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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『タータン|伝統と革新のデザイン|展』

展覧会『タータン|伝統と革新のデザイン|展』を鑑賞しての備忘録
三鷹市美術ギャラリーにて、2018年12月8日~2019年2月17日。

タータンについて紹介する企画。

第1部「タータンとは」では、タータンによるアフタヌーンドレスを展示するとともに、タータンの基礎知識をパネルで紹介する。
3500年以上前、古代ケルト人が、現在のスコットランドのハイランド地方に定住し、「クラン」と呼ばれる家系ごとの編み物としてタータンが定着した。もっとも、文献の初出は、16世紀の財産目録("Helande ternane"との記載)まで下るらしい。
タータンは、2色以上の色を用い、それらの糸が直角に交わる格子柄で、かつ経糸緯糸に用いる糸の色と数が同じで、基本パターンが繰り返されるものをいう。通常2~6色の様々な帯・線・ブロックで構成され、「セット」あるいは「糸カウント」と呼ばれる四角形の基本パターンがあり、そのセットを縦・横に繰り返し織っていくことでタータンの布地が出来上がる。
2008年からスコットランド国立公文書館(National Archives of Scotland)管轄のスコットランド・タータン登記所(Scottish Register Tartans)にセットを申請し、認定を受けたものが正当のタータンとされているという。

第2部「タータンの受難と復活 タータンにまつわるスコットランドの歴史」では、ジャコバイトの反乱と、反乱が収まった後のエディンバラを中心に、タータンとスコットランドの歩みを紹介する。
1715~1746年の間に、ジェームズ7世とその子孫を王位に就けるべく反乱が起きた(「ジャコバイトの反乱」。ジャコバイトはジェームズのラテン語名「ヤコブス」に由来)。反乱軍はハイランド地方の衣装をまとい、ジャームズ7世の子孫にも衣装が献上されたことから、反乱とハイランド地方の衣装とが分かち難いものとなってしまった。1746~82年の間、ハイランド衣装・タータンは、バグパイプゲール語とともに使用を禁止されることになった。
ジョン・ケイ(1742~1826)は、タータン解禁後、ハイランド地方(北部)ではなく、ロウランド地方(南部)の文化都市エディンバラで活躍した画家。彼が描いたエディンバラの人物たちの姿を通して、スコットランドの風俗をたどるのが第2部後半。タータンのデザインを目当てにした人には退屈に感じられるだろうが、紹介される人物には興味深い人々が多い。ジェームズ・グレアム博士は静電気を用いて不妊治療を行ったセックス・セラピスト。『国富論』で知られる経済学者アダム・スミス。気球乗りでスターとなったヴィンセント・ルーナルディ。科学的知見の普及に努めたヘンリー・モイズ博士。『ジギル博士とハイド氏』のモデルではないかと噂されたウィリアム・ブロウディ。ロンドンのヘイマーケットのオペラハウスの舞台にも立った巨漢の軍人サミュエル・マクドナルドなど。スコットランドにも、日本の輿に相当する「セダンチェアー」というものがあり、その担ぎ手である「チェアマン」を描いた作品も。

第3部「タータンの種類」では、タータンを多様なデザインを、コンパクトに並べた生地によって紹介する。「バルモラル」と呼ばれる、ヴィクトリア女王の夫君アルバート公が考案した、御影石のグレーを取り込んだデザインも紹介されている(展示品の赤いラインはイングランド旗をイメージしているのだろう)。

第4部「多様化するタータン」では、デザイナーにより近年デザインされたファッションを通じて、タータンの魅力を紹介する。この展覧会の華と言えるセクション。タータンを用いた洗練された衣服が並ぶ。

第5部は「タータンと日本」。1904年に「デパートメントストア宣言」を行った三越呉服店が英国ハロッズを手本に英国スタイルを取り入れたことで日本にもタータンが広まったと推測されている。なお、文献では、『日本百科大辞典』(三省堂。1919年)に「スコッチ・タータン」と立項されているそうだ(「スコットランドより産する毛織物の1種。種々の色絲より成る縦横縞則ち格子縞のものにして、…」)。以後、雑誌や広告、ファッションにタータンが取り入れられていった事例を紹介。伊勢丹のショッピングバッグのデザインで知られる「イセタンタータン」が2012年にリニューアルしたとか、トンボ学生服による、タータンを用いた学生服(2016)など最近の事例まで紹介。
1970年代に一世を風靡したベイ・シティー・ローラーズがエディンバラ出身で、メンバーの各家庭に関連するデザインのタータンを身についていたとは。

展覧会 名和晃平個展『Throne -Louvre Pyramid-』

展覧会『名和晃平「Throne -Louvre Pyramid-」」を鑑賞しての備忘録
銀座蔦屋書店(GINZA ATRIUM)にて、2019年2月5日~11日。


