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芸術鑑賞の備忘録

映画『マンティコア 怪物』

映画『マンティコア 怪物』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のスペイン・エストニア合作映画。
116分。
監督・脚本は、カルロス・ベルムト(Carlos Vermut)。
撮影は、アラナ・メヒーア・ゴンサレス(Alana Mejía González)。
美術は、ライア・アテカ(Laia Ateca)。
衣装は、ビニェト・エスコバル(Vinyet Escobar)。
編集は、エンマ・トゥセル(Emma Tusell)。
音楽は、ダミアン・シュヴァルツ(Damián Schwartz)。
原題は、"Mantícora"。

 

マドリードにある古いアパルトマン。フリアン(Nacho Sánchez)が自宅のリヴィングでヘッドマウントディスプレイを頭部に装着し、コントローラーを手に動き回っている。VR空間の鏡映対称を利用して絵を描いていた。スプレー状のツールから噴射される灰色の肥痩のある線が重ねられていくと、四つ足のキャラクターが次第に姿を現わす。フリアンはヴィデオゲームのクリーチャー・デザインを生業にしていた。
フリアンが部屋を出ると、エレベーターから大きな段ボールを抱えた作業員が降りて来た。フリアンが階段を降りると、玄関ホールには引っ越しの荷物が積まれ、ピアノを弾く少年(Álvaro Sanz Rodríguez)がいた。
ゲームデザイナー(Xabi Tolosa)とゲームディレクター(Joan Amargós)との打ち合わせにフリアンやサンドラ(Aitziber Garmendia)が同席した。ゲームデザイナーが制作中のゲームの画面を表示しながら説明する。野獣のシーンは、血の表現は割愛して切断された腕や脚を積み重ねたんだ。下に行くほど腐乱が進行しているように見せるため色味に変化を出した。頭部を切断して野獣に投げつけることもできる。野獣が死体を踏み付けると臓器が破裂する効果も入れた。
休憩時間に飲み物を飲みながらフリアンはサンドラから北海道に旅行に行った話を聞く。山間の温泉は家族連れで賑わい、皆が裸になって入浴するので、サンドラは生まれた初めて父親の裸を見たという。
自宅でPCのディスプレイに向かっていたフリアンはくぐもった声を聞く。流していた音楽を止めると、子供の叫び声が聞こえてきた。廊下に出ると隣家の窓に炎が見えた。慌てて隣家のドアに駆け付ける。開けて! 開かない! 少年がドアの内側で叫んでいた。大丈夫? 1人? 助けて! ドアが開かないの? 開けられない! 近くに備え付けてあった消火器を運んできたフリアンは、少年にドアから離れるよう言って、ドアを思い切り蹴る。ドアを何とかこじ開けると少年を外に出す、消火器を手に火元に向かう。
ビニールを外していないカウチに坐った少年が女性警察官(Stella Arranz)から事情聴取を受けている。消火活動で煙を吸ったフリアンは近くで医師(Ignacio Ysasi)の検査を受けていた。問題ないですね。もっとも胸に不快感があるようなら迷わず受診して下さい。警察や消防の人たちが別室に移動し、フリアンが少年とともに部屋に残される。名前は? クリスティアン。フリアンだ。ピアノすごく上手だね。ピアニストになりたい? にわしになりたい。庭師? 何で? しょくぶつが好きだから。ここに植物なんてある? おばあちゃんち。植物の世話をするの? そう。水をやったり、虫をとったり、ピアノをひいたり。 植物にピアノを聞かせるの? しょくぶつだって音楽がわかるんだよ。うれしいとかかなしいとかもね。どうやって? 花びらにセンサーがあるんだよ。小さいころ何になりたかったの? いろいろあったけどね。虎になりたかったこともあったな。トラにはなれないよ。子供の頃は虎になれると思ってたんだ。トラは顔をこわがるって知ってる? 顔を? そう。りょうしは後ろからおそわれないように頭の後ろにお面をつけるんだ。何で知ってるの? ドキュメンタリーで。母親(Ángela Boix)が部屋に飛び込んで来てクリスティアンを抱き締める。どうしたの? カーテンがやけて出られなくなっちゃった。母親が助かりましたとクリスティアンに礼を言う。彼女の母親が頑固で他人に貸すように言ったにも拘わらず15年間もこの部屋を放置していたのだと説明した。家は使われなくなるとどんどん古くなって。まさかこんなことになるとは思ってもみませんでした。何かあったら声をかけて下さいね。そうします。
部屋に戻ったフリアンは再びディスプレイに向かって描画を開始する。
夜。眠っていたフリアンは息苦しさを感じて目を覚ます。不安に駆られたフリアンはますます呼吸が荒くなり、タクシーを呼んで病院に急ぐ。病院の受付で消火作業で煙を吸ってしまったと説明するや否や失神してしまう。
医師(Miquel Insua)はフリアンに検査結果に異常は見られないと言う。不安が失神を引き起こしたのでしょう。パニック発作です。不快感があるでしょうが問題はありません。ストレスや恐怖を経験すると、脳が自己防衛のために失神を引き起こすことがあるんです。仕事や家庭に問題は? いいえ。抗不安薬を出します。睡眠を促して不安を軽減します。1日1錠、1ヶ月間。不安が大きいときには2錠。医師は併せて人と話すようフリアンに勧めた。

