可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 菅実花個展『鏡の国』

展覧会『菅実花「鏡の国」』を鑑賞しての備忘録
トーキョーアーツアンドスペース本郷にて、2022年10月22日~11月27日。

セルフィー(自撮り写真)のテクノロジーがもたらす自己認識の変容をテーマにした、菅実花の個展。

「(略)ね、キティ、鏡の国のおうちに行けたら、なんてすてきでしょう! 向こうには、そりゃあ、きれいなものがあるにちがいないわ! ごっこ遊びをしましょ、向こう側に入って行けるふりをするの、キティ。鏡はガーゼみたいに、どこもやわらかくて、通れるってことにするの。ほら、なんだかもやみたいになってきたわよ、ほんと! 通るのなんてかんたん――」(ルイス・キャロル河合祥一郎〕『鏡の国のアリスKADOKAWA〔角川文庫〕/2010年/p.20)

《あなたの知らない場所にいる》は、画像生成のアプリケーションを用いて作成した実在しない場所のイメージと、リアルタイムで撮影している鑑賞者の姿をスクリーンに投影した、「鑑賞者の分身が、未知の場所にいる光景を作り出」した作品。廃墟や荒野などファンタジックなコンピューターRPGの背景にありそうな光景は27種類あり、スライドショーのように切り替わる。パノラマの見世物のように前景と遠景との対比が強調されたものが多く、頻出する水辺の景観は水鏡を連想させる。「19世紀のプロジェクターといえる幻灯機を使った怪奇ショーを模して」靄のようなイメージに仕立てたのは、『鏡の国のアリス』のアリスが靄のような鏡の中に入り込んだことに因んでいるのだろう。

 〔引用者補記:ロベールソンによるマジック・ランタンを用いて亡霊を見せる〕ファンタズマゴリアは、マジック・ランタン(幻灯)〔引用者註:カメラ・オブスクーラの原理を裏返しにして、暗箱の内部に光源を置きレンズによりイメージを拡大投影する装置〕が危機的状況を迎え、その影響力が少しずつ失われていくプロセス(過程)の中から誕生することになる。悪魔との駆け引きは、すでに成人の観衆に対して新たな感動を与えることのできないスペクタクル(見世物)に、再び信頼性を与えるための一種の必要条件であった。ファンタズマゴリアは心にショック(衝撃)を受けたい、理性の光によって照らされた領域を凌駕したいと望むこの種の観衆のための見世物といえるだろう。
 文明(理性の光)の世紀に、ロベールソンのおかげで光は現実世界をいっそう見えるものにし、その類型化を容易にするために役立つのではなく、現実世界の境界線を越え、闇の世界へ勇気をもって侵入する旅行社が地図をたどって数多くの冒険旅行に挑むために、不可視の世界に形を与えることを可能にするものとなった。
 そして、《百科事典》の《図版》は当初、マジック・ランタンのイコノスフェーラ(図像宇宙)に致命的な打撃を与えたように思われる。実際に、それは不可逆的な方法でマジック・ランタンの進むべき道を二股に分けてしまうことになる。すなわち、一方は事物の成り立ちを教えるのに役立つ認識と表現の軌跡をたどろうとする道であり、他方は亡霊や彼岸のアニマ(霊魂)を呼び覚ます超自然的な力と驚異的な効果を強化しようと模索する道である。(ジャン・ピエロ・ブルネッタ〔川本英明〕『ヨーロッパ視覚文化史』東洋書林/2010年/p.349)

画像生成のアプリケーションが生み出す実在しない場所は、断片化したイメージから生成されたキメラ的イメージであるが、それは統計学に基づいた情報の自動的編集の産物である。《あなたの知らない場所にいる》が映し出すのは、「あなたへのおすすめ」の世界に佇む鑑賞者の姿と言えよう。

《Spot 001》は、作家の頭部を型取りして作成した人形が左手でダイクロイックガラス製の眼球を掲げる姿を撮影した写真。首下から頭部にかけてスポットライトの丸い光が当たり、親指と人差指で抓まれたガラスの眼球が輝きつつ、人形の目に影を投げ掛けている。スポットライトの生み出す光の円は、人形を望遠鏡で覗いているイメージを形作る。無論、鑑賞者を、人形のオリンピアを望遠鏡で見詰めて狂い出すナタナエルに変身させる仕掛けである。