「Japonisms 2018」の関連企画として、パリのルーヴル美術館のピラミッドに展示されている(2018年7月13日~2019年2月18日)、名和晃平の立体作品《Throne》を、映像と写真、そして《Throne(g / p_pyramid)などのミニチュア3点で紹介する企画。

大小の球体が増殖するように連続したり、鋭利な刃が突き出したりと複雑な造形は、輝く金色と相俟って、仏像の光背を連想させるが、祭りの山車から発想しているという。タイトルの"throne"は「王位」を表す語で、中央には小さい子供なら座れるほどの小さな玉座が設けられている。今は空位となっているが、急速に発達するコンピューター・サイエンスや人工知能が、権力の座に君臨するとの予言を表すものらしい。

山車の装飾を引用したのは、「Japonisms 2018」というイヴェントを祝してのことだろう。また、複雑な形は、姿形無き情報やその不穏な潜勢力に形を与えるためだろう。では、宮殿(ルーヴル美術館)ではなく王墳墓(ピラミッド)に玉座を設けることには、どのような意味があるのだろうか。例のマウゾレウム(墳墓)とムーゼウム(博物館)との類比であろうか。ルーヴル美術館におけるガラスの「ピラミッド」の意味も不明なこともあってよく分からなかった。実際にはかなり大きな作品のようなので、ミニチュアや映像では伝わらない、途方も無い大きさがもたらす力が現地では感じられるのかもしれない。

展覧会『21st DOMANI・明日展』

展覧会『未来を担う美術家たち 21st DOMANI・明日展 文化庁新進芸術家海外研修制度の成果』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館(企画展示室2E)にて、2019年1月23日~3月3日。

文化庁による若手芸術家の海外研修支援制度「新進芸術家海外研修制度」に参加した昭和50年代生まれの美術家9人を紹介する企画。これに加え、文化庁所蔵の三瀬夏之介の作品(数多く描いた富士が津波のようにも見える《日本の絵》など)も展示されている。 

最初は、和田的。白磁を中心とした磁器34点がそれぞれ独立した展示ゲースに並べられている(一部複数作品を併置)。つややかな白い器が整然と並ぶ上、《流氷》や《茶盌|御神渡り》などの存在もあってか、厳冬の朝を感じさせる空間である。かすかに彫りが入れられた白磁の球体《スーパームーン》のぼってりとした器体や、とぼけた表情を持つ《白器大き香炉|ようこそ!》の柔らかさな印象が、アクセントになっている。

2つ目は、蓮沼昌宏の絵画と原始的アニメーション作品(パラパラ漫画を見せる手回しの道具「キノーラ(Kinora)」)。「物語る」を意味するドイツ語"erzählen"はzählen(数える)とer(獲得する)が組み合わさってできているという。この語に因んだ《数えることで獲得する》と題された、数多くの鳩を描いた絵画も展示されている。数えるとは、認識することでもあり、ラスコーやアルタミラの洞窟壁画のような原始の「描く」にも通じるだろう。また、絵画《歩く 歩く 歩く 転ぶ 歩く》のように、動作を挙げていくことは、動作を数えることでもある。数は時間であり、時間は歴史(geschite)であるから、物語(geschite)となる。パラパラ漫画のように、コマを数えることなく、数に思いが及ばなくなるとき、物語は自ら動き始めるのだろう。

3番目の展示室は、村山悟郎の作品8点。《自己組織化する絵画〈樹状多層構造〉》は、麻紐を織り込んだものに下地を施し、その上から絵を描き込んでいる。壁に貼り付けられたそれは、アンデスかどこかの伝統工芸品や、なまはげのような妖怪のつくりものを思わせる。撚ったり織ったりという作業の積み重ねが、精神や生命を呼び起こす感覚を味わう。《同期/非同期時間のセルオートマトン[手書き]》も同じ形を繰り返し描き込むという点では共通する。

続いて、松原慈のインスタレーション。床に、ひなげしの花の写真が複数置かれている(《Un coquelicot》)。真上からとらえた姿には、ひなげしのイメージを裏切るものもある。壁面には、ひなげしの写真と似た形状の焼きものか何かの写真とを並列した《Composition(Fodere #133. Un coquelicot #164)》、額装した英語詩《Undress》も展示されている。

カーテンに仕切られた先には、木村悟之の映像作品2点の上映。《ウンザー・ハウス・フォー・ザ・ニュー・エラ》と《ポリンキー》。

休憩コーナーを挟んで、志村信裕の映像作品《Nostalgia, Amnesia》。作者記すところの「羊をめぐる冒険」。バスク地方の山の羊飼い、フランス南部の毛糸職人、日本初の牧羊場が開設された三里塚の農家を、羊が取り持つ。3つの場所を別々に順に取り上げるのではなく、撚り合わせるかのように見せていく、その手法がとにかく洗練されていて見事。羊の毛刈とキャベツの収穫を並べてみせたりする茶目っ気も。