 

マドリード。ヴィデオゲーム制作会社でキャラクターデザインを担当するフリアン(Nacho Sánchez)は、打ち合わせ以外は出社せず、古いアパルトマンにある自宅で1人作業に当たっていた。目下手掛けているのはいわゆるラスボスに当たるモンスターだった。空き部屋だった隣室で小火があり、フリアンが消火器を持って駆け付け、引っ越してきたばかりの少年クリスティアン(Álvaro Sanz Rodríguez)を救い出す。フリアンはその晩、呼吸困難となり救急病院に駆け込む。医師(Miquel Insua)から検査結果に異常はなくパニック発作だと診断され、抗不安薬を処方されるとともに人と交流するよう促された。フリアンは病院からの帰りにディスコに立ち寄ると酒を飲んで女性(Catalina Sopelana)を連れ帰るがうまくできなかった。それでもキャラクターデザインの仕事は順調で、高く評価されていた。自宅近くにある人気の中華料理店で1人昼食をとっていると、クリスティアン(Álvaro Sanz Rodríguez)が母親(Ángela Boix)と来店するのに気づいた。店内のディスプレイを手帖に描いていたフリアンは、離れた席のクリスティアンの横顔をスケッチする。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

フリアンはヴィデオゲーム制作会社に所属しているが原則として在宅勤務のため1人黙々とキャラクターデザインの仕事をしてきた。古いアパルトマンの隣室が長い間空き家だったこともフリアンにとっては好都合だったろう。その隣室にクリスティアンが母親とともに引っ越してきて、小火騒ぎをきっかけに知り合いとなる。
フリアンは煙を吸ったことをきっかけにパニック発作を起こし、医師から睡眠を促す抗不安薬を処方されるとともに、人と接するよう勧められる。早速フリアンはディスコにいた女性と情交を結ぼうとするがフリアンの性器が十分に機能せずうまくいかない。
フリアンは開発中のゲームのノンプレイヤーキャラクターにクリスティアンの顔を当て嵌める。フリアンが創造したキャラクター「クリスティアン」については直接的な台詞や描写を慎重に避けつつ、的確に内容が伝わるよう工夫されている。
フリアンは同僚のサンドラの友人であるボーイッシュな女性ディアナ(Zoe Stein)と知り合い、「クリスティアン」を廃棄する。「クリスティアン」は飽くまでも女性とうまくいかなかったフリアンにとってある種の「火遊び」に過ぎなかった。だがその火を消しきることができておらず燃え広がることになる。
タイトルの"Mantícora"(邦題の「マンティコア」は英語"Manticore"に基づく)は、ライオンのような胴と人のような顔をもつ怪物で、「人喰い」のことである(作中では、フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)の《我が子を食らうサトゥルヌス(Saturno devorando a su hijo)》が「人喰い」のイメージとして登場する)。フリアンがマンティコアのような絵を目撃して恐怖に駆られるのは、自らが「人喰い」との負い目を感じていたからである。実際にはマンティコアの絵が描かれた意図は全く別のところにある(フリアンの子供の頃の夢に関わる)。
現実とヴィデオゲームに象徴される仮想現実と。フリアンは両者を切り離して考えている。ディアナは自らが現実の存在であることをフリアンに訴えるが、むしろディアナ(や社会)が現実と仮想現実とを区別していない。ディアナは自らを区別を求める古い思考に囚われているとしながら、エリアス(Patrick Martino)との関係は曖昧である。
現実と想像の世界の線引きは、想像をリアルにするテクノロジーによって曖昧にされる。エリアスは映画とヴィデオゲームとの違いは対象に対する介入(操作可能かどうか)に求めている。
本来人と交流することのないクリスティアンが、小火をきっかけにクリスティアンと知り合い、消火活動をしたために救急病院に駆け込み、抗不安薬を手に入れるとともに、人との交流を促されることになる。ルーブ・ゴールドバーグ・マシンのようにある出来事が次の出来事へと繋がっていく。
鏡のイメージが印象的に登場する。クリスティアンはクリーチャー(creatures/criaturas)を創造する者(creator/creador)であり、限定的ではあれ創造主(The Creator)である。ところがVR空間で自由にクリーチャーを操っていたクリスティアンは、反転して、操られる存在に堕する(落下!)。
フリアンが自らの音楽で作業に没入するためにクリスティアンのピアノの音を遮断する点や、サンドラがフリアンと職場で親しい関係にある点など、登場人物の性格が伝わるよう丁寧に描かれている。
北海道の温泉、にぎり寿司、伊藤潤二の漫画など日本に関する言及がある。

