展覧会『田中偉一郎連載個展4th「芸術の果て ノンパワースポット」』を鑑賞しての備忘録
TS4312にて、 2020年7月3日~26日。
会場中央の台の上には、銀色の小さな銘板が50枚、整然と並べられている。それぞれに「ノンパワースポット」、1から50までのいずれかの数字、年(2019か2020)、作者の名前が印字されている。入り口付近の壁には作者のステートメント、ノンパワースポットの所在地、さらに日本地図が張り出されている。室内の木のベンチには、銘板同様、「ノンパワーストーン」などの文字が手書きで記してある様々なタイプの石ころが並んでいる。銘板を設置した状況を撮影した写真や所在地の地図を集めたファイルもある。
ここ数年来の状況として、場所に価値が宿らない感覚を感じていた作者は、およそ人が訪れることのできる場所はパワースポットではないとの認識を促すべく、「ノンパワースポット」の銘板を設置したらしい。
想像が生み出すイメージが充溢した中世以前の地図と異なり、近代以降の地図には空白が用意されていた。その空白は、探検・探索によって充填される「予定地」であることを示している。科学・技術の進歩により空白は満たされ、世界は1つのシステムの中に整理・統合されていく。無論、「Google マップ」は、その末裔である。あらゆる場所は、座標や画像といった諸々のデジタル・データとして等価に表され続ける。それは、場所の固有の価値を奪い去っていくことだ。「ノンパワースポット」の試みは、この事態をなぞる企てと言える。「ノンパワースポット」と記された小さな銀色の銘板が設置されればされるほど、世界は「ノンパワースポット」の比率を高め、その価値を減じていくこととなるからだ。
道路のひび割れに拳を近づけて破壊を装うパフォーマンス《ストリート・デストロイヤー》は、本来芸術の範疇にない存在を美術作品に転換する。その点で行為自体に無から有を生む「パワー」が宿されていた。絵画に絵筆を近づけて描画したふりをする(=作者を装う)パフォーマンスでは、美術品を美術品として呈示しているため、《ストリート・デストロイヤー》と異なり、行為の持つ「パワー」はぐっと小さくなった。そして、「ノンパワースポット」で呈示されるのは機械的に印字された銘板であり、それ自体にはパフォーマンスの痕跡もない。脱力(=ノンパワー)によって、対象を突き止める行為(=spot)を促すのみである。およそ人が訪れることのできる場所がパワースポットではないとの認識を得られれば、作品の受け手(=鑑賞者)が会場を訪れる必要も無い。観客もまたノンパワーであることを可能にしている。人が集うことを避けることが推奨される、コロナ禍の社会状況に適合した展覧会とも言える。
芸術作品はそれとして呈示することに尽きるという「作品」の系譜は、サインした便器(デュシャン)や梱包された国会議事堂(クリスト)を代表に、連綿として存在してきた。だが、赤瀬川原平が《宇宙の缶詰》の制作で梱包作品の限界(あるいは極大化の不可能性)にいち早く気付いたように、作者もまた呈示(指さす・名指す)行為の極小化の限界を意識して、それに挑んできたのではなかったか。芸術作品(=パワーストーン)に変幻させる美術館(=パワースポット)という錬金術への異議申し立てとして、パワースポットの遍在化、すなわち美術の日常化(=非特権化)を、作者は「合気道」のような技法を用いて推し進めてきた。だが、「パワースポット」にまで美術(美術史)の文脈を踏まえない「アート」が氾濫するに及び、「アート」(=パワー)の無効を宣言することで、かえって美術の再考・復権を試みているのではないか。インターネットによって個人が等しくメディアとして機能するようになり、旧来のマス・メディア(=パワースポット)の権威が揺らいでいることへの批評精神とパラレルである。