可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 佐川梢恵・森野真琴二人展『明日天国を離れる』

展覧会『第24回グラフィック「1_WALL」グランプリ受賞者個展 佐川梢恵、森野真琴展「明日天国を離れる」』を鑑賞しての備忘録
ガーディアン・ガーデンにて、2022年9月21日~10月22日。

佐川梢恵と森野真琴との二人展。
佐川梢恵は、公募展(第24回グラフィック「1_WALL」)に応募する際、架空の人物と二人で参加することを思いつき、別人格「森野真琴」を誕生させた。ところが、グランプリ受賞後、自分で制作したものを森野真琴の作品と思えず、森野真琴として制作する意欲も湧かなくなり、グランプリの特典である個展(本展)において、森野真琴を抹殺するプランを思いつく。実際には「森野真琴の存在は消えるというか、疑問のまま概念的な存在として居続けるという形に」落ち着き、「ドラマチックな別れをするのではなく」、森野真琴は「ぼんやりとしたまま続いていく存在」となったという。
明日、自らの拠って立つ場を去らなければならず、この場に留まることのできる最後の1日に執り行われる、明日のための儀式。その場が会場に再現されている。但し、「明日天国を離れる」最後の1日は延々と続いている。
入口近くには、洗面台がある。洗顔し身嗜みを整える場であるとともに、手水舎でもある。その周囲の壁面には、20人の若い男性の裸体立像が並べられている。表情、髪型、仕草、持物などに違いはあるものの、いずれも似たり寄ったりの漫画的な表現で、とりわけ腹部や大腿部に入れられた線と性器の無い下腹部とが木偶のイメージを引き寄せる(紙を継いで描かれているが、頭部だけ幅の狭い紙が用いられているのが気になる)。教会の聖像や寺院の羅漢像などに比せられよう。会場の中心には、素木の箱が立てられている。その奥には白い布団が敷かれていることからワードローブだろう。それと同時に、その脇にある台には水の入った硝子コップが置かれ、神棚・神殿でもある。あるいは棺桶かもしれない。布団の脇には時計やティッシュ箱を載せた台、櫛などを容れた盆などが置かれている。沢山の黒い毛糸を取り付けた棚は神馬を模している。周囲の壁は模様の入った24の窓(サッシ)が鉛筆で描かれている。ステンドグラスに擬えられよう。ゴキブリ対策の殺虫剤が結界のように置かれ、その聖域を掃き清めるための箒と塵取りが床に置かれている。

本展の中心は素木の箱である。

(略)会場内でこの木箱だけが明確な物としての機能を持っていないように思う。また同時に、この木箱だけがはっきりとした意味を与えられている。この木箱の名前を森野真琴という。この木箱はたしかにそこにあるように見えるが、その中身は何だかわからない。空洞かもしれない。この木箱がなくとも会場は成立する。しかしそれと同時に会場の意味は消失するのである。森野真琴という1人の他人。この人は間違いなく誰にとっても他人である。他人というものが恐ろしいのはその人の中身がわからないからだと思う。自分以外の人間にも思考があるのだと理解した上でそれを恐ろしいと思う。分からないのに、たしかに存在しているということが恐ろしい。他人は空洞の木箱ではないと思うし、同時に空洞の木箱であって欲しいとも思う。無数の思考する木箱が存在し関わりながら社会というものを作っている。結局のところ森野真琴は私ではなく、あなたでもなく、どこかに存在している他人の思考、もしくは社会のもう1つの呼び名なのかもしれない。社会は空洞なのだと私は思いたいのだろうか。とはいえ間違いなく社会は木箱のように存在している。(佐川梢恵の自作解題)

木箱には、「森野真琴という1人の他人」が投影されている。

 人はどのようにして相手の身になることができるようになったのか。むろん、母を見習うことによってである。人は、自分の身になって世話してくれる母を見習うことによって自分なるものを形成するのであって、これは要するに他者として対面することによってはじめて自己を見出すということ、つまり他者として自己を見出すということである。その媒介として離乳期以後、人形や自動車などの玩具が用いられることはよく知られている。
 人は他者として見出された自己を自己として引き受けるのである。思索の起源は自己にあるのではない。かりに自己であるとすれば、それはすでに他者によって媒介された自己なのだ。思索の出発点を自己に置くことはしたがって致命的な誤りであることになる。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018年/p.75-76)

「人は他者として見出された自己を自己として引き受ける」。だが、森野真琴は他人であるが、それはあくまでも自分が生み出した別人格である。その意味で「森野真琴」は自らの欲望を投影することのできるブラック・ボックスなのだ。

