展覧会『新・今日の作家展2021 日常の輪郭』を鑑賞しての備忘録
横浜市民ギャラリーにて、2021年9月18日~10月10日。
1階展示室1では百瀬文の映像作品4点、《To See Her on the Mountain》(2013)、《山羊を抱く/貧しき文法》(2016)、《Born to Die》(2020)、《Flos Pavonis》(2021)と写真作品《Borrowing the Other Eye(Gade)》(2017)を、地下1階の展示室B1では、田代一倫の3つの写真シリーズ、東日本大震災の被災地で撮影した「はまゆりの頃に」(2011-13)、コロナ禍の横浜で撮影した「横浜」(2021)、韓国の島を舞台にした「ウルルンド」(2017)を、それぞれ紹介している。
百瀬文《Flos Pavonis》(2021)について
男性との性交渉を克明に綴ったウェブログ"Flos Pavonis"が「浮いている」と興味を持った日本人女性アヤが、同ブログの管理者であるポーランド人女性ナタリアにテキスト・メッセージを送ることで始まったオンラインでの交流を描くフィクション。新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める2021年1月、ポーランドにおいて、実質的に人工妊娠中絶を禁止する法律が施行されたというニュースに衝撃を受け制作されたという。すなわち、パンデミックがもたらす人口減少と人工妊娠中絶の禁止(≒出産の強要)とは、人口政策という観点で見ると容易に結びつけ得る。女性の身体を「産む機械」として国家的管理の下に置いているのに等しい(作家は、《Born to Die》に登場させた、膣のメタファーである「チューブ」を象徴的に登場させる)。それは夫婦やそれに準ずる関係にはない性交渉が制約された日本においても、程度の差はあれ、同様である。その問題意識が制作の動機となっている。かつてカリブ海諸国において、奴隷とされた黒人女性たちは、白人の所有者から望まない性交渉を強いられた。嬰児殺は彼女らにとって政治的抵抗であった。中絶に用いられたのがFlos pavonis(オウコチョウ)の種子や皮である(なお、インドネシアを舞台に女性の身体の管理を扱った作品、本間メイの映像作品《Bodies in Overlooked Pain》(2020)においても、オウコチョウが話題とされていた)。
多くの魔女が、産婆や「賢い女性たち」[伝統的な知恵をもち、ハーブを使った民間療法やまじない等に秀でた女性のこと。占い師、魔女]など、伝統的に女性の生殖に関する知識やその管理を担い守ってきた人びとであったこともわかっている。『マレウス・マレフィカルム』はまるまるひとつの章を費やして、産婆や占い女が他のどんな女性よりも邪悪であるのは、母親がみずからの子宮の産物を破壊する手助けをするからだと論じている。(略)フランスでもイングランドでも、16世紀ごろから、それまで犯すべからざる女性たちの秘儀であった助産に関する活動が、女性に許可されることはほとんどなくなった。17世紀初頭にはさいしょの男性助産師が現われ、1世紀の間に産科はほぼ完全に国家管理の下におかれるようになった。アリス・クラークによれば、次の通りである。
女性がその専門職を男性に取って代わられる連続的過程は、適切な専門的訓練を得る機会が拒否されることを通じて、女性が専門的職業のあらゆる諸部門から締め出さされてゆく一事例である。
しかし、産婆の社会的衰退を女性の脱専門職化の事例と解釈しては、その奥にある意味を見逃してしまう。事実、産婆が周縁化されたのは、彼女らが信頼を失ったからであり、また専門職から排除されることによって女性のみずからの再生産能力を管理する力が損なわれたためであることを示す確たる証拠がある。
ちょうど囲い込みが農民から共有地を奪ったのと同じように、魔女狩りは女性からその身体を奪ったのである。こうして女性の身体は、それが労働力を生産するための機械として機能することを阻むいかなる障害からも「解放された」。火刑の恐怖は、共有地の周りに巡らされたどんな柵よりも手ごわい障壁を女性の身体の周りに築いたのだ。
実際、自分の隣人や友人、近親の者が火あぶりにされる様子を目にし、女性の手によるいかなる避妊の取り組みも悪魔的な背徳の所産と見なされるであろうと理解することが女性たちにどのような影響を与えたかは想像可能である。魔女として捕らえられた女性やその共同体の他の女性が、自分たちに向けられたすさまじい攻撃をどのように考え、感じ、そして判断を下したか理解しようとすることで――言い換えれば、アン・L・バーストウが著書『魔女狩りという狂気』でそうしたように、「内側から」迫害を見ることで――迫害者側の意図に思いを巡らす代わりに、魔女狩りが女性の社会的立場にもたらした影響に注意を向けることも可能になる。そのように見れば、魔女狩りは、女性が生殖の管理に用いてきた方法を悪魔的手段と断罪することを通じて破壊し、女性の身体を労働力の再生産へ従属させる前提条件として、それを国家の管理下におくことを制度化したのは間違いない。(シルヴィア・フェデリーチ〔小田原琳・後藤あゆみ〕『キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体』以文社/2017年/p.294-297)
ポーランドで中絶禁止法反対を訴えるデモ参加者と、出産に繋がらないセックスに興じるナタリアは連帯している。なぜなら、生殖の管理を行う者のみならず、「総じて、婚姻という縛りの外で生殖を目的としない成功をする女性も魔女であ」(シルヴィア・フェデリーチ〔小田原琳・後藤あゆみ〕『キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体』以文社/2017年/p.297)るからだ。"bitch"もまた"witch"である。ナタリアはピルの服用を失念し、自らの坩堝で体液を混ぜ合わせる。そのときアヤもまた、オウコチョウの種子を採りに向かうことで魔女となってナタリアに連帯するのである。
ポーランドの中絶禁止反対運動の映像や、ナタリアやアヤの行為や来歴をイメージさせるシーンに加え、オウコチョウの花をイメージさせる衣装を纏ったダンサーによるベリーダンスの映像を挿入することで、テキスト・メッセージのやりとり(作品では文字ではなく音声で表現)を見応えある映像作品に仕上げている。