可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 赤坂有芽個展『△と布置 constellation』

展覧会『赤坂有芽個展「△と布置 constellation」』を鑑賞しての備忘録
art speace kimura ASK?にて、2021年4月14日~30日。

秋田県内のある山に纏わる信仰などに触発されて制作されたアニメーションを核としたインスタレーションと、アニメーションのエスキースであるドローイング20点程度を展示。地下の別会場では、時間をテーマとした映像作品を紹介。

展示室の中央のスクリーンに投影されるアニメーションは、布を被った人が山となって現れる、神話的なテーマを描いている。真っ暗な画面の上から白い布が落ちてくる。布の中には子供が入っているように盛り上がり、サンダル(?)を履いた足が下からのぞいている。布が跳ねると、二つに分かれる。一方がまた二つに分かれ、他方が一方のうち別れたものの一つと重なるとまた別の一つが現れる。こうして、次々と増殖していき、白い布は連山のような形となる。目の部分だけ穴が開いた布を被った人(?)が右から歩いてきて、倒れる。白い山の連なりのような形の中に、うつ伏せに寝そべって足を動かす姿や、足を抱えて座る姿が見える。黒っぽいカーテンが白い布の山にかかっていく。頬杖を突く少女のような白い山。円環のようなものが蠢く。その蠢きは、蜥蜴になり、魚になり、鳥になる。あるいは、「少女」の瞳の中に鯨が浮かぶ。降ってくる雨粒が植物へと変じる。森のシルエットの向こうにカーテンがかかり、その奥の山である少女が欠伸をすると、カーテンが揺れる。
アニメーションを上映している暗い展示室の隅には、文章が記された白い布が5箇所、山状や台状に吊されたり掛けられたりして、ライトにより闇の中に浮かび上がっている。文章に関わる語りがスピーカーから流されている。秋田県にある鬼壁山は標高400mに満たない低い山である。その山を「トンケ山」と呼ぶ、ある村(但し、行政区域としての村は合併により無くなった)から見ると、とりわけ午前中には逆光でおむすび型のシルエットが浮かび上がるという。雨が降らないと山頂の祠に供え物をして飲み明かす雨乞いの儀式が行われた。

 山を見ると言うとき、ふつうわたしたちは、目をとめて山の様子を知るといった行為を想定する。ところが、原始的な心性においては、見ることは呪的な意味でもっと積極的な行為だったようだ。
 白川静氏は次のように言う。「古代においては『見る』という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである」。ここで「内的交渉」とは、「対象のもつ生命力と同化し、これを自己に吸収する」こと、すなわち「魂振り」だと言う。原始的な心性においては、自然現象は霊威によってなるものであり、自然物を見ることとは、相手の霊威を認めて、その霊力をわが身に取り込み、自らの生命力を高めることであった。
 それなら、先鋭的なものの先端、あるいは自然界には稀な抽象図形のような明快な形態にわたしたちがおのずと注目してしまう、おのずと目が向く、目を引かれるという状況は、原始的な心性においてはどのような意味をもつのだろうか。
 この場合、本来こちら側で制御するはずの見るという行為を制御できないということだから、対象の側の強い力をそこに認めることになる。ここに、目が引きつけられるという状況には、相手側の強力な霊威、つまり神概念を介在させる理由が生まれる。わたしたちが自発的に見るのではなく、神の威力によって見させられるのだ。
 その意味で興味深い言葉がある。今日では使われることはない古語の「見がほし」である。たとえば、『万葉集』に二上山富山県高岡市北、標高259メートルの山のことだという)を詠んだ次のような長歌がある。

 ……出で立ちて 振り放け見れば 神柄や 許多貴き 山柄や 見が欲しからむ……(『万葉集』巻第17-3985)

大意は、(外に)出て立って、振り仰いで遠く見やると、神の格が高いためかとても尊く、山の品格がよいためか、(二上山は)たいへんに人を引きつける、というものである。
 ここで「見が欲し」は、「見たい。心ひかれて見たく思う」という意味である。なんということはなしに山に目を向けるというのではなく、見たいという強い情動が伴っている。その理由を山柄(山のもつ品格)のためだと言っているのである。この山柄がたとえばこんにち言うような山容の秀麗に等しいのかどうかはよくわからないけれども、いずれにせよ、わたしに見たいという思いを抱かせる力が、対象の側にあるというニュアンスを酌みとることができよう。

 ……東の國に 高山は 多にあれども 朋神の 貴き山の 竝み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ……(『万葉集』巻第3-382)

 この歌の大意は、東国に高い山は数々あるけれども、(筑波山)はふた柱の神の坐す尊い山が二つの峰としてならび立っていて、目を引く山だと神代から人々が言い伝えてきた、というもので、筑波山の神の威力と、鋭角的な二つの峰に目が引きつけられるという現象との関係が、よく表現されている。
 白川氏は、「見がほし」という衝動を「地霊の誘い」によるものだと述べている。
 古くは、先鋭なるもの、明瞭なかたちをなすものにおのずと目が向き、また見たいと思う心情が起こるのは、自分自身の側ではなく、そのような特徴を備えた対象の側の力の問題とみなした、ということだろう。
 さらに、神の坐す山岳が単に見えるということではなく、それがもっとも人目を引きつける力を発揮するように見える場所こそが、神を祭祀する根拠とみなされたということを、ここに、あらためて確認することができる。
 小著で扱った扱った山岳にかぎるなら、人目を引きつけるという力は、三輪山のように明瞭なかたち(破綻の少ない笠形)を呈するという形象もさることながら、三輪山も含めて、峰が尖鋭性を呈するという形象に見いだされていたと言うことができる。(齋藤潮『名山へのまなざし』講談社講談社現代新書〕/2006年/p.104-107)

鬼壁山がおむすび型に見える視座を有する村は、「神の坐す山岳が」「もっとも人目を引きつける力を発揮するように見える場所」であり、「神を祭祀する根拠」となっていたのだ。

作家は、「豊穣を願い感謝する気持ちは自然と祈りになる。祈らずにはいられない。そこに特定の教義や宗派はない。もっと素朴な、自分よりも大きな何かへの帰依の気持ち」を、「トンケ山」の村人から酌み取っている。それは、昭和11年頃、死者の魂を呼び戻そうとして屋根に上がって死者の名を叫んでいた人を見たという記憶を作家が採録して伝えている点にも表れている。非科学的だとして迷信として切り捨てることのできない、パフォーマンスの持つ力がある。ある意味では、80年以上を隔て、彼の叫び呼び戻そうとした魂が会場に姿を表したと言えなくもない。作家のメッセージを酌み取れば、垂れ下がった白い布は、魂の依代となるのだ。