通報はダメだからな。警察ダメ。軍隊もダメ。分かった?
夜。シエロは別れた夫のグスタボ(Álvaro Guerrero)の家へ向かう。ドアを叩く。夫の後妻ロシ(Adriana Vanesa Burciaga)が出て来る。夫と話す必要があるの、至急。至急って何? シエロはロシの許可を待たずに入り込む。大音量の音楽がかかっている。ラウラは一緒にいない? 誰も呼んでないだろ。シエロはステレオの電源を切る。何してるんだ、お前。ラウラ、グスタボ、ラウラ! 娘に会った? 話した? ラウラが俺と話なんかしないって分かってるだろ。娘がギャングに攫われたの。何故連れて行かれたんだ? 分からない。連れて行かれたの、誘拐されたの。何の話だ? お金を要求してるの。誰が要求してる? 知らない。2人の男。足止めを喰らわされたの。戯言に付き合ってる暇は無い。戯言なんかじゃないの。あなたの娘。娘は出かけて帰ってこなかった。それから奴らが街で私を襲った。電話したけど娘から連絡がないの。遅かれ早かれ娘さん、大変なことになるでしょうね。冗談だろう、ラウラは戻ってくるさ。現実なの。ラウラはそんな冗談は言わないわ。ラウラは俺に怒ってるんだ。だから俺を怒らせようとやってるんだろう。彼女が誘拐を自作自演してるって言うの? カルテルが人々にどんなことしてるか知ってる? グスタボ、妄想は止めてもらえる? 奴らが私たちの娘を誘拐したの。食料雑貨店の息子も誘拐されて戻ってないわ。警察に行かないと。警察に行ったら連中は分かるわ。そしたらどうなるかしら。連中は何でもお見通しよ。それならどうすれば? 何で外出させたんだ? リサンドロとデートするって。でも彼は娘がキャンセルしたって。理解できないな。グスタボ、本当なの。娘の弄ぶつもり? 奴らはいくら要求してるんだ? 15万ペソとあなたのピックアップトラック。とんでもない。選択の余地なんてないわ、あなた。支払わないと。

 

シエロ(Arcelia Ramírez)は夫のグスタボ(Álvaro Guerrero)と別れ、娘のラウラ(Denisse Azpilcueta)と2人暮らし。ある日シエロが車で出かけると、突然前方に割り込んできた車から降りてきた男(Juan Daniel García Treviño)に娘に会いたければ10分後にロス・アントヒートスに行けと脅される。デートに出かけた娘の電話はつながらない。ロス・アントヒートスで待つシエロは再度娘に連絡をするが娘は電話に出ない。恋人のリサンドロ(Manuel Villegas)に連絡を入れると、ラウラからデートをキャンセルされたと言う。シエロの前に先ほどの男が現れ、娘の命と引き換えに15万ペソと夫のピックアップトラックを求められる。シエロが夫に相談しに行くと、狂言だろうと取り合わない。だが後妻のロシ(Adriana Vanesa Burciaga)からカルテルの連中の仕業だろうし、警察に連絡するのは悪手だと言われ、グスタボはようやく真に受ける。用意した金が要求額に満たないことをシエロは懸念するが、グスタボは交渉すればいいからと、2人は身代金の受け渡しに向かった。男が現れると、グスタボは為す術なく言われるがままに金の入った袋とピックアップトラックを提供する。墓地の前で待てと指示されたが暗くなるまで待っても娘は帰って来なかった。2人は歩いてシエロの家に向かう。自宅の前に待機させたリサンドロから何の動きもなかったと報告を受ける。

(以下では、冒頭以外の内容についても触れる。)

ロベルト・ボラーニョの『2666』という大部の小説がある。メキシコで若い女性の遺体が次々と発見される第4部「犯罪の部」については否定的評価もあるが(例えば、寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』)、悲惨な出来事に溢れる日常の追体験を迫る点に意義がある。犠牲者が相次ぐと、次第に個々の具体的な存在としては捉え難くなり、数字へと抽象化されていってしまう。ボラーニョは読者を抽象化の罠へと誘ってみせる。ところで、文学や映画の仕事は、かつて加藤周一が、目の前の1頭の牛を救えと主張した孔子を引き合いに、「常識」に囚われず眼前の出来事に対する感覚を大切に生きることを訴えたように、抽象化の罠に嵌まらせないことにある。誘拐された娘ラウラのために無鉄砲になる母親シエロの姿を描く本作は、鑑賞者をシエロの身に立たせ、数多くの行方不明者ないし遺体へと意識を拡散させること無く、ラウラの姿を追い求めさせる。

(以下では、結末について触れる。)

描かれなかったラストは、シエロに対する犯罪組織の報復(殺害)であろう。ラウラを探し出すという希望を失ったシエロは、娘との「再会」を期待して顔を輝かせるのである。