展覧会『TOPコレクション たのしむ、まなぶ 夢のかけら』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館にて、2018年8月11日~11月4日。
写美の所蔵作品展。
リニューアル(2016年)を機に制定されたTOPという愛称もロゴも未だしっくりこない。
「たのしむ、まなぶ」が2018年度のテーマ。第2期は「夢のかけら」と題される。
スタートは、ジャック・アンリ・ラルティーグの《デスピオ、アンダイ》。タイトル(Despiau, Hendaye)は、他に2点展示されているラルティーグ作品と同様であれば、アンダイという場所でのデスピオという人を撮影したものということ。今回の展示のメイン・ヴィジュアルに採用された、浜辺で男がボールを捕まえようと飛びついている場面。実際に作品を見ると、かなり横長の画面で、デスピオの画面右から左方向への躍動が強調される。砂浜と空が上下をほぼ等分し、左から突き出す岬と僅かながら見える海と、遠く波打ち際にいる一人の人物。これらの静謐な背景に対して、必死で横っ飛びするデスピオの姿は、おかしみを誘う。何ら利害関係のない第三者からすれば、人の必死さなんておかしいだけなのかもしれないとシニカルに考えてもしまう。同じくラルティーグの《シュザンヌ・ランランのトレーニング、ニース》はテニスをする女性がボールを打ち返す瞬間を捉えた作品。林ナツミの空中浮遊のセルフ・ポートレート対照するとき、ラルティーグの考え方がより鮮明になる。
恋する二人のお互いへの没入が、取り巻く世界を後継に退かせるのは、ロベール・ドアノーの《パリ市庁舎前のキス》。人も車も建物も、二人の舞台の書割となる。エリオット・アーウィットの《カリフォルニア》では、海を背景に車のサイドミラーに映る男女の顔。二人だけの世界が円環に封じ込められている。これらの作品をラルティーグの作品と比すれば、今、生きている喜びに充実している瞬間に、第三者の存在などなどどうでもよいのである。
W.ユージン・スミスのドキュメンタリー『カントリー・ドクター』のシリーズは、展覧会の中盤で異彩を放つ。コーヒーとタバコを手に放心する医師(《分娩中に母子を死なせたアーネスト・セリアーニ医師》)は、第三者の人生に必死に関わり、同じ世界を共有しようともがきながら果たせなかった男の姿だ。これほどまでに劇的ではなくとも、他者との関わり合いを求めようとするのもまた人間なのだろう。
最後に設けられた「時間の円環」のセクションでは、宮崎学の『死』のシリーズや、川田喜久治や山崎博の天体の写真が紹介される。幕が下りるからこそ生の充実があり、切ない望みは次の世代へと持ち越される。