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芸術鑑賞の備忘録

映画『博士と狂人』

映画『博士と狂人』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のイギリス・アイルランド・フランス・アイスランド合作映画。124分。
監督は、P・B・シェムラン(P. B. Shemran)。
原作は、サイモン・ウィンチェスター(Simon Winchester)の『博士と狂人:世界最高の辞書OEDの誕生秘話(The Professor and the Madman: A Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary)』。
脚本は、トッド・コマーニキ(Todd Komarnicki)とP・B・シェムラン(P. B. Shemran)。
撮影は、キャスパー・タクセン(Kasper Tuxen)。
編集は、ディノ・ヨンサーテル(Dino Jonsater)。
原題は、"The Professor and the Madman"。

 

1872年。ロンドン。収監されていたウィリアム・チェスター・マイナー博士(Sean Penn)が法廷に勾引されていく。ジョージ・メレット(Shane Noone)殺害事件の審理が行われるのだ。マイナー博士はかつてアメリカ陸軍の軍医だったが、左頬に焼き印のある男に命を狙われてイングランドに渡る。ある晩部屋に自分を付け狙う男が侵入していることに気が付き、拳銃を手に追跡する。自宅に逃げ込もうとした男を、出迎えた妻のイライザ(Natalie Dormer)の目の前で撃ち殺すが、人違いであった。陪審員(David Heap)は精神異常により無罪であると判断し、それを受けて裁判長(Bosco Hogan)は保護処分の判決を下す。マイナー博士はブロードムアにある精神病院に収容されることになった。独居房に入ったマイナー博士は最初の三日間は一睡もできなかった。左頬の焼き印のある男の襲撃を相変わらず恐れていたのだ。院長のリチャード・ブライアン博士(Stephen Dillane)は地位も学識もある男の症例に興味を抱き、身体的特徴や行動を詳細に記録していった。ある日、施設内で収容者を移動させている最中、昇降式の鉄製の門扉が落下し、不運にも刑務官の脚に刺さってしまった。刑務官のマンシー(Eddie Marsan)らが門扉を引き上げるが脚から抜くことができない。マイナー博士は自分のベルトを取り出して止血を図った上で、マンシーに最寄りの外科医や鍛冶屋を尋ねる。遠距離だと知ると、鋸を持ってこさせる。マイナー博士は果断に切断の処置を成功させる。この一件の後、マンシーやコールマン(Sean Duggan)ら刑務官はマイナー博士に敬意をもって接するようになった。
ロンドン郊外のミルヒル。ジェームズ・マレー(Mel Gibson)が妻のエイダ(Jennifer Ehle)とともに学生たちが興じるホッケーを観戦している。選手である息子のハロルド(Robert McCormack)を呼び寄せて指示を出す。狙い通りハロルドは得点するが、暴言を吐いて退場となる。
オックスフォード。オックスフォード大学の図書館で、英語辞典の編纂者候補に対する面接試験が行われている。14歳で学業を終えた後は独学してきたと主張するジェームズ・マレー(Mel Gibson)に対し、オックスフォード大学出版局の面々は苦笑する。だがマレーの能力を買うフレデリック・ジェームズ・ファーニヴァル(Steve Coogan)は、これまで20年間に渡り錚々たる学者の面々が編纂に当たりながら成功していないことを指摘し、アカデミックのお歴々とは異なったマレーの力が必要だと訴える。マックス・ミュラー(Lars Brygmann)から学位に代わるような資格は無いのかと尋ねられたマレーは、アーリア語族、シリア・アラビア語族の言語の一般的な知識を有し、ロマンス諸語のうちイタリア語、フランス語、カタルーニャ語スペイン語ラテン語には詳しく、チュートン語派ではオランダ語を身につけているなどと淀みなく答える。"clever"の定義や語源を尋ねられたマレーは、「賢い」、「巧みな」、「ずる賢い」などの語義を列挙した上で、「切れ味がいい」を意味するドイツ語やオランダ語に由来すると即答する。晩餐の席でも議論は続いた。ミュラーによれば、大英帝国の版図は世界に跨がっており、現在頂点を極める英語は今後衰退していくこと必定、従って現在の典雅な英語を規範として採録すべきだという。ファーニヴァルは古語や死語、外来語も含め、あらゆる言葉を見出し語に採用し、文献から用例を収録して語義の変遷を辿ることのできる辞書こそ編纂する意義があると説く。だが、そんな大それた企ては可能なのか。マレーはナプキンにソースでボランティアを募る文面を描いて回覧させる。英語を話す世界中の人たちに自分の使っている言葉を記録したカードを送ってもらうというアイデアであった。
マレーは妻にオックスフォード大学出版局が刊行する英語大事典の編纂者になったと告げる。せっかく築いた安定した生活を擲つ必要があるの? これまでの研鑽を活かせる畢生の大事業なんだ。これまで通り私を支えてくれないか。決めたのならやり遂げてください。子供たちが2人のもとにやって来る。辞書を作ることになったんだ。辞書って何? 言葉の意味が説明されている本だよ。マレーは沢山の本を積み上げてみせる。これまでにない大きな辞書なんだ。happyもある? もちろん、sadも載っているよ。

 

アカデミズムから離れた場所にいながら『オックスフォード英語大辞典(OED)』編纂を担当することになったジェームズ・マレー(Mel Gibson)と、彼の協力者で精神病院に収容されていたウィリアム・チェスター・マイナー博士(Sean Penn)という2人の人物とその交流に焦点を当てた、OED誕生秘話。
ジェームズ・マレー(1837-1915)が独学でヨーロッパを中心とする諸言語に通じていたことに驚嘆する。彼のようにアカデミズムに属さない人物が業績を残したという点で、日本においては植物分類学者の牧野富太郎(1862-1957)が匹敵するだろうか(アカデミズムの人間に敵愾心を抱かれてしまう点でも似ている)。マレーの場合、スコットランド出身ということも気に入られなかった理由であることが劇中で示される。
南北戦争での体験がウィリアム・チェスター・マイナー博士の精神に異常を来した。また、精神病院の「治療」が病状を悪化させた。戦争と精神病院とによる人間の破壊。
文献の探索、カードの整理、早くからの補遺の計画など、大部の辞書の編纂事業の過程が面白い。
approveの17~18世紀の用例がない(まだaの途中なのに編纂が進まない!)とか、artの持つ多岐にわたる語義をどのようにまとめるかといった辞書編纂の悩みをもっと堪能させて欲しかった(例えば発音の採録など)。
ジョン・ミルトン(John Milton)の『失楽園(Paradise Lost)』やチャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)の『大いなる遺産(Great Expectations)』など英文学に精通しているともっと楽しめそう。
かつて原作は読んだことがあったが、幸か不幸か初めて接するように映画を味わうことができた(原作の内容をほぼ忘れてしまっていた)。
マレーの妻エイダ(Jennifer Ehle)の首が強調された映像が多かったように思うが、どのような意図があったのだろうか。