可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『はこぶね』

映画『はこぶね』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
99分。
監督・脚本・編集は、大西諒。
演出は、梅澤舞佳と稲尾遼。
撮影・音楽は、寺西涼
録音は、三村一馬。
照明は、石塚大樹。
美術は、玉井裕美。
ヘアメイクは、くつみ綾音。

 

伊豆半島の漁港。水面に映る街灯が揺れる。真っ暗な岸壁で、折りたたみ式の椅子に坐り、西村芳則(木村知貴)が釣り糸を垂らしている。ヘッドライトを点けた自動車が近付く。伯母・中島知里(内田春菊)が芳則を迎えに来たのだ。芳則は釣りを切り上げ、車に乗り込む。
どうする、降りる? 降りる。知里がスーパーの駐車場に車を停める。芳則は白杖を突き店に入る。杖を当てて棚や陳列台を避けながら、芳則は目当ての落花生の棚の前に辿り着く。中段のパッケージを手で触れて殻付きの落花生であることを確かめる。好きだね、買っとくわ。知里が芳則から落花生の袋を受け取る。車、戻っといて。出口から2台目。芳則は白杖を突いて店を出て行く。知里は落花生を棚に戻し、隣に並ぶ3分の1程度の価格の商品と取り替える。
さっきの西村君ですか? レジに向かおうとした知里は場違いに美しい女性(高見こころ)に声をかけられる。中学の同級生です。西村君はいつから…? 10年くらい前に事故で。白杖のことと察した知里が答える。お母さんですか? 伯母だよ。芳則の母親は2年前に死んじゃってね。家が近くで一緒に帰ってたんです。見たことないね。東京に出たので。じゃ、出戻り? 肉、商店街の肉屋さんの方がいいよ。籠の中を見た知里がお節介をやく。
知里はレジで会計の際、芳則の同級生が電話する姿に気を取られた。店員にポイントを付けたか慌てて確認する。
芳則の暮らす家。知里が夕食を用意して、テーブルに坐る芳則に出してやる。熱いから気を付けて。熱っ。言われた傍から口に運び舌を焼く芳則。知里は息子の学費がかかると愚痴る。あんたが1万でも2万でも稼いでくれたら助かるんだけどね。下ろしたお金とお釣り入れといたから。芳則の前にビニールケースを置く。そういや中学の同級生に会ったよ。誰? 綺麗な娘だった。東京行ってたって。出戻りだね。あんたと一緒に帰ったことあるって。何か言ってた? あんたが杖ついてたの驚いてたくらい。明日休みだろ? 釣りでいい? ああ。クーラーボックス、洗っときな。あ、ごめん、やっぱ祖父ちゃんとこ。あんたのこと分かんないよ。ビデオ見るだけだから。歯医者行くから昼過ぎに迎えに来るから。知里は明かりを消して家を出て行く。
多くの荷物を持った大畑碧が実家の玄関に辿り着く。居間のテーブルにスーパーのビニール袋を置き、椅子に腰掛ける。仏壇に行って、手を合せる。
昼。知里の車が家の前の坂道に停まっている。坂の下に位置する玄関を出た芳則が階段を上がり道路に出る。芳則は車に乗り込む前に、しばし坂道の突き当たりの方を向いて立った。そこには大畑碧の実家があった。
知里の車が漁港に向かい下る。漁港にある漁協の事務所の入口には、吸収合併による閉鎖を知らせる紙が貼ってある。
漁港に近い道で車を降ろしてもらった芳則は、ガードレールに触れながら歩道を少し歩き、ガードレールの反対側にある門を抜ける。門から続く上り段が切れたところに祖父・西村滋(外波山文明)の家がある。
芳則は祖父とともにテレビに向かってビデオを見ている。コイツは効いたなあ。効いたねえ。コイツは平気な顔してる時ほど効いてるな。茂はビデオを早送りするために祖父にリモコンを手渡すように頼む。どうした、芳則。お前、見えないのか? 目、見えないと大変だな。困ったなあ。いつから見えなくなった? もう随分前かな。
生活に不安なことありますか…。あるなあ。祖父ちゃん、何が不安? 滋が介護認定に必要なアンケートに答えている。そこにチャイムが鳴る。知里が芳則を迎えに来たのだ。

