可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

舞台 サカサマナコ『静かな欠片』

サカサマナコ第4回本公演『静かな欠片』を鑑賞しての備忘録
北千住BUoYにて、2018年12月6日~9日。

サカサマナコは、脚本・演出の𠮷中詩織、音楽・音響の前村晴奈、美術の山本高久、照明の平曜によるユニット。


オリンピックの陸上競技会場で爆発があり、多くの人命が失われた。

校内放送の話し手と聞き手の男の子と女の子。

正義感が強く、いつも周囲から浮いていた男の子(竹内蓮)。校内放送でいつも誰かに向かって呼びかけていた。オリンピックには興味が無い。強いて言うなら陸上競技場でリレーを見てみたい。学校からある日、姿を消した。

誰も聞いていないはずの校内放送に耳を澄ましていた女の子(樹七菜)。オリンピックの陸上競技の会場に向かった。学校から忽然と消えた男の子の姿を求めて。

射手座と牡牛座の姉妹。

母親との折り合いが悪かった姉(大塚由祈子)。母との血のつながりは無く、父親は蒸発した。早くに家を出て、一人暮らしを始めた。痴呆になった母親に逢いに行くと、いつも前回の見舞いのことを忘れられていた。亡くなった母の手帖には、姉と逢った日に赤い○が付けられていた。甘い物が嫌いな母に、味噌汁の作り方を教わった姉。

父親が蒸発し、姉が出て行き、母親が亡くなって、一人広い家に住んでいる妹(石田ミヲ)。幼い頃、いつも夕日が沈むのを見続けていた。亡くなるまでの母親と日々を過ごした。電球が切れる瞬間を見た妹。

大学時代から交際を続ける二人(安楽信顕・梢栄)。

同じ街に住んでいる。違う家に住んでいる。
同じ夜を過ごす。同じ朝を迎えない。
結婚したいのか。子供は欲しいのか。
一つになりたいけれど、重ならないことが怖い。
いつしか「別に」が決まり文句になる。
言葉がもたらす終焉を避けるために、アメーバになりたい。
ヒトが進化して口が口でなくなったならいい。

オリンピックの陸上競技場の建設に携わった男(池田海人)。

あの建物がなければ、多くの人命が失われることはなかった。

 

舞台は、中央に巨大な柱が立つ、コンクリートの壁・柱・梁が全て剥き出しになった地下空間。カタストロフの存在を伝える廃墟に見える。開演前から様々な環境音をながすことで現実感を与える一方、数カ所に天上から微かに輝く糸を垂らすことで非現実感を表現し、曖昧な時空を仕立て上げた。

開始直後に出演者が中央の柱の周りを走り出す。しかも後ろ向きに走らせることで、時間を逆に進め、時空の歪みを演出していた。
時空の歪みで、男(池田)が、女の子(樹)に声をかけるところから物語が回り出す。

時間の進行は、時計の針のように動いていく、壁面に投影されたオレンジと青の光によっても表現されていた。
劇中にはキックスケーターと車椅子が登場し、その車輪と動きとでも回転を印象づけた。

これらに加え、繰り返しの科白が随所に鏤められている。言葉によっても時間の円環が強調されていた。
中でも、詩を思わせる、繰り返しのフレーズ「誰そ彼れ」と、続く「あなたは誰」が重要。黄昏時(=逢魔が時)に時空を歪めて、現実には交錯しない人たちを同じ時空に召喚していく力を持った言葉。その言葉を放つ力あるいは存在(花井瑠奈)は一体何なのかが謎である。

謎の力あるいは存在が、黄昏時に人々を召喚し、召喚された人々が皆、夕日を眺めるという点がポイントと考えた。

現実には、互いに受け止めることのないままで終わってしまった思いが、時空を歪ませることで、相手に届いていく。そして、思いを届けることを可能にしているが、全ての状況を知悉している夕日の存在だ。

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向に寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。(柳田国男『山の人生』)

人里離れた山小屋で行われた殺人。その殺人の正確な状況を、当事者の思いを唯一証するのは「小屋の口一ぱいに」射し込んでいた「夕日」のみである。夕日は万能の証人なのである。

思いは必ず届くという、祈りのようなメッセージがこの作品の主題だ。
それは、すれ違ったままだった男の子(竹内)と女の子(樹)が出遭うラストシーンで明確に打ち出されていた。

そして、この舞台において、夕日が観客席の側に設定されていることに注目したい。
舞台作品は、その場限りのものである。その時、その場に存在した表現は、二度と再現されることはない。今、この場で見せた作品を記憶に焼き付けて欲しい、作品の証人になって欲しいというのが、制作者が観客に重ねて送るメッセージなのだろう。