7つ目は白木麻子のインスタレーション。《Liquid path―Buoyancy and dynamic》、《Your window is my mirror》、《Anything lighter than water》、《On the frame, In the frame》、《A cabinet unbable to hold any secrets》の5点。椅子や壺、布や鏡などが、一見その機能を果たしているように見せながら、ただそう見せかけているだけで、その機能を果たすことを拒んでいるかのように並べられる。物には、本来的とされている機能がある。その機能を果たさないときにこそ、その物の姿が目に入り、その物の可能性が立ち現れる。個々の物の配置が持つ関係性・意味を読み解きたくなる意欲を駆り立てられる。

続いて、川久保ジョイの映像作品《永遠の六日後に(第一部)》。生命という記憶装置をテーマにした作品。壮大な作品の序章。日英2ヶ国語のナレーションが同時に流される。放射線の影響を用いた写真作品も。

最後は、加藤翼の映像作品5点と写真作品1点。映像作品《Pass Between Magnetic Tea Party》では、自動車の通る通りにテーブルを並べて会食し、車が通る度に皆でテーブルをどかし、車が通り抜けたら、また通りにテーブルを戻すというパフォーマンスを撮影したもの。「パブリックとプライベートの関係を可視化」することが狙いだという。道路を人(歩行者)に取り戻すために未明に道路を歩く関西のアーティストがいたことを思い出す。なお、この作品の最後に、テーブルの上に車を走らせてしまうのだが、会場にはそのテーブルを滑り台のように設置している。

展覧会 イケムラレイコ個展『土と星 Our Planet』

展覧会『イケムラレイコ 土と星 Our Planet』を鑑賞しての備忘録
国立新美術館にて、2019年1月18日~4月1日。

 

絵画や焼きものを中心に200点を超える作品を、16のテーマで紹介するイケムラレイコの回顧展。展示構成は、建築家のフィリップ・フォン・マットが担当。

 

冒頭に、拡大された《生命の循環》が掲げられる。移ろい、死と再生といったイケムラの作品に通底するテーマを象徴する作品。寒さを忘れて、どこへ向かうべきか。

最初は「原風景」。スイス滞在を機に描かれたアルプスのインディアン・シリーズが紹介される。《マロヤ湖のスキーヤー》と題された作品は、雪舟等楊の作品(おそらく《秋冬山水図》の「冬景」)に基づいたもの。ヨーロッパの自然の中に東洋の理想郷を見出したのだろうか。

続いて、舞台のような場所に、生き物と建築とか融合したような焼きものが並べられた「有機と無機」。舞台の向かいの壁には、イケムラレイコの詩「自己問答」が掲げられている。

どちらでもありどちらでもないという
両極を触れながら揺れるという
生存というすがたに秘める洞窟
彫刻というのは本当はあてはまらない
ある塊を削っていくのではない
内に秘めながら彫塑するのは
やわらかさから発展する
ぐにゃぐにゃとした土はからだをみずからつくろうとする
手を使って造られるものには霊を吹きこむことができるようだ
無をなぞって造られていく、からだやたてもの
それは家であり柱であり植物であり生き物であり人であり存在であり
私ではない、造るのは
概念ではない
カミサマ?
イエ、宇宙の意思かも
上と下、東と西をどんでん返し
かたちが形を生む
10億年の記憶が我々にある
私のバード性を示そうか

イケムラレイコ「自己問答」

 

続いて、「ドローイングの世界」。舞台のような基盤を必要としていた直前のセクションの焼きものとの対比で、木炭などで紙の上に表される姿かたちの自由闊達が強調される。

イケムラの代表作と言える少女像を紹介する「少女」のセクションは、緑色のワンピースの少女の焼きもの《ミコを抱いて横たわる》で始まる。タイトル通りの横たわる少女の像が、あえて高い位置に設置されている。像の持つ「虚ろ」を視界に入れやすくするとともに、《横たわる少女》などの横たわる姿の絵画群だけでなく、《舞い降りて》に描かれる浮遊する姿の絵画とも共振させる効果が与えられている。

「アマゾン」では、剣や頭蓋骨を手にした女戦士たちがタペストリーのように展示室内に吊り下げられて展示されている。

「戦い」では、太平洋戦争をテーマにしたような作品が並ぶ。

「山」では、足下に顔と火山とが一体化した焼きもの《フジフェイス》が置かれている。「木」では、人や動物と木とが一体化したような作品が、「炎」では、女性と炎とが融合した作品が見られる。

