可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 山田渓樹個展『変容』

展覧会『山田渓樹個展「変容」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2023年10月30日~11月4日。

モノクロームのテディベアをモティーフとした版画(リトグラフとモノタイプ)・立体作品・インスタレーションで構成される、山田渓樹の個展。

テディベアはクマのぬいぐるみである。だがクマの表現には様々なタイプがある。同じようでいて、同じではない。

展示室へ向かう階段を降りると、透明のアクリルケースに、布製のテディベアが――30体くらいであろうか――ぎっしり詰め込まれた《no title》が出迎える。個々のテディベアの大きさは30cmほどである。白い布に、目鼻口を単純に描き、全体を褐色で刷ったものに詰め物をして作られている。アルマン(Arman)が箱に使い古した品々を詰め込んだ「集積」シリーズ――例えば、ガスマスクを並べた《Home, Sweet Home》――を想起させる(アルマンはスタンプ(cachets)で絵画を制作している点でも、作家との共通点が認められる)。
会場には、《no title》のものより大きいサイズ――70~80cmくらいか――のテディベア30体が床に置かれている。ときに積み重なり、頭を下に足を上にして壁に立て掛けられている。テディベアは並べられているのではなく打ち棄てられているのであり、寝ているのではなく死んでいるようだ。また、壁面にはテディベアを矩形に詰め込んだ作品――アクリルケースの覆いはない――が4つ掛けられている。展示リストに記載は無いが、展覧会のタイトルから「変容」のインスタレーションであろう。会田誠の絵画《灰色の山》などに通じる、無数の死体が作り上げる景観である。ギャラリーが地下にあることと相俟って《no title》と入れ籠となる印象が強い。
一種のメメント・モリ(memento mori)ではある。だが、その趣旨は、死を見詰めることで、生を捉えることにある。
テディベアを描いたリトグラフには《Mini Emotion》と題されている。また、テディベアのような顔を表わした版画に、頭頂部に2つの耳のある布のクマのキャラクターを演じるための「被り物」を被せた作品《被り物》がある。テディベアは、キャラクターを演じる人の姿であるが、被り物を外すことはできない。ペルソナとは仮面(≒被り物)であるが、その人そのものであるからだ。外(ex)に現われる(motion)
のは、その人の感情(emotion)である。
ところで、テディベアの胸像を描いたリトグラフの1点は《face to face》と題されている。版と作品とは刷りの際に向き合う(face to face)。また別の1点には《Reflection》とのタイトルが付されている。版画は版の画像の投影(reflection)だ。細胞がDNAを複製している点に着目すれば、生命は版画でできていると言って過言ではない。ならばヒトもまた版画であろう。
《Emotion Ⅱ》は黒いテディベアの周囲をたくさんの白いテディベアの顔が埋め尽くす作品である。ヒトのある個体は、無数のヒトの版画の結果、生まれたものである。感情は個人の内面から生じるものとしても、過去の人々の内面を受け継いでいる。あるいは、人間は社会的動物であるから、その感情もまた周囲の無数の人々から学習されたものである。感情もまた他者の感情表現を複製した、版画なのだ。
生命の複製は完璧ではない。複製の誤りが、生命の多様性を生み出し、種の存続を生み出した。版画においても、同じ版から得られる版画は全く同一ではない。刷り上がりは異なる。その違い、変容にこそ可能性がある。
無数に生まれてきた生命ないしヒト、無数に刷られてきた版画。無数の複製の過程で生じる微細な変化。変容があって、生命は存続している。版画とは飽くま(あ、クマ)で生命的なメディアである。