展覧会 持齋ひかる個展『揺曳』

展覧会『持齋ひかる展「揺曳」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2024年4月15日~20日

日常生活の1齣を切り取った木版画「それでも息をしている」シリーズ13点と、手と影とをモティーフに人間関係を描くリトグラフ「くっついて離れて」シリーズ4点とで構成される、持齋ひかるの個展。

《それでも息をしている b》(760mm×1100mm)には、皿や箸、スプーンなどが置かれた流し台とその周囲の調味料や溜まった空き缶などが明確に描かれる。流し台の中は白地に黒線で、周囲は黒地に白線でと明暗を反転させることで明瞭に区分される。食器やブラシ、調味料や空き缶が並ぶ様に生活感がある。《それでも息をしている d》(1100mm×760mm)では黒い画面にスプーンと皿、ペットボトル、丸めた包装紙だけが白く浮き上がるが、《それでも息をしている b》の画面下端には、流し台の縁に手が覗く。それは作者の日常を示す手がかりのようだ。美容院でクロスを被ったまま鏡にスマートフォンを向けている《それでも息をしている e》(420mm×297mm)のように作品は「自撮り」なのであろう。《それでも息をしている c》(1100mm×760mm)ではバニラサンドを食べようとして賞味期限を確認する姿が、バニラサンドのパッケージ(賞味期限7月10日の記載)と腕時計(7月12日の表示)とで示される(夏場だが冷蔵庫に入れてあったのなら問題無かろう)。
《それでも息をしている m》(970mm×420mm)は黒い画面に液体に塗れた左手と右手に握った包丁とが画面に大きく表わされ、画面下段には両足が覗く。手や包丁の刃に附着した液体は血液だろうか。モノクロームの画面では断定はできない。包丁の刃先が画面下、すなわち作者に向けられているのも不穏である。《それでも息をしている m》の左には、扇風機と開いた窓の先にベランダを描く《それでも息をしている l》(970mm×420mm)、右には僅かに開いたドアを描いた《それでも息をしている k》(970mm×420mm)が並ぶ。左右の作品は室内を灰色で塗り、なおかつベランダの先、ドアの向こうが漆黒の闇となっており、包丁の作品の不穏さを高めている。
《それでも息をしている a》(1100mm×760mm)はタイル張りのトイレの中で便座に坐りトイレットペーパーを引き千切る場面が描かれる。黒いタイルの作る格子模様は閉鎖環境下における抑圧のイメージを呼び込む。引き出されるトイレットペーパーは水の流れであり、人生を象徴する。それを引き裂くことは、《それでも息をしている m》が描くかもしれない自傷に通じるようである。もっとも、そこはトイレであり、便座に坐る以上、生理的欲求が満たされ、なおかつきちんとトイレットペーパーで後始末をしようとしている。足首にひっかかる下着は伸びてハンモック状になっている。それは言わばエアパックとして、セーフティネットとして機能するだろう。
《それでも息をしている g》(420mm×297mm)には紙コップに入ったコーヒーを持つ左手が描かれる。黒いコーヒーに白いミルクが溶けていく。それは黒白による木版画のメタファーであるとともに、明暗延いては生死の象徴だろう。版画そして人生を作家はしっかりと握っているのである。

映画『ザ・タワー』

映画『ザ・タワー』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のフランス映画。
89分。
監督・脚本は、ギョーム・ニクルー。
撮影は、クリストフ・オフェンシュタイン(Christophe Offenstein)。
装飾は、オリヴィエ・ラドット(Olivier Radot)。
衣装は、アナイス・ロマンド(Anaïs Romand)。
編集は、ギィ・ルコルン(Guy Lecorne)。
音楽は、ティム・ヘッカー(Tim Hecker)。
原題は、"La tour"。

 