「うさぎ観音」では、映像作品《いずこでもない》が壁面に投影されている展示室内に、巨大な《うさぎ観音Ⅱ》が鎮座する。うさぎのような長い耳を持つ観音の下半身はスカートを履いたような形状で、無数の小さな穴が開けられている。正面には入口のような空洞が設けられ、内部を覘くと闇の中に無数の星のような光が見える。展示室外の資料コーナーからは屋外の「庭」に設置された《うさぎ観音》を眺めることができる。

「地平線」では、《ベルリン地平線》のシリーズや、漆黒の中に海を描いた《オーシャン》のシリーズが紹介されている。

メメント・モリ」では、焼亡した森のような図像《快楽の園》を背景に、朽ちていく女性像《メメント・モリ》が置かれている。扉だけが見える何も無い室内を描いた《インテリア(室内)Ⅰ》と合わせると、未来への期待や胎動をかすかに感じることができ、野焼きによる再生をイメージすることもできるようだ。

「コスミックスケープ」では、人と風景とが一体化したような大画面の作品が並ぶ。「自己問答」でイケムラが綴ったように、「10億年の記憶」で捉えれば、地球(the earth)は剛体ではなく流体である。《うねりの春》のシリーズはその絵画的表現であろう。

「エピローグ」では、《頭から生えた木》により、死と再生のテーマを改めて呈示している。

展覧会 黒田大祐個展『ハイパーゴースト・スカルプチャー』

展覧会『Kanzan Curatorial Exchange「尺度の詩学」vol.3 黒田大祐「ハイパーゴースト・スカルプチャー」』を鑑賞しての備忘録
Kanzan Galleryにて、2019年1月18日~2月17日。

 

黒田大祐による「彫刻」をテーマにした作品展。

 

黒田大祐が、2017年に仁川で見かけたマッカーサー銅像は、金景承という彫刻家の作品であった。金景承は東京美術学校で建畠大夢の指導を受けていたという。黒田が高校時代に校内で目にして影響を受けた彫刻は建畠の手によるものであった。調べると、建畠は黒田の母校の卒業生であり、黒田自身も建畠の弟子筋の作家の指導を受けていた。また、国会議事堂内にある伊藤博文像は建畠の作品であり、建畠の教え子の1人である文錫五は、北朝鮮金日成像やスターリン像を制作したことも明らかになる。権力者の像をつくることを至上とする「彫刻」のシステムが、戦前の日本から近隣諸国へと伝播していたのである。それでは、今、彫刻に携わる人々は、「彫刻」のシステムとどのように関わり、向き合っているのか。黒田は、自らが抱える問いを、日本、中国、韓国、台湾でsculpture(=彫刻)に携わる人々に投げかけた。本展では、そのリサーチの成果を昇華して制作した作品が展示されている。


冒頭では、「彫刻って何ですか?」と作家が街中に存在する銅像に尋ねて回る映像《彫刻に聞く》が流されている。どんなに真摯な問いかけだとしても、どうしても間の抜けた印象を観る者に与える構図である。銅像からの反応は無論、一切無い。作家は彫刻とは何かという問いに自ら答えを見つけなければならない。だが、鑑賞者にとっても、生活圏内に当たり前に存在していながら、なぜそこに存在するのか分からない、見過ごしている銅像の存在について思いを致すことになるだろう。
《カルマ》や《道》と題された作品では、作者は鳥に彫刻家の姿を重ねている。実や肉を啄む姿に素材を彫刻する姿が重なるのだろうか。鳩を撮影して、彫刻専攻の学生や教授のキャプションを鳩に付けてしまう批評性とおかしみとの綯い交ぜがここにも見られる。そして、表題作《ハイパーゴースト・スカルプチャー》では、暗闇の中、2羽の鳥(の絵を貼り付けた黒田の手)が、粘土で権力者の像を作っていく様子が映し出される。この映像には、鶏肉で像をつくり、串を刺して焼いていく映像が組み合わされている。ロダンの《地獄の門》を用いた映像作品と相俟って、彫刻という苦難の道を歩む彫刻家たちが、煉獄の焔によって浄化されるという祈りが諧謔味たっぷりに描かれている(ご丁寧に《ケルベロスの焼台》と題して、撮影で焼き鳥をつくるために使用したカセットコンロまで展示されている)。

黒田は彫刻家・橋本平八についての研究成果をまとめた書の掉尾を次のように飾っている。

現代においては平八が生きた時代よりも尚彫刻の領域は拡がっているものと思われる。多様化を極め拡大を続ける一方で、胡散霧消しつつある現代彫刻において、これまでにない新しい彫刻を造り出す事は非常に困難に思われる。最後に、これに応えるような平八の言葉で締めくくりたい。

 

「彫刻の種類。地水火風空草木花鳥獣人物魚貝幻覺等人界神界等無際限。」

 

彫刻とは意外なまでに多様なのである。

(黒田大祐『「不在の彫刻史」付録』2017年p.52)

 

本展は、間違いなく「彫刻」の姿を浮き彫りにした一つの彫刻作品である。