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芸術鑑賞の備忘録

映画『オッペンハイマー』

映画『オッペンハイマー』を鑑賞しての備忘録
2023年製作のアメリカ映画。
180分。
監督・脚本は、クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)。
原作は、カイ・バード(Kai Bird)とマーティン・J・シャーウィン(Martin J. Sherwin)の評伝『オッペンハイマー(American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer)』。
撮影は、ホイテ・バン・ホイテマ(Hoyte van Hoytema)。
美術は、ルース・デ・ヨンク(Ruth De Jong)。
衣装は、エレン・マイロニック(Ellen Mirojnick)。
編集は、ジェニファー・レイム(Jennifer Lame)。
音楽は、ルドウィグ・ゴランソン(Ludwig Göransson)。
原題は、"Oppenheimer"。

 

プロメテウスは神々から火を盗み人間に与えた。 故に彼は岩に鎖で繋がれ、永遠に責め苛まれることになった。
1954年。アメリカ合衆国の首都ワシントン。アメリ原子力委員会の小さな会議室では、ロバート・オッペンハイマー(Cillian Murphy)に対するQクリアランス剥奪の是非を審査する保安聴聞会が非公開で行われていた。主宰のゴードン・グレイ(Tony Goldwyn)を始めウォード・エヴァンス(John Gowans)、トーマス・モーガン(Kurt Koehler)ら保安委員、原子力委側代理人を努める検事のロジャー・ロブ(Jason Clarke)らの姿があた。博士、開始に当たって読み上げる声明があると思いますが。はい、判事。我々は判事ではない。そうでした。保安委員の皆さん、処分申立書面の情報は私の生活や研究を踏まえなければ十分に理解され得ません。なぜアメリカを離れたのですか? 新しい物理学を学びたかったのです。アメリカでは学べないと? バークレーには一流の理論物理学科があるはずですが。ええ、私が設立したものです。まずはヨーロッパに行かねばなりませんでした。ケンブリッジでパトリック・ブラケット(James D'Arcy)に師事しました。アメリカにいるより満足でしたか? いいえ。馴染めませんでしたし、精神的にも未熟でした。隠された宇宙の姿に取り憑かれていたのです。それに、実験では役に立ちませんでした。
1925年。英国イングランド東部ケンブリッジケンブリッジ大学のパトリック・ブラケットの研究室。オッペンハイマーが実験器具を壊す。睡眠は取れたのか? もう1度やり直せ。講義を聴かなくてはなりません。何故だ? ニールス・ボーア(Kenneth Branagh)の講義ですから。完全に失念していた。諸君、すぐに向かおう。ブラケットはオッペンハイマーだけ残って実験を終えるよう指示する。1人研究室に残ったオッペンハイマーは教卓に置かれた青リンゴに青酸カリを注射する。オッペンハイマーが遅れて駆け付けたボーアの講義は聴講者で溢れていた。量子物理学はただの一歩も進んではいない。現実を理解する新たな方法なのだが。アインシュタインがその扉を開いたのだ。世界の内側を覗き込むと、皆が皆理解できる訳ではない矛盾の世界が広がっている。オッペンハイマーは手を挙げて早速ボーアに質問する。翌朝、オッペンハイマーは慌ててブラケットの研究室へ向かう。置きっ放しの毒リンゴを回収するためだ。研究室ではボーアと話していたブラケットがオッペンハイマーを紹介する。講義に出ていたね。唯一いい質問をした。洞察力は間違いない。もっとも実験には不向きですが。同じ回答でしたね。ハーバードでのものとだろう。同じ質問をするからだ。なぜ同じ質問をする? あなたの回答が気に入らなかったからです。蛇が現われるとの心積もりがなくとも石を持ち上げることはできる。ゲッティンゲンに行き給え。マックス・ボルンの下で研究し、理論を学び給え。ボーアが青リンゴを囓ろうとするのを見たオッペンハイマーは虫が食っていると慌てて取り上げる。数学はどうかね? 代数は楽譜のようなものだ。大事なのは楽譜が読めるかどうかではなく音楽が聞こえるかどうかだ。聞こえます。
1926年。ドイツ国ゲッティンゲン。オッペンハイマーゲッティンゲン大学でマックス・ボルンに学ぶ。研究の傍ら、ピカソやブラックのキュビスム絵画を見たり、T・S・エリオットの詩集『荒地』を読んだり、ストラヴィンスキーの『春の祭典』のレコードを聴いたりする。
1959年。アメリカ合衆国の首都ワシントン。上院歳出委員会では商務長官指名承認公聴会が行われようとしていた。控え室でルイス・ストローズ(Robert Downey Jr.)が上院補佐官(Alden Ehrenreich)からオッペンハイマー聴聞会での証言期間について尋ねられる。正直、忘れてしまったな。聴聞会自体は1ヵ月は続いた。記録に目を通しただけだがね。一体人生全てを正当化したい人物なんているのかね? あなたは聴聞会には? 原子力委の委員長は関与を認められていなかった。公聴会ではこの件を持ち出すのかね? もう昔のことだ。4年前ですよ。5年前だ。オッペンハイマーは世論を二分しています。公聴会はあなたの立場を知りたがるでしょう。ストローズが委員会室へ向かう。裁判を受ける気分では臨んで欲しくないとの言葉を委員から預かっています。君に言われなければね。形式的なものですよ。アイゼンハワー大統領のご指名ですから。オッペンハイマーの件が持ち出されたら? 正直にお話になればいい、あなたが職務に忠実だったことを否定できる委員などいませんよ。気分はよくないでしょうがね。それこそ人生全てを正当化したい人物なんていますか? ストローズは委員会室へ入る。

