可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 村上早個展

展覧会『村上早展』を鑑賞しての備忘録
コバヤシ画廊にて、2021年9月6日~18日。

大画面作品6点を中心とした、村上早の版画展。

《おどり》(1500mm×1180mm)は、巨木の切り株を舞台とした女性とクマのパ・ド・ドゥ(?)。ロングスカートのワンピースの女性は右足に重心を置いて左足を軽く上げ、右下に向かって上半身を折り曲げている。右手は切り株に垂らす一方、左手は反対に天に向かって伸ばされている。女性の背後のクマは2本の後ろ肢で直立し、頭を左に傾ながら上向に咆哮する。大きく開かれた口とそこに並ぶ細かな歯が印象的だ。女性の腰を支える右手が見える。題名に掲げられた「おどり」と女性とクマのポーズから判断すれば、クマが女性とペアを組む踊り手として、女性の腰を支えていると考えられよう。だが、手の形状はクマの前肢ではなく、人間の手として表わされている。あるいは、「舞台」の進行を介添する黒子(としての作者?)の手かもしれない。女性の顔は正面に向けられているが、その表情は窺えず、失神しているとも既に事切れているとも解される。クマが大口を開けるのは、嘆き叫んでいるのか、噛み付こうとしているのか。
《馬車と馬 Ⅰ》(1180mm×1500mm)と《馬車と馬 Ⅱ》(1180mm×1500mm)とは対の作品で、草原に横倒しになった馬車と馬とを描く。《馬車と馬 Ⅰ》には車輪の外れた幌馬車から投げ出されたと思しきロングスカートのワンピースの女性が倒れている。全身が描かれているが右脚・左腕が描かれておらず、顔は馬車の幌によって隠されている。馬車の後ろに忽然と現れた右腕(倒れた女性から切断された左腕と解する余地もないとは言えない)が違和感を生む。その手が車輪を回転ハンドルのように動かし、女性を幌の中に巻き込んでいくようにも見える。これこそ黒子としての作者の腕であろう。馬車は版画のプレス機であったのだ。身体に出来事が圧着されていく。幌の白と車体の黒とは紙とインクとのイメージを強調している。《馬車と馬 Ⅱ》には馬車を引く白馬が描かれている。首から先は黒い布(?)で覆われている。頭の見えない馬は制御できない存在である時間の象徴であろう。行く末は見えない。ただ馬車が進むことで人に体験(の記憶)が否応なしに重ねられていく。馬の腹の近くには犬であろうか、動物の前肢のようなものが2本、揃った形で描きこまれている。時間の進行を留めようという「悪足掻き」である。そして、今、「馬車」(=プレス機)から放り出された作品の中で、時間が停まる。
《きのう》(1180mm×1500mm)には、鳥を背中に縄で縛り付けた人物が蹲る姿と、赤いカーテンとが描かれている。画面右側3分の2を占めるモノクロームに対して、左側3分の1のカーテンの赤が鮮烈だ。カーテンは舞台の終演に際して引かれるものであるから、「夜の帳」であり、今日現在が昨日へと変化する絶え間ない変化を表わすのだろう。カーテンが右方向に閉じられていくと、鳥を背負う人物がそれに飲み込まれていく。すると、人物の黒い衣装と鳥の白とは、やはりインクと紙とを連想せざるを得ない。版画のメタファーが見出されるのだ。顔と腕とを舞台に押し付ける人物は悲痛な印象を生む。鳥は幸福の象徴であるのか、それを逃さぬよう縛り付けているのが、悲痛さに輪を掛けるようである。
《いしのいえ》(1180mm×1500mm)の画面の大部分は、大きさの異なる丸い石が覆っている。題名から「石の家」を表わすものと解されるが、石を積み上げることで表わされる形状は一見して家と分かるものではなく、また丸い石のために隙間だらけとなっている。いつ崩れてもおかしくもない石積みは、賽の河原を思わせる。