可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 寺田真由美個展『天視 Another Angle』

展覧会『寺田真由美「天視 Another Angle」』を鑑賞しての備忘録
Gallery OUT of PLACE TOKIOにて、2020年6月19日~7月19日。

自作の模型越しに見える風景写真を撮影した作品で構成される、寺田真由美の個展。

灯りのない部屋には大きな窓が穿たれいて、そこから空を望むことができる。低く位置する水平線ないし地平線。そのやや上方に雲間から太陽が覗いている。空を覆う雲の凹凸や厚痩が、陽光と相俟って複雑な表情をつくる。それぞれの室内に姿は無いものの、窓辺の開かれた本、床に置かれた靴、椅子にかけられたシャツなどが人の存在を窺わせる。

作品を通して、すなわち作者に促されて、鑑賞者は(作者とともに、作者の見つめた)空を見つめることになる。空を見るとは、空から見られることである。

 見えるものがわたしを満たし、わたしを占有しうるのは、それを見ているわたしが無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見るものとしてのわたしもまた見えるものだからにほかならない。一つ一つの色や音、肌ざわり、現在と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれから一種の巻きつき(enroulement)ないし重複(redoublement)によって出現してきたもので、それらと根底では同質だと感ずることであり、かれが自分に立ち返った見えるものそのものであり、その引きかえに見えるものがかれの眼にとってかれの写しないしかれの肉の延長のごときものとなることなのである。

 ここでわれわれは、自分が見ているものを「おのれの見る能力の裏面」として認めている。その意味で、わたしの身体と世界はおなじ〈肉〉でできているといわれるわけであり、両者が越境と跨ぎ越しの関係といわれるわけである。あるいはまた、わたし自身の可視性が見えるものすべてにまで延長されてゆくこのような出来事を、あらゆる視覚のもつ根源的な〈ナルシシスム〉であると規定している。こうした反転、自分を見つめる自分を見るナルシシスムは、〈鏡〉の現象としても規定される。「肉とは鏡の現象であり、鏡とはわたしの身体にたいするわたしの関係の拡張なのである」、と。
 見る身体と見られる身体、触れる身体と触れられる身体へと切開され、さらに重ねあわされ、反転させられるこのプロセスを、メルロ=ポンティは「裂開」(déhiscence)とよんでいる。このような裂開のなかで、われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである。とすれば、見るのはわれわれ主体だけではない。すべての見られるものはまた見るものでもあることになる。(鷲田清一メルロ=ポンティ 可逆性』講談社現代思想冒険者たち Select〕/2003年/p.271-272)

本展のタイトルを敢えて中国語として読めば、「天视。(Tiān shì.)」となる。「天」が太陽や造物主を含意するため、「太陽や造物主が見る」ということ、換言すれば、「お天道様が見てる」となる。現代の社会に欠落しているのはこの「お天道様が見てる」という感覚だ。例えば、東浩紀が指摘していた現代における「文学的想像力」の欠如(2019年1月13日のtwitter)も、その類であろう。

ところで、寺田の作品は、空を撮影した写真を呈示するのではなく、空を撮影した写真を部屋の模型越しに撮影することで呈示している。鑑賞者は空の写真ではなく、空の写真の写真を見ていることになる。

 絵に描いた餅は、詐欺に似ている。
 画餅は「何の役にも立たないもの」「何の値打ちもないもの」の代名詞である。強盗や殺人と違って、詐欺がきわめて矮小な犯罪として貶められていることに、画餅はいわば対応しているといっていい。
 実際、画餅は真実とすれば詐欺にほかならない。本物そっくりの餅が餅そのもよりも面白いのは、人間がいわば詐欺を楽しむ存在だからである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.534)

「写真に撮った写真は、詐欺に似ている」とパラフレーズできるだろう。「本物そっくりの餅」とは、寺田の「空の写真の写真」であり、餅とは「空の写真」である。そして、「空の写真の写真が空の写真よりも面白いのは、人間がいわば詐欺を楽しむ存在だから」である。なお、人間が詐欺を楽しむようなった始原は、視覚にある。

 詐欺は視覚の成立とともに始まったのだ。
 なぜ視覚か。むろん、触覚で騙すこともありえないことではないだろうが、ほとんど無意味に近いといっていい。騙すも騙さないもない、決断即行動、行動即結果で、触れた段階で事は終わっているからである。それに比べれば聴覚ははるかに騙すといっていい。たとえば擬音が端的な例だ。
 だが、視覚にいたっては、まるで他者を騙すために発達したのではないかと思われるほどなのでる。〔『眼の誕生』でアンドリュー・〕パーカーは眼の誕生とともに世界に光が満ち、生命が互いに騙し合いをはじめることによって生物種の多様性が一挙に気高まったさまを見事に描いているが、これは我々の視覚を手がかりにしてもたやすく想像できることだ。植物さえも動物に向って装いはじめたのである。むろん意識的にはじめたわけではない。装いに失敗した種が次々に淘汰されていっただけの話なのだが、遠くから見れば、あたかも生命が意志を持って装いはじめたように見えるのである。意味を見出すには遠目に見るに如くはない。目を細めるだけでも世界は違って見えてくる。
 (略)
 他者の身になることを知らなければ嘘はつけない。そして他者の身になるためには、自分たちの全体を眺めわたすだけの俯瞰する眼がなければならないのである。俯瞰したうえで他者の身になるという能力は、捕食活動においても、その捕食から逃れる活動にとっても必須であったに違いない。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.331-333。〔 〕内は引用者補記。)

視覚の誕生に伴い、生命は詐欺行為を働くようになった。言語に頼らずとも、世界は既に分節化されていた。「意味」が存在していた。だが、言語は人間の世界の分節化を補強する。「現実とは人間にとっては言語のことなのだ」(三浦・前掲書p.334-335)。

〔「もし画は実にあらずといはば、万法みな実にあらず。万法みな実にあらずば、仏法も実にあらず。仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし」という『正法眼蔵』の一節で〕餅という言葉ではなく、餅の絵をもってきたところに、井筒〔俊彦〕や丸山〔圭三郎〕を凌ぐ道元の凄みがある、と私は思う。概念は言語以前にあって言語を浮かべている。餅の概念は鼠にとっては食うという行為そのものとしてあるが、人間にとっては観念としてある。観念としてあることによって、人間は食うことを我慢する。あるいは、我慢することによって餅という観念、つまり概念を得たのである。それが人間をして鼠よりも優位に生きさせている当のものなのだ。ヘーゲルが『精神現象学』冒頭で述べていることである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.532。〔 〕内は引用者補記。)

寺田の模型に置かれた、開かれた本や椅子にかけたシャツは、不在の人物を暗示する。不在という認識は、観念として対象の存在をとらえることの裏返しである。「可視性」の「延長」、すなわち「わたしの関係の拡張」は、不可視の存在へも及ぼされているのだ。たとえ「お天道様」が見えなくとも、常に「お天道様が見てる」のである。寺田が作品を通じて訴えるのは、天視(=Another Angle)の遍在性である。