 

1954年。ロバート・オッペンハイマー(Cillian Murphy)は、アメリ原子力委員会に出頭した。Qクリアランス剥奪処分に対し弁明するためである。ゴードン・グレイ(Tony Goldwyn)主宰の保安聴聞会は安全保障の観点から非公開で、行政手続との理由で訴訟上の権利が行使できない。検事のロジャー・ロブ(Jason Clarke)が事前に入手した大量の情報に基づき共産主義ソ連との関与を次々と追及するのに対し、オッペンハイマーや弁護人ロイド・ギャリソン(Macon Blair)は防戦一方だった。オッペンハイマーは自らの来し方を説明する。
ハーバード大学を卒業したオッペンハイマーは最先端の物理学を学ぶためイギリスのケンブリッジ大学に留学する。パトリック・ブラケット(James D'Arcy)に師事するが実験は苦手で精神を病む。知遇を得たデンマークコペンハーゲン大学ニールス・ボーア(Kenneth Branagh)の奨めで、理論物理学の道に進むことになった。ドイツのゲッティンゲン大学でマックス・ボルンの下で学んだ後、オランダでイジドール・ラビ(David Krumholtz)と、スイスでウェルナー・ハイセンベルク(Matthias Schweighöfer)と知り合う。帰国したオッペンハイマーはカリフォルニア大学バークレー校で量子物理学の講座を開く。放射線研究室を率いるアーネスト・ローレンス(Josh Hartnett)からの警告を意に介さず、オッペンハイマーは科学者らの組合設立に働き、弟フランク(Dylan Arnold)やその妻ジャッキー(Emma Dumont)の参加する共産主義者の会合にも顔を出す。その会合でジーン・タトロック(Florence Pugh)に出会った。
1959年。上院歳出委員会ではルイス・ストローズ(Robert Downey Jr.)の商務長官指名承認公聴会が行われる。ストローズがアメリ原子力委員会委員長在任時にオッペンハイマーの秘密聴聞会が行われたため、オッペンハイマーとの関係について質問される。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯を、ロスアラモスでの原爆開発を中心に描く。水爆開発について慎重な姿勢を取ったことからトルーマン大統領(Gary Oldman)ら冷戦下の政府と距離ができ、マッカーシズムの吹き荒れる中、事実上の公職追放処分を受ける。その処分を決定したアメリ原子力委員会の保安聴聞会(1954)でオッペンハイマーが委員らに対し経緯を説明する形で、オッペンハイマーの半生が描き出される。のみならず、後にアメリ原子力委員会の委員長であったルイス・ストローズが商務長官指名承認公聴会(1959)でオッペンハイマー追放に関与したことが明るみになる場面も同時に進行していく。すなわち3つの場面が並行する形をとる。
若きオッペンハイマーが最先端の物理学に触れて世界を捉えていくシーンは、数式ではなくイメージで描かれる。オッペンハイマーはヨーロッパ留学で次々と天才物理学者と出会うが、物理学に関する難解な話題が会話に登場することはない。
原爆投下後、ロスアラモスで住人たちを前にスピーチを行う場面。「オーピー」とオッペンハイマーを呼ぶ声、床を踏み鳴らす音、万雷の拍手。オッペンハイマーの動揺が背景の振動で示される。オッペンハイマーの言葉に興奮する聴衆の声は消え、会場を光が包むと、聴衆の姿が一瞬にして消える。原爆投下の象徴的表現である。聴衆の姿は戻るが、歓喜で涙する人は、悲劇に噎び泣く人にも見える。オッペンハイマーは足下に黒焦げの遺体を幻視する。原爆の惨禍の直接的な表現を避けることで、日本人にだけでなく、アメリカ国民、否、人類に原爆の災厄がもたらされたことを訴えられた。原爆を生み出したオッペンハイマーはプロメテウスのように苛まれる。原爆を開発した科学者が水爆に反対するのは矛盾だろうか。君子は豹変すと言う。因みに、連合国の勝利も、講演会会場の蔭でキスをするカップルが『ライフ』誌掲載の「勝利のキス」で暗示されるに留まる。
オッペンハイマーについて、優れた学問的才能のみならず、不器用さ、高慢さなども描かれる。誰もが様々な面を持っていることに目を向けさせる。そして、マッカーシズムのような糾弾が行われれば、誰でもが追い落とされる可能性がある。
主演のCillian Murphyは元より、オッペンハイマーの妻キャサリンを演じたEmily Bluntを始め魅力的なキャストで見応えがあった。温和な風貌ながら老獪なルイス・ストローズがオッペンハイマーの敵役として見事だったがRobert Downey Jr.だったとは。粗暴な役が多いJason Clarkeが保安公聴会オッペンハイマーを追い詰める法律家を演じていたのも新鮮だった。『100日間のシンプルライフ(100 Dinge)』や『ヒンターラント(Hinterland)』のMatthias Schweighöferもヴェルナー・ハイゼンベルクとして僅かながら出演。