可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 山ノ内陽介個展『深淵まで』

展覧会『myheirloom pre-open exhibition vol.2 山ノ内陽介「深淵まで」』を鑑賞しての備忘録
Room_412にて、2021年5月11日~23日

山ノ内陽介の絵画17点を紹介。顔(あるいは頭部)が画面であるかのように絵具を塗り重ねた肖像画のシリーズ、筆の運びで見せる抽象絵画のシリーズ、1度描いた絵画の表層を剥ぎ取って提示する「皮」のシリーズで構成。

出品作品中最大の無題作品は、首元から頭部を、紫とグレーとを基調に描いた肖像画。耳、首筋などの輪郭、そして鼻筋、鼻翼、左眉、左目、唇などにより顔のイメージが一瞬で伝わるが、それらは大雑把と言ってもいいほど大胆なストロークで表されており、その手練には舌を巻かざるを得ない。左頬から目にかけて、青とそれに重ねられる淡いピンクがのたうち回るような描線が入れられているのと、首を回り込み、左側面から右の顳顬に向けて伸びるエクトプラズムのような描線とその影が表されているのが、とりわけ印象的である。
《実験体Ⅰ》も頭部を描いた作品であり、首、顎、頬、耳を頭頂部といった輪郭線を表しつつ、目、鼻、口に当たる部分はピンクや紫の絵の具をうねるように塗りつけるのみ。
ヴェールを被った女性の顔を右前方から捉えた作品は、口輪筋や笑筋、広頚筋といった口の周辺の筋肉を表すかのような口附近の赤い絵具の描写がまず目を引く。続いて、縦に引き下ろされた5つの線と、右目のあたりと鼻から左頬にかけてに入れられた刷いた絵具によって、ヴェールを巧みに表現しているのに気が付く。右耳の辺りに配された黄色の絵具の厚塗りは、ヨハネス・フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》髣髴とさせるイヤリングの輝きを放つ、画面のハイライトとなっている。
《Flow》は、赤い服に青いマントの聖母が、腰掛け、右下を向いている。聖母の周囲を覆う、青い波のようなストロークによって、画面の中央に位置する胸のあたりの服の赤と上向きに掲げられた右の掌の白とが印象的。

筆のストロークが画面を飛び回るような抽象絵画のシリーズは、肖像画における線の表現を独立させて、筆運びの面白さを伝えようとしている作品。逆に、作家は、絵筆の動かし方にこそ興味があり、「肖像画」は、それを見せるための舞台装置なのかもしれない。

「皮」のシリーズは、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》など、西洋絵画の肖像をモティーフに、1度描いた絵画の表層を剥ぎ取ったものを平滑な画面に貼り付けた作品。罅のように入った微細な皺から空気が入り込んで襞になっている大きな皺まで、イメージそのものが膜であることを露悪的に訴えている。

 (略)妹メドゥーサの死を悼むその姉たちの悲嘆を模倣して、アテナは低い音程の笛を作ったが、しかしこの楽器を吹くと顔が醜く歪むので、それを呪って投げ捨ててしまった。この笛をたまたま拾ったプリギュアのサテュロスのひとりマルシュアスは、それを巧みに吹き鳴らすようになり、不遜にもアポロンに音楽の競技を挑むにいたった。勝者は敗者をどのように扱ってもよいとの約束で、ムーサを審判者に競技が行われたが、双方とも同じように見事な演奏を見せた。するとアポロンは、楽器をさかさまにしてして弾くことができるかとマルシュアスを挑発した。竪琴ではできても、笛ではできない相談である。そのため敗れたマルシュアスを、アポロンは松の木に縛って吊るし、全身の皮を剥いだ、という話である。
 (略)
 (略)ウィントは、先の書物〔引用者註:エドガー・ウィント『ルネサンスの異教秘儀』〕のなかで、「コンテストがマルシュアスの皮剥ぎに終わったとすれば、それは皮剥そのものがディオニュソス的祭儀であり、人間の表の醜さをを捨て去り、内なる美を顕わにする純化のための悲劇的試練であるからに他ならない」(田中・佐藤・加藤訳)と書いている。ここには、外と内、醜と美という概念軸がある。外=醜を排して内=美を顕わにするための必然的なプロセスとして、皮剥ぎが要請されるというわけである。
 しかし、いささか倫理的な自己浄化の物語として読むよりも、むしろこれを人間の芸術的創造のドラマのアレゴリーとして読むほうがおもしろいのではあるまいか。つまり、この皮剥ぎのミュトス(神話)は、みずからの皮膚を剥ぐ、自分の身を引き裂くこととしての新生=芸術創造の寓意として読めるだろうということである。
 (略)
 たとえば――そう、たとえばルチオ・フォンタナはナイフでキャンヴァスを切り裂いた。そのとき彼はアポロンに返事、画布はまぎれもなくマルシュアスの皮膚と化したのではあるまいか。単純な、あまりにも単純な行為によって、画家はたしかにひとつのミュトロギアに参与したのである。(谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2007年/p.144, p.152, p.183)

「皮」のシリーズは、自ら描いたイメージに対して、波線を描き加えるのではなく、実際に波を引き起こす実験を行っている。イメージと貼り付けられたキャンヴァスとの間に隙間を生んでいる点でも、画面に切れ込みを入れたルチオ・フォンタナとの共通性が認められる。しかし、作家は決して「深淵」にある美を覗き込もうとしているわけではない。それが証拠に、フォンタナと異なり、作家はキャンヴァスという基盤に留まっているのだ。「深淵まで」を「も」画布の表面にいかに表すか。それが作家の狙いであろう。

 ポール・ヴァレリーは、その「固定観念」(1932)のなかで、「人間において最も深いもの、それは皮膚である」と述べている。もとより、これはひとつの逆説である。これはヴァレリーなりの、「表面に、皺に、皮膚に敢然として踏みとどまること」の表明にほかなるまい。もっと端的に彼はこう続けている。「生はいかなる深さも要求しない。その逆である。」
 背後に、深みに「真理」を求めてはならない。それは無益なわざであろう。語の最も十全ないみにおいて感性的なもののレヴェルに「敢然として踏みとどまること」、そこにしか生の意味はない。そのような「意志」において、生ははじめて美たりうるだろう。ニーチェもいうように、「美的現象としてなら、われわれは生を依然として耐えることができる」のである。(谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2007年/p.258)