可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『TOKAS-Emerging 2021 第2期』

展覧会『TOKAS-Emerging 2020 第2期』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2021年6月1日~20日。※当初日程は2020年5月15日~6月13日。

久木田茜「シンメトリーのひずみ」(1階)、GengoRaw(石橋友也+新倉健人)「コトバノキカイ」(2階)、辻梨絵子「ルリジサの茶」(3階)の3つの展示で構成。

 

久木田茜「シンメトリーのひずみ」について
西洋絵画の額縁と東洋絵画の掛け軸とを、陶器と真鍮で制作したアラベスクで繫いだもの3セットを壁面に横に並列した《Ornament Spectacle》(2019)、オルゴールを収める手箱の装飾から植物のモティーフを立体化や増殖によって際立たせる「Orders of Growth: music box」シリーズ(2021)の5点、縄文の陶片を大小16個の円に貼り付け、真鍮製の縄を螺旋状に飾った《文を編む》(2020-2021)の7点で構成。

《Ornament Spectacle》(2019)は、西洋画の入れられていない額縁の唐草文様と、東洋画(本紙)の無い掛け軸の中廻しの唐草文様とを、陶器と真鍮で制作したイスラム美術の一様式であるアラベスクで繫いでいる。唐草文様の地理的な広がりの表現である。

 19世紀末に文様史研究の口火を切ったウィーン学派の美術史家アロイス・リーグルはその『美術様式論』のなかで、唐草創造の長いプロセスを要約しながら、唐草は古代エジプトにおいてロータスから出発したのではないかと指摘する。そして紀元前2000~1400年頃のエジプトの石碑や食器に側面形のロータス〔睡蓮〕の花が文様として使用されていることなどから推測し、そのロータスの側面形の萼とロゼットの正面形の花冠が融合しエジプト様式のパルメット唐草が完成してゆくという仮説をたてた。
 円や直接、波や渦巻などお単純な原始的模様がしだいに身の回りの植物をモチーフにし始める。古代エジプトではナイル川流域に生えるロータスパピルスをモチーフに植物文様の芽が出てゆく。そして唐草の原型と言われるロータスの連続文様が縁飾りとして使われだす。古来、エジプト人にとってロータスの開花はナイルの豊饒性をあらわす宗教的な意味が秘められていた。ロータスは彼らにとって特別重要な植物であり、身のまわりの空間をロータスでおおうことで幸福を願おうとしたのである。こうした唐草の発生の影響を受け、メソポタミアではパルメットやロゼットなどもモチーフとして加わってゆく。
 エジプト様式のパルメット唐草はやがてアッシリアフェニキアペルシャなどの地方へも伝わってゆき、長い年月をかけてゆっくりと変化していった。そしてとうとうギリシャへたどりつき、なおも形を変容させながらギリシャ的な新しい美意識と造形感覚で組み換えらてゆく。パルメットの扇状の先端はしだいにくねり、伸び、さらに連続反復させ、リズミカルな自由運動を生成させ、唐草文様の誕生を見ることになるのである。
 紀元前500年頃になると、萼の端が伸びて新しい萼を次々とつくってゆくアッティカの酒杯やプシュクテル(ワインを冷やす容器)など優美なパルメット唐草が多数見られるようになる。それらの唐草は器のサイズや空間の状況に応じてフレキシブルに変形され、圧縮され、増殖していったのである。
 ロータスからパルメットへ、さらにこのパルメットは発展変容を繰り返し、鋸歯状の植物であるアカンサスとむすびつき、その後ローマ時代を経てヨーロッパ全域へ伝えられてゆく。いずれにしろ唐草は実は明確には何の植物だと断じ難い一種の曖昧さを本質とする植物文様である。文様化するためには細部を省略し、単純化し、抽象化してゆかねばならない。また変形や変容を受け入れることは画一化しがちな文様に新しい生命を注ぐために欠かすことができなかった。さまざまなヴァリエーションを生みだすためには新しいモデルやモチーフが必要だったのである。唐草はロータスでもあり、パルメットでもあり、アカンサスでもあり、同時に他の多彩な植物をも巻き込んでゆく一種の汎植物だったとい〔え〕るだろう。そしてその唐草はやがて紀元前4世紀頃のマケドニアアレキサンダー大王の東征後に、ギリシャ文明、ヘレニズム文化が東漸してゆくにつれ、西は東ローマへと伸び、東は西アジア中央アジアを超え、中国までも達するのである。(伊藤俊治『唐草抄』牛若丸/2005年/p.20-22。〔 〕は引用者の補記。)

