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芸術鑑賞の備忘録

映画『パピチャ 未来へのランウェイ』

映画『パピチャ 未来へのランウェイ』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のフランス・アルジェリア・ベルギー・カタール合作映画。109分。
監督・脚本は、ムニア・メドゥール(Mounia Meddour)。
撮影は、レオ・ルフェーヴル(Léo Lefèvre)。
編集は、ダミアン・キーユー(Damien Keyeux)。
原題は、"Papicha"。アラビア語題は、"بابيشة"。

 

1990年代のアルジェリア。夜、ネジュマ(Lyna Khoudri)とワシラ(Shirine Boutella)が暗く静まりかえった女子学生寮を密かに抜け出し、通りの脇に停まっている予約してあった白タクに乗り込む。後部座席で二人は服を脱いで着替えを始める。キャバレーじゃないんだとの運転手の注意に、前を向いて運転してと耳を貸さない。着替え終えると二人はメイクを始める。ネジュマは持参したカセットテープをダッシュボードのカセットデッキに挿入して音楽を流す。運転手から検問があると告げられると慌ててヘジャブを身につける二人。武装した男たちが道路を封鎖している。横柄な態度の男が運転手に免許証や身分証を要求する。トランクを開けさせ、車の下を探知機で調べる。フロントガラスの前には機関銃を構えた男が立っている。どこに行くんだ。帰宅するんです。お前じゃない、後ろの奴らだ。結婚式の帰りです。ずいぶん晩いじゃないか、さっさと行け、もたもたするな。ディスコに到着すると二人はトイレへと向かう。ネジュマはディスコに来ている女性たちにオーダーメイドで仕立てて販売していた。ワシラが疲れたから帰ろうと言うので表へ出たが、タクシーはいなかった。往復の代金を払っておいたんだけど。先に払うからよ。そこへカリム(Marwan Zeghbib)とメディー(Yasin Houicha)が通りがかる。どうしたの? タクシーを待ってる。送るよ。ワシラは提案に飛び付き、ネジュマを引っ張っていく。何してるの? 学生。何を勉強してる? フランス語。ワシラはカリムに夢中。メディーはネジュマに関心を持っている。寮に戻ると、壁に女性に「正しい服装」であるブルカの着用を促す同じポスターが何枚も貼られている。ネジュマはワシラとともにペンで落書きを始める。守衛のモクタール(Samir El Hakim)がその様子を密かに覗っていた。部屋に戻るとルームメイトのサミラ(Amira Hilda Douaouda)が眠っている。礼拝の時間、急がないとと無理矢理サミラを起こす。寝ぼけたサミラが身支度を始め、やがてまだ起床時間には早いことに気が付く。サミラは兄の決めた婚約者との結婚が決まっている。結婚したら大学には戻れない。家から出られなくなる。家事の教授ね。大学の校舎で「正しい服装」のポスターを貼っている学生がいる。ネジュマが文句を言うが学生は相手にしない。寮の食堂で昼食を取ると、ネジュマはミルクを吐き出してしまう。性欲を抑えるとの名目で硝酸カリウムが混入されていたためだった。ネジュマは食事もそこそこにいつも持ち歩いているノートに服のアイデアのスケッチをする。テレビでは頻発する爆弾テロを報道していた。寮長のカミシ(Nadia Kaci)が入ってきてテレビを消すと、昼食の時間は終わりだと学生を追い立てる。フランス語の講義。階段教室の机を回って、教授(Abderrahmane Boudia)が学生たちに答案を返却していく。ネジュマ、立派な点だ。サミラ、君も。君たちの点数は全く同じだが、カンニングは見逃さないから気をつけ給え。顔を見合わせて微笑む二人。教授は黒板に「個人と社会」というテーマを書き出す。突然、ブルカの女性たちが集団で教室内に侵入し、アラビア語を学べと叫び、学生たちの抗議にも拘わらず教授に布を被せて無理矢理連行してしまう。

 

服飾デザインに夢中になっている大学生ネジュマ(Lyna Khoudri)が自らの理想を実現しようととる行動が、悉く女性の自由を制限する社会の風向きに反抗することになってしまう姿を描く。社会の風潮に逆らうことは文字通り死を意味することに繋がる可能性がある中で、ネジュマを押さえつけようとする力が強ければ強いほど、ネジュマはそれに打ち克とうと執念を燃やす姿が痛々しくも清々しい。
下卑を全身から漂わせる守衛のモクタール(Samir El Hakim)、時流を読もうとする生地店の雇われ店長スリマン(Amine Mentseur)、アルジェリアを出て海外にいけば成功すると考えているカリム(Marwan Zeghbib)とメディー(Yasin Houicha)らがいずれも男尊女卑に染まっていることが言動から見える。社会の「壁」を象徴している。だが、ブルカを被った女性たちの集団こそ黒い壁となって立ちはだかる。多数派か少数派かという違いがありその違いは非常に大きいけれど、彼女たちがネジュマの写像となっているとも言えるだろう。
同調圧力という意味では、日本にも大いに通じる。