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芸術鑑賞の備忘録

映画『あのこと』

映画『あのこと』を鑑賞しての備忘録
2021年製作のフランス映画。
100分。
監督は、オドレイ・ディワン(Audrey Diwan)。
原作は、アニー・エルノー(Annie Ernaux)の小説『事件(L'Événement)』。
脚本は、オドレイ・ディワン(Audrey Diwan)とマルシアロマーノ(Marcia Romano)。
撮影は、ロラン・タニー(Laurent Tangy)。
美術は、ディエーネ・ベレテ(Diéné Bérète)。
衣装は、イザベル・パネッティエ(Isabelle Pannetier)。
編集は、ジェラルディーヌ・マンジェーノ(Géraldine Mangenot)。
音楽は、エフゲニー・ガルペリン(Evgueni Galperine)とサーシャ・ガルペリン(Sacha Galperine)。
原題は、"L'Événement"。

 

1963年。フランス南西部アングレーム。大学の女子寮の1室。アンヌ(Anamaria Vartolomei)がブリジット(Louise Orry-Diquéro)のブラジャーのストラップを短くして安全ピンで留めている。煙草の火、気をつけてよ。大丈夫。やり過ぎじゃない? ほっといて。指、気をつけてね。できた! どう? 強調したブリジットの胸を姿見で確認する。刺激が強すぎるってことはないよね。私が男ならヤるね。それが問題でしょ、と2人を待ちながら煙草を吸っていたエレーヌ(Luàna Bajrami)が口を挟む。今度はブリジットがアンヌのブラジャーを調節する。次はエレーヌだよ。しないって。きつすぎる? 大丈夫。アンヌが鏡で胸を見る。エレーヌはなぜしないの? みんなが見るでしょ。見せればいいでしょ。来なさいよ。アンヌはエレーヌを鏡の前に立たせるとスカートを短くしてみせる。
3人は夜道を歩いてディスコテークに向かう。音楽が漏れ聞こえてくる。この曲好き。私も。沢山来てるといいけど。ディスコテークには大勢の客がいた。ジャン(Kacey Mottet Klein)たちの姿もあった。3人は早速踊り出す。今日は見ない顔が多いね。彼、あんたのこと見てるよ。ブリジットがアンヌに告げる。違うよ、見てなんかない。見た目は悪くないよ。私はネクタイの男好きだけどね。あんたは男なら誰でもいいでしょ。彼、やっぱりあんたの好きなタイプだよ。アンヌは改めて男を見る。気をつけなよ。アンヌが1人坐っていると、先ほどアンヌを見ていた男(Cyril Metzger)が隣に座る。当てようか、文学部でしょ? そんなの誰でも分かるわ、女子は文学部でしょ。大袈裟だな。俺は歴史学。ああ、そうなの。いや、違うんだ。フリをしてる。入れてもらえたんでね、首尾良くやろうとさ。あいつらと一緒だ。俺らは近くの消防署員。消防士なの? 問題ある? 消防士には気をつけろって言われたわ。ちゃんと良心は持ってるけど。踊りたくないの? アンヌは男を置いてカウンターへ。1人で飲んでいたジャンにコーラをねだる。ジャンと2人でコーラを飲む。あの娘たち、君が好きなんだな。ジャンがカウンターの近くに固まっている女子を見る。ただ見張ってるだけよ。私を売女だと思ってるの。実際のとこ、どうなの? あの娘たちはいつも爪先で踊るよな。鬱陶しい。嫉妬してるの? かもね。
階段教室で行われている文学の講義。ボルネック教授(Pio Marmaï)がルイ・アラゴンの詩を朗読している。「そして長い1日を鏡の前に坐って 彼女は金髪を梳いて言っただろう 私たちは悲劇の真っ只中にあると 彼女はハープを演奏していたのだそれを信じることもなく この長い1日を鏡の前に坐って 彼女は金髪を梳いて言っただろう 喜んで記憶を信念のため犠牲にしたと」。我こそはという人はいないか? 試験が迫っている。進学は簡単じゃないぞ。誰か挑戦してみたい者は? 手を挙げる者がいないので教授は1人の女子学生を指名する。この作品に隠された意味は何かな? 分かりません。これまでにもこの講義ではアラゴンを扱っているぞ。出席していたか? 教室にはいたか。考えて見て。基本的な知識があれば何か答えられる。エレーヌやブリジット、アンヌと一緒に坐っていたジャンが彼女は退学する予定だと教える。結婚ってこと? 数学科の奴と。クソ野郎だ。また1人抜けて、最後には君だけかもな。あなたも抜けるわけ? 4人が雑談していると、それに気が付いた教授がアンヌを指名する。この詩についてあなたの意見を聞かせてください。…悲恋は国家の置かれた状況のメタファーだと思います。政治的な詩です。繰り返しのモティーフについてどうです、激情、悲劇、記憶などですが…? 戦争のメタファーです。この詩篇の発表は1942年です。エルザ・トリオレとアラゴン共産党員でした。人々に愛国心を搔き立てたいと望んでいたのではないでしょうか。素晴らしい。フレーズを連続する節の最初でくり返すことを何と言いますか? 首句反復です。
講義が終了して3人が中庭へ向かう。「首句反復です」。あんたすごいわね。ブリジットが驚いてみせる。3人がベンチに座る。エレーヌがガムを噛んでいるのでアンヌがねだる。もうないわ。ブリジットは? 私ももうない。エレーヌが噛んでいたガムを口から出してアンヌに食べさせる。試験がすごく恐い。私も。今度の試験は簡単じゃないわ。心が彷徨ってる。ブリジットが弱音を吐く。どこを? アンヌが茶化す。試験に合格しなかったら、来年はトラクターに乗ることになるわ。勉強しないとね、とエレーヌ。もちろん、とアンヌ。
女子寮の自室に戻ったアンヌは服を脱いで下着を下ろす。汚れていなかった。バスタオルを捲いたアンヌは机の手帖に「まだ来ない」と書き付ける。溜息をつくアンヌ。妊娠3週目。
アンヌが農地を抜ける車道を険しい表情で1人歩いている。途中で折れて木立の舗装されていない道に入る。体調が優れず思わずしゃがみ込む。アンヌは水場に立ち寄って顔を洗う。実家の食堂に到着。カウンターに座ったアンヌに母ガブリエル(Sandrine Bonnaire)が心配して声をかける。どうしたの、顔色が悪いわ。そんなことないけど。幽霊みたい。ガブリエルがアンヌの額に手を当てる。常連が天然痘かと口を挟む。止めてよ。少し熱があるみたい。病気になんてなれないわ、タイミングが悪いもの。外が暑いってだけよ。父のジャック(Eric Verdin)がアンヌにキスをする。あなた分かる? 何が? 熱があると思う? いいや。

