可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 林銘君個展『霧』

展覧会『林銘君展「霧」』を鑑賞しての備忘録
新生堂にて、2024年4月4日~19日。

円で抽象的に表わされた殻を持つカタツムリと衝立・屏風あるいは額縁をモティーフとした墨絵で構成される、林銘君の個展。

表題作《霧》(600mm×2730mm)は、それぞれに、暗い空間内に、霧の中に葉の繁る樹木が姿を見せる衝立と黒い円で抽象的に表わされた殻を持つカタツムリとを描いた横長の画面(600mm×910mm)を3つ横に並べて構成した作品である。右の画面には、いずれも画面左下方向に向いた衝立が9枚、不均衡な間隔でずらして置かれている。いずれの衝立も2本の足で支えられ、樹木の繁った葉が画面下側に描かれている。衝立の足の傍らには、黒い円だけで表わした殻を持つカタツムリが8匹ほど散らばる。中央の画面には4枚の衝立が向きもばらばらに4枚、カタツムリが4匹(2つの黒い円も数に入れれば6匹)、左の画面には向きを違えた3枚の衝立と5匹のカタツムリが描かれる。右と中央の画面とに跨がる形でもう1枚の衝立が描かれる。右から左へ、衝立とカタツムリの数が減り、その分画面に占める暗い空間の比率が高まる。それに加え、衝立に描かれた樹影も右から左へ次第に濃くなる霧により姿を消していく。衝立とカタツムリ以外に何もない空間は暗い。光源もない。そのために衝立の画面が液晶ディスプレイの如く発光しているように感じられる。何より作品を独特なものにするのは、黒い円で表わされたカタツムリの殻である。黒い円には陰影・濃淡もなく平面的で、球でもない。触覚や足などの詳細に描かれる軟体に比して、その幾何学的抽象性が目を引く。なぜカタツムリの殻は黒い円として表わされたのであろうか。

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『リチャード二世(Richard Ⅱ)』の第2幕第2場冒頭では、遠征に出た王に凶事が起こるに違いないとの不安に悩まされる王妃を王の僕ブッシーが慰める。

