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芸術鑑賞の備忘録

映画『ミセス・ハリス、パリへ行く』

映画『ミセス・ハリス、パリへ行く』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のイギリス映画。
116分。
監督は、アンソニー・ファビアン(Anthony Fabian)。
原作は、ポール・ギャリコ(Paul Gallico)の小説『ミセス・ハリス、パリへ行く(Mrs. 'Arris Goes to Paris)』。
脚本は、キャロル・カートライト(Carroll Cartwright)、アンソニー・ファビアン(Anthony Fabian)、キース・トンプソン(Keith Thompson)、オリビア・ヘトリード(Olivia Hetreed)。
撮影は、フェリックス・ビーデマン(Felix Wiedemann)。
美術は、ルチャーナ・アリギ(Luciana Arrighi)。
衣装は、ジェニー・ビーバン(Jenny Beavan)。
編集は、バーニー・ピリング(Barney Pilling)。
音楽は、ラエル・ジョーンズ(Rael Jones)。
原題は、"Mrs. Harris Goes to Paris"

 

1957年。ロンドン。エイダ・ハリス(Lesley Manville)が夜道を歩いている。気をつけろ! 自転車を飛ばす男に怒鳴られる。アルバート橋の途中で立ち止ったエイダはテムズ川を見詰める。どうなるの、エディ? バッグから小包を取り出す。いい知らせ、それとも悪い知らせ? エイダはコインをトスする。欄干に当たったコインは川へと落ちる。
朝、エイダは2階建てバスに乗って車掌(Delroy Atkinson)に挨拶する。おはよう、チャンドラー。おはようございます、ハリス夫人。調子はいかがですか? 今日もツイてるわ、いつも通りにね。2階に向かったエイダがヴァイオレット・バターフィールド(Ellen Thomas)に声をかける。そちらは空いてる? あなたのために取っておいたの。じゃあ詰めてよ。ヴァイオレットを窓側にズレてもらい、エイダが坐る。信じられないでしょうけどね、とても奇妙なことが起きたの。吉兆だと思う。エイダ、なぜあなたの旦那は他の人みたいに手紙を寄越さないの? 筆無精なのよ、私のエディは。
バスを降りたエイダとヴァイオレットは清掃作業のためにそれぞれの持ち場に向かう。エイダが最初の訪問先のアパルトマンの階段を上がると、ちょうど依頼主のジャイルズ・ニューカム(Christian McKay)が若い娘(Murányi Panka)と出かけるところに出会す。おはようございます、ニューカムさん、お早いですね。仕事でね、ハリス夫人。彼は隣の女性を姪のポーシャだと説明する。エイダは部屋に向かうと窓を開け、ベッドメイキングを始めた。
続いてエイダが訪れたのは、散らかった部屋。エイダがおはようと何度も声を掛けると、ようやく目を覚ましたパミラ・ペンローズ(Rose Williams)が下着だけのしどけない姿で現れる。早過ぎるんじゃないの? 1時半過ぎですよ。やだ、オーディションがあるのに! パミラはワードローブから服を次々と取り出す。着るものがないわ。あなたは何を着たって素敵よ。これはどう? エイダがピンクの服を勧める。脚本はどこ? エイダが脚本を差し出す。幸運を祈るわ。ありがとう、あなたは天使ね。あなたなしじゃ何もできない。
夜、エイダはヴァイオレットとともにダンスホールを訪れる。これはこれは麗しきH夫人にご同輩、と相棒アーチー(Jason Isaacs)が2人に挨拶する。奢りますよ。ポートアンドレモンを。賭け屋は景気がいいのね。その通り。ポートアンドレモンをお願い。いいですよ、あなたのお仲間になりましたからね、幸福です。1杯奢ったくらいで仲間ですって? 傍の2頭の犬がエイダに懐いている。犬たちはよく人を理解してますよ。あなたのことを気に入っている、エイダ・ハリス。夢中なのは賢いからです。あなたは何故彼女に夢中なんです? 初めて会ったのは飛行機の組み立て工場よ。こんなに良い友人はいなかったわ。いつも本音をいってくれるもの。自分を救えてはいないけどね。大きな悩みを抱えてるから。アーチーが呼ばれ別の女性と踊りに行く。エイダがバッグから小包を取り出す。戦争は終わってもう随分になるでしょ。あなたの旦那は帰ってこないわ。エイダが小包を開けると、指輪があった。エイダは同封の手紙を自分ではとても読む気になれず、ヴァイオレットに渡して代わりに読んでもらう。「親愛なるハリス夫人。同封のエドワード・ハリス軍曹の所持品をご確認ください。ポーランドワルシャワ付近の墜落現場で回収したものです。この発見に基づき、ハリス軍曹の……戦没を認定します。1944年3月2日。追っての情報をお待ちください。王立空軍中央司令部」。エイダ、残念だわ。当たり前だわ、彼が生きているなら戻って来てたはずだもの。それならもういい。私は自由になったの。
アルバート橋の上にエイダが1人佇み、夫の遺品である指輪を撫でる。苦しまなかったかしら。指輪にキスをする。寂しいわ。
いいえ、夜は絶対、だけど結婚式の朝食はなし。ご存じでしょ…。通話中のダント夫人(Anna Chancellor)は清掃のエイダに気が付くと、植木鉢のメモを取るように指示する。エイダがメモを取ると、シーツが破れているとあった。エイダは自分の手帖に未払い37シリングと書き付ける。ダント夫人の電話は続いている。…そんなのゆすりじゃない。余裕がないって説明しないと。ええ、もちろんシャンパンには違いないけど。チャールズが代議士だって念を押してよ。必ず効果があるわ。そう、それじゃあ。受話器を置いたダント夫人がハリスに溢す。この結婚式のせいで破産しちゃう。子供はいらっしゃる、ハリス夫人? 悪夢のような出費だわ。哀れな年老いた夫は貴い犠牲を払わないといけないわ。クリスティーズで売立に出すの。…お給金の件ですが、ダント夫人、工面していただけるのかどうか…。私たちずっと切り詰めて生活してきましたけど、まだ息ができるなんて奇跡みたいなものよ。ダント夫人はエイダの訴えに耳を貸さずリヴィングから寝室に移り、ワードローブの服を確認する。エイダは椅子の上に置かれた淡い紫と水色のエレガントなドレスに目を奪われる。モンテーニュ通りには絶対に足を踏み入れないつもりだったけど、結婚式やらパリにいるやらで、ラヴィサントを目にした瞬間、うっとりしちゃったのよ、500ポンドの服に。ドレスに500ポンド? 静かに、ダント卿に聞こえるわ。最近生活が苦しいことは認めるに吝かではありませんけどね、これを身に付けたらもうどうでもよくなってしまうのよ。ロッテと夫が妻を呼ぶ声がする。さあ、すぐに隠して。夫の機嫌のいいときに見せるから。ダンテ夫人が立ち去ると、エイダは姿見の前でクリスチャン・ディオールのドレスを自分に当てて見る。エイダは恍惚とした表情を浮かべる。

