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芸術鑑賞の備忘録

映画『くれなずめ』

映画『くれなずめ』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の日本映画。96分。
監督・脚本は、松居大悟。
撮影は、高木風太
編集は、瀧田隆一。

 

スポットライトがパーテーションに円を描く。吉尾(成田凌)を挟むようにして、欽一(高良健吾)と明石(若葉竜也)が立つ位置を決めている。もうちょっと大きく出来ますか。スポットライトの円が広がり、位置取りが決まる。結婚式場に、披露宴の余興にダンスを行う高校時代の仲間が集まって、打ち合わせをしていた。新郎・新婦の位置から見えないと席の配置変更を水島(目次立樹)が訴えるが、余興なんてそんなものだろうと明石は取り合わない。曽川(浜野謙太)がかかってきた電話に上さんからだと出る。「ソース」が既婚者だったことに皆が驚く。吉尾は、余興のときだけ新郎・新婦に移動してもらえばいいと指摘して、問題はあっさり落着する。練習をどうするかとか、式場のスタッフ(飯豊まりえ)が高校時代の誰に似ているとかで盛り上がっていると、大成(藤原季節)が、式場に無理を言って入れてもらっているからと切り上げさせる。
カラオケ・ボックスに移動したメンバーは、大声で歌い踊る。もっと歌えたんだけどなあ。盛り上がっても、途中で息が上がってしまう。曽川がトイレに向かい用を済ませて手を洗っていると、明石が入ってきて用を足しながら尋ねる。小便してから手を洗うって、チンコが汚いってことだろ。チンコに失礼じゃないか。…でも、次にチンコを触るときのために洗ってるって考えもあるんじゃ…。明石は高校時代を思い出していた。余興のために集まったのは、12年前、高校の文化祭でコントを演じたメンバーだった。トイレに居合わせた際に、清掃委員をしていた帰宅部の吉尾をコントのメンバーに勧誘したのだ。変なカバンを背負ってた吉尾に屋上に来いって言ったら、珍しい流星群がどうのこうのって、頓珍漢なこと言ってたな。

 

結婚式の披露宴に、余興としてダンスを披露する高校時代の仲間が、5年ぶりに再会を果たし、旧交を温めている。だが、この5年の間に起きたある出来事が、それぞれの脳裡に去来して離れることが無い。披露宴が終わり、余興の失敗に打ち拉がれる面々。二次会までの3時間、周辺の喫茶店は他の出席者たちで満席で、時間を潰す場所もない。そもそも、どの面を下げて二次会に出ればいいのやら。宙ぶらりんの時間を彷徨する男達の物語。

 

以下、重要な設定や結末に関わる事柄についても触れる。


欽一(高良健吾)が主宰で、明石(若葉竜也)が役者をしている劇団の公演の際に、水島(=「ネジ」)(目次立樹)、曽川(=「ソース」)(浜野謙太)、大成(藤原季節)、そして吉尾(成田凌)が顔を揃えた。公演終了後、吉尾はすぐに仙台に戻る新幹線に乗るために立ち去った。明石は終電に間に合わなければ連絡しろと告げたが、5人で飲んでいた明石は吉尾の連絡に気が付かず、結局吉尾は夜行バスで仙台に戻った。半年後、吉尾は突然倒れ、帰らぬ人となった。
結婚式のために集まった5人とともに吉尾の姿がある。皆、吉尾がいなくなったことを認めていないのだ。
「くれなずめ」というタイトルは、「日が暮れそうでいて、なかなか暮れないでいる」を表す「暮れ泥む」という動詞の命令形だ。白黒付けることなく、中途半端な状態を維持しろ、ということを表す。死んでるとか生きてるとか、忘れるとか忘れないとか、どっちかに決めつける必要はないのではないか、というメッセージだ。
文化祭のステージに立つ松岡(城田優)の存在により、理科室でコントをする6人の「冴えなさ」が引き立つ。「冴えなさ」の共有こそ、6人の絆を強くしている。
ミキエ(前田敦子)に、吉尾が見えているのが嬉しい。そして、吉尾から「幸せになれよ」と声をかけられたミキエが、幸せだと言い返しに来るところが最高に良い。好きな相手に対しては、「自分がいなくても」という前提条件を付けて幸せになって欲しいという気持ちを抱いてしまうものかもしれないが、それは文字通りの独り善がりである。そもそも、その相手の世界に「自分」は存在しないのだから、何の影響も与えるものではない。
吉尾が仙台で働いているのは、演劇の世界への未練を断つためだ。仙台を訪れた欽一から出演を依頼された吉尾はきっぱりと断るが、芝居はお前に託したんだという言葉に、その思いが籠められている。
ベテランの演劇関係者から、欽一や明石のやっている喜劇について安い笑いをとっていると馬鹿にされ、政治について見解を質された明石が食って掛かるシーンがある。身近な出来事の中の喜怒哀楽を掬い取ろうとする本作の作家の姿が投映されているようだ。

 本〔引用者註:鈴木涼美『ニッポンのおじさん』〕の中で、戦争を他人事のように俯瞰して論を展開する優秀な学生に対して、著者は「人の死を悲劇やノスタルジーではなく、数字で把握できるその『アタマの良さ』はすなわち、死と隣り合わせになったことがない人間、身近な死によって自分自身が変容するという経験がない人間の所業だと私には思える」と指摘する。最近SNS上でも見られる、頭が良いとみなされる振る舞い、に違和感があった私は心救われた思いがした。
 それは若さゆえに「私情混入の回避を好む」ことを著者は指摘しているが、もはや近頃では若い人にかぎらず、アタマの良さに固執する人はたしかに私情混入を嫌悪しているようにさえ見えると私は思った。(島本理生「読書便り」『毎日新聞』2021年5月16日12面)

ここで言われる「私情」とは、ジョージ・オーウェルが手放さずに生き続けよと訴えたコモン・ディーセンシー(庶民に備わるまっとうな感覚)(川端康雄『ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌』岩波書店[岩波新書]/2020年/p.81-83)に連なる類であろうか。本作にも、その意味での「私情」への信頼が感じられる。
明石役が、映画『街の上で』(2019)に主演していた若葉竜也だということに、クロージングクレジットまで全く気が付かなかった。
生真面目な清掃委員の前田敦子が良い。吉尾を平手打ちするシーン、大成に声を掛けられて舞い上がるシーン、吉尾に告白されたシーン(そして戻るシーン)、余興を見てにこやかに貶すシーンの、いずれも素晴らしかった。
おでんの屋台の店主、最初は声だけで姿を見せないが、まさか滝藤賢一だったとは。あの演技と登場の仕方はずるい。
曽川の妻を演じた内田理央が美しくて、スーパーマーケットで目立っていた。(映画には関係ないが、彼女は自らの動画企画において、古書店で往年の雑誌『遊』などを物色し、蔵書票のカタログと横尾忠則の作品集を買い求めていた!)