額縁、アラベスク、掛け軸のセットを3つ並列しているのは、「3」という数字を介して、唐草文様が増殖することを示すためであろう。

 3は、世界をかぞえるうえで、本当の意味でのスタート地点だ。1はシネ・クア・ノン(必須要件)――つまり私で、今日で、現在だった。2で初めて状況が少し複雑になる――つまりあなたで、そばで、次だった。ところが3は、向こう、遠く、ほかの人たち、外の世界、ひいては宇宙になる。諺にいう「ふたりなら、仲間、3人なら他人」のとおりだ。
 子どもは、1と2の違い――単数と複数、「1」と「1よりひとつ上」との違い――を早い時期に覚える。だがその先に進みだすと、ときに3を飛び越して、1、2、4……などとかぞえる。3は2より理解するのが難しい。そして、この難しいことを飛ばす子どものやり方は、じつは上位の概念の把握の仕方を示している。2のあとに来るのは「たくさん」で、そのギャップが違いを際だたせているのだ。
 シュメール人は、まさにその違いを際だたせていた。彼らの言語で「ゲス」は1だけでなく、男、雄、勃起したペニスも意味していた。「ミン」は2と女性を表していた。3を意味する「エス」は、複数を示す接尾語の役目も果たした。これは、英語で複数形につく語尾sやesによく似ている。すると、2までは男と女のようなペアで、3から「たくさん」が始まることになる。3は単数や両数(ふたつ)ではなく、多数のしるしなのである。古代エジプトヒエログリフでは、同じ記号を3回書いて大量の意味を表した。また古代中国語では、人を意味する表意文字を3回書いて群衆の概念を示していた。また、「木」の文字を3つ並べたものは「森」を意味する。
 (略)
 英語のthree(3)の語根も、3が多数という概念の始まりであることを裏付けている。アングロサクソン語で3を意味するthriやthriaは、「積み上がったもの」を意味するthropと関係がある。英語のthrong(群衆)のような言葉の起源は、ゲルマン祖語で「多数」を意味する言葉だ。ロマンス諸語にも、3と多数とのつながりが見て取れる。ラテン語のtres(3)から、フランス語ではtrois(3)をはじめ、très(とても)、trop(あまりに多くの)、troupe(集団)などの言葉が産まれた。またラテン語のtresは、「~を越えて」という意味のtransとも関係がある。これは、同じ「~を越えて」という意味で、英語とのthrough(~を通り抜けて)にもつながっている可能性がある。英語のthis(これ)やthat(あれ)、those(あれら)さえも、1、2、3というパターンに従っている。ジョルジュ・イフラーは著書『数の世界史』において、インド=ヨーロッパ祖語で3を表すtriが、「複数、多数、群衆、積み上がったものを意味する言葉でもあり、さらに、“~を越えて”や“かぞれきれないもの”も意味していた」と述べている。(バニー・クラムパッカー〔斉藤隆央+寺町朋子〕『数のはなし ゼロから∞まで』東洋書林/2008年/p.58-59。訳注は省略。)

男(=1)と女(=2)のペアから増殖(=3)へ。「3」が喚起する生命のイメージは、唐草と共通するものだ。

 その流麗な文様は曲線を蛇行させた茎を中心に、そこから派生し絡み合う枝、葉、花がひとつの単位となり、反復し、連続し、変形し、増殖しながら生命そのもののリズムとパターンを生みだしてきた。
 唐草は草花文様の一種と考えられるが、重要なのは文様そのものというより縦横無尽に空間を埋め尽くしてゆくかのようなその潜在的なエネルギーだろう。先端をどこまでも伸ばしてゆく蔓性の植物がモチーフとして多様されるのも辛く欄お中心テーマが潜在的な生命力であることのあらわれである。蔓は文様を連続させ、パターンを生成し、リズミカルなイメージの美を生みだすことができる。
 (略)
 唐草は新しいスタイルや嗜好を吸収しながら同時に部分的には従来の古い形式や美意識を保存させてゆく。全体の形姿は時代や場所によって大きく変化しながら古い形式や美意識も澱のように層状に残存させてゆくのである。
 唐草は人間の創造というものが、記憶と継続性の上に成り立っていることを示している。表面的にはひとつの文様のように見えるが、実はそれは表現形式の上にさらに重ねられてゆく表現形式であり、ひとつのイメージのなかに多重のイメージの輪が反響しあう。唐草は持続的な変化を義務づけられている。それは安定せず、画一化しない、生きた情報なのである。だから唐草は場を、表現を、形式を次から次へと変えてゆくことを宿命づけられた生命の“型”ともいえるだろう。
 生命のかたちは情報として遺伝子に書き込まれ、複製され、伝達されてゆく。生命の本質とはこの情報の流れであり、生命は歴史と記憶と関係を持っている。
 遺伝子の本質はクローンのような正確な複製物をつくることではない。その本質は変化を次につなげてゆくことであり、起こった変化を消してしまわないことなのだ。だから遺伝子は二重らせんをつくる時に相手をまちがえたり、外的要因により一部が破損したりする変化をたびたび起こす。それはエラーやトラブルというよりも生命の宿命のようなものだ。生命はそうした変化や変異にもともと対応できるものであり、実はそうした間違いが新しい生命をうみだす原動力となってゆく。
 遺伝子は変化しうるから遺伝子であり、しかもその変化を伝えてゆくことができる。それゆえ遺伝子は生命の基本物質でありえた。また変化とはある意味での時間の経過、あるいは関係と流れである。遺伝子とはこの関係と流れを蓄積し、封じ込めるものであり、だからこそ、そこから生命の歴史と物語を読み解いてゆくことができる。
 唐草の歴史と転化もそのような生命の視点から読み解いてゆくことができるかもしれない。生命進化で自然淘汰と突然変異と自己組織化が大きな役目を果たすように唐草の進化においてもこれらのことは重要なのである。(伊藤俊治『唐草抄』牛若丸/2005年/p.8-10)

