可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 権瓶千尋・森岡美樹二人展『声になるまえ』

展覧会『OPEN SITE 5 [Part 1] 権瓶千尋森岡美樹「声になるまえ」』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷〔スペースA〕にて、2020年11月21~12月20日

権瓶千尋森岡美樹の二人が「言葉以前のかたち」を模索する企画。共作のドローイング3点と映像作品1点、権瓶千尋の映像作品2点(《How does your body feel?》と《わたしが服をつくるとき》)と映像作品に登場する服《わたしではない女性のためのわたしの服》、森岡美樹の立体作品2点(《床を敷く》と《自閉する机》)と立体作品に関連した水彩画《自閉する机》の計10点で構成。

共作の表題作《声になるまえ》は、言葉によらないイメージの共有などテーマとした映像を中心に据えつつ、スマートスピーカーの反応を一部組み合わせている。ディスプレイの前にはスピーカーが2台置かれ、1台は鑑賞者用、もう1台がスマートスピーカー用となっている。例えば、「Alexa、あなたは誰?」という質問が発されると、スマートスピーカーが「あなたの声に反応して、音楽を再生したり、質問に答えたり……」のように反応する。「なんで喋れるの?」といった一般的な問いに「声帯を振動させることで……」などと即答するだけでなく、「好きな色は?」に「トルコブルー」、「好きな画家は?」に「草間彌生」などと瞬時に切り返す。他方、「『言葉以前のかたち』ってあると思う?」という問いには「うまく答えられません、ごめんなさい」と素直に降参する謙虚さも備えている。
映像は、友人が何を紙に描いたかを見ずに当てて欲しいと頼まれた、幼い日の記憶から説き起こされる。何を答えたかではなく、答えられなかった無念だけが心に焼き付いている。言葉にすると失われてしまう「ナイーヴな譫言」。言葉に頼らず、離れて(τῆλε)いながら相手に触れる(πάθος)こと(=テレパシー)への切ない希求。"telepathy"という言葉を発案したフレデリック・マイヤーズ(Frederick Myers)は恋人の死をきっかけに死者との交信を探ることに夢中になった。だが語る必要のないことまで言葉にしようとしてしまったのではないか。続いて、ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint)という神秘主義者の画家(神秘思想家のルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)は彼女のチャネリングによる制作手法を気に入らなかったとか)が取り上げられる。第三波フェミニズムの最中のロンドンで偶然目にした《The Ten Largest》の衝撃。アフ・クリントが精霊からまだ存在することのない寺院の装飾を依頼されて制作した高さ3mのテンペラ画。その表面に現れた皺や罅を皮膚を見て、その下に血管や筋肉を感じた。そのような言葉にすることでは消え去るもの。けっして記述されることのない「ナイーヴな譫言」。それをいかに伝えるか。

「言葉以前のかたち」あるいは「ナイーヴな譫言」を探究する作家たちが、フレデリック・マイヤーズが定義を書き換え、愛をもテレパシーであるとしたことに得心がいかないのは尤もだ。だが、フレデリック・マイヤーズが本質的にはロマン主義の詩人であることを思えば、言葉への希求はやむを得ないと言えようか。

 マイヤーズは実際に、ワーズワース詩学における想像力の理論と、自分の潜在意識とテレパシーに関する理論を結びつけている。ワーズワースの主著『序曲』第6巻には、想像力が魂の最奥部から流出する場面があるが、マイヤーズはその場面が潜在意識と顕在意識との関係を詩的に表現したものであると指摘している。潜在意識のレヴェルにおいて人は、互いに共感し感応しあうことができるのである。ワーズワースが想像力によって、人間と人間が精神的に交感するだけでなく、人間と自然との交感が可能になると確信していたように、マイヤーズはテレパシーによって潜在意識と顕在意識の交感が成立すると考えていた。したがって、テレパシーとは単に以心伝心の現象というだけでなく、人間全体の精神的な交換を可能にする霊的原理であるということになる。
 マイヤーズは、心霊現象だけでなく、宗教や芸術などの本質についても潜在意識とテレパシーによって説明しようとしている。潜在意識の世界に入ることは他者との共感関係に入ることを意味しており、伝統的な言葉でいえば「愛」という現象にも関係する。マイヤーズの場合にはキリスト教的な愛というより、実際にプラトンの『饗宴』を引用してるように、ディオティマが定義しようとした絶対美につながる内容となっている。マイヤーズの念頭にあったのは自殺したアニーの霊との交信であり、「愛は、高貴な、しかし特定はされていないテレパシーである。すなわち、愛と霊の相互の引力あるいは血縁関係のもっとも単純で普遍的な表現である」と述べているように、その可能性はテレパシーによって開かれると考えたのである。(吉村正和『心霊の文化史 スピリチュアルな英国近代』河出書房〔河出ブックス009〕/2010年/p.167-168)