アパルトマンの1室の窓辺に立つアシタン(Angèle Mac)が緑地の中に立ち並ぶ高層アパルトマンを眺めている。
5時20分。キッチンのテーブルで飲み物を飲んだアシタンの母親が上着を着てバッグを手に取り部屋を出る。エレベーターで1階に降り、正面玄関へ。
ベッドで寝ていたアシタンが弟ドゥマ(Kylian Larmonie)に呼ばれる。ドゥマはドアの前に立ち姉を待っていた。アシタンが覗き穴から外を確認する。何かあるの? 何も。弟にも覗き穴を覗かせる。弟が叫ぶ。誰かいた! いないでしょ。何者も恐れないライオンじゃなかったの。怖がる弟に代わってアシタンがドアを開けて外を確認する。通路には誰の姿もない。アシタンはドゥーマを寝かせようとするが、ドゥーマは部屋で窓を見詰めている。窓の外は真っ暗闇で何も見えない。別の部屋の窓も同じで外は闇だった。アシタンはスマートフォンを手にして母親に連絡を取ろうとするが、電波が届いていない。テレビのスイッチを入れても何も映らない。ここにいて。何処にも行かないで。誰も入れたら駄目よ、アシタンが部屋を出て行く。
オドレー(Marie Rémond)は何も身に付けないままベッドに横になっている。服を着たイングリッド(Judith Williquet)が靴を履く。今夜また来る? 無理。また会える? 電話して。2人が口付けを交わす。じゃあね。イングリッドが出て行く。
アシタンが通路で出会したイングリッドに電話が通じるか尋ねる。電波は届いていなかった。アシタンはイングリッドとともにエレヴェーターに乗り、1階の正面玄関に向かう。玄関ホールにいたマテオ(Modeste Nzapassara)がアシタンとイングリッドに出ない方がいいと注意する。何で? 見ろ、ドアがなくなってる。3人の前には完全な闇が拡がっていた。
慌てて部屋に戻ったアシタンはドゥマを呼ぶ。返事がない。不安に駆られたアシタンはベッドで眠る弟を見付けて、安堵の涙を流す。
アシタンはドゥマとともにアメド(Hatik)の部屋へ向かう。何だよこんな時間に。アメドがドアを開けるとアシタンとドゥマはずかずかと部屋に入る。何してんだ? アシタンがカーテンを開き窓を開ける。真っ暗闇にアメドが驚く。近付かないで。アシタンが近くにあった空き缶を窓の外に投げ込むと吸い込まれるように消える。缶はどうなったんだ? 電話は繋がらないし、テレビは映らない。アメドが近くのディスプレイを窓に放り込むと音もなく闇に呑み込まれる。シャキブ(Ahmed Abdel Laoui)のところに行く。ここにいてもいい?
アメドがシャキブに部屋に通してもらう。まだ6時だぞ。親は寝てる。アメドが窓を示す。何が見える? 街だろ。アメドが窓を開けると闇が拡がっていた。どうなってんだ?
スマートフォンのアラームでジョルダン(Coline Beal)が起きる。隣で眠るお腹の大きいメラニー(Coline Beal)の体に手を伸ばす。仕事に行かなくていいの? 景気づけにさ。急いでよ。すぐ終るから。ジョルダンメラニーに覆い被さり挿入を開始した所でドアをノックされた。やむを得ずジョルダンが応対に出ると、マテオがいた。どうしたんだ? 守衛が呑み込まれた。

 

都心の高層アパルトマンが林立する街区。1棟のアパルトマンに暮らすアシタン(Angèle Mac)が早朝に弟ドゥマ(Kylian Larmonie)に起こされる。弟は誰かがいるとドアの前で怯えていた。アシタンはドアを開けて通路を確認するが誰の姿もなかった。ドゥマが窓の外に闇が拡がっているのに気づき呆然と立ち尽くす。アシタンが母親と連絡を取ろうとするがスマートフォンの電波は届いておらず、テレビを点けても何も映らない。玄関ホールに向かうと、マテオ(Modeste Nzapassara)から出ない方がいいと注意される。ドアが失われ、その先は闇が拡がっていた。慌てて部屋に戻ったアシタンはデュマの無事を確認すると、弟とアメド(Hatik)の部屋に向かう。窓外の闇を知らされたアメドは2人を残して出て行く。アメドの恋人シャキラ(Lina Camelia Lumbroso)が起きてきて2人を不審がる。アメドは仲間のシャキブ(Ahmed Abdel Laoui)に声をかけ玄関ホールに向かう。恐慌を来した大勢の住民がいて、取っ組み合いの喧嘩をしていた2人が入口から外へ倒れ込むと闇に呑み込まれ、切断された足だけがが残った。驚愕したアメドとシャキブがドリス(Kevin Bago)を探すと、ドリスは地下にある封印されたドアをこじ開けようとしていた。オドレー(Marie Rémond)との情事を終えたイングリッド(Judith Williquet)は闇に包まれたアパルトマンから出ることができずオドレーの部屋にとんぼ返りした。そこにジョルダン(Coline Beal)がやって来る。看護師のオドレーに妊娠したメラニー(Coline Beal)を診て欲しいと訴えた。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