 

1957年。ロンドン。エイダ・ハリス(Lesley Manville)は夫エディの帰還を待ちながら清掃の仕事に従事していた。ある日エイダは、戦時中軍需工場で知り合った10年来の親友ヴァイオレット・バターフィールド(Ellen Thomas)とダンスホールにいるとき、肌身離さず持ち歩いていた王立空軍からの小包を思い切って開封する。そこには夫の遺品の指輪と、1944年3月2日付の戦没通知が入っていた。エイダは夫を待つだけの日々に見切りを付け、これからは自由に生きると心に決める。仕事先のダント夫人(Anna Chancellor)でクリスチャン・ディオールのドレスにエイダは心を奪われた。自分のために最高のドレスを仕立てることを心に誓ったエイダは、バス代などの節約で籤を買い、パリのオートクチュールに向かう資金を蓄え始める。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

クリスチャン・ディオールでモデルを務めるナターシャ(Alba Baptista)がジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)の『存在と無(L'Être et le Néant)』(エイダはミステリー小説と勘違いする)を読んでいて、エイダとアンドレ・フォヴェル(Lucas Bravo)やナターシャとの会話で「それがあるところのもの」である「即自(être-en-soi)」と、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」である「対自(pour-soi)」とが話題にされる。
ところでエイダはエディの妻として生きてきた。そして、夫が消息を絶って(戦争が終わって)10年以上を経て、ようやく夫の戦死を受け容れることができた後、クリスチャン・ディオールでドレスを手に入れることを夢とする。だがエイダは折角誂えたドレスに袖を通すことがない。ドレスの中にエイダの存在は見えない(invisible)。思い返せば暴走する自転車の男が「気をつけろ!」と怒鳴る冒頭から、エイダは不可視の存在として描かれていた。オートクチュールで様々な人間を相手にしてきた手練のクロディーヌ・コルベール(Isabelle Huppert)は流石にエイダが"invisible"な存在であることを瞬時に看破している。そしてエイダ自らが不可視(invisible)であることに気付くことが、物事のようには自己同一的な存在なあり方をしていないと自分の本質を自ら創りあげる対自存在へと転換する梃子となっていたのだ。
フランスで生活するナターシャやアンドレがエイダの手料理(イギリス料理!)に舌鼓を打たずに哲学論議に話を咲かせるところも、エスプリが効いている。イギリス映画だけれども。