展示のタイトルに冠された「シンメトリーのひずみ」自体、「正確な複製物をつくることではない」、「生命の宿命のようなもの」が表現されていると言える。

「Orders of Growth: music box」シリーズ(2021)は、オルゴールを収める手箱の装飾に着目しており、絵画・本紙を収める額縁や掛け軸の装飾を取り上げる《Ornament Spectacle》と共通した主題を扱っている。但し、前者は後者と異なり、作品(オルゴール)が収納され(かつ演奏され)、さらに、装飾の一部が茎を伸ばす形で立体化されるとともに、手箱本体を飲み込むようにモティーフの一部が増殖されている。増殖したモティーフのために傾き、あるいは宙づりになる手箱は、寄主に寄生された宿主のようであり、生命のグロテスクな性格が浮かび上がる。

《文を編む》には、縄文の陶片が大小16個の円を構成するように壁面に取り付けられており、その上から真鍮製の縄が螺旋を描くように飾られている。唐草文様の変遷において「自然淘汰と突然変異と自己組織化が大きな役目を果たすように」、1万年ほど持続する縄文時代の土器の文様の変化も「生命の視点から読み解いてゆくことができるかもしれない」。

 先史時代つまり無文字の時代の視覚表現についてアンドレ・ルロワ=グーランは、興味深い説明をしている。
 「図表現(グラフィズム)がいわば現実に隷属した、忠実な模写としての表現から始まったのではないということで、それが1万年ほど前の時間をへて、まず形を表現した表徴ではなく、リズムを表現した表徴から形づくられてくるということである」(括弧内引用者)という。そして、「表象芸術(ラール・フィギュラティフ)はそもそも言語活動に直接結びついており、芸術作品というよりは、最も広い意味での書字にずっと近かったとするのが自然であろう」(括弧内引用者)という。
 (略)
 縄文の文様(記述)は、約1万年、変化はあるもののほぼ同じ様式のものが使われているということはそのメッセージが1万年にわたってつなぎ止められてきたということだ。こうした「記述は、記録として読まれるものではなく、復元の方法だったのだ」というインゴルドの言葉にしたがえば、ほぼ同じ「文様=記述」を繰り返すことで、過去の記憶を復元させ続けたということになる。それは、個々人の創作ではなく、集団に共有された文様(記述)である。したがって、集団がある記憶を守り続けたということだ。縄文土器は1万年の過去を切断し置き去りにすることなく、繰り返しほぼ同じメッセージを復元することによって、その声が発せられる世界との対話に、人々が参加し続けたということを示している。(柏木博「縄文の文様 復元される声」『ユリイカ』第49巻第6号/2017年3月/p.60-61)

唐草や縄文が生命を胚胎するように、螺旋もまた生命に連なる。螺旋は身体(ミクロコスモス)を構成するからである。

 現代では性的欲望を満たすために食べるという倒錯行為も現れて、食人は複雑さを増しているが、古代人は、はじめて人を食べたときにあるものを目撃した。それは、人を食べるために体を切り開いたときにはみ出てきた曲がりくねった腸である。
 このとき人々は、この腸のうねりは普段目にしている花やわき水などと同じような形をしているのではないか、われわれの体内に自然と同じ模様があるのではないか、と気づいた(かもしれない)。これが身体のなかの「螺旋」模様の発見だ。
 17世紀、ドイツのイエズス会に所属していた万能科学者アタナシウス・キルヒャーが描いた木版画には、体内に持つ「螺旋」が象徴的に描かれている。この図自体は、人間に影響を及ぼす環境を神秘主義的見地から見たものである。
 だが、「螺旋」が人間の中心に置かれ、そこから太陽を含めた六惑星が発しているなど、「螺旋」模様の地位は高い。これは「螺旋」の持つサーキュレーションに注目した例だろう。(松田行正『はじまりの物語 デザインの視線』紀伊國屋書店/2007年/p.93-95)

身体の内部にある「螺旋」すなわち腸のうねりは、臓器(Organ)である。手箱の中で回転するオルゴール(Orgel)のアナロジーである。