 「お気の毒だが晴雨計など用なしでね。引き取ってくれたまえ!」
 コッポラはいさいかまわず部屋の中に入ってくると、大口をあけてにやつきながら、げじげじ眉毛の下の小さな目を刺すように光らせて、しゃがれ声で言うのだった。
 「晴雨計はいらんとな!――ならば目玉はどうかな――きれいな目玉だがな!」
 ナタナエルは仰天した。
 「ばかなことを――どうして目玉が売れるんだね?」
 コッポラはいそいで晴雨計をわきに置くと、だぶだぶの上衣のポケットに手を入れ、柄つき眼鏡やら普通の眼鏡やらを取り出してナタナエルの机の上に並べはじめた。
 「ほうら、ほら、鼻にかけるとよく見える――とてもすてきな目玉だよ!」
 そんなことを言いながら次々と取り出しては並べていく。みるまに机の上が異様にピカピカ光りはじめた。数知れない目がギラリと輝き、おりおり激しく目ばたきしながらナタナエルを凝視している。目をそらすことができなかった。コッポラがなおも眼鏡を並べていったので、やがて燃え上がるような眼差しが入り乱れて交錯し、ついには真っ赤な光の束となってナタナエルの胸を射すくめた。愕然として彼は叫んだ。
 「やめろ、やめてくれ! なんてことするんだ!」
 机の上はもうこぼれるほど一杯なのに、なおも眼鏡を取り出そうとするコッポラの腕をつかんだ。コッポラはしゃがれ笑いをひとつ洩らして腕をふりほどくと、こう言った。
 「おやおや――これはいらんとな――ならば上等のレンズはどうだ」
 眼鏡をそっくりポケットに収めると上衣の脇のかくしから大小さまざまな望遠鏡を取り出した。眼鏡が目の前ららなくなるとともにナタナエルは落ち着きをとりもどした。クララのことを思うにつけ妖怪はただ心の中だけにあるものだということ、またコッポラがコッペリウスの分身でも亡霊でもありえず、だから至極まっとうな機械工でありレンズの専門家であることに思いあたった。そういえば彼が机に並べたてた望遠鏡はどれも変哲もないもので、眼鏡のようなうす気味悪いところは少しもなく、最前のうめ合わせにもここは1つ買ってやることに心を決めた。そこで数ある品物のなかから、ごく小さいが念入りなつくりの懐中用の望遠鏡をとりあげ、ためしに目に当て窓からのぞいてみた。生まれてこのかた、これほどくっきりと間近に見せてくれる望遠鏡を手にしたことはなかっただろう。なにげなくスパランツァーニ教授の居間にレンズを向けた。いつものように小さなテーブルを前にして両手を組み肘をついてオリンピアが坐っていた。――このときはじめてナタナエルは彼女の見事な顔をみた。ただ目だけは奇妙に死んだようで一点を凝視したまま動かない。しかしナタナエルがレンズごしに一心不乱にみつめていると、オリンピアの目から月光のようなやわらかい光が射しはじめていくのだった。いまはじめて視力の火がともったかのようで、次第にその火が生きいきと燃えさかる。この世ならず美しいオリンピアの顔にみとれたまま、ナタナエルは魔法にかけられたように窓際に立っていた。(E.T.A.ホフマン池内紀〕「砂男」同『ホフマン短篇集』岩波書店岩波文庫〕/1984年/p.185-188)

「心にショック(衝撃)を受けたい、理性の光によって照らされた領域を凌駕したいと望む」鑑賞者に眼球を手にする人形を通じて、目に映るものを見ているのではなく、見たいものを見ているに過ぎないと訴えているのだろう。

《インフィニティ・エレクトリック・ドローイング》は、天井から波打つように曲げられたエレクトロルミセンスワイヤーがアクリルハーフミラー製の角柱の中に引き入れた作品。角柱は7本建てられ、それぞれに赤、ピンク、緑、水色などの単色のワイヤーが、面ごとに異なる、波線や泡の形を暗闇に浮かべている。その様は夜の海に浮かぶクラゲの触手を思わせ、エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel)の鮮やかなクラゲの図を連想させる。判読し難いが、1面からのみ光の線が"simulacrum"の文字列を表している。エレクトロルミセンスワイヤーがクラゲの触手であるなら、まさに模造(simulacrum)と言える。だが、それは見せかけ(simulacrum)に過ぎない。発光する紐状器官(cord)はただ情報の記号(code)として存在するのである。7本の柱が表すのは、その差異であった。

