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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大渕花波個展『おばけのプラクティス』

展覧会『大渕花波個展「おばけのプラクティス」』を鑑賞しての備忘録
Gallery b. Tokyoにて、2020年10月12日~17日。

展覧会では、多くの場合、絵画は額装された状態で展示されるが、図録に収録される図版などでは額縁の存在は当然のごとく消去される。そのような扱いを受けている額縁を「おばけ」に擬え、額縁と絵画との関係を探究する大渕花波の個展。切り詰められて長方形状になった額縁の周囲を穴の開けられた絵画が囲う「おばけのプラクティス」、額と綿布に描かれた額の絵とがカギ括弧のように組み合わされた「おばけのブランケット」、切り詰められた額縁の固まりの周囲に額縁を描いた絵画を設置した「おばけのパーフェクション」、彩色された木製の台座の上に額縁の断片が載る「おばけのケイオス」という4つのシリーズで構成。

「おばけのプラクティス」シリーズは、切り詰められて長方形状になった「額縁」が設置され、その「額縁」のために穴の開けられた綿布に描かれた「絵画」。ミッフィーがシーツを被っておばけになったように、「額縁」は綿布の中に入り込んで「おばけ」となるのだろうか。なお、画布の縁に取り付けられたハトメに釘が打たれることで画面は固定されている。ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の《真珠の耳飾りの少女(Meisje met de parel)》の少女の顔に焦点を合わせた《おばけのプラクティス #8》、レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt van Rijn)の《夜警(De Nachtwacht)》の中央の人物群を切り取った《おばけのプラクティス #21》、ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)の《オフィーリア(Ophelia)》のオフィーリアの上半身を描いた《おばけのプラクティス #20》、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour)の《ダイヤのエースを持ついかさま師(Le Tricheur à l'as de carreau)》の中央の2人の女性の顔をクローズアップした《おばけのプラクティス #7》など、歴史的な名作の中から主要なモティーフが抽出されている。メイン・ヴィジュアルに採用されている《おばけのプラクティス #8》なら、青ターバンを巻いた少女の顔の左半分に穴が開けられて、「額縁」が鎮座している。しかも大粒の真珠(なお、フェルメールの描いた模造真珠の可能性が高いという。山田篤美『真珠の世界史 富と野望の五千年』中央公論新社中公新書〕/2013年/p.101-102)は視線を額縁だけに集中させるためか周到に取り除かれている。一見して「なんだ、これは!」と、観る者を岡本太郎と化してしまう。「画面の中に額縁があってもいいじゃないか!」どころか、ここでは額縁を見せるためにこそ絵画が存在するのだ。額縁という入れ物と画布という内容の主客が反転するという点では、赤瀬川原平の《宇宙の缶詰》に通じるものがある。額縁が切り詰められて4つの部分から成る直方体へと凝縮し、額装すべき平面(空間?)を無に帰せしめている点では、「梱包」作用として無限大の力を想像できないではない。しかしながら、額縁は《宇宙の缶詰》のカニ缶のように裏返されて組み合わされてはいない。全てを額装しようというのではない。何も額装しない意図をこそ明確にすることで、額縁自体が作品(内容)であることを宣言するのだ。そして、名画のモティーフを借用することで、《真珠の耳飾りの少女》の《おばけのプラクティス #8》なら目や真珠だけでなく「世界の起源」(女陰。接着剤の透明な液だれが愛液まで連想させる)を、《夜警》の《おばけのプラクティス #21》なら襟飾りだけでなく銃器や装甲を、《オフィーリア》の《おばけのプラクティス #20》なら刺繍だけでなく棺を、《ダイヤのエースを持ついかさま師》なら酒瓶だけでなく口を噤む動作や宝箱を、「額縁」に見出すことができる。