可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『金沢美術工芸大学日本画専攻修了生4人展 ひとひら』

展覧会『第13回大学日本画展 金沢美術工芸大学日本画専攻修了生4人展 ひとひら』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2023年2月4日~19日。

2022年に金沢美術工芸大学大学院修士課程を修了した有志4人によるグループ展。記憶の景観を画面で再構成する大霜貴由(《情景》・《場所 あの頃》・《風景》・《場所 記憶》)、日常の気付きを植物と人物とに重ねて表現する澤村真穂(《窓》・《花衣》など)、日本・韓国・中国の古画に学び動植物を描く田中やよい(《うさぎのいる公園》・《ひめぶたな草》・《小雨》など)、卑近な景観にある和みを捉えようとする南野和(《柿の木》・《庭》)

南野和の《柿の木》は、画面の左側に太く真っ直ぐ生える幹が立ち、そこから右に長く枝を伸ばす柿の木を描いた作品。熟れていない柿の実は片手で数えられるほど。紅葉は始まりかけで、一部黄変した葉が見られるが、ほとんどは暗めの緑と若草色で葉を表わし、朱を帯びた淡くくすんだ背景とともに落ち着いた雰囲気を生む。葉を茂らせた柿の木が画面に収まり切らないことと、手前に低木を配することで、柿の木1本での森林浴を狙っている。銀、青緑銀、朱銀など一部怪しく輝く部分に、柿の木の荒々しいまでの生命力の片鱗が覗く。

澤村真穂の《窓》は、四つ葉のクローバーの桟のある窓越しに鬱蒼と繁る草花を臨む人物を描いた作品。右隅に配された人物は、室内の壁の薄い桃色と同じ色で描かれ、溶け込んでいる。窓を持つ部屋と人物とが一体化するだけではない。室内=人物=見る行為が淡い桃色によって表現されることでギャラリーの壁面と緩やかに接続され、鑑賞者の現実に絵画が浸潤するのである。同じく澤村真穂の《花衣》は、《窓》の構造の絵解きと解釈できる。すなわち、坐って正面を見ているピンクのドレスの女性が、周囲の花によって包まれているのは、見る対象=花と鑑賞者とが一体化していく様を描いているのである。

田中やよいの《うさぎのいる公園》は、兎の小屋の内部からドーム状の鳥の飼育場などのある人気の無い公園を見渡す作品。それぞれ同じ淡い桃色の額に収められた画面は連続して見えるが、屏風の一双形式を踏まえたものか、やや離して展示してある。兎小屋は画面手前側の狭い空間に押し込められている。左画面の左隅に茶、白、黒の3羽の兎が丸くなって蹲り、右画面では、一方は目を瞑り、他方は目を閉じている、2羽の兎が
、左向きと右向きで体を伸ばして腹這いになる。左画面ではカーテンが開けられ、ドーム型のキジのいる鳥小屋や誰一人居ない公園の景色を臨む。右側はカーテン(巨樹の影が映る)が閉じられた上に半分は簾までかかり、さらに箒など清掃用具が6本もフェンスに掛けられている。横に伸びる兎小屋とドームの鳥小屋との関係は、乾隆帝による長春園の西洋楼と海岳開襟の配置を連想させるが(中野美代子乾隆帝―その政治の図像学文藝春秋〔文春新書〕/2007/p.184-192参照)、関係は定かではない。ドームの内外にいる鳩に比して、狭い小屋で縮こまる兎が、兎小屋に住むと揶揄される日本人の象徴であるかも分明で無い。但し、金網や簾、カーテンで覆われた兎小屋は、画面に興趣を添えるのみではないだろう。視界が覆われ、あるいは色眼鏡で対象を眼差し、また実物ではなく影しか見ていないことへの警句として提示されている。

大霜貴由の《情景》は、白・黄・茶のブロックを背景に青で表わされた縦縞の服の人物のシルエットを重ねて描いた作品。人物は、コンビニエンスストアの店員のようである。おそらくはコンビニエンスストアの入口からカウンターへ向かい、そこで店員と交わされるやり取りを、1つの画面に収めたものであろう。ところで佐佐木信綱の「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」という和歌が知られるが、古都の位置を地図で示し、古寺の境内を遠景から捉え、塔に寄って、裳階から相輪、宝珠の先の空の雲へというカメラワークを思わせる展開が印象的である。《情景》も日常の印象をムーヴィング・フォーカスで歌い上げたと言えまいか。