 幻想空間は中身のない表面であり、いわば欲望が投射されるスクリーンである。そのポジティヴは中身が魅惑的に眼前にあらわれることの意味はただ1つ、ある穴を埋めることである。そのことを完璧に例証しているのが、パトリシア・ハイスミスの中編小説『ブラック・ハウス』である。舞台はアメリカの小さな田舎町。男たちは夕方になると居酒屋に集まり、昔話に花を咲かせては郷愁に浸っている。町に伝わる伝説――たいていは彼等らの若い頃の冒険談――はどういうわけかどれも、町外れの丘に立つ廃屋と関係があるその不気味な「ブラック・ハウス」には何か呪いがかかっているらしく、男たちの間では、誰もあの家に近づいてはいけないという暗黙の了解がなされている。あそこに入ると生命の危険があるとすら思われている(あの家には幽霊がいるとか、孤独な狂人が住みついていて侵入者を片っ端から殺すとか、噂されている)のだが、同時に、男たちの青春の思い出はすべてその「ブラック・ハウス」に結びついている。そこは彼等が初めて「侵犯」、とくに性体験に係わる侵犯を経験した場所なのだ(男たちは、昔あの家で町でいちばんきれいな女の子と初めてセックスをしたとか、あの家で初めて煙草を吸ったとかいった話を飽きもせずに繰り返し話す)。物語の主人公は町に引っ越してきたばかりの若い技師である。彼はそうした「ブラック・ハウス」にまつわる神話を耳にして、男たちに、明晩あの不気味な家を探検してみるつもりだと告げる。その場にいた男たちはそれを聞いて、口には出さないが、激しい非難の目で主人公を見る。翌晩、若い技師は、何か恐ろしいこと、あるいは少なくとも予期せぬことが自分の身に起こるのではないかと期待して、問題の家を訪れる。彼は期待と緊張で体をこわばらせ、暗い廃屋に入り、ぎしぎし音を立てる階段を上り、1つ1つ部屋を調べるが、朽ちかけた敷物がいくつか床に散らばっていただけで、他には何もなかった。彼はすぐに居酒屋に戻り、誇らしげに、「ブラック・ハウス」はただの汚い廃屋にすぎず、神秘的なところも魅力的なところもない、と断言する。男たちはぞっとすると同時に強烈な反感を抱く。若い技師が帰ろうとしたとき、男たちの1人が狂ったように襲いかかる。技師は運悪く仰向けに地面に倒れて頭を打ち、しばらくして死ぬ。どうして男たちは新来者の行動にこれほど激しい反感をおぼえたのだろうか。現実と幻想空間という「もう1つの光景」との差異に着目すれば、彼らの憤りが理解できる。男たちが「ブラック・ハウス」に近づくことを自分たち自身に禁じていたのは、そこが、彼らが自分たちの郷愁にみちた欲望、すなわち歪曲された思い出を投射できる、からっぽの空間だったからである。若い闖入者は、「ブラック・ハウス」はただの廃屋にすぎないと公言することによって、男たちの幻想空間を陳腐な日常空間へと貶めたのである。彼は現実と幻想空間の差異をなくしてしまい、男たちから、彼らが自分たちの欲望を表現できるような場所を奪ってしまったのである。(スラヴォイ・ジジェク鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995年/p.28-30)

森野真琴=佐川梢恵であるから、森野真琴によって媒介された自己とは、結局、自己によって媒介された自己となる。「思索の出発点を自己に置くこと」によって「致命的な誤り」に陥ってしまっている。自らの欲望を投影することのできるブラック・ボックスに自己を見ているが故に、永遠にそこから逃れられない――合わせ鏡として無限増殖するだけ――という「致命的な誤り」を犯しているのである。それでは、その誤りから逃れるためにはどうすれば良いのか。

 ここでもう1度、〔引用者補記:フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)『ツァラトゥストラ(Also sprach Zarathustra)』〕第3部までに提起された永劫回帰の思想の内容を思い起こそう。それは、すでにそうであったことを意志し、あえて肯定することであった。しかし、それは生の本当の肯定にはなっていない。このやり方は、ルサンチマン的な否定性の隠れ蓑にしかなってはいないのだった。ではどうすればよいのか? ほんとうの肯定に至るためにはどうしたらよいのか?
 現に起きたことを追認的に肯定するのではなく、現に起きていることに抗して決定的な出来事はすでに起きたと想定すること、そのような想定において行動すること、それが答えではないか。起きたことをそのまま肯定するのではなく、起きていないことを起きたことのように肯定し、信じるのだ。(略)これこそ、真の永劫回帰である。われわれは常に、「すでに起きたこと」の反復として行動することになるからだ。
 たとえば、普通、メシアはやがて来るのを待たれている。言い換えれば、メシアは(いつも)まだ来てはいない。それに対して、メシアはすsでに来たと想定することが、永劫回帰の思想である。「そのとき」はもう来てしまっているのだ。ツァラトゥストラの最後の言葉はこうである。「ツァラトゥストラは熟した。わたしの時が来た」「これはわたしの朝だ。わたしの昼が始まる。さあ、上がって来い、上がって来い、おまえ、大いなる正午よ!」。ツァラトゥストラの時はもう来てしまっており、彼の朝から正午への歩みはすでに始まっている。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 現代篇1 フロイトからファシズムへ』講談社/2022年/p.126-127)

既に天国を離れた。もう朝は迎え終わったのだ。「わたしの昼が始まる。さあ、上がって来い、上がって来い、おまえ、大いなる正午よ!」