本展タイトル(及び表題作)に「声を発するまえ」ではなく、「声になるまえ」という表現が採用されている点に着目したい。「私が声を発する」という主客関係の成立前の状況を指し示すと考えられる。すなわち、(声というものが生じるという)出来事が起こされる過程を捉える中動態の表現になっているのだ。

 われわれは、「表現」成立の基盤に、自分の身体において自分の身体の状態(姿勢)を非対象的に・非措定的に関知する中動態のはたらきを見る。外的世界も、他者のありようも、自分の身体において、自分の身体の状態として(そこに不可分に映し出されて)、感じられる。「思える」は、ここに見てとられる非対象的・非措定的自己関与だと考えてよいだろう。表現(表現行為およびその理解)が、そもそも、それぞれの自分の身体をいちいち経由して成立する以上、表現をメッセージとコードに単純化することはできない。すなわち、対象として措定されたものごとや意味それ自体から出発し、それを客観的規則に従って聴覚的ないし視覚的記号およびその組み合わせ(それは事態の客観的で論理的な」把握に対応する)に変換する、あるいはその逆を辿って記号からものごとやその意味をそのまま復元する、というような外部操作に還元することはできない。表現はそれに与るそれぞれの、内側からの「~と思える」を組み込むかたちで、考察され、育てられなければならない。それは当然、それぞれにとっての自分の身体のはたらきを尊重すること、はらきつつある身体において対象化以前に内側から中動的に体験される何かに敏感になることでもある。単なる意識ではなく、身体まるごとの人間にとってしか、本来の意味での表現は存在しない。
 芸術における「表現」は、意味がすでにあることをかならずしも前提しない。すでにある規則に従っていればいいというのでもない。芸術においては、世界と関わる行為のなかから見たり聞いたり触れたりできるものが形づくられ、見たり聞いたり触れたりできるものと意味的なものが不可分に生成する。その生成の出来事に、人はつくるにしろ見る(聞く、触れる)にしろ、身体を通じて巻き込まれ、自身も変化していく。言語芸術による表現も例外ではない。確かに、言語は社会的に成立した記号体系(ラング)であり、その規則に従うことが人々に要求される。しかし例えば意味生成の記号学をとなえるジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva)が、ル・サンボリック(le symbolique 記号象徴態=記号体系)の手前あるいは外部に、ル・セミオティク(le sémiotique)というそれを揺さぶるはたらきを想定し、そのはたらきが詩的言語におけるリズムや抑揚としてあらわれて既存の記号体系に収まらない意味を生成させると考えたように、言語の規則にのらない要素、言語規則をずらすやり方から、言語によって文字通り直接指示された(=措定された)のではない意味が生じる。そのような、例えばリズムや抑揚(音であり響きであり振動でもある……)とともに生成しつつある意味は、リズムや抑揚だけでなくそれを生む身体のあり方全体に呼応し身体に於いて非対象的・非措定的に感じられるだろう。芸術においては、「~と思える」が成立してはじめて、「~と思える」とともに、意味(や世界)が成立する。メルロ=ポンティが「あられ」について語ったように、言語による表現一般もまた、このような出来事にまで引き戻してとらえる必要があるだろう。(森田亜紀「『思える』の中動態と表現――体性感覚・自己受容[固有]感覚を足掛かりにして」渡辺哲男・勢力尚雅・山名淳・柴山英樹編著『言葉とアートをつなぐ教育思想』晃洋書房/2019年/p.150-151)

テレパシーや霊的交信は、「声になるまえ」、すなわち「表現によって表現されることになるもの」がどのように生成されるか(いかに未来を生成するか)を摑む方途の比喩と捉えることができるだろう。

或る時点で成立した判断は、自ら過去に遡っていく。現在が過去をつくる。そしてその過去は過去にとっての未来である現在を準備していたものと捉えられる。表現以前に表現されるものはないが、表現は表現によって表現されることになるものを表現することでしかない。メルロ=ポンティベルグソンの言う「真なるものの遡行運動」に、「表現」をめぐって「過去と現在」「物質と精神」という各々対立し合う二項が互いに立場を交換し、互いに依存し合う関係を見る。もつれ合う二項のうちの一方を、他方に還元することはできない。もつれはもつれのまま、それ自身で根源的な事態である。言い換えると、ベルグソンが絶えざる変化を重視して、同じでありつづけるものを否定したのに対し、メルロ=ポンティは変化するということと、同じであるということとを、ともに肯定する。彼はむしろそのことから、大文字の「存在」を考えていく。彼の探究する大文字の「存在」は、対立する二項のもつれをとおして気づかれるものと考えられている。「表現によって知る」ということ、「ああ、そうだったのだ」ということばが指し示すそのじたいは、メルロ=ポンティにとって、「真理」や大文字の「存在」を垣間見ることのできる特権的な交差の場なのである。(森田亜紀『芸術の中動態 受容/制作の基層』萌書房/2013年/p.219)