可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『午前4時にパリの夜は明ける』

映画『午前4時にパリの夜は明ける』を鑑賞しての備忘録
2022年製作のフランス映画。
111分。
監督は、ミカエル・アース(Mikhaël Hers)。
脚本は、ミカエル・アース(Mikhaël Hers)、モード・アメリーヌ(Maud Ameline)、マリエット・デゼール(Mariette Désert)。
撮影は、セバスティアン・ビュシュマン(Sébastien Buchmann)。
美術は、シャルロット・ドゥ・カドビル(Charlotte de Cadeville)。
衣装は、キャロリヌ・スピース(Caroline Spieth)。
編集は、マリオン・モニエ(Marion Monnier)。
音楽は、アントン・サンコー(Anton Sanko)。
原題は、"Les passagers de la nuit"。

 

1981年5月10日。パリ。メトロの案内板の前に大きなリュックを背負ったタルラ(Noée Abita)がやって来る。荷物を降ろすと、ボタンを押してパリの地図に路線を点灯させる。タルラはその光に沿って手を翳す。再び荷物を背負ったタルラは夜の街に消える。
大統領選挙で社会党フランソワ・ミッテランが勝利して保守政権を倒したことで、街はお祭り騒ぎだった。学生達が旗を振り、発煙筒を焚き、通りがかる車に手を振ったり叩いたり、薔薇の花を差し出したりしていた。
エリザベス(Charlotte Gainsbourg)は、娘のジュディト(Megan Northam)、息子のマティアス(Quito Rayon Richter)とともに昂揚した街を車で抜け帰宅宅する。真っ暗な部屋の広い窓の向こうに、林立する高層アパートメント群の部屋の無数の灯りが点っている。エリザベスは窓辺に佇み、ラジオの深夜放送を聞く。
親愛なる夜の乗客の皆さん。5月10日、明けてもう11日。ヴァンダ・ドルヴァル(Emmanuelle Béart)です。午前4時までお付き合いを。是非電話で夜の出来事について教えて下さい。受付電話番号はいつもの45-24-70-00。それでは最初の電話の前にまずは1曲。バルバラで「ルギャルド」。
1984年。自転車のマティアスがオートバイのカルロス(Calixte Broisin-Doutaz)と競争して下校する。帰宅すると、祖父のジャン(Didier Sandre)が居間のカウチに坐っていた。マティアス、元気にしてたか? うん、会えて嬉しいよ。洗濯物を干していたエリザベスが息子に尋ねる。どこに行ってたの? カルロスと数学の勉強してた。楽しかったでしょうね。エリザベスは信用しない。今晩泊まっていこうか? 平気よ。マティアス、私の煙草は? ジュディトが弟に声を掛ける。忘れた。ならお金を返して。ジュディトが居間に姿を現わす。祖父に気付く。嬉しいわ。元気かい? ええ。ジュディトが祖父と挨拶を交わす。政治に関わってるのか? そう、でもママが抗議行動には行かせてくれないの。試験が迫ってるから他にやるべき事があるもの。ママは試験に合格したけど、ただそれだけだったでしょ。ジャンが2人の孫に小遣いを渡す。多過ぎじゃ無いの、煙草代にしては。マティアスは礼を言って自室へ。ジュディトは母親に手伝おうかと声を掛けるが断られ、何か食べようと台所へ向かう。エリザベスはジャンの向かいに坐る。泣く娘にジャンが静かに尋ねる。元の鞘に収まることはもう無いのか? 彼はアパートを借りたの。サン=ラザール駅の傍に、恋人と。援助はできるよ。そういう問題じゃ無いの。仕事を見付けないと。どうやって? 働いたことなんて無いだろ。有り難う、助かるわ。すまない、そういう意味で言ったんじゃない。分かってるわ。何か見つかるよ。常識や感性が求められる仕事は沢山ある。新しい分野が勃興してるんだ、新しい仕事もあるさ。もう変化は起きてるの。非常に敏感だって履歴書に書けるわ。馬鹿なこと言ってごめんなさい。エリザベスは隣に坐った父親に凭り掛かる。帰らないと、もう晩いから。マティアスに送らせるわ。
歴史の授業。マティアスは近くに坐るレイラ(Lilith Grasmug)を気にしながら、詞を書き付けていた。知っての通り、冷戦の最もはっきりした影響は、ソ連アメリカを中心とする2陣営ができたことです。二極化は他国の団結を弱体化させます。分断もされます。1949年5月、連合国は占領地域を統合して西ドイツを形成しました。ソ連の占領地域は1949年10月に東ドイツになりました。先生(Zoé Bruneau)は説明を中断し、マティアスの席に近付くと、紙片を取り上げる。そこには冷戦と題した詩が書き付けられていた。授業後、先生がマティアスを呼び止める。なぜ授業に出るの? 私は出席を取らないんだから、出る必要はないわ。私の授業は詩作の場所じゃないの。どこか別の場所で発想を得てちょうだい。何に興味があるの? 本当に興味があることは? 私はね、あなたが見せかけようとしているのが嫌なの。やりたいことに没頭できる年齢なのに。詩人になりたいなら、詩作に没頭すればいいわ。…詩人にたりたいわけじゃない。ふわふわしてるように見える。その歳で地に足が着いてないのはどうかしら?
夜。真っ暗な部屋で、エリザベスが煙草を吸いながら窓外の風景を眺めている。ラジオからヴァンダと聴取者のやり取りが流れている。オック語は話すの、ユリ? いや地域主義に気触れたことなんてない。理解される方がいい。理解されるなんて期待しすぎよ。女装すれば理解されるの? それはね、私の秘密の花園での行動だから。奥さんは女装をご存じ? 趣味を共有してるの? 共有は大袈裟だけど、時には見てもらうよ。沢山のポスターを抱えたジュディトが帰宅して明かりを点け、母親に気が付く。真っ暗にして何してるの? 眠れない? 何でそんなに帰りが遅いの? 大変なの、話し合いが沢山あって。仕事の初日はどうだったわけ? 初日だけど最終日になったわ。馘になったの。何があったの? データを保存するのを忘れたの。在庫データのね。1日中打ち込んでいたのにファイルを閉じるときに保存し忘れたの。娘は笑う。本当に? 本当よ。何が何だか。自動保存のやり方を教えたでしょ? いいえ。教えたわ。お爺さんの言うとおりだわ。私は役に立たないの。そんなこと言わないでよ。お爺さんはろくでもないことを口走っちゃうことがあるから。