(略)歪像anamorphosisの隠喩を用いて、ブッシーは王妃に、彼女の悲しみには根拠がなく、なんの理由もないことを納得させようとする。だが重要な点は、彼の隠喩が分裂して二重になっている、つまりブッシー自身が矛盾に陥っていることである。彼は最初(「悲しみの目は涙に曇っておりますので、1つのものがいくつにも分かれて見えるのでございます」)、「本質的な」物そのもの、すなわち実物と、その「影」、つまりわれわれの眼に映った反映、不安や悲しみによって増幅された主観的印象という、単純で常識的な区別を持ち出す。不安があるときは、ちょっとした問題がたいへんなことのように思われ、物事が実際よりもはるかに悪く見えるものだ。ここではそうしたことが、物がいくつも映って見えるようにカットされたグラスの表現に譬えられている。われわれの目に見えるのは、小さな実体ではなく、その「20もの影」なのだ。ところが、それに続く部分では事態が複雑になる。表面的には、シェイクスピアが、「悲しみの目は……1つのものがいくつにも分かれて見える」という事実を、絵画の分野から借りてきた隠喩(「正面から見ると何1つ見えないのに、斜めから見るとはっきり形が見える
あの透視画法と同じです」)で例証しているかのようにみえるが、じつはシェイクスピアはここで領域を根本から変化させている。つまり、カットグラスの表面という隠喩から歪像という隠喩に移行している。この2つの隠喩の論理はまるで異なる。「正面から見る」、つまりまっすぐな視線で見るとぼんやりした染みに見えるある絵画の細部が、「斜めから」、つまりある一定の角度から見ると、はっきりとした形に見えてくるのである。したがって、王妃の不安と悲しみにこの隠喩をあてはめている台詞はきわめてアンビヴァレントである。したがって、王妃の不安と悲しみにこの隠喩をあてはめている台詞はきわめてアンビヴァレントである――「お妃様もそれと同じように、王様のご出立を斜めからごらんになっておられるために悲しみの幻がたくさん見えて、それでお嘆きになるのです。それは、あるがままにご覧になれば、ありもしないものの影にすぎません」。言い換えると、王妃の視線を歪んだ視線に譬えるこの隠喩を文字通りにとるならば、次のように言わねばならない――ぼんやりと混乱したものしか見えない「まっすぐな」視線とは対照的に、まさしく「斜めに見る」、つまりある一定の角度から見ることによって、王妃には物のはっきりと際立った形が見えるのである、と((略))。だが、もちろん、ブッシーはこのことが「言いたい」のではない。彼の意図はそれとは正反対である。ブッシーは気づかれないようにごまかしながら、第一の隠喩(カットグラスの表面)に戻り、次のようなことを「言おうと意図している」――悲しみと不安で目が曇っているので、王妃には心配の種が見えるのだが、もっと冷静によく見てみれば、心配することは何もないのだということがわかる、と。
 したがって、ここにあるのは2つの現実、2つの「実体」である。第1の隠喩のレベルに見出されるのは常識的な現実であり、それは「20の影をもった実体」として、つまりわれわれの主観的な視線によって20の反映に分裂している物として、要するに、われわれの主観的な視線によって歪められた実体的「現実」として、見られている。ある物をまっすぐに冷静に見れば、その「本当の姿」が見えるが、欲望と不安によって曇った目で見ると(「斜めから見ると」)ぼんやりと歪んだ像しか見えない。しかし、第2の隠喩のレベルでは、関係は正反対になる。ある物をまっすぐに、冷静に、偏見を捨てて、客観的に見ると、ぼんやりとした染みしか見えない。「ある角度から」、「関心をもって」、つまり欲望に支えられ、貫かれ、「歪められ」た視線で見たときにはじめて、はっきりとした形が見えてくる。このことは〈対象a〉、すなわち欲望の対象=原因の完璧な説明になっている。〈対象a〉とは、ある意味で、欲望によって仮定された対象である。つまり、〈対象a〉とは、欲望に「歪められた」視線によってしか見えない対象であり、「客観的」視線にとっては存在しない対象なのである。言い換えれば、〈対象a〉は、その定義からして、つねに歪んで知覚されるものであり、その「本質」であるこの歪曲を抜きにしていは存在しないのである。なぜなら〈対象a〉とは、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。王妃がブッシーに向かってきわめて正確に述べているように、〈対象a〉とは、「私が悲しんでいる何か」であり、それは「虚しいもの」から生まれたのである。「何か」(欲望の対象=原因)がその「無」、その空無を具現化し、それにポジティヴな存在を与えるとき、欲望が「めざめる」。この「何か」とは歪んだ対象であり、「斜めから見る」ときにしか見えない純粋な見かけである。これこそまさに、「何物も無からは生まれない」という悪名高き金言が偽りであることを暴露する、欲望の論理である。欲望の動きにおいては、「何かが無から生まれる」のである。なるほど欲望の対象=原因は純粋な見かけsemblanceにすぎないが、それでも、われわれの「物質的」で「実際的」な生活や行為を調整している一連の結果すべての引き金を引くのはこの見かけなのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995/p.32-35)

タツムリの殻を表わす黒い円とは、無の象徴である。殻とは空(から)であった。その殻=空から出た軟体、とりわけ大触覚とその先に付いた目とは、欲望のメタファーに他ならない。その構造の相似形が、衝立の画面(screen)に描かれた、霧の中から姿を見せる樹木に繁る葉のイメージであり、何も無い薄暗い空間とそこに置かれた衝立(screen)である。カタツムリの殻と軟体、霧と樹冠、空間と衝立と、三重の入れ籠の構造を採用したのは、欲望を充足させる手段(貨幣)が欲望の対象となる資本主義の構造のアナロジーとしてであろう。円は日本や中国においては貨幣単位(円・圓[yen]あるいは圆・元[yuán])ではないか。《霧》を始めとした墨絵で作家が表わすのは、資本主義社会における欲望であり、その無限の連鎖なのである。