 

1963年。フランス南西部アングレーム。文学を専攻する大学生アンヌ(Anamaria Vartolomei)は、ボルネック教授(Pio Marmaï)から一目置かれる目立った存在。親しくしているブリジット(Louise Orry-Diquéro)とエレーヌ(Luàna Bajrami)とともに講義を受けたり、遊びに繰り出したりしていた。だが親友たちはもとより、母ガブリエル(Sandrine Bonnaire)にも父ジャック(Eric Verdin)にも言えない秘密があった。ボルドーで政治を専攻するエリート大学生マキシム(Julien Frison)と関係を持ち、意図せず妊娠してしまったのだ。未婚の母となることを避けたいアンヌは医師に相談するが、堕胎は違法のためアンヌに手を貸す医師はいなかった。伝を探す間にもアンヌは変調を来し、身体が目に見える変化を現わし始める。

(以下では冒頭以外の内容についても言及する。)

堕胎は違法なためにアンヌは周囲の者に相談することができない。医師に相談しても犯罪に手を貸すことはできないと断られる。その間にもアンヌは気分が悪くなったり、異常な食欲が生じたり、身体に変化が現れ始める。その辛さに耐えながらも、堕ろせずに出産しなければならなくなる期限が刻々と迫る。
アンヌは女子寮に入っているためにシャワーやトイレも共同であり、プライヴァシーは限りなく制限されている。身体の変化はすぐさま他の女子学生に気付かれてしまう。秘密を抱えながら衆人の環視下に置かれているのだ。
アンヌは医学書を繙き、自らの生命を危険にさらしながら、なおかつ犯罪行為に当たる自己堕胎を試みる状況にまで追い込まれていく。
アンヌが1人歩く姿が"anaphora(首句反復)"のように繰り返し描かれる。アンヌが1人苦難に立ち向かわなければならない。それは最後の最後まで続く。その理不尽さは、アンヌを妊娠させたマキシム――サンオイルを塗る程度の感覚で精液を撒き散らす――の無責任さによって強調されることになる。
アンヌの立場に身を置くために、痛々しいシーンは必要不可欠であり、直視しなければならない。
ラテン語の動詞agereの直説法現在の活用を覚えるシーンがある。「agō、agis、agit、agimus、agitis、agunt」と唱える。agereには「する」の他に「奪う」や「殺す」の意味もある。私が殺す(agō)のか。彼らが奪う(agunt)のか。活用される動詞の意味を読み取る必要がある。
果たして文学は悩めるアンヌ(女性たち)の救いになったのだろうか。