可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 李禹煥個展『李禹煥 絵画展』

展覧会『李禹煥 絵画展』を鑑賞しての備忘録
SCAI THE BATHHOUSEにて、2020年3月6日~4月25日。

やや温かみのある白で地塗りを施したキャンヴァスに、影(黒)から光(白)へのグラデーションを表した寒色や暖色の花器や棗などを思わせる色面が1つないし2つ描かれている。地塗りと色面とが書のような緊張感を持つ絵画には、いずれも《Dialogue》と題されている。案内によれば、「グレーの単色のみで始まったDialogueが、約20年を経て色彩豊かに展開している」という。

 絵画を現実空間と結びつけたい画家は、赤茶青緑などさまざまな色の配合に力を入れる。観念上のモチーフを概念的に展開したい画家は、それぞれの色をより明確な単色で用いる。
(略)
 グレーは存在感が弱く概念性に欠けている代わりに曖昧でうつろいやすい未確定な世界を表すのにふさわしい色である。そして作品が現実からも観念からも浸透を受けつつ、両方に影響をおよぼす両義的な中間項である限りにおいて、グレーはまさに絵画的な色であると言える。(李禹煥「絵画の色彩」同『余白の芸術』みすず書房/2000年/p.147-148)

「未確定な世界」を表すグレーから、「さまざまな色」の採用へという変化に、絵画の「現実空間」への接近が図られていると評することもできるのかもしれない。だが、筆を重ねていきグラデーションを表し、あるいは複数の色が層を成す点は、むしろ「曖昧でうつろいやすい未確定な世界を表す」ための異なるアプローチの採用と言える。さらに、グラデーションには対話("dialogue")や連携への促しを、多色の層には「明証の表層」性の否定が窺える。

(略)
 もし生き延びることを願うならば、これ以上の大量生産や本格的な戦争は不可能なはずではないか。可能性は生きる方向にしかない。そのためには対話と連携が要求される。もはやいかなる地域どんな表象の神も神聖ではない。ロゴスの閉じた指向性より、他との相互的な関係性が注目される時が来た。文化の概念が変わらねばならない。
 いつの時代でも、芸術家は死者へのレクイエムと生き延びるための希望を謳う者だろう。進歩と作ることに価値を置きすぎるあまり、死者のことや見えない世界を完全に無視無化してしまった。このような隠れたものを含めない明証の表層的な文明の中で、どのような明日が描けるというのか。芸術家は、表象のオールオバリズムから脱し、カントが言ったように、反省と崇高の精神で無限定な直接世界と出会うことから始めよう。
 生き物と無機物そして死者を含んだすべての外界は、何かの素材である前に、不案内な外部である。手をつけていいない部分、不確定なものを世界と認めようではないか。彼らとの対話を試みる過程が、反省であり批判であり芸術であってほしい。想像力は、自我の拡大ではなく、能動と受動を力動的に結びつける働きである。
(略)
 近代主義の内面的な自己完結形の芸術は終わった。作品が認識のテクストである時代は過ぎた。内と外を刺激し喚起出来る媒体としての表現は、その方法や様式がどうであれ、歴史や無限定なものと関わるものでなくてはならない。ハイテクノロジーがさらに発達して、多くの情報が一般化された時、ようやく媒介項としての身体の存在性が蘇り、外部と内部の関係性が浮き彫りにされるだろう。
 管理主義による情報化されたデータは、自己確認とコミュニケーションのために必要であるが、その明証性が徹底されるほどに、現場において人間は無規定な外部-他者と直接接したくなろう。それは人間が同一性より無限と連携されている存在だからである。
この他者と出会わせる媒介役が、すなわち内部と外部の結節点である身体なのだ。開かれた世界との新鮮な出会いは、両義的な身体の再発見からはじまる。内と外を結ぶ人間構造の両域性を自覚する時、閉じた概念の産物ではなく、自己以上の表現、無限の芸術を生むことが出来る。(李禹煥「未知との対話」同『余白の芸術』みすず書房/2000年/p.311-313)

とりわけ「自己以上の表現、無限の芸術」という発想に、近代主義的な個を最小単位とした発想からの転換を作者が強く意欲していることが伝わる。実際、アートコレクティブや分人の発想への遷移が現実に生じてきており、「対話」のあり方をめぐる表現にも影響を及ぼしているのかもしれない。

 カンバスは設定空間である。現実性と観念性に跨がった半端な物質である。そして絵を描くことは、この半端な物質と関わることであり、その限り出来上がる作品もまた中間項的な性格を帯びる。とはいえ作家の観念でカンバスを覆うことになれば、それは観念の標示物にならざるを得ない。
 カンバスの存在理由や面白さはその半端で中間項的な空間性にあろう。しかし何かを描く前のそれば、有も無も表明しないいわゆる「カンバス」にすぎない。作家が何処かに刺激的な一筆をおろすと、がぜんカンバスは画面空間として動き出す。描かれた部分と何も描いていない部分が張り合いはじめる。絵具もまた条件づけられた半端な物質であるが、これを用いて表現に導くのは観念的な要素である。
 しかしこの半端な物質を伴った観念的な要素も、カンバスにおり立つ途端、物質とも観念ともつかぬもっと別な生きものと化する。それは何も描かれていない部分が余白となり、この余白の空気が描いたものと張り合いを生じるからだ。この張り合いによってカンバスは乗り越えられた世界となる。つまり作品として生を得た画面は、大きななにものかとして設定空間を飛び越えるのである。
 乗り越えの秘密は余白の力学にある。あくなき余白への探求が私に絵を描かせる。余白は現実だの観念だのという言葉を寄せつけない広がり、閃きと予感の絵画が呼び出した捕らえどころのない他者の国である。(李禹煥「画集の断章より 68」同『余白の芸術』みすず書房/2000年/p.357-358)

無限に広がる不可視の外界を捉えることはできない。だがその不可能性を認識しつつ捉えるための試みは、不可視の外界の存在を明らかにする。理解不能の「他者の国」の存在を認識すること、その受容こそが、不可能を乗り越えるための唯一の処方箋なのだろう。その「処方薬」が《Dialogue》という作品なのかもしれない。