ある朝アパルトマンの周囲が、全てを呑み込む闇に包まれてしまう。住人たちは水や食料、医薬品の確保に躍起になり、大小の互助会を形成する。人種差別主義者のブルーノ(Jean-Baptiste Seckler)が白人の勢力を糾合する一方、アメドがアラブ系を、グレゴリー(Laurent Poignot)がアフリカ系を率いる。
アパルトマンの建物だけが闇から守られているという設定は、難破船が絶海孤島に漂着した状況に等しい。ホッブズ的な自然状態における人々の行動がテーマである。母子家庭で、かつ母親を失ったアシタンは弟ドゥマにライオンのような強さを持って欲しいと願う。アシタンは自らライオンとなることで弟に示しをつけることになるだろう。但し、アシタンの言うライオンの強さとは、万人の万人に対する戦いにおいて勝利することではない(アシタンはある物語を語るが、その物語が既存のものなのかアシタンの創作なのかは分からない)。「人種」という人為的区分の無効と自然状態における真の強さとを訴えるのが本作の狙いである。
大規模な災害の中で奇跡的に倒壊を免れたソウルの高層アパルトマンを舞台にした映画『コンクリートユートピア(콘크리트 유토피아)』(2023)では、アパルトマンの自治会長が強大な権力を手にし、その権力に溺れる。『ザ・タワー』が「人種」間の対立を描くのに対し描くのに対し、『コンクリートユートピア』は南北対立を背景に、同じ民族同士で争い、なおかつ裏切り者の存在に疑心暗鬼となる姿が表現される。
映画『ハイ・ライズ(High-Rise)』(2015)は高層アパルトマンを格差社会のアナロジーとして、その行き着く先を描く。

展覧会 須田日菜子個展『噛み合わない会話』

展覧会『須田日菜子「噛み合わない会話」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2024年4月6日~21日。

スプレーを用いて限られた数の線で身体を描き出した「Discordant conversation」シリーズを中心とする、須田日菜子の個展。

《hip to face》(1940mm×1620mm)は、左腕を頭上に挙げ、右肘を曲げて右手を前に突き出す人物の後ろ姿を、スプレーで吹き付けた黒い線で表わした作品である。緩やかな円弧2つで両肩を、その間に"∩"で頭部を、その右側の直線に接するように小さな円弧を縦に2つ並べて眼と口とを、その左に配した円弧で耳を表現しているように、限られた数の線による戯画的な作品である。スプレーによりぼやけた部分が墨の線を連想させることと相俟って、ユーモラスな画面は仙厓義梵の禅画に通じると言えよう。大画面から切れた左の拳、右手、両脚などによって、その身体が画面から食み出す形になり、躍動感を生じさせている。画面上端の中央近くに振り上げた左の拳からは顔にかけて縦一直線に青い点が滴る。意識して描き入れられたものではあるが、陶芸における釉による景色同様の効果となっている。
「Discordant conversation」シリーズに描かれるのも略画的な人物である。とりわけ《Discordant conversation 15》(410mm×318mm)に描かれた星を見る人が《hip to face》の人物に近しい。オレンジの輪郭の身体はクリーム色で塗りこめてある。首元と右脇から青い線が流れ落ちる。左の拳が青く塗られ、ピンクの絵具がチューブから押し出したように置かれている。画面の左上にはオレンジの描線で星が描かれ、レモン色で輝きが表現される。星を眺める人は、星と対話するのだろう。
《Discordant conversation 5》(410mm×318mm)には白やオレンジを配した背景にオレンジの線で首だけを欠いた全身が描かれる。その画面全体に、円の頭部に円弧3つで眼と口を表わした人物の顔、および肩と胸の線とが黒のスプレーでグラフィティのように重ねられる。黒いスプレーの人物は、オレンジの人物から幽体となって浮かび上がるが如くである。