 

1984年。パリ。エリザベス(Charlotte Gainsbourg)は、出て行った夫が恋人と新しい家庭を持ったことを知り、家計を支える必要に迫られる。父親のジャン(Didier Sandre)は働いたことのない娘に仕事は難しいだろうと援助を申し出るが、エリザベスは断り、仕事を探す。大学生の娘ジュディト(Megan Northam)は勉強そっちのけで政治運動に熱を上げている。高校生の息子マティアス(Quito Rayon Richter)は詩作に耽り、やはり勉強はしていない様子。エリザベスはデータ入力の仕事を見付けたが、保存に失敗して1日で馘に。嘆いていたエリザベスのもとにラジオ・フランスから連絡が入る。いつも聴いている深夜放送「夜の乗客」に縋る思いで何でもやりますと手紙を送っていたのだ。番組を取り仕切るヴァンダ・ドルヴァル(Emmanuelle Béart)はエリザベスの面接を行い、聴取者の電話を受ける仕事を任せる。エリザベスが電話受けの仕事に慣れた頃、少女タルラ(Noée Abita)がスタジオに姿を現わす。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

1980年代のパリ。夫と別れ、大学生と高校生の2人の子供を養うためにラジオ局の深夜放送のスタッフとして働くことになったエリザベスの日々を描く。
エリザベスは乳癌となり、右の乳房を切除した。その当時、夫との関係は既に破綻していたが、病気療養の間はエリザベスを支えてくれた。
エリザベスはか細い声で話す。それが病気や婚姻関係の破綻をきっかけとしたものかどうかは判然としない。いずれにせよ、エリザベスが2つの出来事によって精神的な痛手を受けていることが明らかである。エリザベスは部屋に明かりを点けずに窓辺に佇む。その部屋の暗さが彼女の気分のバロメーターとなっている。アパルトマンはエリザベスを象徴する。
離婚による夫の喪失。乳癌による乳房の切除。エリザベスを打ちのめすのは喪失であった。だが、喪失は、何かを受け入れる空隙を生む。その発想の転換を促すのがラジオ番組「夜の乗客(Les passagers de la nuit)」である。ヴァンダの語りによってごく緩やかに繋がるリスナーたちは、乗り降り自由のメトロの乗客だ。家庭もまた自家用車(冒頭、一家3人で車に乗っているシーンがわざわざ挿入されている)ではなくメトロと捉えれば、誰が乗り降りしようと自由だろう。夫が出て行こうが家出娘を招こうが、アパルトマンに変わりはないのだ。
エリザベスが働きに出て人々に出逢うことで、暗い密室に囚われていた状態から解放され、部屋は明るくなっていく。彼女に文字通りの夜明けが訪れる。
1980年代のパリの映像を組み合わせることで、作品に当時の世相を取り入れ、リアリティを高めようとしている。若くしてパリに出てきたタルラ(Noée Abita)は、エリザベス――彼女もまた若い時分にパリに出たことが説明される――とともに、パリがお上りさんによって形作られていることが訴えられている。