可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 ミノリ個展『リトル・ヴォイス』

展覧会『ミノリ初個展「リトル・ヴォイス」』を鑑賞しての備忘録
biscuit galleryにて、2021年5月27日~6月13日。

ミノリの絵画展。

《You and I》には、水溜まりに入って水を飲もうと首を伸ばす馬と、その背に跨がる人物が手前に描かれ、奥には養生シートが張られた建設(解体?)工事現場の足場が立っている。人、馬、足場と養生シートはクリーム色で表され、空の白っぽい水色、樹木や草地の白っぽい緑、さらに画面全体を覆う縦3本・横3本の格子の白と、画面は淡い色でまとめられている。
工事現場に組まれた足場に張られた養生シートによって覆われた建築物を描く作家としては、西川茂が知られる。西川は、絶え間なく繰り返される都市景観の変容を映し出すスクリーンとして、とりわけ養生シートに着目する。中原中也が、建築中の建物を「僕の家ではないけれど」と突き放しつつ、「春風に、散って名残」をとどめることのない「鉋の音」を愛惜の念をもって詩編に定着させたように、西川は忘却される過去と景観を更新する未来との鬩ぎ合いを画面に定着させてきた。

はるかぜ

 

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   空は曇ってはなぐもり、
   風のすこしく荒い日に。

 

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   部屋にいるのは憂鬱で、
   出掛けるあてもみつからぬ。

 

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
   鉋の音は春風に、
   散って名残はとめませぬ。

 

   風吹く今日の春の日に、
   あゝ、家が建つ家が建つ。

中原中也中原中也全詩集』角川学芸出版〔角川文庫〕/2007年/p.319-320)

それに対し、ミノリは、「何かが起きる前後で立ち現れる」養生シートの「中では点と線によって小さな物語が展開されてい」ると想像を逞しくし、足場の形作るグリッドに「“言葉”が生まれる時」を見ている。本展で配布されたリーフレットでは、輪郭をもたない短い線の集まりと、足場と養生シートで囲まれたりんごとを並べて提示することで絵解きする。

足場とそこに張られた養生シートは、《You and I》の他、その馬と人物のいない場面を描く《if you listen closely》などに、足場を象徴するグリッドは、複数の少女たちと樹木や花々を描いた《紡がれるストーリー》、洋館に雪が降る《白となる》など多数の作品に描かれている。グリッドは空間認識のための手法でもあり、差異を際立たせる。そして、「記号と記号との側面的な関係」を暗示するものとも言える。

 『シーニュ』におさめられたなかでもっとも長い論文「間接的言語と沈黙の声」を、メルロ=ポンティはこう書きだしている。「われわれがソシュールから学んだのは、記号というものが、1つずつではなにごとも意味せず、それらはいずれも、ある意味を表現するというよりも、その記号自体と他の諸記号とのあいだの、意味の隔たりを示しているということである」。
 メルロ=ポンティがそこからソシュール言語学のなかに入ってゆく入り口というのは、意味作用は、記号と記号との横の「隔たり」、つまり対象的な意味との関係ではなく記号間のディアクリティック(弁別的)な差異の関係のなかで生まれるという指摘である。ソシュール言語学へのこのような入射角は、『行動の構造』において〈横〉の現象としての、そして〈全体〉の現象としてのゲシュタルトの学説に注目したことと呼応している。そこで記号がもし、そのように「記号と記号との側面的な関係」のなかで、シニフィアン(意味する記号)になるのだとすれば、意味は、「さまざまな語の交差点に、いわばそれらの中間にのみあらわれる」ということになる。メルロ=ポンティはそして、「われわれが所有するのではなく、われわれを所有しているような言葉と思考」が問題になるのだとすらいう。(鷲田清一現代思想冒険者たち Select メルロ=ポンティ 可逆性』講談社/2003年/p.208)

2人の人物の乗る手漕ぎボートが水面に浮かぶ《untitled》においては、グリッドの縦の線がボートを2つに断ち切っている。ボートと切断とは、浮世絵の影響が指摘されるクロード・モネの《舟遊び》などを連想させるのみならず、言語(=グリッド)による世界の切り分けが強く示されている。

グリッドの描かれていない作品に、《ゆうれいのゆうれい》という作品がある。三つ編みの少女が手を両手の前にして幽霊の振りをしている姿を描いたものだ。幽霊の振りをしている少女が2人なのか、それとも少女と幽霊なのか。影が1つしか表されていないことからすると後者であろうか。いずれにせよ、この作品は、「真似る」あるいは「相手の身になる」という、「読む」行為、すなわち言語現象の原型を描いたものと見ることが可能である。

人は表情を読むようになった。いいかえれば、人は表情という次元を持つようになった。表情を文化にしたのである。そしてそれは自分もまた同じ表情をしてみることによってなされたのであり、それが相手の身になるということの実質なのである。表情という次元が成立するやいなや、表情をもつものが人間だけではないことが明らかになる。空も海も山も木も、表情をもつ。人は、空や海や山や木を、真似ることができるようになった。
 視覚の上に言語の基礎が形づくられたことは疑いようがない。見ることは読むことである。読むことが決断の前提なのだ。読むことは対象の意思を測ることであり、意思を測ることは対象に身を移すことである。
 (略)
 繰り返すが、生命現象がすでに文法のかたちを成しているのである。受身という文法用語ひとつに明らかなように、言語の文法はこの生命の文法の対象化にすぎない。
 この対象化のために一種の突然変異が必要だったというのがチョムスキーの考え方である。人類の祖先は数百万年前にさかのぼるが、現生人類の起源は16万年前、言語の起源は――私には現生人類の起源に等しいと思われるが――一般によくいわれるのは6万年前。チンパンジーと人類の違いはわずかだが、そのわずかな違いの実質をなす言語という現象が発生するには、突然変異が必要だった、というのだ。
 これは、思うに、突然変異によるそのちょっとした配線の違いが、世界の全体を文字に変えてしまったというようなことである。言語が視覚の次元において生起したということは、それはまず声ではなく、読み取られるべき文字のようなものとして登場したということだ。読み取るために合う背後に構造が想定されなければならない。その構造が声を聴くことをも可能にしたのだと思われる。
 いずれにせよ、人の表情どころではない、世界の全体が不断に読まれなければならないものに変わってしまった。人はそこに、何ものかの意思を読み取らなければならなくなってしまったのである。この事態は、おそらく、驚愕すべきこととして訪れたに違いない。恐怖、安堵、歓喜、悲哀、要するにあらゆる生命感情が、従来の動物の数倍、数十倍になって押し寄せてきたに違いない。何よりもまず、不安が人を支配し始めたと想像することができる。世界は分からないことだらけなのだ。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.419-421)