 

伊豆半島の港町。10年前に失明し、2年前に母を亡くした西村芳則(木村知貴)は、伯母・中島知里(内田春菊)に送り迎えや食事の面倒を見てもらいながら、一人暮らしをしている。テレフォンオペレーターの仕事をしながら、休みの日は釣りをして、同僚だった漁協の森海斗(浅田泰斗)や大友千沙(愛田天麻)と世間話に興じたり、祖父・滋(外波山文明)の家で過す。漁協が近隣の漁協に吸収合併されて事務所が閉鎖されることになり、認知症の進む茂は、ケアマネージャーの近藤佐知子(範多美樹)と知里との間で介護施設の入所の話が進んでいた。芳則の凪いだ日々に小波が立ち始めたところに、中学時代の同級生・大畑碧(高見こころ)が姿を現わす。東京に暮らして俳優をしていたが、倒れて入院した母・裕子(五十嵐美紀)を見舞うため、芳則のすぐ傍にある実家に戻ったのだった。芳則の心は大きく揺れる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

伊豆半島の港町。西村芳則は地元の漁協で働いていたが10年前に事故で失明し、現在はテレフォンオペレーターだ。2年前に母を亡くしてからは、疎遠だった伯母・中島知里(内田春菊)の手を借りながら一人暮らしをしている。
芳則がかつて働き、海斗や千沙が働く漁協は、大きな漁協に吸収合併されることが冒頭で示される。地元漁協は呑み込まれる。すなわち、芳則らの世界が洪水に呑み込まれることのメタファーだ。碧は母が倒れることで、茂は認知症の進行によって、やはり大波に呑み込まれることになる。
芳則の「芳」の字には方舟の「方」が隠されている。芳則は自ら方舟となって、自らをそして周囲の人間たちを洪水から生き延びさせるだろうか。

芳則は釣りを好む。釣りは見えない世界を相手にするからだ。釣り針が触れるものが糸を通じて釣竿に伝わる。その感覚を頼りに海の中を弄るのだ。
大畑碧は俳優をしている。母・裕子は女優には旬があることを示唆し、今の仕事を大切にするよう言い含める。それは結婚に対する仄めかしでもある。碧が母と魚屋へ立ち寄ると店主(高橋信二朗)が碧の美貌を褒めるとともに、裕子も「かつて」美しかったと言う。美の「賞味期限」が重ねて強調され、碧に重圧を与える。だからこそ、芳則がかつて行った透明人間――視覚での評価が不能である――になりたいとの言葉が思い出されたのだろう。そして、芳則は目の見えない自分にとって碧は幽霊も同然だと言うのである。
芳則には美の「賞味期限」はない。失明前の顔を知る人物については、最後に出会った際のイメージが焼き付いていて、そのイメージはある意味、永遠である。失明後に出会った人物については無論、想像するほか無い。
碧(あおい)、すなわち晴眼者(「晴」には「青(あお)」が入っている)は、視覚で評価される世界を生きる。それは俳優だからだけでない。日常生活においてもだ。視覚の評価から逃れた世界、すなわち芳則の生きる世界に興味を抱く。
真夜中。碧とともにドライヴに出た芳則は、自分に運転させるよう求める。タイヤがアスファルトを噛む感覚を、芳則はハンドルで、座席で感知する。目の見えない芳則にハンドルを預けて車に乗る興奮を、碧は味わう。碧は他人に委ねることの喜びと、視覚に惑わされずに「見る」感覚を知って、仕事に復帰することになる。芳則は碧にとって方舟であったろうか。

木村知貴は泰然自若とした朴訥な芳則を演じて不思議な魅力を放っていた。
高見こころは声も美しい。