可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 コッローディ『ピノッキオの冒険』

カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』〔光文社古典新訳文庫K-A-コ-9-1〕光文社(2016)を読了しての備忘録
Carlo Collodi,1883, "Le avventure di Pinocchio"
大岡玲
本編(p.7-305)の他、訳者による読み応えある解説(p.306-361)、カルロ・コッローディ年譜(p.362-378)も収載。

サクランボ親方がテーブルの脚をこしらえようと棒っきれに向かって手斧を打ち下ろすと泣き叫ぶ声がする。驚いた親方が鉋をかけると、今度は擽ったいと棒っきれが言う。腰を抜かしている親方のもとを訪ねたジェッペットが、木彫りのあやつり人形を作るために木切れを所望すると、これ幸いと、親方はおっかない棒っきれをジェペットに手渡し厄介払いした。帰宅して人形作りに取りかかったジェッペットは人形を作り始めると「ピノッキオ」と名付けることにする。目玉ができると見つめられ、鼻ができると伸びていき、口が出来ると笑い出す。顎、首、肩、胴体と彫り進め、手ができると鬘を取られ、足を作ると鼻を蹴られた。歩き方を教えてやると、ピノッキオに家から飛び出してしまう。石畳を跳ね回っていたピノッキオは警官に捕まえられ、ジェッペットに引き渡される。ところが騒ぎに集まっていた人々が口々にジェッペットを非難して人形を哀れむので、警官はジェッペットを牢に入れ、ピノッキオを解放する。1人家に戻ったピノッキオは100年以上棲み着くコオロギから、親に逆らう子は幸せになれず後悔することになると説教される。繰り返される諫言に腹を立てたピノッキオは木槌を投げつけてコオロギを殺してしまう。腹が減ったピノッキオは部屋の中で食べ物を探すが何もない。コオロギの言葉を思い返し反省すると、ゴミの山に鶏の卵を発見する。小躍りして卵を割るとヒヨコが飛び出し、殻を破る手間が省けたと言い残して飛び去った。ピノッキオはコオロギの言ったとおりだったと再び反省する。真夜中、空腹に耐えかねて村へ彷徨い出たピノッキオは、一軒の家で呼び鈴を鳴らす。窓に姿を現した老人にパンを恵んで欲しいと訴えると、水をかけられる。濡れ鼠のピノッキオは帰宅して火鉢の上に足を乗せて眠り込む。朝、帰宅したジェッペットにドアを開けろと言われるが、炭火で足を失ったピノッキオはドアを開けられない。ジェッペットは窓から家に入ると、床に転がったピノッキオを哀れむ。空腹を訴えるピノッキオに自分の朝食である梨を差し出すと、ピノッキオは皮をむけ、芯はいらないと言う。全ては役に立つとジェッペットはピノッキオを諭す。実を食べて物足りないピノッキオは皮を食べ、芯まで口にしてやっと満足する。腹が満たされたピノッキオは新しい足が欲しいとねだる。足を手に入れたピノッキオは学校に行くと言って服を要求する。ジェッペットがあり合わせの材料で服や靴を作ってやると、アルファベットの練習帳がないと嘆く。ジェッペットが上着を売って手に入れたアルファベットの練習帳を手に学校に向かったピノッキオは、音楽に誘われて人形劇の小屋へ向かう。持ち合わせの無いピノッキオは木戸銭のためにアルファベットの練習帳を売り払ってしまった。

ジェッペットが作った木彫りのあやつり人形ピノッキオは、ジェッペットや仙女や動物たちが諭すにも拘わらず、のらくら過ごすことばかり考えて失敗と反省を繰り返す。いつしかあやつり人形でいることにうんざりして、人間になりたいと願うようになる。
36章の構成。各章ごとにあらすじが記載されている。
原作が「子供新聞」に連載されている間、3度の中断があったという。とりわけ第15章では、金貨を口に隠したピノッキオが人殺しの2人組(実はキツネとネコ)によって「口をあんぐり開け」るよう縛り首にされてしまう。1つのバッド・エンディングを迎えている。

 だんだん目が見えなくなってきた。もうすぐ死ぬんだなと感じながらも、まだ、だれか情けぶかい人が通りがかって、助けてくれるかもしれない、というかすかな望みを、人形は抱いていた。しかし、待っても待っても、だれひとりあらわれない。ただのひとりも、その時、ピノッキオの脳裏に浮かんだのは、かわいそうな父の姿だった。……息もたえだえに、呟く。
「ああ、おとうさん! おとうさんがここにいてくれたら……」
 息が詰まり、それ以上はなにも言えなかった。目を閉じ、口を開け、両足をだらんと伸ばした。それから、大きく身ぶるいをしたかと思うと、凍ったように動かなくなった。(カルロ・コッローディ〔大岡玲〕『ピノッキオの冒険』光文社〔光文社古典新訳文庫〕/2016年/p.94)