《非反転劇場鏡》は、「十角形を半分にした半円弧状に金属鏡を配置した『劇場鏡』に、90度の合わせ鏡によって作り出される「非反転鏡」の構造を組み合わせた」作品。5箇所ある合わせ鏡の凹の部分に映るのは、虚像の虚像による正像である。

 ところで、一般的にいって、私の姿を私自身がたしかめるというのは、意外にむつかしいものである。手や足だけなら、私はそれら身体の部位を自分の目で確認することはなんとか可能だが、自分自身の顔を自分で見ることは、私が私の身体の外部の遊離しているのでなければ不可能だろう。その不可能を可能にしてくれる魔法が鏡である。鏡があってはじめて私は自分自身の外化を可能にし、その外化した「わたし」を言わば凍結保存する技術が絵画なのだともいえる。
 しかし鏡という“わたし”を映しだす魔法は、自画像が生まれるよりもはるか以前からあったはずだろう。ならば、15世紀を待たずとも、もっと以前から画家は鏡をもちいて自画像を描いていても不思議はなかった。それがなぜ、15世紀半ばをまたなければ、本格的に自画像が生まれなかったのか。
 この疑問にたいする興味深いエピソードが〔引用者補記:田中英道著〕『画家と自画像』のなかにある。以下、私なりに要約してみよう。
 かつての鏡は、現在のようなガラス製ではなく金属でできていた。青銅などの金属をみがきこんで鏡にする、あるいはみがいた金属にさらに金メッキや銀メッキをほどこして鏡面にする、そういうものだった。
 そうした古代の鏡に関するエピソードが、『聖書』のなかの一節につづられているという。聖パウロが語ったつぎの言葉がそれである。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。(「コリント人への第一の手紙」13:12)

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るように」とあり、そのつぎに「おぼろげに見ている」とある点に注目したい。
 私たちの常識からすれば、鏡には風景や人間が、ときには現実世界よりも鮮明に映るものだという意識を持っている。ところが「おぼろげに」とある。ぼんやりとしてよく見えない、つまり「私とはなにか」という問いにたいして答えがだせない状態、自分自身のことがよくわかっていない状態をあらわすたとえとして鏡がひきあいにだされている。とこいうことはつまり、鏡というものは、当初は自分自身の姿をおぼろげにしか映しださない道具として認識されていたということである。
 パウロの言葉のつづきに、「その時には、(略)完全に知るであろう」とある。私は何者かという問いにたいして答えを見いだせない、つまりよく自分のことを理解していない、そういう状態にあるとき、神があらわれ、自分自身が何者であるかということを、神が明示してくれるのである。神の顕現をまつことで「私は何者か」が告げられるのであって、それまでは、まるで“鏡に映った自分の姿を見るように”自分自身のことがあいまいでぼんやりしているというわけである。ここでは、鏡は高解像度イメージをあらわすのではなく、むしろ低解像度のたとえとしてひきあいにだされている。
 ところが、鏡の製造技術は急速に進歩していく。ガラス製の鏡が発達するのがローマ時代である。しかしまだガラスの表面はひずんでいたり気泡があったりする。このガラスがしだいにフラットで気泡がなく透明度もたかくなっていく。そしてやがて、透明かつフラットなガラスの裏側に水銀箔を蒸着させて、私たちが今日知るような鏡がつくられたのがまさに15世紀であった。
 このクリアな鏡の登場によって、おおきな意識が人類にもたらされた。自分の姿がほんやりとしか映らない鏡の時代では、人間は自分の姿を自分自身でしっかり見さだめることがむつかしかった。その“わからなさ”を解決してくれる視座が神であった。
 ところがクリアな鏡の登場によって、自分自身が何者であるかをわからせてくれるものが、神以外にもうひとつ出現することになった。人間である私が、鏡のなかに私自身の赤裸々な姿を見いだすことになる。神の視座とともに、人間の視座があらわれた。これが鏡の時代とでもいうべき15世紀におこった大きな意識革命だった。(森村泰昌『自画像のゆくえ』光文社〔光文社新書〕/2019/p,48-52)

鑑賞者は《非反転劇場鏡》でドッペルゲンガーに出会う。

「さあ、キティ、こんなことをすっかり夢に見たのはだれたったのか考えて見ましょう。(略)(ルイス・キャロル河合祥一郎〕『鏡の国のアリスKADOKAWA〔角川文庫〕/2010年/p.20)