 チョムスキーの、言語はコミュニケーションの手段ではないという考え方は、偶然発生してしまった自己という考え方の裏面である。まずコミュニケーションが降って湧いて、そこから私という現象が発生したのだ。ほとんど、そういう考え方に接近しているのである。これをキルケゴール流に、あるいはヘーゲル流に言い換えれば、まず関係があって、その関係から自己が生まれたということになる。
 (略)
 つまり、母が、さらにたとえば子の頬の歪みを模倣し、模倣そのものが快楽であることを知って、子にさらに模倣を促すようになった瞬間、この頬の歪みが微笑という意味へと転じるということである。いうまでもなく、ここで重要なのは、子の頬の歪みは意識したものでも意図したものでもない、いわば偶然に生じたものにすぎないということだ。だが、それが母によって模倣された瞬間、少なくとも母の側には微笑として意識されたのである。母が子にその反復を促すのは、自身が意識したそのことを子にも意識させようとすることなのだ。そしてそれが子にも意識されるようになるということは、両者の立場が入れ替え可能であることが意識されることと同じなのである。
 子は、母から見られた自分が自分であることを受け入れることによって自己になるわけだが、この自己を自己とする目は――はじめは手がかりとして母の眼の位置にあるにせよ――そのとき中空にあるとでもいうほかない。そしてじつは、この宙空にあって俯瞰している眼のほうが自己なるものにほかならないのだ。だからこそ、自己にとっては自己の身体があたかも外部から与えられたもののように見えてしまうのである。宙空に位置する眼という言い方は奇矯に響くかもしれないが、これは視覚の本質、距離の本質にかかわることであって、後に問題にする。
 いずれによせ、明瞭になってくるのは、人間の身体はじつは自己などというものではまったくないということだ。
 (略)
 ほんとうは、身体が外部なのではない。自己という現象のほうが外部なのだ。にもかかわらず、人間は逆に考えるのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.112-114)

《Discordant conversation 5》が描き出すのは、オレンジの「身体」と黒い「自己」とであり、延いては「自己という外部」ではなかろうか。

 (略)自己意識とは自分で自分を見ることだが、自分を見ることは自分を支配すること、自分を奴隷にすることの端緒である。言葉はこの自己意識の働きを対象化する。いわば自己意識を眼に見えるものにするのである。この経緯にすでに俯瞰する眼が介在しているといっていい。言葉の場所と俯瞰する眼の場所は重なりあっているのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.247)

画面一杯に黒のスプレーで人物の上半身を描いた《Discordant conversation 4》(410mm×318mm)や《Discordant conversation 4》(410mm×318mm)は、《Discordant conversation 5》における「自己」と捉えることができる。スプレーの模糊とした線が身体からの遊離を感じさせるからだ。それでは何故《Discordant conversation 5》におけるオレンジの「身体」は頭部を欠いているのだろうか。それは「斬首」という死のメタファーを描き入れるためではないか。

 言語革命が人間にもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。このいわば正の領域に対する負の領域は、とりあえずは俯瞰する眼の必然として、あたかもその俯瞰する眼を補完するかのように姿を現わしたといっていい。(略)
 視野の向う、すなわち地平線の、水平線の向こうには何があるか、という問いは、俯瞰する眼にとってはきわめて自然だったろう。同時に、騙されないように細心の注意を払って行われる狩猟や採集の時間が、俯瞰する眼によって――いやそれ以上に視覚が必要とする距離すなわち思考によって――空間化つまり図式化されるのは必然であり、その図式が無限に延長されるのもまた必然である。要するに昨日があり明日があることは、変化を感知する能力にとって、自明のことにならなければならなかった。人間が日を刻み、年を刻みはじめた段階で、歴史はすでに始まっているのだ。(略)
 人が現世と来世、この世とあの世を考えるのは、俯瞰する眼にとても、視覚が必要とする距離の内実としてに思考にとっても、不可避だっただろう。(略)
 思考の領域が行動の領域から自立することと、記憶の領域が自立することとは表裏である。記憶は思考の素材であり、図式化されるべきものの筆頭である。あの世の体系化は、この世の体系化にこそ役立ったのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.479-480)

《Discordant conversation 12》(530mm×455mm)の黒い画面には中央付近に波のような線が横断する。それは三途の川であろう。両腕を挙げた人物はそれを越えて飛んいく(人物には地に着けるべき足が存在しない)。彼岸に、冥府に向かったのだ。黒い画面の中に白やモスグリーンで浮かび上がる人物を描く《Discordant conversation 1》(410mm×318mm)は冥府に立つ人物を、やはり黒背景に白い輪郭線で表わされた人物《Discordant conversation 13》(410mm×318mm)は彼岸から此岸への帰還を表現するようである。