この直前では、人殺しから追われたピノッキオは、「雪のように真っ白い小さな家」に辿り着き、「青い髪を持った少女」に助けを求めるが、彼女に「この家には、だれもいないわ。みんな死んでしまったの」「私も死んでるのよ」と拒絶される(カルロ・コッローディ〔大岡玲〕『ピノッキオの冒険』光文社〔光文社古典新訳文庫〕/2016年/p.356〔訳者・大岡玲による「解説」〕)。
ところで、カルロ・コッローディは「シエーナに近いコッレ・ディ・ヴァル・デルザの神学校に入学し、以後5年間にわたって聖職者になる教育を受け」(カルロ・コッローディ〔大岡玲〕『ピノッキオの冒険』光文社〔光文社古典新訳文庫〕/2016年/p.315〔訳者・大岡玲による「解説」〕)ており、キリスト教に関する素養がある。

 (略)『ピノッキオの冒険』は、多くの隠喩や象徴に満ちた複雑な物語である。表面にあらわれたストーリーだけを追うなら、暗さや残酷さはあっても、きわめてファンタスティックなあやつり人形の成長物語として読むことができる。しかし、このビルディングスロマンのあちらこちらにコッローディが埋め込んだ仕掛けを読み解いていくと、物語が重層性を帯びて立ちあがってくる。そうした仕掛けは、この稿のはじめの方で言及した、ピエロ・バルジェッリーニの〔引用者補記:『ピノッキオの真実』という冊子で〕指摘する〔引用者補記:『ルカの福音書』の「放蕩息子の帰還」と同様の構造など〕キリスト教的文脈に近縁性があるものがきわめて多い。
 たとえば、ピノキオの生みの親ジェッペットの名前など、その典型だろう。ジェッペット=Geppettoは、ジュゼッペ(Giuseppe)の少々珍しい愛称である。イタリアではごくありふれた名前であるこのジュゼッペは、ヘブライ起源の人名「ヨセフ」のイタリア語版にあたる。もちろん、ありふれている名前である以上、ジェッペット=ヨセフの属性如何によっては、別に意味深長とはいえない。しかし、ジェッペットは、木彫り師、もしくは家具職人なのだ。そうなれば、おのずと新約聖書中に登場するひとりの人物を想起せざるを得ない。ナザレのイエスの父ヨセフは、家具職人だった。イエス自身も、布教活動で世に出るまでは大工をしていたと伝えられている。
 つまり、ピノッキオがイエスになぞらえられている可能性が浮かびあがるのだ。物語のエピソードからあやつり人形が大きなカシの木に吊される場面にもそう考える根拠がある。「ピノッキオの脳裏に浮かんだのは、かわいそうな父の姿だった。……息もたえだえに、呟く。/『ああ、おとうさん! おとうさんがここにいてくれたら……』」という形で、ピノッキオはひとたびは息絶える。これを、マタイの福音書やマルコのそれに記された、イエスが十字架にかけられ息を引き取る間際に父なる神に向けて発した、「エリ、エリ(エロイ、エロイ)、レマ、サバタクニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」という言葉に照応させるのは行き過ぎだろうか。そして、生みの父ジェッペットの救いを求めつつ「凍ったように動かなくなった」ピノッキオは、青い髪の仙女によって「復活」する。「青」は聖母マリアの図像では、しばしば彼女がまとう衣の色として使われることを、ここでは想起したい。(カルロ・コッローディ〔大岡玲〕『ピノッキオの冒険』光文社〔光文社古典新訳文庫〕/2016年/p.341-342〔訳者・大岡玲による「解説」〕)

ジェッペットとピノッキオとの父子関係は、ヨセフとイエスとの父子関係に擬えられる。確かに、両者は血の繋がりがないという点でも共通している。

 (略)コッローディは、少なくとも第15章までは、宗教によってそうした「弱者」を助けることは、そもそもできない、という思想を表現しようとしていた気がするのである。それは、「弱者」自身の問題でもあり、また、宗教を代表する教会には「だれもいない」という問題でもあるからだ、という風に。そして未熟なキリストであるピノッキオは、その未熟さという罪のために、だれの購いもはたすこともなく、ただむなしく死ぬ。アイロニカルというより、はっきりとシニカルな残酷さに満ちたおとぎ話。コッローディの最初の構想は、おそらくそこまでだった気がするのである。
 しかし、読者の抗議と要求に従って、連載を再開することにした瞬間から、コッローディの作者としての「回心」と苦闘が始まったのだ。(カルロ・コッローディ〔大岡玲〕『ピノッキオの冒険』光文社〔光文社古典新訳文庫〕/2016年/p.357〔訳者・大岡玲による「解説」〕)

第15章の「青い髪のきれいな娘さん」が死を待つ少女としてピノッキオに対して何ら救いの手を差し伸べないのに対し、訳者の指摘する作者の「回心」を挟み、第16章ではピノッキオ救済のために果断に救命措置を講じる。少女(≒処女)が、ピノッキオ(≒子)を引き受けることは、「懐胎」を意味する。第23章で「青い髪の少女/ここに眠る/弟ピノッキオに捨てられ/悲しみのあまり/この世を去りしものなり」でピノッキオが発見する墓碑銘は、処女喪失の象徴である。第24章でピノッキオが再会する青い髪の仙女は、第25章で「あなたが私のところを出ていった時、私はまだ小さい女の子だったのよ」と処女の産道を経て出産した過程を生々しく伝えるとともに、「それが今では、立派な大人、あなたのおかあさんにだってなれるくらい」と母性獲得を訴えるのだ。