可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 大山エンリコイサム『ストリートの美術 トゥオンブリからバンクシーまで』

大山エンリコイサム『ストリートの美術 トゥオンブリからバンクシーまで』(講談社選書メチエ724/講談社/2020年)を読了しての備忘録

目次
はじめに
第1部 都市
都市と歩行(フランシス・アリスのリズム―空間の占有、更新、中断/システムと横断―ニューヨークを歩いて) 都市と表現(表現の空間のために―アブですメッドからクロックタワーまで/シャルリーエブドの教訓―表現の自由とリスク) 都市と建築(闘争するネイルハウス―公共性の現在/アーキテクトの思考実験―石上純也の建築模型) 都市と景観(香港の心象―入り交じる洋の東西/目撃の美学―視覚の新たな形式) 都市と文化(自由の国の人格―アメリカとアルターエゴ/物産展を超えて―東京オリンピックとライティング文化)
第2部 美術
美術とストリート(ロードサイドの人―日本の現代美術とストリート/ゼロ年代とライブペインティング―ある断面の風景) 美術と制度(黙殺のエピソード―クリスチャン・ラッセンと21世紀の美術/累乗するフィクション―ディズマランドの批評性) 美術と匿名(匿名のアコースティックイメージ―サイ・トゥオンブリ「紙の作品」展/手元のメカニズム―バンクシーと非接触型描画) 美術と前衛(★チェスときのこは★挨拶を交わす―ジョン・ケージマルセル・デュシャン/和太鼓-テレビ-奇妙な身体-和田永のパフォーマンス) 美術と文化(フローの感覚―バスケットボールの経験から/アンファンテリスム―横尾忠則という少年)
第3部 ストリート
ストリートと感性(夜の登歩―ライターと都市の自然/最初の感受性―ブータンのヒップホップ) ストリートと歴史(アルタースフェア―落書きの想像圏/署名された署名―ライティングとアーカイブの諸相) ストリートと倫理(ヴァンダリズムの息吹―キダルトとカツ/捨象された匿名性―ファイブポイント裁判) ストリートと文脈(操作の身振り―バンクシーを読み解く/意味のマグニチュードゼロ―チンポム《レベル7》) ストリートと情報(タイプフェイスと盆栽―自然と人工の往復運動/遠方への想像力―氷山のストリートアート)
初出一覧

一般には「グラフィティ」で通っている「(エアロゾル・)ライティング」の手法を制作に取り込んだ画家の大山エンリコイサムによる美術論集。既に上梓した『アゲインスト・リテラシー―グラフィティ文化論』と『ストリートアートの素顔―ニューヨーク・ライティング文化』から漏れたものをまとめた、「雑駁だからこそ」の「水平に広がり多方向に展開する批評」集。

「ストリートのライターになりきれなかった」という思いを抱いていた作者は、現代美術の批評性(「なぜいまその作品をつくるのか」)を手に入れ、画家の道を本格的に歩み出した(p.24-25)。作者の作品は「エアロゾル・ライティングの視覚言語に影響を受け」て生み出された「クイックターン・ストラクチャー」(QTS)を中心に構成されている。QTSは、「身体の敏捷が動きがダイレクトに埋め込まれ」た線「プライマル・フロー(Primal Flow)」と、この線に「三次元の錯視効果を起ち上げる」「パラレル・フロー(Parallel Flow)」が噛み合わされている。作者はバスケットボールを比喩に用いて、自らのこの制作スタイルについて具体的に説明している。(「フローの感覚―バスケットボールの経験から」)
ただ、QTSについて最後に説明されている、フレームに対する併走と自走についてはよく分からなかった。

なお、作者が「グラフィティ」の言葉を避けるのは、グラフィティの語源が「イタリア語で『引っ掻く』を意味するgraffiare(英語のscratch)」にあり、「エアロゾル塗料の描画は非接触型であり、物理的に表面を引っ掻いていない」からである(p.170)。「街中のシャッターは表面に溝があり、筆やマーカーなど接触型の画材では凹凸に阻まれ滑らかに描画できない」が、「非接触型のエアロゾル塗料」は「表面の凹凸をかわして描画できる」(p.169)。

「ライティングはナローキャスト=狭域放送であり、専用のアンテナをもつ特定の受信者に宛てたもの」で、「秘密結社のようなクローズドな性格は、ライティングが反社会的であり、トライブ的だという印象を社会に与えた」(p.261)。それに対し、「多くのストリートアートは、具象的なイメージで彩られたわかりやすいメッセージ性、場の特徴に働きかける遊戯性、カラフルで楽しい視覚的なエンターテインメント性によって特徴づけられる。そのため、読み解くのが難しいライティングよりも広く社会に受け容れられた」(p.28)。

落書き=ライティングは「潜在する多様な想像力」を「多方向に拡散する」。「その想像力に内在し、それを波状に膨らませる遠心力」(=シグナル)は「歴史のレシーバーに受信されない」。「森羅万象の暗い渦に散りゆく匿名性でも、明るい机上で美術史に登録される有名性でもない。その中間で落書きは表象への従属を断ち」、「遠方の事象と想像的に共振する」。(アルタースフェア―落書きの想像圏)
作者はライティングの越境性・変容性を本書全体を通して伝えようとしている。この節も重要な位置づけだろう。「星座は地上から見える。それはあくまで人間の世界に属している。星と星の結合は、意味による世界の近くと分節である。反対に、明滅するシグナルは、距離を介して遠方と共振する。これは量子的またはSF的な空想である」というのは理解できるが、ライティングが「どちらとも異なる仕方で」「際限なくトランスフォームする」ものと説明しておきながら、「みずからのシグナルをそれに共振させる」と「共振」を再度持ち出す点がよく理解できない。

日本に於けるライブペインティングの歴史を論じた「ゼロ年代とライブペインティング―ある断面の風景」が興味深い。絵画のフレームによる規程が、ライブペインティングにおいては「時間の経過=余白の減少=緊張の低下」をもたらすことを指摘した上で、それをいかに回避するかの試行錯誤の過程がライブペインティングの歴史であると明解に説明している。

チェスをモティーフに、マルセル・デュシャンジョン・ケージを論じた「★チェスときのこは★挨拶を交わす―ジョン・ケージマルセル・デュシャン」には、「時間の経過=余白の減少=緊張の低下」というライブペインティングの問題意識が反映されている。チェスは「ゲームが進み、敵味方問わず駒が減少し、盤上の空間が広がると、運動はむしろ制限されて」しまう。そして、「非意味作用の身振りを非意味(という意味)に向けて徐々に作品化するプロセス」であるレディメイドもまた「単に一瞬の間のみ」「「どんな意味作用も失い、空虚な物体、なまの事物に変わる」に過ぎず、刻々と意味に絡め取られていってしまう。そこで、デュシャンは、チェスをさし「芸術を放棄した」態度をとることで、沈黙にさえ意味が与えられてしまうことを回避したという。

西野達(「闘争するネイルハウス―公共性の現在」)、バンクシー(「累乗するフィクション―ディズマランドの批評性」、「手元のメカニズム―バンクシーと非接触型描画」、「操作の身振り―バンクシーを読み解く」)、サイ・トゥオンブリ(「匿名のアコースティックイメージ―サイ・トゥオンブリ『紙の作品』展」)、チンポム(「意味のマグニチュードゼロ―チンポム《レベル7》」)らについての評も。


大山エンリコイサムの作品には、イスラーム美術の特徴とされる(偶像崇拝の否定がもたらす)抽象性に近しいものを感じていた。また、いわゆる「ストリート・アート」に疎く、その入門という気持ちで本書を手に取った。