 言語革命は死後を発明しただけではない。
 この世をあの世に変えたのである。
 出生した赤子に名を与えることはこのように位置づけることだが、名は生命とともに消えるわけではない。名はすでになかばこの世を超えているのである。与えられた名を生きることは生きながらにして死の世界に足を踏み入れることであり、墓を築くことは死者の名をなおこの世にとどめ、大なり小なりそれがこの世を支配することを許すことなのだ。(略)人間は死者に立ち混じって生きること、死者を生かし続ける術を発明したのである。(略)
 人は生きるために死という広大な領域を発明し、そのなかに立ち入ったのである。
 人間は生と死を転倒させたといっていいが、そのようにして初めて生を意識しえたのだ。(略)
 人間の表現行為はすべて、基本的に死にかかわっている。
 あの世の視点に立ってこの世を生きることになったからである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.480-481)

言語で行われる以上、会話が完全に噛み合うことはない。なぜなら言語である自己は常に身体との距離を前提としているからである。言語である自己と身体との距離がゼロになり、自己と身体とが一致するとき、それは死を迎える時である。会話が噛み合わないのは、生きているからである。「噛み合わない会話」とは、生きることそのものである。

展覧会 林銘君個展『霧』

展覧会『林銘君展「霧」』を鑑賞しての備忘録
新生堂にて、2024年4月4日~19日。

円で抽象的に表わされた殻を持つカタツムリと衝立・屏風あるいは額縁をモティーフとした墨絵で構成される、林銘君の個展。

表題作《霧》(600mm×2730mm)は、それぞれに、暗い空間内に、霧の中に葉の繁る樹木が姿を見せる衝立と黒い円で抽象的に表わされた殻を持つカタツムリとを描いた横長の画面(600mm×910mm)を3つ横に並べて構成した作品である。右の画面には、いずれも画面左下方向に向いた衝立が9枚、不均衡な間隔でずらして置かれている。いずれの衝立も2本の足で支えられ、樹木の繁った葉が画面下側に描かれている。衝立の足の傍らには、黒い円だけで表わした殻を持つカタツムリが8匹ほど散らばる。中央の画面には4枚の衝立が向きもばらばらに4枚、カタツムリが4匹(2つの黒い円も数に入れれば6匹)、左の画面には向きを違えた3枚の衝立と5匹のカタツムリが描かれる。右と中央の画面とに跨がる形でもう1枚の衝立が描かれる。右から左へ、衝立とカタツムリの数が減り、その分画面に占める暗い空間の比率が高まる。それに加え、衝立に描かれた樹影も右から左へ次第に濃くなる霧により姿を消していく。衝立とカタツムリ以外に何もない空間は暗い。光源もない。そのために衝立の画面が液晶ディスプレイの如く発光しているように感じられる。何より作品を独特なものにするのは、黒い円で表わされたカタツムリの殻である。黒い円には陰影・濃淡もなく平面的で、球でもない。触覚や足などの詳細に描かれる軟体に比して、その幾何学的抽象性が目を引く。なぜカタツムリの殻は黒い円として表わされたのであろうか。

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『リチャード二世(Richard Ⅱ)』の第2幕第2場冒頭では、遠征に出た王に凶事が起こるに違いないとの不安に悩まされる王妃を王の僕ブッシーが慰める。

