映画『ミセス・ノイズィ』を鑑賞しての備忘録
2019年製作の日本映画。106分。
監督は、天野千尋。
脚本は、天野千尋と松枝佳紀。
脚本監修は、加藤正人。
撮影監督は、田中一成。
編集は、榎木絵理。
『種と果実』が文学賞に輝き、華々しく文壇デビューを飾った「水沢玲」こと吉岡真紀(篠原ゆき子)。音楽家の夫・裕一(長尾卓磨)との間に待望の娘が誕生した。もう書き始めたのか。少しずつ書きためてるの。子育ても、書くことも、両立させたいから。
6年後、一家は郊外のアパートに引っ越した。真紀は出産後、思ったように執筆が進んでいなかった。静かな環境で心機一転、創作に取りかかるつもりだった。近所の方への挨拶だけはしっかりしておきなさいって母さん(洞口依子)から言われてるの。あ、俺、明日仕事入っちゃった。えっ、約束したでしょ、明日は菜子(新津ちせ)の面倒を見るって。スタジオの都合でさ、雇われの身で文句は言えないでしょ。荷物は菜子とやっておくからさ、今書いちゃいなよ。真紀は小説の締切に追われていた。仕事部屋に充てた自室で一人ラップトップに向かう。ようやく筆が走り始め、気が付くと朝6時。新居に慣れないのか菜子が起きて来て真紀にまとわりつく。まだ早いから寝てなさい。執筆を続けたい真紀がベッドに促す。そこへバンバンと大きな音がする。菜子がベランダに出て様子を覗うと、隣で布団を叩いているという。真紀がベランダに出ると、何かを口にしながら尋常ではない強さで布団を叩いている女性(大高洋子)がいた。すいません。猛烈な勢いで布団を叩いているので真紀の声が届かない。声を大きくする。すいません。まだ朝6時ですので。非常識じゃないですか。もう終わるからさ。やっと気が付いた女性は唖然とする真紀をよそにひとしきり布団を叩くと、部屋に戻っていった。真紀は憤懣やるかたない。
創作のために郊外に引っ越した小説家「水沢玲」こと吉岡真紀(篠原ゆき子)が、騒音を出す隣人若田美和子(大高洋子)に苦しめられる騒動の顚末を描く。
タイトルと篠原ゆき子主演ということ以外知らずに鑑賞。見逃さずに良かった出色の作品。
以下、作品の核心に触れる点がある。
真紀が振りかざす常識(あるいは非常識)という言葉。家事や子育てと仕事(作家業)を両立させ(ようとし)ている自分の行動原理は、社会通念(あるいは理)にかなっていると信じて疑わない。裕一から投げかけられる「自分のことばっかり」という言葉で、その常識(非常識)なるものが多分に自分本位の考え方であることが示される。とりわけ、真紀のとる行動を別の角度から(美和子の観点を加味して)映し出すことで、常識(非常識)という言葉の危うさ、グロテスクさが炙り出される。同様に、美和子が正しいと信じていることを貫こうとする姿勢の問題も示される。美和子の行動は、その背景が分からない人物にとっては容易には受け付けられない(美和子の行動をある程度許容できるのは息子を亡くして精神を病んだ美和子の連れ合いである茂夫について知悉している大家や一部の隣人である)。曲がっているだけで食べられるのに廃棄されるキュウリを美和子が救出して無料で配布しようとする件で示されている通り、彼女の理念には共鳴できるとしても、突然無料配布を求められた店主たちは戸惑わざるを得ない。そこで、美和子は自分の考えが受け入れられないことによって、自分(の考え)を守るためにも、周囲から理解されなくても構わないと、迫害されても信仰を貫こうとするセクトのように、頑なになる。このことが周囲との軋轢を高めてしまう。茂夫の飛び降りは、その摩擦の大きさに耐えきれなくなった状況を象徴する。
眼前の利益を手に入れようと刹那的な反応を繰り返す多田直哉(米本来輝)は、SNS時代のコミュニケーションの擬人化だ。彼の軽さを、滑走するスケートボードで強調している。
迷惑な人物が抱える事情を具体的に描き出し、問題となっている事象の背景にあるより根本にある問題を捕らえようとする監督の姿勢が素晴らしい。
篠原ゆき子、大高洋子、長尾卓磨、宮崎太一、新津ちせ、米本来輝ら主要キャストをはじめ俳優陣が、たとえ誇張された造形であるとしても、血の通ったキャラクターを生み出している。