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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『凹凸に降る』

展覧会『凹凸に降る ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション 2019年冬の企画展』を鑑賞しての備忘録

ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションにて、2019年10月5日~12月22日。

小野耕石、滝澤徹也、中谷ミチコの作品に浜口陽三の銅版画を組み合わせて展観。

 

小野耕石は、スクリーンプリントを利用してインクを立体的に感じられるまで刷り重ねていく。《深邃-夢緒の離行-》(2012)では、キャンバスに赤やオレンジなどのインクを地塗りとして刷った上に、無数の微細なストゥーパを等間隔に建立するかのごとく青・緑・赤の三層のインクを積み重ねている。《この本が知的要素のみで成り立った今それは美と芸の学術として成立しただ純粋に絵を描くことを失ったものである。》(2004)では黒のインクを刷り重ねて本を造形していたが、シモーヌ・ヴェイユを思わせるタイトルの近作《絵を描く事を失ってなお表現が固定観念からの通過を語るかぎり 版と支持体からの自立を経ても重力からの恩恵と制限から解放されることはない》(2019)では長方形の紙が積み重ねられて次第に周囲が捲れる様を表わす。平面作品から、支持体から、版からも離れ、インクが孔を通り抜けることによる建築の実験が重ねられている。孔は参道の茅の輪(=清め)かあるいは母体の産道(=輪廻)か。

重力の下降運動、恩寵の上昇運動、二乗の力をそなえた恩寵の下降運動、この三様の運動が創造を構成する。(シモーヌ・ヴェイユ[冨原眞弓]『重力と恩寵岩波文庫/2017年/p.16)

滝澤徹也は、環境を版画の技法で掬い取りユニークなアングルで見せる。例えば、蜘蛛の巣にインクをつけて和紙に刷り出したり(《蜘蛛の巣-ジョウログモ-》(2003)、《蜘蛛の巣-タナグモ-》(2003)、《蜘蛛の巣-オニグモ-》(2003))、麹菌の顕微鏡写真を米粉と種麹で絵画にしたりする(《発酵絵画-麹菌を培養し顕微鏡撮影したイメージを、米粉下地(味噌等に使う米粉を10数層塗り重ねた半透明の下地)に煮詰めた米粉と種麹をインクとし刷る-》(2018))。岩壁を版に見立てて和紙に刷り取った《Landscape(Norway)-海岸の岸の窪みの固まった廃油?で岩肌をこすりつける-》(2016)からは海岸の光景をイメージすることも可能だろう。ガンジス川で漉いた紙《流れを刷る-ガンジス川で紙を作る-》(2013)は川の流れを固着したかのような表情を見せる。紙(支持体)そのものが作品だが、川の水を版とした版画とも言えそうだ。

中谷ミチコは、石膏に凹凸を逆にして立体的に成形して絵を描き、透明な樹脂を流し込んだ作品を制作している。《川の向こう、舟を呼ぶ声》(2018)とそれと対になるような《舟になる木》(2019)では、川自体の表現はないものの、透明樹脂の存在が川の存在を強く意識させる。《カーテンの向こう》(2016)はカーテンの蔭に少女が佇み、向こうに広がる世界を希求する姿が描かれる。《夜を固めるⅡ(雨)》(2019)は真っ黒なキューブに、雨を見あげる少女の髪と雨とが呼応するように表わされている。境界である川やカーテンの彼岸と此岸、天(雨)と地(少女)という対照が鮮やかだ。

浜口陽三の《雲》(1958)は、下半分に大きく海を表わし、上方に魚の形をした雲が表わされたもの。ここでは海と空とが反転している。

版画(スクリーンプリントのような孔版技法を除いて)は反転が運命づけられているため、版画を扱う作家はそれを意識して制作せざるを得ない。だが、反転への興味・関心は、誰もが潜在的に抱きうるものだろう。なぜなら、自己の認識は、鏡に映る反転した像により得ているからだ。否、物心つくよりも遙か以前から、人は天地を反転させて生きてきたのだ。レンズの構造から脳がイメージを倒立させているのだから。版画という技法、そして反転は、誰にとっても近しい存在なのだ。