(略)歪像anamorphosisの隠喩を用いて、ブッシーは王妃に、彼女の悲しみには根拠がなく、なんの理由もないことを納得させようとする。だが重要な点は、彼の隠喩が分裂して二重になっている、つまりブッシー自身が矛盾に陥っていることである。彼は最初(「悲しみの目は涙に曇っておりますので、1つのものがいくつにも分かれて見えるのでございます」)、「本質的な」物そのもの、すなわち実物と、その「影」、つまりわれわれの眼に映った反映、不安や悲しみによって増幅された主観的印象という、単純で常識的な区別を持ち出す。不安があるときは、ちょっとした問題がたいへんなことのように思われ、物事が実際よりもはるかに悪く見えるものだ。ここではそうしたことが、物がいくつも映って見えるようにカットされたグラスの表現に譬えられている。われわれの目に見えるのは、小さな実体ではなく、その「20もの影」なのだ。ところが、それに続く部分では事態が複雑になる。表面的には、シェイクスピアが、「悲しみの目は……1つのものがいくつにも分かれて見える」という事実を、絵画の分野から借りてきた隠喩(「正面から見ると何1つ見えないのに、斜めから見るとはっきり形が見える
あの透視画法と同じです」)で例証しているかのようにみえるが、じつはシェイクスピアはここで領域を根本から変化させている。つまり、カットグラスの表面という隠喩から歪像という隠喩に移行している。この2つの隠喩の論理はまるで異なる。「正面から見る」、つまりまっすぐな視線で見るとぼんやりした染みに見えるある絵画の細部が、「斜めから」、つまりある一定の角度から見ると、はっきりとした形に見えてくるのである。したがって、王妃の不安と悲しみにこの隠喩をあてはめている台詞はきわめてアンビヴァレントである。したがって、王妃の不安と悲しみにこの隠喩をあてはめている台詞はきわめてアンビヴァレントである――「お妃様もそれと同じように、王様のご出立を斜めからごらんになっておられるために悲しみの幻がたくさん見えて、それでお嘆きになるのです。それは、あるがままにご覧になれば、ありもしないものの影にすぎません」。言い換えると、王妃の視線を歪んだ視線に譬えるこの隠喩を文字通りにとるならば、次のように言わねばならない――ぼんやりと混乱したものしか見えない「まっすぐな」視線とは対照的に、まさしく「斜めに見る」、つまりある一定の角度から見ることによって、王妃には物のはっきりと際立った形が見えるのである、と((略))。だが、もちろん、ブッシーはこのことが「言いたい」のではない。彼の意図はそれとは正反対である。ブッシーは気づかれないようにごまかしながら、第一の隠喩(カットグラスの表面)に戻り、次のようなことを「言おうと意図している」――悲しみと不安で目が曇っているので、王妃には心配の種が見えるのだが、もっと冷静によく見てみれば、心配することは何もないのだということがわかる、と。
 したがって、ここにあるのは2つの現実、2つの「実体」である。第1の隠喩のレベルに見出されるのは常識的な現実であり、それは「20の影をもった実体」として、つまりわれわれの主観的な視線によって20の反映に分裂している物として、要するに、われわれの主観的な視線によって歪められた実体的「現実」として、見られている。ある物をまっすぐに冷静に見れば、その「本当の姿」が見えるが、欲望と不安によって曇った目で見ると(「斜めから見ると」)ぼんやりと歪んだ像しか見えない。しかし、第2の隠喩のレベルでは、関係は正反対になる。ある物をまっすぐに、冷静に、偏見を捨てて、客観的に見ると、ぼんやりとした染みしか見えない。「ある角度から」、「関心をもって」、つまり欲望に支えられ、貫かれ、「歪められ」た視線で見たときにはじめて、はっきりとした形が見えてくる。このことは〈対象a〉、すなわち欲望の対象=原因の完璧な説明になっている。〈対象a〉とは、ある意味で、欲望によって仮定された対象である。つまり、〈対象a〉とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象であり、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。言い換えれば、〈対象a〉は、その定義からして、つねに歪んで知覚されるものであり、その「本質」であるこの歪曲を抜きにしていは存在しないのである。なぜなら〈対象a〉とは、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。王妃がブッシーに向かってきわめて正確に述べているように、〈対象a〉とは、「私が悲しんでいる何か」であり、それは「虚しいもの」から生まれたのである。「何か」(欲望の対象=原因)がその「無」、その空無を具現化し、それにポジティヴな存在を与えるとき、欲望が「めざめる」。この「何か」とは歪んだ対象であり、「斜めから見る」ときにしか見えない純粋な見かけである。これこそまさに、「何物も無からは生まれない」という悪名高き金言が偽りであることを暴露する、欲望の論理である。欲望の動きにおいては、「何かが無から生まれる」のである。なるほど欲望の対象=原因は純粋な見かけsemblanceにすぎないが、それでも、われわれの「物質的」で「実際的」な生活や行為を調整している一連の結果すべての引き金を引くのはこの見かけなのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995/p.32-35)

タツムリの殻を表わす黒い円とは、無の象徴である。殻とは空(から)であった。その殻=空から出た軟体、とりわけ大触覚とその先に付いた目とは、欲望のメタファーに他ならない。その構造の相似形が、衝立の画面(screen)に描かれた、霧の中から姿を見せる樹木に繁る葉のイメージであり、何も無い薄暗い空間とそこに置かれた衝立(screen)である。カタツムリの殻と軟体、霧と樹冠、空間と衝立と、三重の入れ籠の構造を採用したのは、欲望を充足させる手段(貨幣)が欲望の対象となる資本主義の構造のアナロジーとしてであろう。円は日本や中国においては貨幣単位(円・圓[yen]あるいは圆・元[yuán])ではないか。《霧》を始めとした墨絵で作家が表わすのは、資本主義社会における欲望であり、その無限の連鎖なのである。