可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『しなやかな闘い ポーランド女性作家と映像 1970年代から現在へ』

展覧会『しなやかな闘い ポーランド女性作家と映像 1970年代から現在へ』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館(地下1階展示室)にて、2019年8月14日~10月14日。

1970年代以降のポーランドの美術を、女性作家の映像作品を通して紹介する企画。時代順に、「Ⅰ.限られたアクセスのなかで:パイオニア世代の映像実験(1970~80年代)」、「Ⅱ-1.転換期:クリティカル・アート潮流とともに(1990年代以降)」、「Ⅱ-2.過去と未来への視点(2010年代以降)」、「Ⅱ-3.新世代の感性と社会とのかかわり」の4章で構成。

「鑑賞ガイド」(岡村恵子執筆)というリーフレットが配布されている(下記の「」の引用元はこの「鑑賞ガイド」から)。簡潔な作品概要、鑑賞者へ向けられた問い、作品の成立事情や背景説明、という3つのパートで構成されているのが味噌。鑑賞者が馴染みのない作品へと関心を向ける足がかりを提供してくれている。


「Ⅰ.限られたアクセスのなかで:パイオニア世代の映像実験(1970~80年代)」
ナタリア・LL《消費者アート》(1972年)は剝いたバナナを口にする女性をとらえた4枚組の写真。同じくナタリア・LLの《インプレッションズ》(1973年)は女性の裸の上半身を撮影した映像作品で、乳房を揺らしたり、白い液体を垂らしてみたりといったシーンを含む。両作品とも性行為を連想させる挑発的な内容。「保守的な当時のポーランド社会が求める理想とはそもそもかけ離れたもの」で、「1960年代の終わり頃から西側諸国で台頭してきたフェミニスト・アートの文脈と連動し、東西のアートシーン」をつなぐ役割を担」ったという。とりわけ後者は豊かな乳房が揺れる様につい見とれてしまう。白黒の無声映像や写真の展示が多い冒頭にしっかりキャッチーな作品を組み込まれている。
イヴォナ・レムケ=コナルトの《人間の可能性の限界》(1984年)は、「女性がヨガの坐法を思わせるさまざまなポーズ」を取りながら、壁に線を引いていく映像作品。描かれた線は山の稜線と一致することが示される。「この作品を撮っていたとき、作者は妊娠初期にあり、「自分の身体に起きている変化を、日々体感するなかで、自身の内にある自然と、周囲にある世界とが一体に感じられていたのかもしれません」。タイトルと映像との一致点が一見して見出せない。山(造山運動)と人(生涯・平均余命)とを比べると、不動の山に対して人間の存在の儚さが浮き彫りになる。だが個体の可能性に限度があるとしても、世代を重ねることで可能性の限界を僅かながらでも打ち破ることはできるかもしれない。タイトルに対する逆説を作品で呈示しようとしたのかもしれない。

「Ⅱ-1.転換期:クリティカル・アート潮流とともに(1990年代以降)」
ユリタ・ヴイチクの《芋の皮剥き》(2001年)は、作者が「美術館や美術を普通の人々に身近なものにしたいと考えて」、「女性たちが昔から行ってきたさまざまな家庭内での労働の象徴」であるジャガイモの皮剥きを美術館の展示室で行う様子をとらえた映像作品。日常的な行為をも作品化してしまう美術館の価値付与の機能を可視化しているとも言える。
スザンナ・ヤニンの《闘い》(2001年)は、作者(女性)が「ポーランドで有名なヘビー級のプロボクサー」とリングで打ち合う様子をとらえた映像作品。女性の置かれた状況の揶揄とも、そのような女性に対する作者からの檄とも解しうるが、プロボクサーのやりづらそうな様子からは、具体的な平等のあり方の設定の困難さをも問うかのようだ。
カタジナ・コズィラの《罪と罰》(2002年)は、趣味で銃器で遊んでいる男性たちに女性のマスクを被ってもらって撮影した爆破シーンが満載の動画。戦闘が主に男性によって担われていることを逆説的に示すとともに、銃器・火器の使用の子供じみた性格が強調されている。
ヨアンナ・ライコフスカの《バシャ》(2009年)は、作者が徘徊する女性を演じ、それを知らない作者以外の人々によって、実際に作者が医療機関に保護されるまでを追ったセミ・ドキュメンタリー作品。見知らぬ人に氏名や住所といったプライバシーを知らせたり、知らない人の車に乗ることの恐怖が、すなわち徘徊する人の抱える事情が、鑑賞者に痛切に感じられる作品となっていて秀逸。

「Ⅱ-2.過去と未来への視点(2010年代以降)」
ホノラタ・マルティンの《屋上》(2015年)は、屋上の縁に立つ作者が身体を前傾させ、後ろに束ねた頭髪を男性が掴むことで、辛うじて落下を防いでいる様子をとらえた映像作品。女性の置かれた社会的状況を辛辣に描いている作品とも読めるが、恐怖だけが持つ快楽を求める人間心理を暴き出す作品のようにも見えた。
カロリナ・ブレグワの《嗚呼、教授!》(2018年)はアイマスクをつけた女性が画面に向かって「教授!」と繰り返し叫ぶ映像作品。小さなモニターで紹介されているため、実際の作品の印象はそれほど強くない。だが、緑の服にピンクのアイマスクの女性は、本展のメイン・ヴィジュアルに採用され、非常に強い印象を与えている。
アグニエシュカ・ポルスカの《セイレーンに尋ねよ》(2017年)は、水没したかのような特殊効果を与えられた都市を撮影した映像に、口や目が複数ある女性の顔が2つ並んで語る様子が描かれる映像作品。「セイレーンというのは、ギリシャ神話にでてくる半人半魚(または半人半鳥)の怪物のことで」、「アイデンティティの不確定さ」の象徴として呈示されている。移民という言葉も、スパンをどれくらいの長さに設定するかによって意味が変わってく。近視眼的にならずに、神話に思いを致すような長いスパンで物事をとらえることで見える風景は異なってくるのだろう。

「Ⅱ-3.新世代の感性と社会とのかかわり」
ヤナ・ショスタクの《ミス・ポーランド》は、ベラルーシからポーランドに移り住んだ作者が、ポーランド人のアイデンティティや、「移民」・「難民」概念の批判的検討をポーランド社会に迫るため、ミス・コンテストに出場した(5回中2回はセミファイナルに進出)経緯を映像化した作品の予告編。本編が待たれる。