可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 國川裕美個展『paradiso』

展覧会『國川裕美展「paradiso」』を鑑賞しての備忘録
日本橋高島屋 美術画廊Xにて、2023年1月10日~30日。

動物をモティーフとする石灰岩や砂岩を用いた彫刻を中心とする、國川裕美の個展。

《cielo stellato》(230mm×170mm×120mm)は、顎を水平になるまで上げて真上を見ている、石に腰掛け鶏を抱える女性の石彫。彼女の背後には、天球を表わすと思われる、やや上部が彎曲した壁があり、そこに三日月とヒトデのような9つの星とが表わされている。手前の女性の彫像と背後の壁の三日月の浮き彫りとは位置がずれるため、真上を見る彼女の視線の先に三日月は存在しないが、真正面から見ると、女性と三日月とが「見かけ上」向かい合っているように見える。まさにあらゆる天体が投影されると看做される天球の表現として相応しい。何より壁に覆われることのない女性の見上げる先に限界は無い。星空(cielo stellato)とは無窮なのだと作家は訴えるのだ。

《羊とふくろう》(830mm×620mm×540mm)の白い石灰岩に表わされた羊は、頭の下にピラミッドを崩したような形状の体が連なっている。一面に広がる白石を一瞬にして羊の群れに変えたのは黄初平であったが、作家は羊の体を山のような形に作ることで、1頭の羊に無限の広がりを生み出している。羊の山裾に波形が浮き彫りにされているのは、水と羊とで「洋」、即ち洋洋たる海の中へと連なっていくことを示すためである。歪なピラミッド形は、羊頭が氷山の一角に過ぎないことを暗示しているのだ。羊の山の斜面には梟が寄り添っている。夜行性の猛禽である梟を配することで、昼と夜、海(下方)と空(上方)への無際限の広がりを示す。新年の慶賀にもふさわしい作品である。なお、同じテーマを扱った釉薬により着彩された陶器の作品《羊ととり》(160mm×135mm×122mm)も併せて展示されている。

《paradiso(verde)》(150mm×190mm×215mm)と《paradiso(blu)》(240mm×230mm×200mm)はいずれも石灰岩で飾り羽を広げるカタカケフウチョウ(Lophorina superba)を表わした彫刻。それぞれ頭に2個の輝くムラーノグラスが埋め込まれてアクセントとなっている。題名に「楽園(paradiso)」を冠しているのは、フウチョウが「楽園の鳥(Paradisaeidae)」とされているのに因んでのことだろう。"paradiso"の語源は、古代東部イラン語で"pairi-(周囲に)""diz(壁を作る)"、すなわち「壁に囲われた」にあるらしい。だがparadisoの鳥は、大きく羽を広げている。この矛盾こそ、作家の作品の根底にある力ではなかろうか。それは、楽園という一種のユートピア(存在しない場所=(οὐ(無い)τόπος(場所))が「あたりまえにあるようなそのひとつひとつに気づいていないだけで、実は身近に存在しているのかもしれない」との本展に向けた作家のステートメントからも窺える。作家は悠久の時間を孕む石を彫り刻むことで、却って失われた悠久の時間を作品に取り戻し、永遠の今としての彫刻を提示しているように思われる。その象徴が会場の隅にひっそりと置かれた《vaso grande》(205mm×205mm×205mm)である。立方体を彫り刻んだことが暗示されるサイズと、その大きさに比して意図的に彫り留めた器の浅さとは、立方体の象徴する完全性を消去することで、永遠に達成されることの無い完全性へ向けた営みが立ち現われるようである。

それで現在が現在自身を限定することによって時といふものが成り立ち、現在が現在自身を限定すると云ふには、無が無自身を限定するといふことがなければならない、そこに我々の自覚の意義がなければならない。(『西田幾多郎全集』第五巻〕、一四七頁)

現在が現在自身を限定する所そこに自己があり、自己が自己自身を限定する所そこが現在である、永遠の過去より来るものは此に来り、永遠の未来に出てゆくものは此から出て行くのである、此に於て永遠の過去が消され、此に於て永遠の未来が始まると考へることができる。(同右、一五〇頁)

ここでは、「永遠の今」が、いわゆる無に触れながらも、そこで自己が自己を限定する位相であり、永遠性を背景とした現在が成立する場面であることが語られていく。この主題は、「私と汝」ではさらに鮮明に、ある種の生成的発生点としてみなしなおされていくことになる。

時は永遠の今の自己限定として到る所に消え、到る所に生れるのである。故に時は各の瞬間に於て永遠の今に接するのである。時は一瞬一瞬に消え、一瞬一瞬に生れると云ってよい。非連続の連続として時といふものが考へられるのである。(同右、二六七-二六八頁)

時は永遠の今の中に廻転すると考えることができるのである。此故に、我々はかゝる瞬間的限定の尖端に於て、一面に無限の過去に接すると考へることができる、永遠なる時の始に接すると考へることができる……我々はいつも瞬間的限定の尖端に於て一度的なるものに接すると考へるのである。(同右、二六八頁)

「私と汝」においてより強調されているのは、永遠の今という瞬間性が、たんに無という非合理に触れるだけのものではなく、それが何かを消すとともに、同時に何かを生み出す尖端であるという事情である。「永遠の今の自己限定」で明治されるように、現在とはそれ自身「無」や「非合理性」に触れた上での自己限定であった。「私と汝」では、そうした非連続の連続において、ある種の「瞬間」の「尖端性」がいっそう強調されている。そこでは今はつねに今であることと、今が徹底的に危うい根底に晒されており、何かが発出する尖端であるということの両面とが、まさに矛盾の自己同一というかたちでかさなりあっているのである。(檜垣立哉『日本近代思想論 技術・科学・生命』青土社/2022年/p.146-148)